「逃げろ、逃げろぉ!!」
その叫びと共に同じ方向へと駆け抜ける少年達。その後ろから迫るものは、形容し難い姿をした怪物だった。幾本も生えた蟲の如き脚を素早く動かしながら巨体を引き摺り、少年らが走るのとさして変わらない速度で彼らに迫る。その怪物はぐずぐずに崩れたような肉塊めいた身体から何らかの器官をぐい、と持ち上げると、少年達へ向けて無造作に何かを吐き出した。
「うわぁあ!」
「なに、あつ、痛ぁ!」
逃げていた少年達、その内の二人に吐き出された何かが降りかかる。それらは少年達の脚を拘束し、そのまま薬品か何かで皮膚を溶かすような痛烈な痛みを与える。そうして拘束された彼等に構える余裕もなく、二人は置き去りにされた。残された二人———修二と彰は、逃げようと躍起になる。手が同じように薬品火傷のようになるのも構わないというように必死に粘液を引き剥がそうとする。それでも腕の皮膚を爛れさせるだけに終わり、その間にも猛烈な速度で怪物の巨体が迫る。いよいよ逃げる術も失われた二人はがちがちと歯を鳴らし、声を出すこともできずに身を震わせていた。そうして、いよいよ食われるか轢き潰されるか、なんにせよ死を覚悟したときのことだった。
「イフ、そちらは任せました」
「えぇ、えぇ。分かりましたとも、お嬢」
場違い極まりない、凛とした女性の声。それに返事をする老紳士めいた、しかしただそれだけではない怪しげな雰囲気を漂わせる声。その声を少年達が感知したのと、先程目前まで迫っていたはずの巨体が突然逆方向へと吹き飛ばされたのはほぼ同時であった。
「ぇ…」
喜びよりも先に困惑の声が上がる。そこに佇んでいたのは、カラスの様な鳥めいた仮面を被った、人間らしき異形であった。人間らしきというのは、和装の裾から覗く脚が人間のそれとは異なる獣のそれであったから。更に袖から覗くのは何らかの翼で、二人はそれを人間と認識するのは不可能であった。
「えぇ、えぇ。お嬢さんの頼みでありますゆえ、ここは少々身体を張らせていただきましょうとも。腰を抜かしているあんた様方、そこで少々お待ちくださいませ」
そう、先程の老紳士めいた声が仮面の下から聞こえる。声が聞こえたかと思うと、それは殆ど目に見えない速度で怪物へと迫る。その先に待っていたのは殆ど一方的な蹂躙であった。異形の脚でずん、ずん、と蹴り飛ばし、或いは踏み付け、イフと呼ばれた異形は怪物を物言わぬ肉塊へと変えていく。
その光景に目を奪われていた二人は自らに近寄るもう一つの影に気付けずにいた。
「動かないでくださいね、下手に蝕毒に触れると余計に皮膚を傷めますから」
直ぐ近くから聞こえた事務的な印象を与えるその言葉に驚いて振り向くと、そこには薄紫の髪をした和装の女性がしゃがみこんでいた。彼女は持っていた鞄から魔法瓶を取り出すと、二人を地面に張り付けていた粘液に流し掛ける。すると、先程まで粘度を保っていた蝕毒は粘性を失いさらりとした液状に変わっていった。そのまま腕からコンクリートへと流れていき、二人は地面から解放された。
「や、った…!っ、いっ、痛っ!?」
「当然でしょう、皮膚は溶けたままです。今からもう少し処置をするので待っていてください」
呆れたようにそう言うと、紫髪の女性は痛ましく肉を晒す腕に動物の皮の様なものを手早く巻き付けていく。するとどうだろう、巻かれた皮がじわりじわりと沁み込んでいくように肉に埋まっていく。先程までの刺すような痛みは次第に引いていき、完全ではないにせよ殆ど気にならない程度にまで治まった。
「これで、大事はないでしょう。では、続きましてそちらの方も」
そう言ってもう一人の方にもゆかりは処置を行う。その処置が終わり、二人が落ち着きを取り戻した頃、イフと呼ばれた異形は怪物を取り込んでいる最中だった。袖の中へと体積も形状も無視してずるり、ずるり、と怪物の身体が入り込んでいく。それを、夢でも見ているかのように逃げ遅れた二人は呆然と眺めていた。
「イフ。こちらはもう終わりました。そちらもそろそろ終わるでしょう?取り込み終わったなら帰ってきてください。私は先に帰らせていただきます」
そう淡白に告げて、紫髪の女は荷物をまとめた鞄を肩に掛けて立ち去ろうとする。
「あ、あの!ありがとうございました!」
「そうです、ありがとうございます!助けてもらって!」
その後ろ姿に慌てて二人は感謝の言葉を口にする。その言葉に反応してか、女性は立ち止まる。しかし、二人の予想に反して彼女の口から零れたのは呆れ混じりの溜息で。
「感謝の言葉を言うくらいなら、初めから危険なことなどしないでください。余計なことをされるとこちらとしても困るんです」
「え、えっと…」
「大方、肝試しとかそこらの類でしょう。無知であることを責めはしません。ですが、危険に自分から足を踏み入れるなど愚者の行為に他なりません」
「ぐ、愚者って…」
「もう、金輪際こんなことはしないように。二度と出会わないことを祈っています」
そう冷たく言い放つと、今度こそ後ろを向いて彼女はすたすたと去り行く。その後ろ姿をしょぼんとした様子で眺めながら、二人は言葉を失っていた。
「おやおや、あんた様方。随分と落ち込んでいるご様子で。あたくしの主人がどうも申し訳ございません」
その二人に、先程まで怪物を取り込んでいた異形————イフが胡散臭い敬語口調で話しかける。
「ですが、あまり気にはせんでくださいませ。あたくしの主人は言葉遣いが下手で仕方ないだけでございますゆえ。あの物言いも実際のところ、あんた様方のことが心配でしょうがないだけのことでございます。昨今では何と言いましたでしょうか。ええとたしか“つんだれ”だかと言いましたかな」
それを言うなら“ツンデレ”だ、と指摘しようとも思ったが、先程の言葉が重石となりそのような軽い言葉を発する気になどなれはしなかった。
「なぁに。二度と会えない方がいいのは本当のことではありますが、いざとなればあたくしども、或いはあたくしどもの同業者がきっと助けに参るでしょう。幾里をも駆け抜けて、我が主人、結月ゆかりと共に、この虚音イフ、どこへでも向かわせていただきますとも」
そこまで言って頭を下げると、イフは「それでは」と言葉を残して一陣の風と共に去っていった。
***
イフが己の主人であるゆかりと共に拠点にしている古書堂の扉を開けると、本こそ開いているもののあまり読書に集中できていない様子でいる主人の姿がそこにあった。仕方のないお方だ、内心そう独り言ちイフはドアをくぐる。
「そこまで気にするのならば、敢えて冷徹に振る舞う必要などないのではないでしょうかな。相変わらず存外肝の据わっていない御様子で」
「…五月蠅いですよ、イフ。私は好きでこのように振る舞っているだけです」
「カッカッカ。強がりにしか聞こえませんぜ、結月のお嬢」
「強がってなどいません、これがありのままの私です。…それに、この職務に情を持ち出しても何ら得はありませんから」
「ふむ、一理ある。しかしながら、お嬢。情無き救援など、火の付かぬ煙草と同じものではござらんか。肝心なものを欠かしてしまえば、それこそ行為に意味など消えてしまいましょうぞ」
「…そうですね、参考程度に聞いておきましょう」
そこで二人の会話は途切れる。やれやれといった様子で、若さゆえの未熟さを隠そうと、それ以上に討伐士として一人前を目指そうと躍起になる主の姿を横目にイフは碌に吸えもしない煙管に火を灯した。
(心配せんでも、あたくしはお嬢の傍から離れなどしやしませんよ)
その言葉を煙管から漂う煙と共に飲み込む。そんな怪鳥もどきと未熟な主を窓越しに月明かりだけが照らしていた。