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「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ──な〜んてね」
「……主、様……?」
「おはよう、コッコロちゃん!」
コッコロを見下ろしたユウキが破顔する。空を背にした彼の頭と、後頭部に感じる筋肉質な感触。直後、彼女は膝枕をされていると理解した。
「一体なぜ、このような状態に?」
それを呟くと同時に、脳が因果関係を整理し始め、意識を失う直前が思い起こされる。自らの身体が黒い精霊と溶けて混ざり合う所だった。
「……また、助けていただいたのですね」
「うーん、そんなことは全然ないよ? ほとんどエイミちゃんが解決してくれたし」
「謙遜も過ぎれば皮肉になる、というものですよ。主様の場合は美徳でしかないと思いますが」
「あはは……フォローのせいで、せっかくの忠告が台無しになっちゃってるね」
ユウキは困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべる。それからコッコロの持参したバッグに手を伸ばすと、おにぎりを二つ取り出した。
「お腹すいたよね? はい、コッコロちゃんの分!」
朝早くに握って彼女に渡していた二つの内の片方、梅のおにぎりを差し出す。
「ありがとうございます。……いただきます」
コッコロは三角形の下部を小さな両手で丁重に包み込むと、少しの間目を瞑ってから一口頬張った。
「むぐ、むぐ……」
「おいしい?」
「……はい。主様が握ってくださったおにぎり、お米の一粒一粒までもが大変美味しゅうございます」
「そっか、良かった! それじゃあ僕も──いただきます!」
もう一方の包みを解き、ユウキも自身の分へと食らいついた。こちらの具は昆布。甘辛い佃煮が、ふっくらとした米の甘味を最大限に引き立てた。
「ん〜! おいしいね、コッコロちゃん!」
「そうでごさいますね」
先ほどまでの死闘が嘘のような、春の陽だまりに似た平穏を二人は交わす。しかし、その静寂を破って、等間隔に砂利を踏む乾いた足音が近づいてきた。
「確認してきたよ。やっぱり、推測は合ってそう」
現れたのは、携帯食料のバーを手にしたエイミだった。彼女は無造作にそれを齧りながら、二人の前でふらりと立ち止まる。
「ほんと!? さすがエイミちゃん!」
「推測ですか。何の話をしておいでなのですか?」
「ああ、コッコロ……起きたんだね。良かった」
淡々と、しかし確かな安堵を言葉に乗せると、エイミは半分ほど残っていたアルミ包装のバーを丸ごと口に放り込んだ。もぐもぐと頬を膨らませ、喉を鳴らして嚥下する。
「周りを色々歩いてみたんだけど、位置がちょっと変わるだけで霧の流れる方向もズレるんだよね。一定じゃなくて、放射状に広がってるというか……こんな性質は自然発生の霧だとありえないから、近場で霧を生んでる地点があるはずだって話」
「なるほど、そんなことが。……流石でございます。私だけでは、到底そこまで思考が回りませんでした」
「まぁ、私だけが二人と分かれて立ち回ってたし。複数の地点で、それなりの距離を移動しながら戦わないと、違和感なんて感じられないと思うよ」
「分かれて。相手は一体だけではなかったのですか?」
「うん。カリザとかいう子が魔物を使役してたから」
その名を聞いた瞬間、コッコロのおにぎりを口へ運ぶ手が止まる。驚愕に目を見開き、信じがたいといった様子でエイミの顔を仰ぎ見た。
「カリザが? 本当なのですか、主様?」
「うん、本当だよ。エイミちゃんと協力して何とか退けたって感じだね。あと少し判断がズレてたら、僕達は負けてたと思う」
ユウキは最後の一口を飲み込むと、「カリザくんは空間跳躍でどこかに行ったよ」と、さらりと付け加えた。
「そうなのですか。……だとすれば、私達以外でアストライア大陸からキヴォトスへ渡った者と、初めて出会ったことになりますね」
「でも、それだと納得がいくかも。二人の近くに『施設』がなかったのは、ああいうテレポートで飛ばされたからなんじゃないかな?」
「しかし、一体何のために……」
「どうなんだろうね。そこまでは推測のしようがないけど、いずれ突き止めなきゃ」
エイミは短くそう締めくくると、空になったアルミ包装を器用に畳んでポケットにねじ込んだ。時を同じくして、コッコロも最後の一口を飲み込み、ウェットティッシュで手元を丁寧に清める。
「ごちそうさまでした。では早速、霧の発生地点とやらに向かいましょうか」
彼女が動くより早く、傍らで既に立ち上がっていたユウキが、迷いのない動作で右手を差し出した。コッコロはその温かな掌を、吸い寄せられるように小さな両手で包み込む。ぐい、と優しく引き上げられて立ち上がった。
◆
「まさか、この霧の正体が幻影湖の霧だったとは。本当に驚きです。しかし、恐ろしいものですね。気を抜けば周囲にいっぱいの主様が……」
言いながら、コッコロはユウキの隣で複数のあらぬ方向へと顔を向ける。他の二人と足並みは揃っているが、面白い何かがある訳でもない街並みを興味深そうにジロジロと見る姿は、なんとも不思議なものだった。
「妄想とかも現実になるってことだよね。ユウキ、かなり愛されてるじゃん」
「僕もコッコロちゃんのことが大好きだよ!」
「それは……お幸せに?」
「ああっ! いけません主様、そのようなお姿をなさっては……! はしたないですよ、めっ、でございます!」
「えっ? 僕、何もしてないよ?」
「一体何を想像してるんだか。ユウキもあんまり気にしないほうがいいよ。……でも、恐ろしいってのは同意だね。私も部長が地面から沢山生えてくるから大変だよ」
「普段からヒマリさんにはどういうイメージを持ってるの……?」
「うーん、そうだなぁ。出る杭?」
エイミは表情ひとつ変えず、目の前に生えてきたであろう病弱美少女を無慈悲に踏み抜くようにして、大きく足を上げて歩を進めた。
「……まぁ、人の繋がりって色々あるよね」
「──はっ! 主様、あちらから唸るような低い音が……」
ユウキが多様な人間関係の形に思いを馳せていたその時、羞恥に染まっていた顔を瞬時に引き締めたコッコロが、彼の袖を強く引いた。
三人の視線の先──視界を塞ぐ白い帳の向こう側で、一層濃い霧が噴水のように天へ向かって盛り上がっている。まるで意思を持つ生き物が地表へと這い出そうとしているかのような、禍々しい様相を呈していた。
「コッコロの言う通りだね。霧が噴き上がってる」
「あれが第八地区の本丸、ということでしょうか……」
「意外と早く見つかったね!」
彼らは口々に感想を飛ばしながら、しかし慎重に噴出源へと歩み寄っていく。
当然のことだ。誰かが意図的に幻覚を見せる霧を発生させていたとなれば、カリザが居住区奪還作戦の内容を知っていたことを加味すると、その動機は一つに絞られる。
ユウキ一行の妨害。それ以外には考えられない。
「カリザとかいう子、【レイジ・レギオン】って言ってたよね。言い方的に他のメンバーもいそうなんだけど……まさか、待ち伏せされてるなんてことはないよね?」
「当たってほしくはない推測ですが、十分ありえると思います。今のところ、確認出来ている【レイジ・レギオン】のメンバーは全部で五人ですから」
「ま、そりゃそうか。厳しい戦いを覚悟しておかないと」
「そうなった時は、私達が全身全霊でエイミ様をサポートいたしますよ。先ほどは気を失ってしまい、お恥ずかしいところをお見せしましたが……次こそは」
コッコロは手にした槍をぎゅっと握り直し、その凛とした横顔に決意を滲ませた。
少しずつ、一歩ずつ、近づくほどに濃度が増していく霧の壁を、三人はかき分けるようにして進んでいく。
じっとりと質量を伴ったそれにのしかかられ、各々頭が少しばかり痛くなってきた頃──ついに中心が、その像をゆらゆらと揺らめかせながら姿を現した。
「何これ……家?」
そこにそびえ立っていたのは、一軒の建築物だった。
使い込まれた風合いの漆喰の壁に、それを支える木組みの柱。鮮やかな朱色の瓦を積まれた屋根と、植物を模した柔らかな曲線を描く鉄細工に吊り下げられた表札。
なんの変哲もない。エイミが言ったように、それはただの家である。しかし、この場ではそれ以上の意味を持つ。なぜなら、それはあまりにも──
「私達の世界の──ランドソルの家、でございますね」
それは間違いなく、彼女らが数日前まで過ごしていた世界──ランドソルの息吹を感じさせる、見慣れた様式の建物だった。
「なんでここに? キヴォトスでもこういう家を作ったりするってことなのかな」
「いや、それはありえないよ。合理を突き詰める会長がこんな不自然な位置での建設を許すはずがない。前会長がこれを建てたとも考えづらいし……ここ数日で出来たんじゃないかな」
ユウキの予想をぴしゃりと否定し、エイミは迷いのない足取りで玄関先まで踏み込んだ。彼女は警戒の色を瞳に宿しながらも、躊躇なくドアノブに手を掛ける。
「鍵がかかってない。入れるよ──かかってたとしても無理やり突入するけど」
エイミは大胆な宣言とともに、木製の扉をゆっくりと押した。蝶番が軋む音を立て、彼女の体は開いた隙間を縫うようにして室内へと消えていく。
ショットガンを構えて死角を潰していく彼女の視界には、外観以上にランドソルの空気を色濃く残す空間が広がった。
使い込まれた木製家具の柔らかな光沢。小さなキッチンには使い勝手の良さそうな調理器具が並び、その向かいには数人掛けのテーブルが置かれている。部屋の奥に設えられた暖炉からは、かつて火が灯っていたかのような温もりの残滓さえ感じられた。
「【レイジ・レギオン】のメンバーが生活していたのか……いずれにしても、心地良いのが気持ち悪いね」
明らかに何年も人が住んでいた形跡があるのに、論理的に考えればそれはありえない。ズレた普通が長期間存在することは立派な異常なのだ。
エイミは素早く身体を動かし、ゴウンゴウン、と低く唸り続ける暖炉の向こう──煙突に頭を突っ込む。
煙突の中、煤けたレンガの向こう側で不快な音を撒き散らしていたのは、この牧歌的な家屋には到底似つかわしくない、円筒状の鉄の機械だった。
鈍く光沢を放つ表面には、複雑に這い回る極細のケーブルが血管のように張り巡らされている。その透明な管の中を、乳白色の霧が驚異的な高圧で駆け抜けていた。
霧の行く先──円筒の上部を見れば、排気ダクトが煙突の先へと伸びている。
「これが霧の心臓か。まぁ、壊せればなんでもいいよ」
エイミは短く息を切ると、精密機械めがけてショットガンを発砲した。
ぐしゃりとへこむ音、続けて飛び散る火花。
散り際の命の輝きのようにも思えたそれは、弱々しく小さくなっていく駆動音とともに終わりを告げた。
「……よし。入っていいよ! もう安全だと思う!」
「分かりました。では、お邪魔します」
エイミの合図を聞き、二人もこの家に玄関から入ってくる。しかし、彼らがすぐさま訝しげに視線を向けたのは、エイミがしゃがみ込んだ暖炉の方ではなかった。
壁の一部の、円柱状に窪んだ所に、古めかしい石造りの円形台が鎮座している。突入時に異文化の何かだろうとエイミが放置した、祭壇のようなものだった。
「それ、そっちの世界の独特なインテリアだと思って流してたんだけど……もしかして、二人基準でも不自然なポイントだったりする?」
「うん。ちっちゃな広場にあるのはよく見るけど、家の中に置かれてるのは一回も見たことないかも」
「祭壇にしては、特にお供え物も見当たりませんが……」
コッコロは腰を下ろして、一つの手掛かりも見落とさないように、慎重に指を石の上で滑らせていく。
「円盤の縁に紋様のようなものがあります。これは──何かの呪文、でしょうか」
「呪文? それって、書くだけでも効果が出るの?」
「部分的にはそうとも言えます。魔法具といった製作過程で魔法を施される道具は、刻まれた呪文を通り道にして魔力を供給することで、安定した出力を可能としていますので。……ですが」
そこまで言って、コッコロは指を動かすのを止める。
「紋様の大部分が、既に擦れてなくなっておりますね。これほどの割合で欠損していると、魔力を流し込んだとしても利用は出来ないでしょう」
「後から書き足すとかも出来ないの? コッコロが知ってる呪文なら、いけなくはないと思うんだけど」
「申し訳ありませんが、このような文字列の組み合わせは今まで見たことすら……」
「そうなんだ。残念だね」
分からないものは仕方がない。そう言わんばかりの淡白な返事を返しながら、エイミも円形台のそばまで近づいてしゃがむ。
そこで初めて、彼女の瞳孔が弾かれるように広がった。
「──あれ」
コッコロが『紋様』だと形容した目の前の文字列。その正体は、どう見ても──
「──普通の、文字なんだけど」
「これ、さ。もしかしなくても大発見なんじゃ」
「そうなの? エイミちゃん」
彼女の呟きに、ユウキが背後から顔を覗かせた。エイミが指差す無機質な文字列を、二人も追うようにして見つめている。
「だって、ここに書いてあるのって──座標だよ。二人の故郷、アストライア大陸に繋がってる可能性のある、三次元空間の座標!」
ザヒョー。ざひょー。ざひょう。座標。
全く予想だにしていなかった発言を受けて、彼らはまず、互いに顔を見合わせた。それからまだ紋様の残っている部分をしきりに触り、状況の理解を図る。今、最も欲しているものがこれである──その事実を飲み込むことを。
そうして表情をみるみる変えていくまでに、十秒とかからなかった。
「……こ、これは……! 確かに、エイミ様の言う通り──!」
「ほんとに大きな手掛かりだ──!?」
座標が見つかったということは、エリドゥ利用の目処が立ったということ。それはつまり、遠からぬ二人の帰還を意味していて。
あまりの急展開具合に、ユウキとコッコロはもはや悲鳴に似た驚愕の声を上げて──そして、その喜びを掻き消すように、大きな、大きな何かが大地を震わせた。
「な……一体何事ですか!?」
「二人とも、テーブルの下に!」
「うん!」
突如として足元から突き上げてきた激しい揺れに、コッコロはたまらずその場で這いつくばるが、それだけでは終わらない。終わらせないために、集団で行動しているのだ。
ユウキが誰よりも早くに動き出して彼女を担いで回収すると、その間にエイミが確保してくれたテーブルの下のスペースへと滑り込む。
「……ありがとうございます、主様」
「全然いいよ。それより──」
古い家屋の梁が軋み、埃や照明が乱雑に降る中で、三人は本能からか、窓の外へと視線を走らせた。
そこには地震の影響で倒壊する建物など、実に様々な情報が眠ってはいるが、正直なところ、そのほとんどは目を引くようなものでもない。
その代わりに一際目立っていたのは、自治区の中央に据えられたシンボル──ミレニアムタワーの、意思を持って動いているような不気味な姿だった。