夜風が吹いた。
冷たい風が路地を抜け、大輝の頬を撫でていく。
その瞬間だった。
「……え?」
振袖大輝は、呆然と目を見開いた。
さっきまで目の前にいたはずの少女が、消えていた。
確かにいた。
月明かりの下で刀を握り、あの化け物を一瞬で斬り伏せた少女――クラスメイトの雨宮カグヤが、ほんの一瞬目を離しただけで、跡形もなく姿を消していたのだ。
「……え?」
思わず同じ言葉が出てしまうと同時に思考が止まる。
意味が分からない。
つい今しがた、自分は何を見た?
人間じゃない化け物が現れて、それをクラスメイトが刀で斬った。
しかもそのクラスメイトは今、まるで最初から存在していなかったみたいに消えている。
「……夢?」
思わず呟く。
だが、夢にしては妙に生々しかった。
鼻の奥には、まだ鉄臭い血の匂いが残っている。
地面を見れば、アスファルトには不自然な傷跡が刻まれていて、さっきまでそこに“何か”がいた痕跡だけが残されていた。
「いや……いやいや……」
混乱した頭を落ち着かせようと、大輝は自分の頬を思い切りつねる。
「いっ……!」
鋭い痛みが走った。
普通に痛い。夢なら覚めてほしかった。
だが覚めない。
「……現実かよ」
膝から力が抜け、そのまま地面に座り込む。
冷えたアスファルトの感触が制服越しに伝わってきて、その冷たさが逆に現実感を強くした。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。
異形の化け物が見え、そして、それを“当たり前”のように斬った雨宮カグヤが。
「意味わかんねえって……」
乾いた笑いが漏れる。
夜の街は静かだった。
遠くで車が走る音が聞こえる。
コンビニの明かりも、信号機の電子音も、全部いつも通りなのに、自分だけが昨日まで知らなかった世界を見せられてしまったような感覚が、大輝の胸の奥に重く残っていた。
――そして翌日。
昼休みの教室は、昨日の夜とは真逆なくらいいつも通りだった。
机を寄せ合って昼飯を食べる連中。
スマホを見せ合って笑う女子たち。
購買のパンを奪い合って騒ぐ男子。
どこにでもある、普通の高校の昼休み。
「大輝ー!今日バスケやろうぜ!」
「悪い!今日バイト!」
「またかよ!」
「生活かかってんだよ」
笑いながら返すと、周囲から笑い声が上がる。
振袖大輝は、いつも通りだった。
明るく、軽く、誰とでも話すクラスの中心人物。
少なくとも、周囲にはそう見えている。
だが、その視線だけは何度も同じ場所へ向いていた。
窓際の一番後ろの席。
雨宮カグヤ。
彼女は今日も一人で文庫本を読んでいた。
周囲の喧騒なんて存在しないみたいに静かにページをめくり、その姿だけが教室の空気から切り離されているように見える。
誰も近づかない。いや、近づけない。
そんな空気があった。
「……普通にいるんだよな」
昨夜あんなことがあったとは思えないほど、いつも通りだった。
制服姿のただの女子高生。
綺麗な横顔。静かな瞳。
けれど大輝の脳裏には、昨夜見た姿が焼き付いて離れない。
刀を振るう姿。化け物を斬り捨てた瞬間の冷たい瞳。
全部、本物だった。
「……」
大輝は深く息を吸って椅子から立ち上がる。
「ちょっと行ってくる」
「え? どこ――って、おいマジか」
友人の声を背中で聞き流し、そのまま雨宮の席へ向かう。
教室がざわついた。
「あれ、振袖……」
「雨宮に話しかけんの?」
「初じゃね?」
そんな声が聞こえる。
だが大輝は止まらない。
一歩ずつ歩き、机の前で立ち止まる。
「雨宮」
「……」
彼女はゆっくりと顔を上げる。
その瞳を見た瞬間、大輝は確信した。
昨日の少女だ。間違いない。
「……何?」
感情の薄い声だった。
「放課後、時間あるか?」
「……ない」
「作れない?」
「無理」
「即答かよ」
思わず苦笑する。
だが、そんな大輝とは対照的にカグヤは表情を変えなかった。
それでも大輝は引かなかった。
「大事な話なんだよ」
「……」
数秒の沈黙。カグヤは大輝をじっと見つめていた。
その視線は、まるで“何かを測っている”みたいだった。
信用できるか、危険か。
そんな風に見定めているようにも見える。
やがてカグヤは小さく息を吐いた。
「……放課後10分だけ。それ以上は付き合わない」
「マジ?ありがとう」
軽く笑う大輝。
その瞬間、教室のざわめきが一気に大きくなった。
だが今の大輝には、それを気にする余裕はなかった。
放課後。
駅前の喫茶店。
落ち着いた照明と静かなジャズが流れる店内で、2人は向かい合って座っていた。
大輝はコーヒー。カグヤは紅茶。
だが、その空気は落ち着いているとは言い難かった。
「……」
「……」
沈黙がずっと続いていた。
気まずいと言うより…重い。
カグヤは静かにカップへ口をつけるだけで、余計な動きをほとんど見せない。
その姿は教室で見たままだった。
無駄がなく、静かで、整っていて、どこか近寄りがたい。
「……で?」
先に口を開いたのはカグヤだった。
「話って…何」
「いや、まあ…単刀直入に聞くけど」
大輝は少し身を乗り出す。
そして、真正面からカグヤを見る。
「昨日のあれ、何?」
その瞬間だった。
カグヤの視線が、ほんの一瞬だけ揺れる。
だが、それもすぐ消えた。
「……知る必要ない」
返ってきたのは、短く冷たい拒絶だった。
「いやいやいや、無理だろそれ」
「無理じゃない」
「いや無理だって。目の前で化け物出てきて、それをクラスメイトが一瞬で斬って――」
「忘れて」
言葉を遮られる。
またもや、冷たい声だった。
「……は?」
「昨日のことは忘れなさい」
表情は変わらない。
だが、その声にはわずかな圧があった。
「いや、無理だって言ってんじゃん」
「何度も言わせないで」
ぴしゃりと言い切られる。
その拒絶の強さに、大輝は逆に確信する。
やっぱり何かある。隠している、と。
「じゃあさ」
大輝は軽く息を吐き、スマホを取り出した。
「昨日見たこと、SNSに上げるわ」
「……」
「動画はないけど、証言くらいならできるだろ?“この世にヤバいのいます”ってことくらいは」
半分は冗談。半分は反応を見るための挑発だった。
すると…。
「……やめなさい」
彼女を纏う空気が変わった。
「……」
カグヤの目が、大輝を真っ直ぐ射抜く。
昨日見た瞳だった。
冷たく、鋭い。
大輝の本能が危険だと理解する。
「それ以上言うなら…」
静かな声だが、その静けさが逆に恐ろしかった。
喉元へ刃を突きつけられているみたいな感覚だった。
「……消す」
一瞬、意味が分からなかった。
けれど、徐々にその意味が分かってくる。
冗談じゃない。本気だ。
背筋を冷たいものが走る。
「…マジで言ってる?」
「当然」
即答だった。迷いが一切ない。
本当に機械みたいだ。
「……」
数秒、見つめ合う。
大輝はゆっくり息を吐き、スマホをテーブルへ置いた。
「…分かったよ」
「……」
「さすがに命かけてまで、投稿はしないよ…」
軽く笑う。
だが、その目は真剣だった。
「でもさ」
もう一度、カグヤを見る。
「俺、見えたんだよ」
「……」
「あの化け物」
カグヤの目がわずかに細くなる。
「普通、見えないんだろ?」
「……」
その沈黙が答えだった。
「だったらさ」
大輝は少しだけ笑う。
「俺、“無関係”じゃなくね?」
店内のざわめきが遠く感じる。
カグヤは何も言わない。ただ、大輝を見ていた。
その視線の奥で、何かが揺れている。
警戒か、迷いか。
あるいは――。
「……関係ない」
やがて、カグヤはそう言った。
「関係あるかどうかは、私が決める」
「え?」
「あなたは関わらない方がいい」
淡々とした声だった。
そして話は終わりだと言わんばかりに、すっと席を立った。
「おい、ちょっと待てって」
大輝も立ち上がる。
だが、カグヤは振り返らない。
「昨日のことは忘れなさい」
「だから…忘れられるわけ…!」
「忘れなさい」
それが最後だった。
カグヤはそのまま店を出ていく。
静かに何事もなかったかのように。
残された大輝は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……なんだよ、それ」
小さく呟く。
忘れろ?
無理に決まっている。
見てしまった。
知ってしまった。
昨日まで知らなかった世界を。
「……関係ない、ねえ」
椅子に座り直し、天井を見上げる。
そして、ふっと笑った。
「むしろ関わらない方が難しいだろ」
静かに決意する大輝。
あの世界に、あの少女に。
触れてしまった以上――もう、引き返せない。
それと同時に大輝は既に店から出たカグヤを見て、思い出した。
「…あいつ、紅茶の代金払ってねえ」