――暗い。
息が詰まりそうなほど重たい空気が、その場を満たしていた。
湿った冷気が肌にまとわりつき、呼吸をするたび肺の奥まで冷たさが入り込んでくる。
音がないわけじゃない。
むしろ静かすぎるせいで、自分の呼吸と鼓動だけが異様に大きく聞こえていた。
幼い振袖大輝は、玄関の陰に身体を押し込むようにして身を潜めていた。
膝を抱え、息を殺し、ただ震えている。
何が起きているのか分からない。
けれど、分からないままでも理解していた。
ここにいてはいけない。
何かとてつもなく恐ろしいものが、この家の中にいる。
ドクドクと耳の奥で鳴り続ける心臓の音がうるさかった。
その音が見つかる原因になるんじゃないかとさえ思えた。
「……大輝、大丈夫よ」
震える母親の声が聞こえた。
大輝の前に立ち、自分を隠すように両手を広げている。
守ろうとしているのだと分かった。
その背中は、いつもよりずっと小さく見えた。
いつだって頼れる存在だったはずなのに。
料理を作ってくれる時も、叱る時も、笑う時も、大きくて温かかった背中が、その時だけはひどく弱々しく見えた。
「出て行って……お願い……」
母親が前を見据えたまま言う。
懇願するような声だった。
震えている。
泣きそうなのを必死に堪えているのが分かった。
だが、その先にいる“誰か”が、大輝にはうまく見えなかった。
いや、見えている。
確かにそこにいる。
でも、脳が理解することを拒んでいた。
空間が歪んでいる。景色が揺れている。
そこだけ世界の形が崩れているようだった。
――黒い。
影のようで、煙のようで、液体みたいでもある。
輪郭が曖昧で、見れば見るほど形が変わっていく。
認識ができなかった。
本能が警告していた。
見てはいけない。触れてはいけない。関わってはいけない、と。
――あれは人間じゃない。
「ひっ……」
喉の奥から勝手に声が漏れた。
その瞬間だった。
“それ”が動いた。
本当に一瞬だった。速すぎて見えなかった。
ぐしゃり、と鈍い音だけが耳に届く。
母親の身体が、不自然な方向へ歪んでいた。
「――あ」
理解が追いつかない。
脳が現実を受け入れない。
でも、目だけが現実を見せつけてくる。
床に赤いものが広がっていく。
ぽたり、ぽたりと落ちる音。
鉄錆の匂い。
それらが一つになって、ようやく意味を持った。
母親が…死んだ。
「嘘だ……」
震えた声が漏れる。
足が動かない。
逃げなきゃいけない。
頭ではそう叫んでいるのに、身体は石みたいに固まっていた。
“それ”がゆっくりとこちらを向く。
顔なんてない。
でも分かる。
狙われている。
口のようなものが裂けるように開いた。
あり得ないほど大きく、暗い穴みたいな口の奥から、粘ついた液体が垂れている。
理解した。
次は自分だ。
食べられる。
「うわあああああああああああああああああああ!!」
「――っ!!」
勢いよく身体を起こした。
息が荒く、呼吸が追いつかない。
喉が焼けるように痛く、全身が汗で濡れていた。
「……はぁ……っ、はぁ……」
荒い呼吸の中で、ようやく視界が定まる。
見慣れた天井に散らかった部屋。机の上に乱雑に置かれた教科書。
現実だった。
今見たものは夢だと理解するまで、少し時間がかかった。
「……またかよ……」
顔を手で覆い、そのまま深く息を吐く。
夢だと分かっていても、鼓動は収まらない。
身体の震えも残っていた。
あの日の記憶を忘れられるわけがなかった。
目の前で母親が殺されたあの日を。
警察は殺人事件として処理した。
だが犯人は見つからなかった。
当然だ。
大輝には分かっている。
あれは人間じゃなかった。
「……リアルすぎんだろ」
小さく呟く。
夢なのに、匂いまで思い出せる。
血の匂い、あの時の空気、あの絶望。
「……クソ」
吐き捨てるように言い、ベッドから降りた。
時計を見る。
その瞬間、顔が引きつった。
「……やっべ」
完全に寝過ごしていた。
仮眠のつもりだったのに、思った以上に深く眠っていたらしい。
「バイト……!」
慌てて着替え、部屋を飛び出す。
夢の余韻を振り払うように。
夜の街は昼とは違う顔をしていた。
ネオンの光が道を照らし、人通りは昼より少ない。それでも完全に静かなわけではなく、遠くから笑い声や車の音が聞こえてくる。
そんな中で、大輝は働いていた。
「ありがとうございましたー!」
店内に明るい声を響かせる。
接客は嫌いじゃない。むしろ好きだった。
人と話している間だけは、余計なことを考えなくて済む。
夢のことも。
母親のことも忘れられる。
「大輝くん、今日も助かったよ」
店長がレジ締めをしながら笑う。
「いえいえ! 全然っす!」
いつもの調子で笑って返す。
こういう何でもない会話が、案外救いになっていた。
普通の日常。
学校に行って、部活をして、バイトをして、帰って寝る。
それを繰り返す。
そうしていれば、自分は普通でいられる。
過去に飲み込まれずに済む。
それが大輝のルーチンだった。
バイトを終えて外に出ると、夜風が少し冷たかった。
「……ふぅ」
軽く背伸びをする。
大輝自身でも今日は少し疲れている。
あの夢を見てしまったからだろう。
身体を動かしていると、余計なものを忘れられる。
静かな帰り道を歩く。
人通りはほとんどない。
街灯だけがぽつぽつと道を照らしている。
その時だった。
「……ん?」
背後から視線を感じた。
誰かに見られているような感覚がした。
思わず振り返ったが、何もいない。
ただ暗い道が続いているだけだった。
「……気のせいか」
再び前を向いて、帰路に就こうとした時、身体が固まった。
「……え」
目の前に、“それ”が立っていた。
真っ黒な何か。
いや、黒という言葉では足りない。
空間そのものが歪んで形を持ったような存在だった。
輪郭は揺らぎ続け、見ているだけで気分が悪くなる。
その中心には、異様に大きな口があった。
裂けるように開き、粘ついた液体が垂れている。
「なんだよ、こいつ……」
声が震え、身体が動かない。
逃げろ、と頭の中では警鐘が鳴っているが、足が動かない。
化け物がゆっくりと一歩ずつ近づいて来る。
「……っ!」
腰が抜けて、その場に崩れ落ちる。
視線だけが化け物から外れない。
頭の中に浮かぶのは1つだけ。
食われる。
そう思った、その時。
「……え?」
化け物が止まった。いや、止められていた。
奴の首元にはキラリと刃が輝き、当てられていた。
シュン、と風を裂く音が耳に届く。
一拍遅れて、化け物の身体が崩れた。
黒い霧のように散り、そのまま夜の空気に溶けて消える。
「な、に……」
大輝の頭が追い付かない。
ただ、目の前の現実だけがそこにあった。
そして、落ち着きを少しずつ取り戻していくと…彼の前に立つ人物を見ることが出来た。
夜風に揺れる長い茶色の髪。
月明かりに照らされた横顔。
感情の読めない静かな表情。
彼女は戦闘装束に身を包み、バチバチと紫電が走る刀を握ったまま微動だにしない。
まるで、化け物を斬ることが日常の一部みたいに。
その姿に…現実感は感じられなかった。
だが、その顔には見覚えがあった。
学校で見たことがある。
同じ教室で…いつも静かで、窓際で読書していて、誰ともあまり関わらない女子。
ほとんど会話したことないが、見間違えるはずがなかった。
「あ、雨宮……?」
思わず漏れたその声に、月明かりの下で少女が静かに振り向いた。