夜、二人の男女が森の中を歩いていた。警戒するような面持ちで周囲を見渡しては、魔女が住まうような御伽の森を慎重に進んでいく。
不意に、男の方が獲物を振るって地面を突き刺した。身の丈を超える長さの深紅の槍、現代社会にはそぐわない物騒な武器によって落ち葉の下に隠れていた術式が、繊細なガラス細工かのようにパリンと音を立てて砕け散る。
「足元に気を付けろバゼット、下手すれば脚が胴体からおさらばするぜ」
そう言って男──遥かな過去より現代に蘇ったケルトの英雄にしてランサーのサーヴァント、クー・フーリンは己のマスターに忠告した。
「感謝します、ランサー」
それに対し小豆色をした暗い赤褐色の短髪で、全身スーツ姿の男装をした女は短く礼の言葉を紡いだ。
彼女は魔術協会が派遣した封印指定執行者であり、聖杯戦争のマスターの一人でもある人物。バゼット・フラガ・マクレミッツである。
二人がこんな真夜中に森を進んでいる理由はまさに夜襲だ。今宵、聖杯戦争の御三家の一つ、アインツベルンが郊外に持つ拠点に向けて真正面から襲撃を仕掛けるのだ。
魔術師が抱える工房へ自ら侵入するという行為は、ある種自殺行為である。それはさながら堅固な城を攻めるのと似ている。人の身では決して石垣で築かれた壁を破れないように、たとえ英霊だろうと魔術師の工房はそう簡単に破れるものではないのだ。
だが、何事にも例外はある。例えば今この場にいるランサーは、
そして彼のマスターであるバゼットもまた、普通の魔術師にはない例外を所有していた。
つまり、ここには戦力で言えば実質的に二騎のサーヴァントがいるも同然なのだ。数で優位を得られているのならば、下手に策を弄さず正面から守りを突破するというのも、また立派な作戦の一つである。
パリン、パリンと、またランサーが森の中に仕掛けられた幾つもの地雷を破壊していく。対魔力を持つ彼からすれば、それを踏んだところで痛くも痒くもない嫌がらせ程度の障害であるが、しかし今を生きる人間たるマスターはそうも言っていられないので、彼は仕方なくチクチクと地面を刺しながらバゼットを先導するのだった。
「おい、バゼット。下ばっか見てねぇで上も確認しとけ」
「……!」
バゼットの先を進んでいたランサーが足を止め、己のマスターを突き飛ばした。
突然のことで尻もちをつく男装の麗人、そんな彼女の視線の先で、ランサーが先ほどまで地面を突き刺していた槍を大きく振るい──迫りくる丸太を両断した。
所々に金属の棘が生えたその古典的な罠はランサーによって二つに分かたれ、後ろにいたバゼットの右と左にそれぞれ転がって行き、耳を劈くような轟音と共に爆発した。
魔力による装置ではなく、原始的な装置と近代的な兵器を利用した純粋な物理攻撃の罠。そうであるが故に魔術師の感覚に察知されにくい。
バゼットは頭の中で、そんな性格の悪い手法を好き好んで使っていた
「おいおい、まる二日も籠もってたせいで勘が鈍ってるんじゃねぇのか? そんなんで大丈夫かよお前」
真っ赤な穂先で軌跡を描きながら、突き出した槍をくるりと回すと、ランサーが呆れたように口を尖らせる。
「すみません、少しばかり考え事を」
「ったく、しっかりしてくれよ。戦場ではよそ見したやつから死んでいくんだからな」
二日、とは嵐が過ぎ去るまでに二人がこの聖杯戦争につき協会から与えられた拠点──双子館のうちの片方へと潜伏していた期間を表している。
あれほどの嵐、それも魔術的に生み出された暴風の中にあっては、彼女が持つ現存する宝具にして切り札の狙いがブレる。その懸念があったため、二人はただじっと嵐が過ぎ去るのを待っていたのだ。
もっとも、ランサーとバゼットのどちらも我慢が得意な方とは言い難いため、たとえもう一日嵐が続いていたとしてもそのときは無理やり外へ出ていただろうが。それを考えれば、この日に嵐が解かれたことは二人にとって幸運であった。
ランサーの研ぎ澄まされた槍術によって綺麗に一点で穿たれ、形を崩すこともなく穴が空けられた枯れ葉を踏みつけながら、バゼットはこの先にあるだろう、極東の地に全く馴染んでいない西洋風の城を目指す。
彼女のこの聖杯戦争における役割は魔術協会から与えられた任務を達成すること。
すなわち聖杯戦争での勝利、聖杯の獲得、そしてとあるマスターの身柄の確保。その三点である。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。アインツベルンが生み出した、分断された魂による擬似的な不老不死という成功例。そんな彼女は、この世で最も優れた魔術師を素体として生み出されたらしい。魔術協会はそんな涎が出るほど貴重な素材の回収をバゼットに命じたのだった。
(少女を攫う……ですか。気の進まない仕事ですが、仕事は仕事。私は与えられた役割を全うするまで)
たとえどれだけ貢献したところで、その活躍が魔術協会に認められないのだとしても。彼女がその努力を止めることはない。
己が持つ力を使って、活きる場所が欲しい。幼い頃に憧れた英雄のような、確固たる自分が欲しい。そんな思いで彼女は実家の反対を押し切り、魔術協会の門を叩いたのだから。今さら損切りして引き返すなど、バゼットにはできるはずもない。
時計塔の魔術師は、家系が古いほどに権威と権力を持つ。だが、それは時計塔内部の家系の話であり、外部の家系にはその理屈は通用しない。バゼットの生家は古い魔術の家系であったが、それはすでに席が埋まっていた時計塔の魔術師たちからすれば目障りな要素であったのだろう。表向きは歓迎されつつも、彼女は腫れ物扱いされ、いくつかの部署をたらい回しにされた。そうしてたどり着いたのが封印指定執行者という職であり、聖杯戦争という舞台だった。
どちらも誰もやりたがらない、貧乏くじである。
もともと、聖杯戦争は所詮極東の魔術儀式と低く見られていた。そしてそれが野蛮な儀式として価値なしと判断されるに至ったのは、十年前の聖杯戦争が原因である。そこに参加した時計塔の
ロード・エルメロイ。既にⅡ世が存在することから、差別化するためにⅠ世と呼称されることもある人物。
彼は第四次聖杯戦争に参加し、そして敗北し、
彼は己の許婚を失い、魔術刻印や魔術回路も奪われ、正気すらも失ってしまっていた。その最期は精神病棟内で発狂からの自殺という、何とも酷い有様だったと噂されている。
どうせなら戦争で死んでくれていた方が、家の格を落とさずに済んだのにと、かのエルメロイの姫は嘆いたそうな。
ともかく、
そしてそんな魔境に放り込まれたのが、バゼット・フラガ・マクレミッツという女である。
女児を攫ってこいなどという名誉もへったくれもない命令に加えて、
クー・フーリン。偉大なるケルトの英雄。
幼い頃のバゼットも、彼の伝説にだけは夢中になることができた。
そんな彼にかつて肩を並べて戦った女戦士に似ていると褒めてもらっただけでも、この戦争に参加した価値はあるだろう。そう思って、バゼットは外面と比較するとあまりにも弱すぎる己の内面を鼓舞した。
木々のトンネルを抜け、やがて城が見えて来る。木の葉の天井に覆い隠されていた夜空が晴れて、そこには美しい月が浮かんでいるのが見えた。
「こんばんは、招いてなんてないけど、来たからには歓迎するわ。それじゃあ……やっちゃえ、セイバー」
月の魔力があたりに満ちている、今宵の戦いは激しいものになるだろう。
「ランサー、敵のサーヴァントを頼みます。私はマスターを」
「ゆっくりで良いぜ、マスター。最優のサーヴァントだ、せいぜい楽しませてもらおうじゃねぇか」
そんな予感をひしひしと感じながら、彼女はルーンの刻まれたグローブをきつく締めつけ、月光を吸って美しく輝く銀髪を持ったアインツベルンの少女へと襲いかかるのだった。
◇
【1994】
◇
夜、眩い月明かりに照らされて、二人の騎士が相対していた。
「今宵、ここで決着をつけさせてもらおう! セイバー!」
「それはこちらの台詞だ、ランサー!」
ランサー、ディルムッドが振るう二本一対の槍が、セイバーの振るう不可視の剣と鍔迫り合う。
「っ、はぁ──ッ!」
だが、その膠着は長くは続かなかった。セイバーが雄叫びを上げ、魔力を込めて腕を押し出す。可憐な見た目とは裏腹に、彼女の本質は竜、地上においておよそ最高の神秘を持つ幻想種であるのだ。
「押し切ってみせるか……!」
そんな巨人の如き膂力でもって、セイバーはランサーを打ち払った。たまらず後ろへ大きく跳んだ美丈夫を、逃さんとばかりに竜の追撃が襲う。
「……っ!」
間一髪で致命傷は避けられた。もう少し反応が遅れていれば、彼はその胸をセイバーによって袈裟斬りにされていただろう。剣先が胸に触れた結果できた、ドクドクと血を流す傷がそれを如実に示していた。
「左手に我が『
あの港での戦闘から数日が経過した。その間、セイバーとランサーは幾度かの戦闘を繰り返し、敵でありながらも奇妙な相互理解を深めていた。
剣と槍は、言葉以上に互いの胸に抱えるものを強く伝えてくる。今宵、ランサーにはそんなセイバーの剣が、以前とは異なるように見えたのだ。
迷いがなく、重しがなく、どこか枷から解き放たれたように、風を帯びた斬撃が舞う。
「ほう、あなたにはそう見えるのかランサー。ならば私はこう返そう」
セイバーはそう不敵に笑い、剣を高く天上へと掲げた。纏っていた風の鞘が解かれ、暴風と共に黄金の光が嵐となって周囲へと吹き荒ぶ。
「今宵の私は、
人々の理想を束ねた神造兵器、あの時代を生きた誰もが夢見た、希望の剣。神代の終わりに君臨した王はそれを高々と掲げる。
『令呪をもって命ずるわセイバー! あなたの輝きを、私に見せて頂戴!』
脳裏に響く
令呪による、一時的な治癒。それは恒久的な完治はもたらさないが、しかし一瞬もあれば、彼女はその手に宿した真の力を取り戻す。
「『
月光を背景に、その聖剣は光を増していく。人を滅ぼさんとする大悪。星を滅ぼさんとする大敵。本来そんな理外の存在を相手にすることを想定された、この星に生きる生命たちの最終兵器。
その輝きを前にして、ランサーは思考を巡らせる。
防御──不可能。あれほどの熱量だ、触れてしまえば英霊たる我が身とて一瞬のうちに塵となって消滅するだろう。
回避──不可能。セイバーの目を見れば、彼女がここら一帯全てを焼き払うほどの覚悟があることは明白だった。
己の持ちうる力だけでは、アレに対抗し得ない。故にランサーは。
「主よ、どうか令呪による退避を!」
外部からの変数、己のマスター、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトへと助力を願った。だが、しかし。
『──黙れ、ランサー。今まさに私はセイバーのマスターを追い詰めているのだ! もう数分、いやもう数十秒でも構わん! セイバーを倒せずとも、その足止めくらいはしてみせろ!』
「な──っ」
彼はランサーに、退避ではなく玉砕を命じたのだった。
その判断は必ずしも間違いとは言えない。ケイネスの言うとおり彼は今、アインツベルンの城の中でセイバーのマスターであるアイリスフィールを追い詰めているのだ。
アイリスフィールはホムンクルスとしておよそ最高傑作と呼べる出来を誇るが、それでも純粋な戦闘能力で言えば時計塔の
「──
もっとも、数十秒も耐えられたらの話であるが。
「無念……!」
ランサーはそんな諦観の籠もった言葉を残しながら、その光を受け入れた。
この敗北の原因があったとすれば、ひとえにそれはランサーとケイネスの間に信頼関係を築けなかったことにあるだろう。
ケイネスは典型的な魔術師であり、ランサーの『今度こそ忠義を貫きたい』という騎士道精神溢れた願いを理解できなかった。幾度となくセイバーと矛を交えていながら、これを討伐することもできず、むざむざとセイバーを逃しておきながら“次こそは”などと宣うサーヴァントのことを信用できなかった。それに加えて、妖精から授けられた魅了の黒子の力で、ケイネスの許嫁たるソラウの心を弄んだことも気に食わなかった。
だからこそ、彼はこう判断したのだ。サーヴァントが信用できない以上は、己の手で敵のマスターを直接下す他ないと。
だというのに、『令呪による撤退』などいちいち命ずるはずもなし。彼はランサーの言葉を無視し、己の力で勝利することを選んだ。
これがまだ、互いが見える範囲にいたならば話は変わっていただろう。城の中にいるケイネスには、セイバーが放つ聖剣の光が見えていない。『現実』という確かな証拠が見えていないからこそ、彼がランサーの言葉に耳を傾けるには不確かで不定形な『信頼』が必要だった。
けれどやはり、ケイネスとランサーの間にはそれがなかったのだ。
「……見事だ、セイバー」
体の半分以上を吹き飛ばされながらも、ただ意地でもって男はそこに立っていた。“かふっ……”と血を吐きながらも不敵に笑うランサーの姿に、セイバーは驚きで目を丸くする。
「よもや、我が聖剣を正面から受けておきながら人の形を保っていられるとは」
「……英霊とは、魔力でもって現界するもの。中身は虚ろであっても、意地を張れば、こうして外見だけは保ってみせようさ」
「なるほど、ならば見事な意地だ。これが英霊でなく生前のあなただったならば、きっと意地だけで再び立ち上がったことだろう」
もはや光の粒子となって消え行くだけの彼を、せめて己が剣で介錯してやろうとセイバーは剣を掲げる。
「何か言い残すことはありますか、ランサー」
「……どうか、我が主の命は見逃して欲しい。彼には、添い遂げるべき人がいる。故にセイバーよ、その未来を、その芽を摘むことはよしてくれ」
「それは……」
「お前も英霊ならば、分かってくれるはずだ。今を生きる人々には未来を生きて欲しい。それが、過去を生きた我々全ての願いなのだから」
「……承知した、生かすか殺すか、それは私のマスターが判断することだが、私からも口添えをしておこう」
「感謝する、セイバー。お前の剣に敗れたことを、我が二度目の生の誉れとしよう」
そう言い残し、ランサーはセイバーの剣に命を絶たれて消滅した。最後に己のためでなく、不信があろうと主のための願いを残して死んだのだ。今度こそ忠義を果たす、その願いのために。
「──無事ですか、アイリスフィール!」
「来てくれたのね、セイバー!」
ランサーの死を見届けたセイバーは、城の壁をぶち破りながら主の危機へと馳せ参じた。あわや水銀の槍でその喉を貫かれそうになっていた冬の乙女は、自らが信頼する蒼銀の騎士の登場に瞳を輝かせる。
「ランサーがやられたのか……? チッ、所詮は使い魔風情か、足止めすらままならないとは!」
そしてあと一歩のところまでアイリスフィールを追い詰めていた男──ケイネスは憤慨したように、自分が課した命を守れなかった、今はもういないランサーのことをなじった。
「ギリギリでしたね、マスター。遅参してしまい申し訳ありません」
「大丈夫よ。ちゃんと間に合うって、信じてたわ」
そうして差し出された手を取り、アイリスフィールは立ち上がる。それからその赤い瞳が、苦虫を噛み潰したように歪んだ表情を浮かべるケイネスに突き刺さった。
勝敗は決した。
片や自らの礼装たる『
片や『
二人の勝敗を分けたのは、結局のところサーヴァントとの信頼関係の差であった。
ケイネスはランサーを信じることができず、それ故に一人で戦った。だがそれとは逆に、アイリスフィールはセイバーを信じたが故に一人で戦ったのだ。セイバーがランサーに勝利することを信じ、彼女を呼び出すことにではなく、彼女の腕の傷を治すことに令呪を使った。
その結果が、今の二人の立場の違いを生んでいる。
「あなたのサーヴァントは死んだわ、ロード・エルメロイ。もし、今投降すると言うのであれば、アイリスフィール・フォン・アインツベルンの名にかけて命までは取りません」
「……私に情をかけるつもりか、ホムンクルス」
「いいえ、けれどアインツベルンは好き好んで魔術協会と敵対する意志もなくてよ。あなたは時計塔に君臨する十二の
それはケイネスにとって屈辱の一言だった。彼は家柄も、地位も、才能も持ち合わせている。故に己に唯一足りぬ武勇を打ち立てようと、この聖杯戦争に参加したのだ。
「悪いがそれは承知しかねる。私にも面子というものがあるのでね」
だというのに敗退し、おめおめと見逃されたとあっては、
せめて、せめて目に見える戦果は持ち帰ってやろう。勝ちは望めぬとも、今この場でサーヴァントに傷を負わせるくらいはせねば──!
そんな思いが、彼を突き動かそうとしたとき。
「やめろ、
「──ッ」
突風が吹き、気がつけば彼の目の前に端正な顔立ちの少女が立っている。青いドレスの上に銀の鎧を纏った少女騎士が、ケイネスの首に不可視の刃を突きつけ睨みつけていた。
「……それに、私はランサーより、あなたの助命を願われている。あなたをこの手にかけ、彼の誓いに泥を塗るような真似はしたくない」
「……なに?」
そしてセイバーが放った言葉は、ケイネスにしては意外な事実であった。
「待っている人がいるのだろう。だというのに命を賭けてまで戦うのか。そこまでしてあなたは、聖杯を求めると言うのか」
「──────」
不意に、ケイネスの脳裏に一人の女の姿が浮かぶ。燃えるような赤毛をした、赤くしかし氷のように冷たい瞳の、美しい人。
(ソラウ、私の愛。私が唯一恋焦がれた人)
結局のところ、この戦いに参加した理由は彼女に認めてもらうためであったのだ。それなのに、召喚されたランサーに許嫁の心を乱されたばかりか、そのサーヴァントとの連携すらままならずこうして敗退してしまう始末。
ケイネスが聖杯戦争で得るものは何もなく、けれど失ったものは大きい。己の名誉、許嫁からの関心、本来求めていたものの悉くが手から零れ落ちている。思わず馬鹿馬鹿しすぎて笑ってしまうほどに本末転倒。
けれど。
「かけがえのない幸福とは目に見えていないだけで、見渡せばすぐそこにあるようなものです。聖杯などなくとも、今を生きるあなたには未来があるはず」
“もっとも、私がそれに気づいたのはつい先日ですが”と言ってセイバーが警戒を解き、剣を下ろした。
「『どうか未来を生きて欲しい』……そんなランサーの願いを、無下にしないで頂きたい」
けれどケイネスにはまだ、失くしていないものがある。命があるし、ランサーを失った以上嫌われただろうが、彼の許嫁であるソラウは平穏無事に生きている。
彼にはまだ未来がある。やり直すチャンスがある。それを捨て去ってまで戦う意味が、価値が、彼にはもう見出せなかった。
「……承知した。私──ケイネス・エルメロイ・アーチボルトはアイリスフィール・フォン・アインツベルンに対し降伏する」
ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは失敗した。彼はランサーを理解できなかったし、理解することを拒んだ。武勲を、栄誉をと望んで参加したこの聖杯戦争において、それを達成することは叶わなかった。許嫁との関係を深めることもできなかったし、逆にヒビを入れてしまい、以前よりもその関係は冷え切っている。
けれど、ケイネスには生きる未来があるから、彼は一時の恥を忍んででも、生涯曲げたことのないその傲慢な膝を折ったのだった。
(帰ったらまずは……ソラウに謝罪するとしよう)
きっと怒られるだろう、詰られるだろう、さらに嫌われ、ランサーを見捨てたことに憎悪を向けられることだろう。その道は前途多難で、暗いものだろうけれど、それでもここで死んで全ての可能性を閉じるより、そんな未来がある方が遥かにマシだと、ケイネスは内心自嘲するのであった。
◇
「終わったか」
夜空に浮かぶ月を背景に、魔女は“ふぅ……”と息を吐いた。肺にたまっていた湿った吐息が煙となって消え、代わりに冷たい空気が肺を満たす。
それは安堵の息だ。彼女は聖杯戦争の監督者、
「ランサーが大人しく聖剣を受け入れたことで、思いのほか被害は少なく済んだな」
魔女の眼下では、焼かれた森が時間を巻き戻すかのように、あるいは真逆に長い時間をかけて再生する過程を早送りしているかのように、元の姿を取り戻しつつあった。
植物──それはモルガンに宿る魔女の血と深く関わる神秘の分野だ。始まりの魔女ユミナが時計塔において植物科を表す単語になったように、お伽噺において魔女が森の奥に住まうように、植物に関連する魔術は魔女という生き物が得意とする魔術系統なのである。
妖精妃であり、ブリテンの魔女でもある彼女からすれば、この程度の森の再生など片手でできるほどの児戯であった。
「さて、これで残るサーヴァントはアーチャー、ライダー、バーサーカーの……む?」
おかしい、残るサーヴァントは四騎のはずなのに、今クラス名を挙げたサーヴァントは三騎しかいない。誰かを見落としている。
ルーラーがそう疑問に思ったとき。
「──あ」
視界の向こう側、アインツベルンの城のバルコニーから、こちらに気づいたのか手を振るセイバーとそのマスターの姿が見えた。
本来ならあそこで馬鹿みたいに手を振っているセイバーを一番目に数えるべきところを、ルーラーは無意識に除外してしまっていたらしい。それではまるで、彼女自身がセイバーの陣営にでもなったと錯覚したかのような思考だった。
「……何を考えているのだ私は。あのセイバーに入れ込むなど。どうせ最後には、この聖杯戦争を中断させようというのに」
聖杯戦争を第四次で終結させず、次なる五回目へと繋げる、それがルーラーが今のところ掲げている野望である。今回の聖杯戦争で受肉し、次の聖杯戦争でマスターとしてアーサーを呼び出す……そのはず、なのだが。
「……けれど、まぁ、良いか。あの娘が勝つと言うのなら、それはそれで悪くない」
自分でも驚くほどの奇妙な寛容さに、ルーラーは“私も丸くなったな”と苦笑いすると、城に向けて小さく手を振り、その場から姿を消したのだった。
「──『
◇
敗北したケイネスに課せられた条件は、呆れるほど軽いものであった。
今後一切聖杯戦争に関わらないこと。ただ、それだけ。
『アイリスフィール、流石にそれは甘すぎるのでは……?』
『ダメかしら?』
『ダメというか、その』
その条件には流石の騎士王──ケイネスにとって驚嘆すべき事実として、アインツベルンが呼び出したセイバーはまさかの故国で最も名の知れた英雄アーサー王であり、しかもその正体は少女騎士であった──も、苦言を呈するほどの甘さであった。
『けれど、アインツベルンとしてエルメロイに求めるものは特にないのよね。私たちは今回の聖杯戦争で全ての目的を達成するつもりだから、あんまり今後のこととか考えても仕方ないし。いらないものを求めたって仕方ないでしょう?』
『……は? 待ちたまえ、今後のことを考慮しなくても良いと言うのならば、アインツベルンとして時計塔と敵対したくないという話はなんだったのだ』
『え? あぁ、言ってしまえばただの方便かしら。私、殺しは好きではないから、なるべくなら見逃してあげたいと思って』
そう言ってまるで少女のような純真無垢な笑顔を見せる敵に、ケイネスは思わず天を仰いだ。私はこんな世間知らずの箱入り娘なんかに負けたのか、と。
馬鹿なのか、それとも底抜けにお人好しなのか、ホムンクルスとして作られた命であるため、人間ほど頭が良くないのか。そんな疑問が頭に過るが、ともかくケイネスにとって有利な条件であったことには違いない。もとより彼はもう二度と金輪際、こんな意味の分からない魔術儀式になど関わりたくないと心に決めたのだから。
にしても、ふざけた話だ。ケイネスは魔術師同士の競い合いの場として聖杯戦争を選んだのに、相手がこんな小娘では、勝ったところで何の名誉にもならないだろうが。
「私の願いは、端から叶うはずもなかったということか」
肩を竦めながらも、どこか憑き物が取れたような面持ちでケイネスは冬木ハイアットホテルの一層をまるまる改装した、己の魔術工房へと帰還する。
だが、そんな彼を待っていたのは己の婚約者などではなく。
「な、に──?」
がらんどうになった魔術工房と、一枚の置き手紙。
そして。
“キチキチ”と不快な音を鳴らす、悍ましい蟲たちの姿であった。
ノルマ達成(Ⅰ世虐)。