「こんな外れの方に、本当にあるんです?」
「あぁ。期待してくれていいよ」
こっちの方にとても綺麗な桜があるんだ。人も全然いない、とびっきりの穴場がね。
そう言ったアリアルに連れられてゆかりは狭い夜道を進んでいく。他の面々が花見を楽しんでいる公園の桜並木とは逆方向に向かっていく恋人の姿に期待よりも疑りが勝る。彼女が自分を本気で怒らせるようなことをするような人物でないことは嫌というほど分かっている。でも、たまに自分を少しだけ困らせるお茶目な悪戯をすることがあるから。
半信半疑、何か悪戯をされても涼しい顔で躱してみせよう、と小さな警戒心を持ちながらアリアルの後ろをついていくゆかりだったが、ふわ、と吹いた風がちらりと運んできた花弁にその警戒心は解かれる。そして、
「っ、うわぁ…!」
暗い林道を抜けたその先、少し開けたその場所にその樹は佇んでいた。樹齢は何年になるだろうか、少なくとも公園の並木よりもずっとずっと昔からそこにあることは間違いない立派な桜がただ一本、まるで自分がこの場所の主だとでも言うかのように聳え立っている。
吹いた風が枝を揺らし、散った花弁が月明かりに照らされる。それを背景にしてアリアルはこちらに微笑んでみせた。視界に映った光景を構成するそれら全てが余りに幻想的で、ゆかりは言葉も出せずただ見惚れていた。
「どうだい?道は少し歩きにくかったりするけど、なかなか壮観だろう?」
「そう、ですね。こんなに綺麗だとは思いませんでした」
「ふふ、そうだろう」
そう言ってアリアルは満足げに桜へと視線を向ける。ゆかりにはその何気ない仕草でさえときめきへと還元されてしまう。
「それにしても、よくこんな場所見つけましたね。誰かに教えてもらったんですか?」
「いや、一応僕が見つけたところだよ。得意なんだ、こういう場所見つけるの」
「そうですか。なんというか、アリィらしいです」
「そうかな」
そんな言葉を交わし合って笑いあう、そんな何気ない時間も彼女とならかけがえのない幸せなもので。
「それにしても、本当に綺麗です。他の桜よりもずっと、まるで…」
そこまで言ってゆかりは言葉を切って、口を閉ざしてしまう。不自然な言葉の区切り、それに違和感を覚えたアリアルは不思議そうにゆかりに視線を向ける。「まるで、何だい?」そう、尋ねようと口を開こうとして、
「『桜の樹の下には死体が埋まっている』」
ゆかりは意を決したように一呼吸置いてそう呟いた。
「『これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか』」
突然に紡がれた言葉に、アリアルは驚いて言葉を紡ぎそびれる。そうしている間にも、桜の樹の根元に佇むアリアルに向かって、一歩、また一歩と進みながら三度口を開いた。
「『俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった』」
言い終わる頃にはゆかりはアリアルの隣に辿り着いて、桜の幹に触れてふっと上を見上げる。その姿は幻想的、というよりはむしろミステリアスという言葉がよく似合っていた。
「『しかしいま、やっとわかるときが来た』」
「『桜の樹の下には死体が埋まっている。これは信じていいことだ』。…合ってるかい?」
さして不安な様子も見せずに、アリアルはゆかりに尋ねてみる。少し驚いたように目を見開いて、しかしすぐにゆかりは小さく笑って頷いた。
「まぁ確かに綺麗な桜だけどさ、なんで急に梶井基次郎なんて。少し物騒じゃないかな」
「そうですかね?何となくぴったりだと思ったんですけど」
そう言って微笑んでみせるゆかりにアリアルは苦笑する。
「…ねぇ、アリィ」
「どうしたんだい、ゆかり」
「アリィは、人を食べたりしたことはありますか?」
「ぶっ」
突然の問いかけにアリアルは思わず吹き出してしまう。困惑混じりの苦笑を浮かべてゆかりの方へ振り向くと、しかしゆかりは存外真剣な眼差しでこちらを見るその様子に、茶化そうとしていたのをふっと切り替えた。笑みを消してこちらも真面目を貫く。
「突然変な質問ですみません。…ただ、少し不安になったので」
「…不安?」
首肯して、ゆかりはもう一度桜の幹を撫でると花弁で埋め尽くされた頭上に視線を向けた。
「アリィは綺麗です。恋人っていう贔屓目があるかもしれないけれど、とっても綺麗です」
「あ、ありがとう。…少し、恥ずかしいな」
「ふふ、本当にこの桜みたいに綺麗です。…そう、人じゃないみたいに」
そこまで聞いて、アリアルは頬を掻いていた手をぴたりと止める。少し表情を険しくしてゆかりへ視線を向ける。それに気づいているのかいないのか、ぼんやりと桜の花を眺めるその様子はアリアルにはそのまま景色に同化して融けて消えてしまうかのように儚げに見えて。
「だから少し不安になっただけです。…小説に出てきた桜みたいに、もしかしたらこの桜みたいに、アリィも本当は人じゃない何か…例えば吸血鬼とか?みたいに人を食べる何か、で私を置いて行っちゃうんじゃないかって…。おかしいですよね」
そこまで言って苦笑して、ごめんなさい、と謝って視線を桜の根の方へ下げる。らしくない、と顔を上げようとしたゆかりの背中にふっと何かが触れ、後ろから何かがぐるりと回ってくる。その優しい感触にゆかりは覚えがあった。
「…アリィ?」
ふぅ、と溜息が耳元で聞こえる。何か不安がある時。落ち込んでいる時。そんな時にいつも自分を包み込む不器用な温もり。
「…ゆかり。センチメンタルになるのは一向に構わない。でも、僕を見くびってもらっちゃ困るよ」
「…はい」
「仮に僕が人じゃなかったとして、僕がゆかりを置いてどこかに行くと思うのかい?君が本気でそれを拒んだりしない限りは、僕はいつまでも君に寄り添い続ける。約束するよ、たとえ僕が人外の化け物であったとしても変わらない」
「…はい」
ぎゅ、と後ろに加わる力が強くなる。その優しさに涙が溢れそうになる。それを堪えて、ゆかりは顔を上げた。
「それに、そんなことを言うならお互い様じゃないかな?」
「え?」
顔を上げて振り向こうとして、先程の沁み渡らせるような声色とは明らかにトーンを変えたからかうような調子でアリアルは口を開く。
「そうだろう?僕だってゆかり以上の美人になんて出会ったことはないよ?」
「なっ…!?」
「そんなゆかりは、人を食べたりしたことはあるのかな?そうだったとして、ゆかりは僕を見捨てたりとかするのかな?」
そう意地悪く言うアリアルにまたやられた、と思わざるを得なかった。落ち込んだ時には優しく宥めて落ち着かせて、かと思えば最後には笑い話にして全てを思い出に昇華させてしまう。それに感謝こそすれ、迷惑や嫌悪感など微塵もない。ただ一つだけ、彼女の手の上で転がされているような感覚が少し不満だった。一度でいいから、彼女を驚かせてみたい。今日こそは、とゆかりは必死に思考を巡らせる。そして、一つ思い浮かんだそれを半ば自棄になって、
「…そんなの、見捨てるわけないじゃないですか」
「そうだろう?だから、」
「それに、アリィも知ってるでしょう?もう既に一人、私は誰かさんを食べちゃってますから」
「えっ…?」
急に切り出された毛色違いの話に、アリアルが僅かながら動揺を見せる。これ幸いだと、チャンスだとゆかりは緩んだアリアルの腕を解いて振り向くと、彼女の瞳を覗き込んで声を低く潜め囁く。
「分かりませんか?普段、あんなに涙も声も枯らして、それでももっともっとと懇願するのに?…なら、帰ったらたっぷり召し上がらせてもらって、もっとしっかり分からせてあげないといけませんね?」
そこまで聞いて漸くゆかりが言う『食べる』の意味を理解したアリアルは、月明かりでさえ分かるほどに顔を赤く染めて言葉を詰まらせる。そんなどぎまぎする、時にかっこよく時に可愛らしい恋人の頬へと、ゆかりは口づけを落とす。そんないつまでも初々しく熱い二人を、月と桜だけが見ていた。