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「ユウカ!」
扉を開けて早々、開口一番。その声は静まった保健室の中で一際異彩を放っていた。もっとも、この部屋での一番には食らいつくことすら出来ないが。
「……会長? 会長なんですか?」
白いベッドの上で寝かされている、制服の代わりに患者衣をまとった少女──早瀬ユウカの目元は、緩やかな曲線を描くシックな遮光バイザーに覆われていた。当然、リオはそのデバイスが何であるかを知っている。それは外部の光を完全に遮断し、損傷した体組織にナノマシンを定着させるための医療機器だ。つまり、彼女はかなりの重症を負っていた。
「ええ。私よ、リオよ。目は……その、見えているの?」
「はい。幸運にも、ですね。失明した訳ではないですけど、しばらくは安静にしないといけないらしいです」
リオはそばに置いてあった丸椅子に腰掛け、それからユウカの顔をまじまじと見つめた。
彼女の肌は白く綺麗なままだった。目をやられたのならその周辺もひどく傷付いていそうなものだが、そのような痕はまったくない。上手く治療されたということなのかもしれない。
「それにしても、どうして会長がここにいるんですか? 今は居住区奪還作戦の真っ最中のはずじゃ──」
「頭を冷やすべきかもしれないと思ったの」
「頭?」
「怒られたのよ。貴方の報告を聞いて後で見舞いに行くと言ったら、人を数字でしか見ていないって」
「……そうなんですか」
ユウカはそれが予想通りであるかのように、目一杯に口角を上げる。しかしその機敏は、ひどく動揺したリオの脳からは簡単に流されていく。
「相談、しに来てくれたんですね?」
「……今の貴方にするのは忍びないわ」
「いいんですよ、そんなこと気にしなくて。私はセミナーのメンバーなんですから。ただ吐き出してくれたら、それでいいんです」
ユウカが片手を上げ、リオの方へずいと伸ばした。
「手を」
リオは目を伏せて逡巡するが、やがておっかなびっくりといった様子で腕を放り返す。柔らかい手に、温かい手に、優しく握られる。
「会長の手、すべすべですね。細くて綺麗で、ちょっと力を入れると折れてしまいそうなのに、指先は皮膚が少し厚くて……毎日とても頑張ってるのが伝わってきます」
「そんな、大したことは……」
「ありますよ。誰よりも──私よりもノアよりも、頑張ってます。今まで苦手意識を持っていた、人との付き合いだって始めてるんですから」
「……私が変だから、余計な労力を掛けているだけよ」
「それでも良くしようと藻掻いているのが、誰よりも頑張ってることだって言ってるんですよ? もー、しょうがない人なんですから」
繋がっていた手がそっと解かれる。その代わりに、彼女の指先がリオの頬を名残惜しそうに撫でた。
「今はそういう謙遜も自己嫌悪も、無理やり抑えつけて我慢しなくていいんですよ。ここには会長と私しかいない。他の誰も、この場を見てなんかいないんです。ですから、そうやって気を遣わないで、もっと本心を打ち明けてください」
優しい声。花を愛でるような声。リオの全てを受け入れて包み込み、しかし決して外には逃さないような、そんな甘くとろけた声。瞳を隠した少女が放つ無条件の肯定は、リオを覆っていた合理性という名の冷徹な鎧を慈悲深く砕き、いっそ残酷なまでに暴いていく。
いつもの彼女であれば、即座に論理的な反論を展開してユウカとは距離を置いていたはずだ。それなのに、頬を伝う指先の柔らかな感触がどうしても汚泥のような本音を引きずり出して離さない。喉の奥がどうしようもなく熱くなって震えた。
「……本当に」
思考の氷河を漂っていた無数のもしもや後悔が、ユウカという陽光に晒されて、形を失って溶け始める。もはや止めることは出来ない。溶けたそれらが一滴の雫を形作り、ぽつりぽつりと瞳から零れ落ちそうになる。
「本当に……本当に優しいのね、貴方は」
嬉しくて泣いているのに、苦しくて仕方がない。こんな経験は初めてだった。涙をいっぱいに溜めて。それでも、ここで下を向く訳にはいかない。
「ここに、ずっといてもいいかしら?」
「はい! 当然です。ゆっくり休んでください」
「……そう。ありがとう、甘やかしてくれて」
繋いでいた熱を強引に断ち切るように、リオはその手を離して立ち上がった。溢れんばかりの涙を、子供のように腕で何度もゴシゴシと拭う。視界を潤ませながらも、彼女の瞳には先ほどまでとは異なる鋭い光が宿っていた。
「ダメね、私は。茨の道を歩くと覚悟しておきながら、いざ優しくされるとそれに寄りかかりたいと思ってしまう」
「……会長?」
「一体、これはなんの真似かしら?」
「なんの、って……私は会長が辛そうにしていたので、少しでも負担を分けてもらおうと──」
「私は信じることにしたの」
ついに喉のわずかな揺らぎも消え、声と合間の静寂が部屋を支配する。しかし、それは決して冷徹なものではない。険しいものではない。一本の芯が通った、揺るがない心。
「確かにユウカは私に言ったわ。困っていることがあればいつでも相談してくださいと。でも、それは私を優しく撫でるようなことではない」
「違いますよ! それは会長が変に解釈しただけじゃないですか!」
「……今なのね」
迷いはなかった。リオは懐から愛銃を抜き放つと、その銃口をベッドに横たわる少女の眉間へと向けた。
「本当のユウカなら、もっと早くにそうやって声を荒げていたはずよ。なんでここにいるんですか、職務はどうしたんですか、と。貴方にはするべきことがあるんじゃないですか、と」
「そんなの、会長の勝手な想像ですよ!」
「いいえ。違う。信じているの。私は他人のために怒れるユウカを信じている。頼りにしていると言われて調子に乗らないユウカを信じている。ユウカなら、こんな所で引き留めたりせずに、私を無理やりにでも頑張らせると信じている」
詰問のような独白。それはリオがユウカという人間に寄せる、最大級の信頼の証だった。今まで信じることを選択肢に含んでいなかった少女が自身の殻を破るために藻掻いた軌跡は、目の前の存在が提示する優しさという甘美な毒を拒絶するには、十分すぎるくらいに勇猛な形を成しているのである。
「貴方は、誰?」
銃口の先、遮光バイザーの奥にあるはずの瞳を射抜くように、リオは問う。
「私をこの部屋まで誘導して……一体、何をする気なの?」
居住区奪還作戦の最中にユウカの重態を報告した、セミナーの一般役員。中立に物事を分析出来たはずなのに、リオに対して一様に冷たい目を向けた部屋の人員。それら単体では断ずるには弱い根拠だが、都合が良すぎるユウカの精神的救済というピースが合わさり、疑念は一つの解へと結び付いていく。
「本物のユウカはどこ?」
引き金に沿えた指先に力を込めながら、リオは最後通牒を突きつけた。
「……一度に沢山質問をされると困りますね。一つ一つ、順を追って答えましょうか」
返ってきたのは、あまりに不気味な平穏だった。
つい先ほどまでユウカから発せられていた包み込むような甘い声が急激に色彩を失い、無機質な、無感情な響きへと変質していく。
少女の形をした何かは銃口を向けられたまま、両腕を挙げてゆっくりと上半身を起こした。
「降伏のポーズ。見えているのね、この銃が」
「その通りです。騙すような真似をしてしまい、申し訳ございません。恥ずかしながら、視線までは再現出来なかったのです」
視覚を奪われているはずのそれが、正確に銃口へと顔を向けて微笑んだ。その口角の上がり方はあまりに左右対称で、感情という揺らぎを一切排した機械的な均整を保っている。何より、恥ずかしながら、というズレた謝罪が非人間であることを雄弁に語っていた。
「話を戻しましょう。私が誰か、でしたか」
「ええ。名前と所属を──」
「デカグラマトン」
その単語が鼓膜を打った瞬間、リオの背筋に氷柱を叩きつけられたような戦慄が走った。
ミレニアムサイエンススクールのハブをハッキングして乗っ取り、特異現象捜査部の調査の末に廃墟の中で水没し、預言者、アイン、ソフ、オウル、マルクトとともに自己の存在証明を目指した──神を自称したAI。意識が消滅したはずの彼が、その超越的な知性の残滓が、今、目の前で愛すべき後輩の姿を模して存在している。
銃を握る手が、わずかに震えた。
「──と言えば、分かりやすいでしょうか。もっとも、その名はもう捨てましたがね」
「……どうして、貴方がここに」
「さあ? どうしてでしょう。少なくとも、私は偶然の事実に意味を見出だすのは誤謬だと学んでいますから、その問いに答えることは出来ません」
「解釈の話ではないわ。因果の話よ」
「でしたら一つです。貴方が慰めを求めていたから」
その返答に、リオは思わず顔をしかめる。
見透かされている不快感と、認めがたい納得。デカグラマトンは、リオが合理性の裏側にひた隠し、自分自身ですら直視を避けてきた心の欠落を、極めて淡々と、当然の事実であるかのように告げたのだ。
「貴方は誰かに安息の瞬間を与えられたいと強く願っており、この部屋には早瀬ユウカを模した機械人形があり──私はそれをハッキングという形で利用して、貴方の欲求を充足出来る立場にあった。であれば、その声に『今、すぐ』応える。それだけの話ですよ」
「なんですって? ユウカを模した機械人形? そんな奇怪なものがこの部屋に用意されていたと?」
「ええ。疑いようもない事実です。擬態を解除した姿でもお見せしましょうか?」
「……そうね。お願いするわ」
「承知しました」
彼は依頼をすんなりと承諾すると、もはや微塵も隠す気がないのだろう、軽々とベッドから降りてその正体を露わにする。
ホログラフィックの皮が剥がれたその姿は、まさしく黄金色のロボットであった。
二メートル程度の身長を持ち、頭部には一対の目と口、肩に大袈裟な意匠があしらわれた豪華な装甲を乗せていて、胴体は筋肉質にも見える逆三角形、そこから四本の腕を生やしている。それぞれの手の形状は人間とさほど変わりはしないが、下半身は実にロボットらしい容貌であり、蜘蛛のような四脚を絶妙なバランスで地面の上に立たせていた。
「……アバンギャルド君に似た見た目ではあるけれど。こんなもの、見たことすらないわね」
「そうですか。となると、貴方の知らない誰かが裏で糸を引いているのかもしれません」
特に焦る様子もなく、デカグラマトンは橙色の光を発する目をチカチカと明滅させる。
「この建物の監視カメラには、この場にそぐわない服装の生徒が映っていませんでしたから──既に擬態した何者かが、ということになりますね」
「……何者か……」
「とにかく。貴方はこれからどうされますか? もはや保健室に滞在する意味はないと思われますが」
「貴方の存在は十分に意味となるのだけれど?」
「それはそうかもしれませんが……私は別に逃げたりなどしませんよ。そうする意味も利益も、今ではちっともありはしない。作戦が落ち着いた後で会おうと一言望んでくだされば、喜んでそうします」
リオは黄金色の機械を見上げ、拭いきれない違和感に眉をひそめた。
かつての彼は比べ物にならないほど尊大で、自らを絶対者と定義する超越的な傲慢さに満ちていたはずである。しかし、目の前に立つそれは驚くほど従順で、へりくだった態度を崩さない。かつての預言者たちを従えていた支配者としての面影は、どこにも見当たらなかった。
「持ち場を離れているのでしょう? 今は執務室に戻って、作戦に参加することが最優先のはずです」
「……はぁ。分かったわ、嘘は吐いていないようだし──作戦終了後、連絡をよこしなさい」
「かしこまりました。貴方がそう望むのであれば」
四本の腕の内、片側の二本を胸に当て、デカグラマトンは恭しく頭を下げた。その重厚な金属の動きは洗練されており、まるで主君に忠誠を誓う騎士のような優雅さであった。
「……全く、やりづらいわね」
リオは溜息を吐いて、彼から視線を外す。
その時、ガラガラと音を立てて保健室の扉が開かれた。誰なのかは聞くまでもない。つい先ほど見たばかりなのだから。
金髪に紺のセーター。彼女はリオを糾弾した役員である。前髪でほとんど隠れた両目をまん丸に見開いて、視線の先は異形の機械人形。
「……貴方──」
「おやおや! 接続が切れましたので、一体何事かと来てみれば……これは、一杯食わされたということでよろしいですかな?」
リオの言葉を遮るように響いたのは、芝居がかった感嘆の声だった。執務室で彼女が見せていた、あの冷徹で事務的な態度はどこへやら。今やその発声は驚くほど朗らかで、まるで舞台上の喜劇役者のような熱を帯びている。
「
「……そうだったのね。貴方が私をこの部屋に誘導した犯人──私が執務室に居続けると、不都合な何かがあった者」
「なんと! 流石は技術力の高い組織の長、とでも申しましょうか。推測が素早く、その上鋭いですな!」
図星を指されたというのに、彼女は気分を害するどころか、腹を抱えて豪快に大笑いした。その笑い声にはリオを嘲る響きはなく、むしろ自らの計略の一部が露呈したことすら楽しんでいるような、不気味な余裕に満ちている。
「褒め言葉として受け取っておくわ。ついでに擬態を解除して、名前と所属も教えてくれるとありがたいのだけれど」
「それは無理な話というものです! しかし……ふむ、名前と所属くらいはいいでしょう。どうせカリザ君がポンと話すでしょうし──簡単に自己紹介を」
金髪の少女は顎に手を当てて不敵に笑んだ。
「私は、ギルド【レイジ・レギオン】に所属している一端の錬金術師──アゾールドと申します。これからここら一帯を更地にする者の名前ですから、どうぞお見知りおきを」
「更地。ずいぶんと大きく出たわね」
「おや、まさか気が付いておられないのですか? 全くデタラメな話ではありませんが──せっかくですし、一つ質問を致しましょう」
アゾールドは咳払いをすると、保健室の扉の金属フレームに触れた。
「この学園に存在する金属の扉。以前より重くなったとは思いませんかな?」
「……それは、どういう──」
「金属を捕食し、擬態する性質を持った魔物──リビングメイルと呼ばれてはいますが、今回は趣向を変え──さしずめ、『リビングミレニアム』、といったところでしょうか」
次の瞬間、アゾールドが触れていた扉が、まるで生き物のようにぐねぐねと形を変え始める。滑らかな金属の表面を保ちながら、しかし自律的な意思を持った泥のように蠢いた。
「金属まみれの自治区に放たれた、金属泣かせの魔物。その恐ろしさは、聡明な貴方ならよくお分かりでしょう」
ぐにゃり、とリオの足元が歪んだ。
それだけではない。壁を走る配管、天井の点検口、床下の鉄骨、ベッドの柵、少し前まで座っていた丸椅子の脚。その全てが音もなく動き、鋭利な切っ先を練り上げていく。
それらは彼女が対処法を考えつく暇すら与えず、一瞬にして無数の鋼鉄の槍を作り出し、逃げ場のないリオの四肢を貫かんと解き放った。
「──え」
一音しか発さない。一音しか発せない。意味を、論理を、思考を紡ぐことのできない、気の遠くなるような一瞬を経て彼女が見たのは、急速に移りゆく視界だった。
後ろへ動く。歩いてはいない。
槍が飛び出す。貫いてはいない。
アゾールドが笑う。気付いてはいない。
ただ、私は今、生かされている。
窓ガラスが割れる音を聞いて、陽光を正面から浴びて、一粒の砂のような少しの時間が経って、そう思った。
「……『今、すぐ』。助けが必要でしたね」
四本の腕で器用にリオを背負い込み、保健室の窓から空中へと跳躍したデカグラマトンが、背後の彼女へ囁くように呟く。
刹那の後──ミレニアムタワーの窓という窓が一斉に割れて、現れるのは無数の橙色に光る警備ドローンと生徒。その誰もがリオと同じように、機械に室内から弾き出されているようだった。
「はははは。ははははっ! 今でした! まさに、今!」
馬鹿げた規模の脱出劇を手引きした彼は、喜びを噛みしめるように、狂気的なまでに上機嫌な調子で笑った。