聖杯戦争、二日目の朝。沙条邸にてアーサー、愛歌、綾香の三人が食卓を囲んでいた。アーサーはサーヴァントであり本来食事は必要ないのだが、愛歌の希望により彼の分のプレートも用意されている。
「もぐもぐ。今日はスクランブルエッグなんだね、お姉ちゃん」
いつもは目玉焼きなのに、と綾香は思った。
「ええ、ダメかしら……?」
「そんなことないよ? 私、スクランブルエッグも好きだし。もぐもぐ」
そのまま綺麗にプレートに乗せられたベーコンエッグを平らげたあと、綾香が“ごちそうさま”と言って台所に食器を片付けに行く。
「……」
そんな妹の様子を見て、愛歌は苦しそうに俯いた。
「愛歌?」
「不味いわ。ところどころ焦げていて、油でギトギトで、なんなら殻だって入ってる。あはは。ねぇ、セイバー。人って惨め……っ……なのね……っ」
自分で作った朝食を口にしながら、彼女は涙を流す。かつての彼女には料理なんて片手間でできた。だが、今の彼女にはこんな簡単なことすらこなせやしない。『
「大丈夫、大丈夫だ。君ならすぐにまた美味しい食事を作れるようになる。だから泣かないでくれ」
「せいばぁ……っ!」
アーサーは愛歌が落ち着くまで彼女を抱きしめ、宥め続けた。グズる赤子をあやすように。そして愛歌はそれを受け入れる。空っぽになった中身を満たす代わりに、彼女はアーサーを求めるのである。
小一時間ほどそうしたあとに、アーサーと愛歌は聖杯戦争の話をするためにテーブルを挟んで座った。
「……えへへ、これがセイバーとの繋がりなのね。温かくて、愛おしい。前のときは気づかなかったわ」
愛歌はそう言って自らの胸に刻まれた熾天使の翼、七枚羽の令呪に触れた。彼女の精神を落ち着かせるために、アーサーが再契約を許したのだ。
「少し出遅れてしまったけれど、まだまだ聖杯戦争はこれからよね、セイバー。それでどうしましょうか、やっぱりまずは敵を探すの?」
「いいや? 聖杯戦争は人目の少ない夜に行うものだ。昼間は自由に過ごそう。さぁ愛歌、君は何をしたい?」
「何を……?」
愛歌は自分のしたいこと、自分の願いを考える。かつてはセイバーの願いの成就が彼女の願いだった。だが今は。
「分からないわ」
「そうか、ならば仕方ない。では先ほど綾香に作ってもらった『やりたいこと100個メモ』を使わせてもらおう」
そう言うとアーサーが懐から取り出したそれは一つの手帳であった。そしてそれをパラパラとめくる。
「では“ストップ”と言ってくれ」
“え? ルーレット?”と愛歌は若干混乱しながらも、アーサーに言った。
「じゃあ、ストップ!」
「なになに、『みんなでテーマパークに行く』か。よし!」
かくして沙条姉妹とアーサーはJR京葉線に乗り、三年前に開業したばかりの舞浜駅へと降り立った。
「なるほど、ここが現代の
「あのねセイバーさん、パレードが見えなくて……わわっ!」
「あ、ずるいわ綾香。セイバー、私も肩車して?」
「分かったよ、マイマスター。だが私の肩の定員は一人なんだ。だからほら」
「ちょ、ちょっと! お姫様抱っこなんて……恥ずかしいわ……」
美しい姉妹と異国の青年の組み合わせ。ともすればパレード以上に周囲からの視線を集めながらも、三人は余興を満喫した。
「楽しかった!」
「それは良かった。ああ綾香、学友に土産を買うならなるべく同質で、かつ数が多いものにすると良い。むろん特別な相手であればその限りではないが」
土産屋にて物色する綾香をアーサーがたしなめる。“待遇に差をつけると不満がたまる、かといって一律だと皆のやる気がでない。人の上に立つというのは中々難しいものだよ”と言いながら。別に綾香は王でも君主でもないのに。
「うん、じゃあこれが学校の友達の分、これがお父さんの分、これがお姉ちゃんの分で、これがセイバーさんの分ね?」
「私のために? ありがとう、君は優しい子だ。なら私も君に何か買っておこう。……実用性を考えるならやはり食器類だろうか?」
「でもお菓子の方がおいしいよ?」
あれでもないこれでもないと相談している綾香とアーサーの姿を見て愛歌は嫉妬する。心のうちに暗い感情が宿り、妹に対する殺意が芽生え──。
「愛歌、君はどちらが良い?」
「お姉ちゃんはお菓子が良いよね?」
二人の視線が愛歌へと向いた。片方は愛しい人で、片方はただ妹という名前をした関係なだけの他人。かつての愛歌にとって興味があったのはアーサーだけで、後者はどうでも良かった。
「愛歌?」
「──いいえ、なんでもないわ、セイバー。そうね、両方……なんてどうかしら?」
“でも今日は
また、彼女の心は一つ満たされた。
◇
「でも、セイバーはこんなに遠くに来てしまって大丈夫なの?」
「この聖杯戦争は東京を舞台にしているんだ。ここも東京の内なのだから、大聖杯、もとい聖杯戦争の術式の効果範囲のはずさ」
「いえ、ここ千葉なのだけれど」
「……いや『東京』と名前の最初に付いているじゃないか!? 聖杯の知識に不備があったのか!?」
「千葉だけど、『東京』なの」
「つまり真名隠しか! 何らかの魔術的隠蔽の可能性が……? あるいは『東京』という概念を付与するために……?」
愛歌は思う。セイバーって意外と天然……?
◇
「バーサーカー!」
「■■■■──ッ!」
深夜、月明かりの下、玲瓏館家の裏庭には侵入者が訪れていた。西洋の人間からすれば若く見える日本人においても一層若い、まだまだ子どもと言える年齢の青年、否、少年だった。
「君は早く逃げろ! アレは人間じゃないんだ、さぁ早く!」
彼は一人の少女を自らの背後に庇うようにして言った。褐色肌の、紫色の髪をした白いワンピースを着た少女に。
少年の名は
「きっと俺ならできるはずだ。……よしっ、
「……っ、魔眼の使い手だったか。素人と見て捨て置いたが、目障りだな──ッ!」
巽の右目が赤く輝き、魔女の体を一時的に拘束する。それは最近判明した静止の魔眼……と、彼のサーヴァントであるバーサーカーが呼んだ巽の持つ異能だった。見た相手の動きを停止させる、文字通りの魔眼である。長ずれば、かの神話に語られる
そんな物を持っていると知られれば、彼の命が魔術協会や聖堂教会に狙われることは間違いない。だと言うのに、彼はその異能を惜しげも無く解放する。
それは目の前の悪を倒し、後ろにいる少女を救い、最終的にはこの戦争を終わらせるため。
巽は普通の、そして善良な少年である。死を覚悟しているわけではない、しかしそれでも彼がこの聖杯戦争のマスターとして参加しているのは、自分の暮らすこの街で戦争なんて許せないという単なる義憤からに過ぎない。それは日本という平和な国で生まれ育った、戦争を知らぬ人間が持つある種の傲慢とも言えるだろうか。
だから、彼は証明しなければならない。
「やれ、バーサーカー!」
自分は正義を押し通すほどの力があるのだと。
「■■■■──ッ!!」
「──がは……っ」
バーサーカーのその変質した獣のような腕が魔女の肉体を貫き、彼女は事切れた。その身体がエーテルの霧となって消えて行く。
「やった、のか……?」
巽はその様子を呆然と見送った。死体の残らなかった戦いの跡を見て、“本当に人間じゃないんだな”と呟きながら。
「──ごほっ……ごほっ……」
「無事か、バーサーカー! でも凄いなお前。あんな凄い
「魔法……ではなく魔術だよ、巽。それに僕だけの力ではきっと負けていた。すごいのはつい先日まで一般人だったのに、その魔眼で僕を助けてくれた君の方だ。だからありがとう、巽は最高のマスターだね」
「な、なんだよ。おだてたって何も出ないからな?」
変身を解くバーサーカー、真名『
「っと、そうだ。君、大丈夫だったか? 夜中にこんなところ……庭、というか森の中に入るなんて危ないだろう」
巽は後ろにいた少女を安心させるべく、振り返って笑顔を浮かべた。巽が危険を冒してこの玲瓏館邸に突入してきたのは、この娘が森の中に入っていくのが見えたからだ。
玲瓏館、東京魔術世界の裏の支配者。そうであるならば、聖杯戦争を引き起こそうとした黒幕と目される存在。
巽はそんな彼らに直接会ってその真意を確かめたいとも思っていたのだが、少女を連れ去ろうとする魔女の姿を見て彼はその考えを改めた。玲瓏館という魔術師は危険な存在に違いない、と。
「とにかく、ここは危険だから警察のところにでも逃げてくれ。……さて、これから玲瓏館の屋敷に行ってことの次第を問いたださないとだな。うーん、なぁバーサーカー、名字が玲瓏館なら屋敷の名前も玲瓏館だったりするのか?」
「え? いや、違うと思うよ……?」
「でも京都の貴族とか戦国武将の人って住んでる場所で名字を決めてたんだろ? ほら、毛利元就の毛利は毛利荘から付いてる……みたいな」
巽は実家のある広島の偉人を例に挙げた。
「巽、僕に日本の故事は分からないんだが」
「あ、ごめん」
至極どうでも良いことを質問してくる巽にバーサーカーは苦笑いしながら答える。
「あの」
そのとき、後ろから声が上がった。花のように可憐な乙女の声である。
「ん、まだ何かあるのか?」
「……どうして、私を助けたのですか?」
紫髪の少女が巽に問う。それに彼はこう答えた。
「もともと、この森は危ないやつかもしれない人間の土地だから見張ってたんだよ。そしたら君が森のなかに入っていくのが見えたから」
「それだけ?」
「“それだけ”って……危ないところに入ろうとする人が見えたら、助けようとするのは当然じゃないのか? ……いやまぁ、本当に助けられると確信して来たわけじゃないんだけどな。負けるかもしれなかったけど、でもなんか、見過ごせないと思って」
“いやー、死ぬかと思った”と事もなげに笑う巽と、“君はもっと自分の命を大事にして欲しい。今回はたまたま助かったけど、次は分からないんだ”と責めるバーサーカー。
そんな二人の様子を見て、紫髪の少女は微かに笑った。
「優しいのですね、あなたは」
「そうかな、普通だと思うけれど」
「けど、ごめんなさい。そんな優しいあなたに私は──」
そう言うと、少女の顔がぐっと近づき。
「ちょ……っ……んむ……っ!?」
彼の唇に、口付けをした。
「──ッ!?」
「ん……抵抗……ちゅ……しないで……?」
そのまま褐色の少女に口腔を陵辱される巽。チェリーな彼はただキスのテクニックだけで腰砕けになり、その場に腰をついてしまう。そんな巽に追い打ちをかけるように、少女は馬乗りになってさらに深く舌を絡ませた。
「わわ、情熱的な娘さんだ。僕は向こうの木陰で休んでるとしよう。巽、終わったら声をかけて──」
少年少女の逢瀬を生暖かい目で見守っていたバーサーカーは、いつまでも見ていては失礼だとばかりにその場を去ろうとした。そして気づく。
「体が、動かな……い……?」
「ええ、そうでしょう。なにせお前は今縛られているのですから。存在そのものをこの土地によって」
バーサーカーの背後から、死んだはずの魔女の声が聞こえる。
「巽──ッ!」
体の中を毒で溶かし、その身を痙攣させ、穴という穴から血を流す來野巽が薄れていく意識の中で最後に聞いたのはそんな声で。
そして最後に見たのは口から糸を引かせて身を起こす、変身した褐色の少女の姿だった。
「な……んで……?」
“ごめんなさい”と、もはや聞こえていない少年の耳に向けてその艶めかしい唇が震える。
第七位のサーヴァント、アサシン。真名『静謐のハサン』。その身から溢れる毒で数多の男を殺し、またそれゆえに愛を得られなかった悲しき娘である。
知るが良い、その無垢なる善を抱えた少年よ。
これが、聖杯
◇
彼方で騙し討ちのような戦いが繰り広げられた一方、こちらでは──。
「は……っ!」
「……甘いっ! 風よ、吹き
──こちらでは、さながら古代ローマにおけるコロッセウムの一騎打ちのような戦いが繰り広げられていた。
魔銀の槍を蒼銀の騎士が鞘をつけたままの剣で弾き飛ばし、その身から解放した嵐で美しい女戦士を吹き飛ばす。
「さすが、第一位と呼ばれるだけはありますね。セイバー」
「そのサーヴァント階位という制度、私はあまり好きではないんだ。なにせ、現に私と君が打ち合えてしまえるのだからね。そうだろう──ランサーッ!」
両手に構えた剣と槍が鍔迫り合う。
第四位のサーヴァント、ランサー。それが夜の街を歩くアーサーに突如として攻撃を仕掛けてきた下手人の正体である。
「ああ、アーチャーも素敵な人でしたが。ですがあなたはもっと……ふふふ……」
『敵はアーチャーとも交戦経験があるのか。愛歌、情報が得られるかもしれない。相手の一言一句聞き逃さないように』
今朝繋がったばかりのパスを通じて、自分のマスターたる愛歌に念話を飛ばすアーサー。無論、彼にとって情報というのはいつでも都合の良いときに識ることができるものでしかない。
だが絶対はない。愛歌と『 』との繋がりがアーサーによって断たれたように、アーサーが『 』との繋がりを失くす可能性もある。そうであるが故に、マスターには己の頭脳としての役割をこなして欲しいとアーサーは考える。のだが。
『ああ、セイバー。なんてカッコ良い……素敵……剣を振るうたびに揺れる髪が、弾ける汗の全てが愛おしいわ……』
『あの、愛歌。分かったからわざわざ念話で伝えてくるのはやめてくれないかい? ぶっちゃけその、気が散るんだか』
「注意散漫ですね、セイバー! 隙だらけです!」
「くっ……頼むマスター。やっぱり情報収集は良いから、せめて静かにしてくれないかな!?」
『好き……すーき……だいすき……いっぱいしゅき……』
何度も言う通り、今の愛歌は生まれたばかりの赤子のようなものなのだ。自分の心に素直に従ってしまい、それを制御する術をまだ持たない。
お分かりだろう、赤ちゃんには戦闘なんて難しいことはこなせないのだ。
「ええい、風よ! 舞い上がれ! それと音も掻き消してくれ!」
“これでは勝てる戦いも勝てないぞ!?”と、アーサーは憤慨する。まさかこんなデバフがかかるとは彼の異能を持ってしても見抜けなかった。
「私、もしかして舐められているのでしょうか。剣も抜かず、片手間に相手されるなど……愛おしさよりも困惑と苛立ちを覚えてしまいます」
彼女の槍が、少し鈍った。彼女の槍は愛おしいと思った相手に対して威力を増す魔槍。つまり、偶然の副産物である。
「騎士として、誇り高き戦士である貴公に謝罪しよう。戦場で相対する君への礼に欠けていた、すまない」
「私のことを、誇り高き戦士と、そう呼んでくれるのですね……?」
魔銀の槍が重みを増した。せっかくの副産物が台無しである。
重い、中天におけるガウェイン卿に匹敵するだろうか。これで打ち止めなら良いが、まさかまだ先があるのか? と、アーサーは思考する。
「苦しそう、鞘をつけたままでは思うように剣を振るえないでしょうに。それでも剣は抜かない、と?」
「生憎だが、この剣を抜くのは私の命が終わるときだッ!」
それは命の危機に瀕したときだけに剣を抜く、という意味か。あるいは、剣を抜いた時点で死ぬ魔剣の類か、とアーサーの言葉を聞いてランサーは予測した。
「風よ! 穿て!」
「──炎よ!」
アーサーの放った風の弾丸が、ランサーの生み出した炎の壁に飲まれて消えた。
「その魔力、ルーン魔術に連なる術だな。それも相当に古い。なるほど、名のある北欧の英雄と見た! となると貴公は大英雄シグルドの妻。戦乙女ブリュンヒルデか!」
「賢い人は好きよ……!」
ランサー、真名『ブリュンヒルデ』。北欧の大神オーディンの娘にして
それは奇しくもアーサーと比較的近い時代の人物であり、生前の彼も知る女戦士であった。
北欧の叙事詩『ヴォルスング・サガ』と中欧の叙事詩『ニーベルングの歌』はその祖を同じくし、そこには西欧世界を恐怖させた大厄災、ゲルマン人の追い立て西ローマ帝国が滅ぶ遠因を作ったフン族の覇王、文明の終末装置、アッティラ大王が登場する。
つまりアーサーが生きたブリテン島、そこに来た侵略者サクソン人たちの親か、そのまた親の世代にブリュンヒルデがいるのだ。国的にも時代的にも隣り合わせであり、当然アーサーは彼女のことを知っている。異民族の語る物語の登場人物、かつていた英雄として。故に、彼はその正体に感づいたのだ。『 』から知識を得ずとも。
そんなブリュンヒルデは、伝説においては勘違いの末に愛しい夫シグルドを殺してしまった悲劇のヒロインである。
故に、彼女の槍は愛する者にこそ重く、鋭く振るわれる。
ランサーの魔槍がまた重みを増した。そして幾度の撃ち合いの後、一歩アーサーが踏み込む。その一撃は防がれることなく、鈍い音とともにランサーの薄い装甲、その腹当てに食い込んだ。
「ぐぅっ……なにが? 私が、間合いを見誤った……?」
「蜃気楼──温度や湿度が異なる空気の層が光の屈折を生み、虚像を生み出す。それは魔術的な幻影にあらず、故に感知されにくい」
アーサーが両手に剣を構える。鞘のついたその剣は次の瞬間、伸び、縮み、そして消えた。風の魔術による、物理的な幻の生成である。
「搦手は嫌いかな、レディ」
「いいえ、持ち得るすべてを用いて戦う戦士は強い、強い人は好きです。賢い人も好き、優しい人も好き。だから私、困ってしまいます……ふふ……」
ランサーが妖しく笑い、その懐から一本の小瓶を取り出した。それは霊薬の類いだろうか、ほのかに光を放っている。彼女がその瓶の栓を抜き、中身を口にしようとしたところで。
「……えっ」
“パリン!”と、音を立てて瓶が割れた。それと同時に中身が飛び散り、風に乗って霊薬が蒸発していく。
「……」
「……」
アーサーとランサーの間に、微妙な空気が流れた。なんとなく気まずいと、持っていた百円玉を風に乗せて投擲し、霊薬の入った小瓶を壊した張本人であるアーサーは思う。
「いや、目の前で敵が霊薬の類を飲もうとしているのに止めない者はいないだろう……っ!」
「それもそうですね、迂闊でした……っ!」
そして続きとばかりに再び剣と槍の応酬が始まった。しかし、先ほどと異なりランサーの動きは鈍い。それはそうだろう、彼女の体は今
彼女のマスターはこの聖杯戦争において、令呪でもってランサーに命令した。全てのサーヴァントと最低一度は戦い、最も強いとランサーが感じた相手の前であの霊薬──愛の霊薬を飲み干せと。
愛の霊薬、それは人の心を操る禁忌の薬。飲んだときに目にした相手を自動的に愛する人と認識してしまうその薬は、まさにブリュンヒルデたるランサーの特性を考えた最大効果の一手になる。はずであったのだが。
「くっ……」
「どうした、槍が精細を欠いているぞ! 今度はそちらが手を抜く番か!」
「なぜです、力が上手く入らない……!」
残念ながら、霊薬が物理的に破壊され摂取不可能になったことでそれは失敗に終わった。だが、令呪はそのまま霊薬を飲むことができなかったランサーを縛り付ける。
「炎よ!」
「甘い、風よ穿てッ! 我が前に道を──!」
劣勢に際し、撤退するため炎の壁による目眩ましを試みたランサー。だが、いかに古き神秘の行使と言えど弱体化したそれではアーサーの風の魔術を、竜の化身の羽ばたきをとめることはできない。
彼の放った風の弾丸が炎の壁を破り、ランサーに至る道筋を作る。
「しまっ……!」
「取った──!」
アーサーはそこに身を飛び込ませ、ランサーの頭に向けて剣を振るった。だが、それは宙を裂くに終わる。
あとに残ったのはところどころ砕け、焼けたアスファルトの地面とそこに立つ蒼銀の騎士だけであった。
◇
「……申し訳ありません、マスター」
「いや、先ほどの戦闘の結果は迂闊な命令に令呪を使った私の責任だろう。ランサー、お前に責はない」
令呪で彼女を呼び戻したマスター、階梯第二位、智天使の称号を持つナイジェル・セイワードはそう言った。
『心理の支配者』の異名を持つ彼は優れた霊薬作成の技術を持った、『 』を求める典型的な魔術師である。
「お前がセイバーの前で霊薬を飲もうとした判断は間違っていない。この聖杯戦争、最も難敵となるのはあのサーヴァントだろう。故に、再度霊薬を持たせる。今度は破壊されてくれるな」
「はい……」
そう言って彼は再度、愛の霊薬をランサーに手渡した。彼の判断もまた間違っていない。愛の霊薬を使ったランサーならば、サーヴァントとなりその力を大きく制限されているアーサーを破ることも可能であろう。
もっとも。
「それを使う機会は、もう来ないと思うが 」
「誰だ! な、貴様は……!」
「セイバー、なぜあなたがここに……!?」
不意に窓から声がして、ナイジェルとランサーの二人が驚愕とともに振り返る。そこには風に
「どんな魔術の行使も、そこにはマナの残滓という情報が残る。令呪による転移も例外ではない。私はそれを追ってきただけさ」
「馬鹿な、あり得ない。よしんばそのようなことが可能だとしても、それが許されるのは最高峰の魔術師だけだ。貴様はキャスターではない、セイバーのサーヴァントだろう!?」
「マスター、下がってください、今の私ではあなたを守ることは……!」
槍を構えるランサー。“難しい”と彼女が言おうとしたそのとき、アーサーがそれを遮った。
「そう気を立てないでくれ。もう戦う気はない。私は取引に来たんだ、ミスター・セイワード」
「取り引き……だと?」
「あぁ、貴公が
ナイジェルは“もったいぶらずに言ってみろ”と言わんばかりに、顎でアーサーの発言を促した。
「では、言わせていただこう。君に『 』へと至る路を提供する。代わりにランサー、彼女の身を引き受けたい」
アーサーは手を広げた。その体と同化した天の鞘が開帳され、神秘の奔流が荒れ狂い、仄かな青い輝きが部屋を照らす。
「望むならば我が身に触れるが良い、魔術師よ。なに、戸惑うことはない。それが貴公ら魔術師の本懐、と言うやつなのだから」
知恵の実を食らえと、楽園で
かくして聖杯戦争二日目の夜、その参加者たるマスター二人目の脱落者、否、魔術師として二人目の勝者が決定したのである。
◇
「やだやだやだ! 私を捨てないでセイバー! そんな槍ですぐ刺してくるようなヤンデレなんかより、わ、私のほうが良いでしょう?」
「あのね愛歌、私が彼女を欲したのは戦力としてであってね?」
「ランサーさんは、ココア飲む?」
「えと、はい。いただいてもよろしいでしょうか、綾香」
「分かった、少しだけ待っててね!」
「子どもは良いですね。愛おしい。……しかしヤンデレですか、現代では私の
「やーだー!!! うぅ、ぅあ──!!! 」
「な、泣かないでくれ愛歌。ほーら、よしよし。私は君のそばにいるとも」
その夜、沙条邸は