2004年、一月末。年を越えてまだひと月も経っておらず、いかに冬が過ごしやすい冬木といえどまだまだ肌寒い今日このごろ。
遠坂凛は自室のベッドから転げ落ち目を覚ました。
「んん。今何時よ……って、はぁ!?」
時計は午前8時45分を指していた。冷えた空気が肺に満たされ、頭も冷えてくる。
今日、遠坂凛には用事があるのだ。イギリスに海外出張中の父遠坂時臣。その友人の娘がこの地の歴史を調べに来日するというので、地主の娘としてこの地を案内するのである。
「ちょっと桜、今日は起こしてって言ったじゃない!」
花の女子高生にしては随分雑な手順で、しかし外面だけは完璧なコーディネートを終えた凛は妙に豪華で機能的にも関わらず使い手が現状一人しかいない台所、そこに立つまさに自分の妹──遠坂桜に向かって吠えた。
「姉さん、やっと起きたんですね」
「“やっと起きたんですね”、じゃないわよ! 起こしてくれるって、約束したじゃない!」
「はい、起こしましたよ。それはそれは何度も。でも、姉さんが“あと5分、いや10分……”なんて言うから」
「私が朝弱いの知ってるでしょ!? 寝ぼけてる私の言葉を信用するんじゃないの! あーもう、言い争ってる時間さえ惜しいわ。行ってきまーす!」
「はい、いってらっしゃい、姉さん」
慌てて出ていく姉の姿を見送りながら、桜は再び台所へと向き直った。土曜の朝にも関わらず真面目に練習しているのだろう弓道部の先輩に送る、
◇
「ごめんなさい、待ちました?」
「いいえ、待ってはいません」
凛が待ち合わせ時間ぴったりその場所に着いた時には、すでに待ち人が立っていた。美しい白銀の髪に、冷たい碧眼の女性。
「──アンナさん、でしたか?」
「ええ、そうです。リン・トーサカ」
「リンで構いません。同い年なんですし」
「ではリンと」
自己紹介を終えたあと、二人は早速とばかりに歩き出した。道中他愛もない会話をしながら。
年の近い彼女たちが仲良くなるのに、そこまで時間は要らなかったようで。
「なるほど、リンには妹がいるのだな」
「そうなのよ。でもほんっとトロい子で。今日も私があの子を起こしてあげたんだけど、なのにあの子は“あと5分”なんて言って、おかげで私が遅刻しちゃいそうなくらいで」
凛は息を吸って吐くように嘘をついた。
「それは少し、羨ましいな」
「羨ましい? アンナさんはご兄弟はいらっしゃらないの?」
「いない……と思う? 思います。たぶん」
「ふふっ、なんで曖昧なのよ」
アンナは時折、砕けた物言いになる。そこには少し圧を感じるかもしれないが、何のことはない。外国人である彼女が日本語に慣れていないだけだ。
「アンナさんは確か、イギリス人でしたっけ? 日本語が難しいなら、無理に敬語を使わなくても大丈夫よ」
「そうか、助かる。なにせこの国の言葉は難解で仕方がない。ヒラガナ、カタカナ、カンジ、ケイゴ、なんなのだまったく。アルファベットを見習って26文字になってしまえば良いのに……」
よほど恨みがあるのだろう、アンナは暗い顔をしながら苦々しく呟いた。それを聞いて凛も苦笑いをするしかない。
「それと、私はイングランドではなくカンブリアの人間だ」
「カンブリア?」
凛は一瞬、“なにそれ、ジュラ紀白亜紀カンブリア紀のカンブリア?”と口にしそうになった。彼女の中にカンブリアなんて国の記憶はない。
「この国の人間に分かりやすく言うなら、ウェールズだな」
「ウェールズ! ああ、あのヘンテコな国旗の!」
「へ、ヘンテコ……」
「あ、ご、ごめんなさい」
「いや、構わない。ユニオンジャックと比べれば、赤い竜を模したウェールズの旗は確かにヘンテコだろうし……」
それはたしかにアイデンティティなのだが、ヘンテコと言われてアンナは凹んだ。
「赤き竜、それはブリトン人としての誇りを表しているのだ」
凛は歩きながら、アンナから直々にウェールズ史の授業を受けた。
曰く5世紀、ローマに放置されゲルマン大移動に際し蹂躙されるだけだった当時のブリテン島で、華々しく戦った英雄がいたそうな。名はアーサー王、ブリテンの赤き竜の化身。凛もよく知る名高き騎士王だった。
「でもアーサー王は伝説上の人物じゃ」
「いや、そうでもない。今では明確に、そのモデルとなった人物がいたのではないのか言われているのだ」
近年、ウェールズのとある山城からいくつかの文書が見つかったらしい。それはまさしく5世紀に、その山城の主が我らが王と呼ぶ人物から指示を受ける内容であった。
「その我らが王と呼ばれた人物が、アーサー王その人だったのではないかと言われている。確かに諸侯を指揮し、ブリトン人を侵略から守護しようとした人物がいたのだ。しかも、その書簡のなかにはカンブリアとイングランドの国境に土塁を築くよう指示する命令書があって、その書簡に記された相手の名前が伝説の人物だった円卓の騎士で──!」
「あ、あはは……なるほど?」
凛は曖昧に笑って頷いた。どうやら藪蛇をつついてしまったようだ。可憐な乙女に見えて、アンナは重度のアーサー王
「そういうわけで、今注目の研究なのだ!」
「なるほどね」
『なるほど』とは日本人にとって、あらゆる返事に使える万能の言葉だった。
しかし、ここで凛の中にふと疑問が浮かぶ。こんなにアーサー王が大好きな彼女が、なぜわざわざ冬木の歴史を調べに来のだろうか。
彼女は、そのことを聞いてみた。
「これは俗説なんだが……」
と、アンナは前置きする。
「アーサー王伝説には、実は続きがあるという話がある。それが、騎士アルトリウスと賢者モーガンの逸話。よくある騎士と魔術師二人の冒険譚の話だ」
その話なら、凛も知っていた。なにせ日本にも類似した話がある。姿を隠した御殿様が、腹心の僧侶と一緒に旅をするのだ。目的は特にない、ただ旅の先々で美しいものに触れ、見聞を深め、時には悪を成敗する、そんな内容である。
「この冒険譚はちょうどシルクロードのあった地域、その近隣諸国へと広がっている。それこそ、ブリテン島からこの日本まで幅広くな」
「そんなに広く? ほとんどユーラシア大陸の端から端じゃない」
「その通りだ。きっとシルクロードを通ってこの冒険譚は広がったのだろう。しかし、となると少々おかしい部分がある。場所によって内容が異なるのだ」
イギリスやフランス、そして東欧では騎士は異民族と戦ったと言われている。一方、地中海世界、特に西ローマ帝国領土だった地域では船に乗って海の魔物と戦ったと言われているし、中央アジアでは砂の魔物と戦ったと言われている。
しかし中東や中国を始めとした東アジア地域では、美しい姫モーガンに目が眩んだ貴族が追っ手を出し、それから姫を守るために逃げる騎士、という話になっている。
「口伝のうちに逸話が変化することがあるとは言え、こうも変化するのは少々おかしいだろう。特に、前者は何かを退治する話なのに後者は姫を守って逃げる話と、全く別の話になってしまっている。登場する人物はアルトリウスとモーガンで変わらないのにな」
「うーん確かに、変な話ね。なんで逸話がこうも変化したのかしら」
「だから、私はこう考えたのだ。逸話が広がったのではなく、実際にシルクロードを旅したモデルがいて、その人たちの活躍が逸話として広がったのではないかと!」
アンナはそう力説したが、凛はジト目でその様子を見て訝しげに言った。
「それってつまり、アーサー王がブリテン島を放ったままシルクロードを渡ったってこと? いったい何のために? だいたいどこを目指したって言うの?」
「何のためにかは分からない。だが、目指した場所はきっとここだ。ここにはある逸話があるのだろう?」
アンナの言う逸話に、凛は聞き覚えがあった。冬木の地に名前がつくずーっと昔のお話である。
ある日、村を嵐が覆い、山から悪霊が、海から龍が襲ってきた。それを異国の旅人の二人が退治してしまった。龍は円蔵山にある洞窟に封印された。
旅人はどこかに消えてしまい、その後龍を封じるためにお寺が建てられた。それが龍洞寺、現在の柳洞寺である。という昔話だ。
凛がその話を知っていたのは、彼女の血筋である遠坂家がまさしくこの土地の大地主であり、遡ればその伝説を目撃した人たちの子孫であるからである。
「冬木の龍洞伝説の話ね」
「私は考えた。きっとその話に出てくる旅人の二人が騎士アルトリウスと賢者モーガンなのだ」
「眉唾な。だいたいこれ、よくあるスサノオ伝説の亜種のようなものだと思うわよ」
「スサノオ伝説にしては、時代が新しすぎる。それに、口伝で伝わったならその経緯が見える。私の調べた限り、龍洞伝説はこの地で突然変異的に発生したものだ」
どうやら彼女は単なるオタクではなく、ガチのオタクであったらしい。それこそ歴史学者のような。
「でだ、それを確かめるためにも柳洞寺に行くぞ」
「ええ、いきなりフィールドワークなの? せめて図書館で地史を調べてからでも」
「それはもう先日調べた」
凛は“はぁ”とため息をつき、仕方なく山へと向かうバスに乗った。町を案内すると思っていたのに、まさか山に行くハメになるとは。
ウキウキと窓の外の景色を眺めているアンナを尻目に、凛もボーッと同じ景色を眺めた。生まれ育った地の、何度も見た光景、こんな地にそんな大それた伝説があるとは思えないが。
◇
「だから、何度言ってもダメなものはダメなのですよ」
「そこを何とか!」
寺の住職に、アンナが詰め寄っている。異人の少女に目を白黒とさせつつも、住職は同じセリフを告げた。
「ですから、大空洞は脆く危険な場所なんです。特別な許可がない限り、一般の人が入れる場所ではありません」
「そんな……!」
住職の言うことはごもっともであった。
「ごめんなさい、アンナさん。その、私てっきり町中を散策するものだと思っていて。山の方を調べるなら、お父様に言って許可を取ってもらえば良かったわ」
「いや、私のほうこそ。きちんとホーレンソーしておくべきだったな」
残念ながら、その日は仕切り直しのようだった。仕方ない、また日を改めよう。アンナと凛がそう思い、寺を後にしようとしたその時だった。
「げ、遠坂か。いったい寺になんの用だ」
「あら、柳洞さん」
凛のクラスメイト、この寺の住職の倅、柳洞一成である。
「なるほど、遠き地からはるばるこの地の歴史を調べに来た友人を手伝っていた……か。お前にしては殊勝なことだ」
「あら? それは一体どういう意味かしら、柳洞さん」
互いに笑顔で睨み合う二人、その間にはバチバチと電流が走っているようにも見える。
「まぁ良い。それで、大空洞を調べたい、だったか」
「もしや、どうにかできるのか?」
アンナが期待に身を乗り出して言う。
「残念ながら、俺にお前たちを大空洞に案内する権限はない」
「使えないわね……」
「何か言ったか?」
「いいえー、なにもー」
「リン、今は重要な話の最中なのだ。茶々を入れてくれるな」
“ぐっ……”と凛は呻いたあと、素直に静かになった。正論だったからである。
「そうだな、まだ話は途中だ。大空洞には案内できん、だが小空洞……と、勝手に俺が呼んでいる場所なら教えることができる」
「「小空洞?」」
凛とアンナの言葉が重なり、一成は“そうだ”と肯定の言葉を返した。
「山の中腹に、小さな洞窟がある。そこは大空洞に繋がるもう一つの道、と言われてはいるのだが、いかんせんその奥が塞がれていてな」
「塞がれている、とは?」
「明らかな人工物があるのだ。壁とも扉とも形容しがたいそれが、その洞窟の奥にある。一般人でも入れる故、興味があれば行ってみると良い」
「あら、案内はしてくれないのかしら。不親切な生徒会長だこと」
「俺は忙しいのだ、遠坂と違ってな」
また二人は笑顔の睨み合いへと突入した。
「なるほど。これが喧嘩するほど仲が良い、というやつか」
「違うわよ、誰がこんな焼香臭いやつなんかと」
「なんだと、この南蛮かぶれが」
アンナは言い争いを始めてしまった二人に“先に行っている”とだけ告げて、一成に教えられた小空洞を目指した。
◇
「ここが、小空洞か」
外も冷えていたが、洞窟の中に入ると一層空気が冷たく感じる。アンナは体をぶるりと震わせ、首に巻いたマフラーを強く絞めた。そして懐中電灯を片手に、一歩、また一歩と足を進めていく。
幼い頃、アンナは自分に弟がいると思っていた。双子の弟、名前をアルトゥールスという。
アンナは生まれたときから、その弟と片時も離れず暮らしていた。どんなときでさえも。だからそのときから、少しおかしかったのだろう。
そのことにアンナが気づいたのは、アンナがエレメンタリースクールに入る頃だった。
学校に通い始めると、アルトゥールスが急にいなくなった。アンナはそのことで酷く動揺し、しばらく食事が喉を通らなくなったほどである。
結果、アンナは両親によって病院に連れて行かれ、真実を知った。アルトゥールスはアンナのイマジナリーフレンド──幼少期の子供に現れる、想像のなかの人間でしかなかったのだ。
それからというもの、アンナはひどく心がぽっかり空いたような気分になりながら人生を過ごしていた。
そんな彼女の心の隙間を埋めてくれたのが、故郷カンブリアの英雄譚、アーサー王伝説である。
寝物語に聞いたそれにどっぷりハマってしまったアンナはこうして立派なアーサー王フリークになり、少女らしい趣味を全てなげうってそれに傾倒した。おかげで友達はいないが……アルトゥールスが見えていた頃も友達なんていなかったので問題ない。問題ないったら問題ないのである。
「あ……」
アンナが不意に足を止めた。洞窟の先、そこは行き止まりとなっている。一成の言った通り、何か壁のようなもので洞窟の奥が遮られていた。
なにか、調べられそうなものはないかとアンナは壁に触れる。
「ん、これは……」
そして壁の中央に何やらくぼみのようなものを発見する。不思議な形だ。まるで何かがハマりそうな──。
『姉上、君にこれを預ける。どうか、世界を見た結論を……いつか僕に聞かせてくれ』
「──っ」
酷く頭が痛み、アンナはその場でよろめいた。
今聞こえた声は、アルトゥールスのものだ。しかし、アルトゥールスはもういない。だとすれば、忘れていた過去の記憶が思い出されたのだろう。
アンナは微かな記憶を頼りに、胸に掛けたペンダント。ケルト十字のロザリオを取り出した。
これは、かつて雷に怯えてアンナが泣いていたとき、アルトゥールスが彼女に与えたものだ。しかし、実際にはアルトゥールスという存在は実在しないのだから、だとしたらこれはどこから来たのだろうとアンナは首を傾げたものである。
それが、目の前の壁のくぼみにぴったりと合わさり。
「──えっ」
“ゴゴゴ……”と、音を立て、砂埃を上げながら壁が持ち上がった。“映画の舞台装置!?”と、思わずアンナが心の中でツッコミを入れてしまうのも無理はない。
壁の向こうの暗闇を照らすと、そこには下へと続く階段があった。アンナは恐る恐る、しかし希望を持って足を踏み出す。きっと、この先に答えがあるのだ。彼女をこの地に駆り立てた何かが。
そして、階段を下りきった先で広い空間に出た。懐中電灯の光を壁が反射しているせいか、妙に明るいその部屋の中央には、一本の剣が突き刺さっていた。西洋の両手剣、かつては美麗な装飾が施されていたであろうそれは、今はもう茶色く錆び付き、どんな模様があったかも分からなくなっていた。
ただ一人、この場にいるアンナの魂を除いて。
──ああ、ああそうか。1500年もの間、お前はずっとこんなところにいたのだな。
アンナの意思とは別に、涙が流れ、体が動き、心が慟哭した。彼女は剣にしなだれかかり、理由も分からぬまま言葉を紡ぐ。まるで、知らない誰かが糸を引いて彼女の体を操っているかのようだ。
──見てきたよ。お前の言う通り、ブリテンは世界で最も繁栄した国の一つになっていた。飢えに困らず、明日の侵略に怯えることもなく、いたずらに尊厳を奪われることもない。
それは、1500年前と比べるならまさに理想郷のような世界だろう。
──でも。
「『満たされない』」
アンナの声と、何者かの声が重なった。
「『お前のいない世界は寂しいよ、
たとえ理想郷なのだとしても、共に歩む人がいなければ、そこは地獄に違いない。だから、二人はただ願うのだ。
「『弟に会いたい』」
聖杯とは、全ての願いを叶える願望機である。
・アルトゥールスとアンナ
ブリタニア列王史に登場する双子の兄妹、あるいは姉弟。
Fin.
◇
ここまで読んでくれてありがとうございました。頭のなかにあったものを形にできて満足です。最後に感想評価もらえると励みになります。