「何なのだ、何が目的なのだ、貴様は……ッ!」
魔術師、間桐臓硯。人を喰らい、500年生きる蟲使いにして蟲そのもの。そんな魔人を前にして、ケイネスは色を失った表情を浮かべ震える声で言葉を吐いた。
今の彼には、とても名門アーチボルト家当主としての風格があるとは言えないだろう。
ここは蟲蔵、間桐の魔術師が己を鍛える修練場であるらしい。そんな場所に、間桐とは何ら関わりがないエルメロイの君主がどうしてここにいるのか。
その答えは、ちょうど彼ら二人の足もとにある階段を下った先にあった。
「……」
一人の女が、群がる蟲たちに喰われていた。かつてランサーを責める度にケイネスに反骨を抱き、彼を睨み返していた瞳にはもはや光はない。燃えるような赤髪すら色褪せた、ケイネスの婚約者、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリがそこには居た。
「ほう、何が目的かと言われてもな。儂は単にあの娘に頼まれただけなのだよ」
「“頼まれた”、だと……!」
どの口が言うのか、貴様がソラウを騙し込んだのだろう。そう声を上げようとした若造を、老人はそう急くな、今説明してやると言わんばかりに宥めた。
「そうだとも。儂が貴様の妻……いや、婚約者であったか? ともかく貴様の女に会ったとき、やつめは儂にこう言ったのだ。ランサーを助けるために、どうか力を貸してほしいと。そのためならば何だってすると」
つまりそれが意味するのは、ケイネスがランサーと信頼関係を築けなかった以上に、ケイネスとソラウの間には信頼関係がなかったということ。
「侮られておるのう、エルメロイの小僧。いかな時計塔の
呵々と、嫌らしい声で老人が笑った。
間桐臓硯はソラウ・ヌァザレ・ソフィアリと契約したのだ。ランサーを助けるために手を貸す代わりに、ソラウはその対価として、ランサーの真のマスターとなった暁には間桐家のマスター、バーサーカーを操る間桐雁夜と同盟を組むと。
だというのに、どうしてこんな惨状になったのか。それは単純。
間桐臓硯は、手を貸したのだ。間桐雁夜にしたのと
そんなものが、手助けなはずがない? しかし、彼は現にそうやって間桐雁夜に手を貸している。実際魔術の才能がほとんどない雁夜がバーサーカーを使役するに至ったのは、間桐臓硯が手を貸したおかげなのだ。だから契約上は、刻印蟲を植え付けることに何の問題もない。
間桐臓硯にとってソラウに蟲を植え付けることは、手助け以外の何物でもないのだから。事実彼女が蟲に適応
「だが、この女は契約を破った。儂が手を貸してやっているというのに、みすみすランサーを死なせてしまったのだ。後は分かるであろう? 契約違反として、こやつは儂の所有物となったのだ」
さて、では蟲に喰われた女がそれに耐え抜き、この蟲蔵を抜け出してランサーを助けに行けるかどうかといえば、それはノーだ。ソラウは責め苦に耐えきれず、この蟲蔵から出ることができなかった。
つまり彼女は意識的に、ランサーを助けることを放棄した──明確な契約違反である。
「ふ、ふざけ……!」
「ふざけてなどおらんぞ、エルメロイの小僧よ。現に、こうして書面に記された契約通りだ」
ケイネスは提示されたセルフギアススクロールを引ったくるように受け取り、上から下まで血眼になって観察した。
確かに、そう書かれていた。間桐臓硯はソラウに手を貸すと、そう書かれていた。だが具体的な手段については、
「対価は何だ」
「……ほう?」
「彼女を救う対価は何だと聞いているのだ、吸血鬼め! 貴様は私に
察しの良い人間は好きだと臓硯は笑うと、彼はまた新たなスクロールを取り出した。
魔術契約書、そこにはこんなことが書かれている。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトがソラウ・ヌァザレ・ソフィアリの身代わりになる代わりに、間桐臓硯──マキリ・ゾォルケンはこれ以上ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリには手を出さぬと。
「儂はサンプルが欲しいだけじゃ。より優れた魔術師の肉体から生まれた蟲、そのモデルがな。その点で言えばあの娘よりも貴様の方が苗床として適性がある。どうだ、貴様は魔術回路や魔術刻印を食われる代わりに、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリがこれ以上蟲に喰われることを防ぐ。なぁに、安心せい。貴様の命までは取らぬとも。聖杯戦争が終われば、娘ともども解放すると約束しよう」
悪魔のような契約だった。魔術師にとって魔術回路とは、魔術刻印とは己の命よりも価値あるものだ。それを、目の前の老人はたった一人の女のために手放せと言う。
魔術師であれば受けるはずもない取引。けれどケイネスにとっては、魔術師としての己よりも、今蟲に喰われている己の婚約者の方がよっぽど価値ある宝だったのだ。
だから、この聖杯戦争が終わった先にある未来を信じて、彼は悪魔の契約に乗った。乗ってしまった。
そして彼は目から光を失った
──どうなっている! 何故だ! 話が違う!
そんな声が背後から聞こえてくると、老人はゆっくりと振り返って告げた。皺だらけの顔ににやりと不気味な笑みを浮かべながら。
「ああ、言い忘れておったが」
間桐臓硯は、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリにこれ以上手は出さない。そして聖杯戦争が終われば、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリを解放する。
それはもう済んだことだ。なぜなら間桐臓硯はこれ以上ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリに手を
魔術的観点において、魔術契約において。
「そこにあるのはのう。ただの死体だ」
それはもう、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリではないのだから。
それから聞こえてくるなんとも甘美な男の悲鳴を腐った魂の肥やしにして、間桐臓硯はゆっくりと蟲蔵のある地下室へと続く扉を閉じた。
「さて、満足かの。神父」
それから老人は、側でその会話を聞いていただろう、胸に十字架を掲げた男へと愉快げに語りかけた。
「はてさて、何のことやら。私はただ一宿一飯の恩義に報いるために、あなたの願いを叶えるための策を考えついたに過ぎません。間桐翁」
彼は敗退したマスターであり、しかし教会へ逃げ込むことも遠坂邸に残ることもできなかった者だ。そんな彼を保護したのが、間桐臓硯である。
老人は神父に問うた。優秀な魔術師の肉体が欲しいと。聞かれた神父は答えた、こんな策が御座いますと。
これはただ、それだけの話である。
「しかし男の方は殺さずに生かすか。殺してしまったほうが早いだろうに、そこには一体どのような意味があるのかな?」
「意味などありません。これは単なる探求です。絶望した男が、生き残った先に何を見るのか。私は単に、その結末が気になるだけ。言うなればあなたがた魔術師と何ら変わりはない」
「ほう、教会の信徒が我ら異端者たる魔術師と何ら変わらぬと、そう申すのか」
光を一切灯さぬ闇を抱えた、しかしどこか生き生きとした瞳で彼は“はい”と鷹揚に頷いた。
「私もまた、自らの答えに向けひたすらに歩んでいるのです、ご老人」
『
そんな在り方を知った彼──言峰綺礼は、自分もまた探求の道へと身を投げたのだ。己の生命が目指す先に、一体どのような景色が見えるのかと。主は全てを許し給うと言う。ならば己の生の果てに、どんな結末が待ち受けているのか。
魔術師が『 』を求めて魔術を究めるように、言峰綺礼もまた『
その二者に、もし違いがあるとすれば。前者は己のすることを悪と認識せず、後者は己のすることを悪だと認識している点だろうか。
はてさて、己を悪と知らぬ悪と、己を悪と知る悪。罪深きは、どちらなりや。
己の愉悦を知り、生き生きした笑みを浮かべて言峰綺礼は笑う。次は間桐雁夜、そして己の師である。さらにその次は父。
そんな漆黒に輝く未来に想いを馳せながら、綺礼は臓硯と入れ替わるように蟲蔵の扉を開いた。婚約者の肉から生まれた蟲に喰われ、絶望の声を上げる男の顔を観るために。
◇
【2004】
◇
月光の中で、赤き稲妻が迸った。宙を駆る魔槍がセイバー目掛けて飛びかかる。
ランサーによるその真名解放でも何でもないただの投擲は、固く剣を握るセイバーの右腕に傷をつけ。
「──貰ったッ!」
「──甘いッ!」
瞬間、猛犬の如き飛び掛りがセイバーを襲う。槍を追うように上空から現れたランサーに対し、セイバーは打ち払うように風の刃を振るう。たった今片腕を負傷した影響で思ったほどの威力は出なかったが、得意の風の魔術でそれを補った。
「ふざけた野郎だ。今の一瞬で、傷が治癒しやがったな? 俺の槍で受けた傷は並大抵の手段じゃすぐには治らねぇはずなんだが……どういう理屈だ?」
「聞かれたら答えるとでも? 戦い方に反して、随分と紳士的なのだな、貴公」
「うるせぇよ、単なる独り言だ……ッ!」
ひらひらと、風に煽られ花弁が散った。中庭にはセラやリーゼリットが丁寧に管理する花園がある。
セイバーは今や無惨にも戦場跡となってしまった、かつての色鮮やかな花畑を前に、これは怒られるかなと場違いな感情を抱いた。
「しかし、私の風をまともに受けて立っていられるとは。対魔力による防御だけではないな」
槍を背後に構え、風を受けきったランサーが中庭のタイルを破壊しながらその慣性にブレーキをかけた。その足元からはルーン文字がふわりと浮かび上がり、そして役目を終えたとばかりに砕け散る。
ルーン魔術、槍兵でありながらそんな並みの魔術師顔負けの神秘を操るランサーが不敵に笑った。
「とてもランサーとは思えないぞ、貴公」
「テメェこそ、そのデタラメな風の魔術はセイバーとは思えねぇな。てか、あの嵐はテメェの仕業だったってことかよ」
「御名答。私のマスターは優しく、そしてせっかちでね。昼にも聖杯戦争を進めたいなんてねだるものだから、ついその気になってしまったわけだ」
「はっ。ガキんちょの我儘に乗ってやったとでも? 言ってろ、俺のマスターとやり合うバケモンがガキなんて呼べるタマかよ」
城の中庭へと降り立った二人は睨み合う。月光が雲に遮られ、暗闇に猛犬の赤き獰猛な瞳が、騎士の碧き清廉なる瞳が浮かび上がった。
それから二人は示し合わせたわけではないというのに、月にかかった雲が晴れると同時に飛び出した。
「バケモノとは酷い言いようだな。うら若き乙女なんだぞ、彼女は。貴公はさぞ名のある戦士なのだろうから、もう少し言葉を慎んだらどうかな?」
「はっ、生憎だな騎士サマ。こちとらテメェみてぇに行儀良くする文化はない、ケルトの出身なんでね! 良い女は口説くもんじゃなくて、奪うもん! 俺の口に花を愛でるような臭いセリフは入ってねぇよ!」
姿勢を低くしたランサーが地を這い、セイバーとの距離を詰め槍を振るった。下段から切り上げ、そしてそれに続く連撃が瞬く間に繰り出される。さながら蒼き餓狼の爪撃、それをセイバーは済まし顔で受け止め、間隙に一歩足を差し込み首を目掛けて刃を振るう。
ランサーがセイバーのマスター、イリヤスフィールをバケモノと呼ぶのも無理はない。なにせ今彼女は歴戦の封印指定執行者であるバゼットと渡り合い、今なお死なずにいるのだから。
「だいたいあの小娘、半分くらい人間じゃねぇだろうが! バケモノ呼ばわりでも妥当だろうがよ!」
「たとえ非人間だろうと、それがバケモノと呼んで良い理由にはならないぞランサー」
まるで互いが互いの命をいつでも刈り取れると錯覚できるほどの
ランサーはそんな求めていた戦いにようやくありつけたことに頬をつり上げる一方で、セイバーの表情はやはりそよ風に靡く草木のように凪いでいた。
「ところで私も、実はこう見えて出身はケルトなんだが」
「嘘こけ! テメェみたいな行儀が良いゴリッゴリの聖騎士なんかうちにはいなかったわ!」
剣と槍の応酬に沿って言葉が交わされる。二人の戦士と騎士、その姿は静と動だ。獣の如き動きと俊敏さで迫るランサーと、人の理と技に満ちた動きでそれを迎え撃つセイバー。
「そうか、しかし私は生前にも貴公のような猛々しい戦士たちをよく知っているぞ。ふむ、となると貴公は私より前の時代の英雄かな」
具体的にはアーサー王最古参の騎士にして蛮人の異名を持つベイリンとか。それから実の息子とか。あとピクト人。
「知るか! どうでも良いわ、んなこと!」
クー・フーリンとアーサー王。彼らは共にケルト圏の英雄なれど、その在り方は大きく異なる。前者はアイルランドの、それもローマによってケルト圏が支配されキリスト教の文化が入ってくる前の英雄。後者はブリテンの、ローマによってケルト圏が支配され、キリスト教の文化が流入した後の英雄。
そんな二人の根底にある価値観は大きく異なる。現代的な価値観で言うなれば、ランサーは野蛮人でありセイバーは文明人だ。
もっとも。
「風よ、礫となれ!」
それはあくまで比較評価であり、絶対評価の場合はどちらも現代人からかけ離れた倫理観──敵を殺すことに躊躇いがない──を持つ戦士には違いないが。
セイバーの声に従い、魔力が世界へと変革をもたらす。舞い上がった風は中庭に転がっていた幾つもの瓦礫の破片を浮かび上がらせ、そしてそれはランサーに向かって弾丸となって飛んでいく。
「小石じゃ目眩ましにもなりゃしねぇよ」
それを赤き穂先が一閃し、弾き飛ばす。もとよりダメージなど期待した行動ではない。ほんの一瞬でもそうやってランサーの行動を誘発できたなら。
「『
その隙に、彼は一歩踏み出し風を解き、光を放つことができるのだから。
「──
流星が中庭から放たれ、城ごとランサーの体を貫いた。影も形も残さぬとばかりにあふれた熱が、セイバーの目の前にあるすべてを焼き尽くしていく。
己の国を、守るべき民草を脅かしたあらゆる敵──異民族、魔獣、悪妖精、巨人、ローマ兵、堕ちた賊、古き神、魔竜……セイバーはその全てをこの聖剣の光でもって薙ぎ払ってきた。目に見える地平線全てを蒸発させる、あまりにも無慈悲で、理不尽な、圧倒的熱量。それは地から空へと逆しまな流星のように、月の前に光の橋をかける。
やがて白んだ中庭に、落ち着いた暗い色彩と静寂が戻った。
視界には月まで至る一直線の大穴。そこにランサーの姿はなく、ただアインツベルンの城の壁が綺麗にくり抜かれているだけ。
「さて、これは勝ったとしても大目玉を食らうかな」
そんな住居の惨状を前に、セイバーは剣を下ろしやれやれと首を振った。
あれほどの魔力を消費してなお、彼の顔に疲労は見られない。おそらくは現代の魔術師を見渡しても最上位の魔力生成量を誇る
そしてセイバーが、遅ればせながらも主の危機に馳せ参じようと踵を返したところで。
「その心臓、貰い受ける」
中庭に、蒼き猛犬の唸り声が響いた。
一瞬目を丸くし、すぐさま剣を構えるセイバー。目の前の彼は赤い残光──令呪による魔力の残滓を纏っていた。
「空間転移か」
御名答、まるでそう言うかのようにランサーがにやりと笑うと、彼は赤き残光をそのまま槍に乗せて、蒼銀の騎士へと解き放った。
「──『
それは必中必殺の槍。魔法の領域にある神秘の業、因果の逆転を引き起こす呪いの力。それが放たれる前に、『
かくてそれは定められた運命の通りに真っ赤な軌道を描き、セイバーの胸へと一直線に飛んだ。
だが──忘れることなかれ。
◇
月が出ていることは幸運だったと、バゼットは珍しく己の運勢に感謝した。
彼女の視界には月の光に照らされて輝く、幾千万もの折り重なった銀糸の層が見えていた。触れればたちまち、その体はバラバラに分解されてしまうことだろう。
銀の糸の破壊は不可能と、ここに至るまでの戦闘でそう判断した。あれを破壊するのはバゼットのルーン魔術では火力不足、そして拳で殴れば銀糸の数本は破壊できようとも、その代償として手がバラバラになる。
「ならば!」
彼女は己の足をルーンで強化し、大きく上へと跳躍した。そのまま空を蹴り、大縄跳びの要領で彼女という獲物を捕らえんとする網を飛び越える。
宙を翻り、空を足場に大地を見上げる。先ほどまで彼女がいた場所はまるで強烈な
慣性のままに放物線を描き、地へと降り立ったバゼットは思わず息を飲む。避けていなければ、子どもがクレヨンで描いた悪戯書きのように、グチャグチャにされていたのは自分の方であったと。
「まだですか、ランサー……!」
先ほど、彼に言われるがままに令呪を使い転移を命じた。そんなランサーの名を戦闘の最中に思わず零してしまうほど、今の彼女は追い込まれている。
目の前の敵は、齢二桁に満たぬ少女でありながらバゼットに匹敵する実力の兵器だったのである。
「ぴょんぴょんと飛び跳ねて、鬱陶しい
夜の暗闇の中で、酷く冷たい白銀の髪が靡いた。それは一枚の織布となって紋様を描き、数多の使い魔を生み出していく。
即席のホムンクルスである糸人形、土塊に絡みつき生まれるゴーレム、そして銀糸が樹木を縛り上げれば、次の瞬間には
「……っ!」
ギリッ、と強く歯を食いしばりながら、バゼットは一息に数十、生み出された使い魔たちをその拳で打ち砕いていく。
だが、使い魔たちの消費速度は生産速度に対し追いつけていない。
「無駄よ、
冬の妖精はつんつんと人差し指で自慢の銀髪が生えた頭を叩き、そして地面を示すように
一から十、十から百。そうやって時間が経てば経つほどに肥大化していく軍勢を前に、バゼットは頭をフル回転させて打開策を模索する。
魔術協会の門を叩き、様々な死線を潜り抜けてきた八年間。これほどの存在を相手にしたのは一度や二度あるかないかだ。
「隙があるとすれば……!」
バゼットは戦斧を振りかぶる糸人形の攻撃を身を屈めて躱し、その腹を一撃で粉砕しながら、こちらを詰まらなさそうに無表情で見つめている少女を横目で盗み見た。
油断か慢心かそれとも遊んでいるのか、イリヤスフィール本人は使い魔に戦闘を任せ少し離れた所、使い魔の海の対岸からこちらを眺めている。
それはバゼットにとって幸運でもあるし、ある種不幸でもあった。
イリヤスフィール本人が静観しているおかげで、今のバゼットは追い込まれる程度で済んでおり、まだその命を散らすに至っていない。そして同時にイリヤスフィール本人が手を出してこないからこそ、彼女は己の絶対的切り札にして最強の後出しカウンター『
(あの娘の戦術はおおよそ見切った。髪を中心とした術式の行使、そして錬金術による使い魔の錬成。それが彼女の術の本質。ならば次の攻撃に私の『
ランサーを待つのは下策だ。令呪を一画使用したが、それでもセイバーを相手に手間取っているのだろう。先ほど空に昇った光の柱を見るに、バゼットが憧れたランサーであっても敵はそう簡単に御せる相手ではないと判断できる。
故に今彼女がすべきことは、今目の前にいる敵に全力を投じることだった。
土塊のゴーレムは跳び上がったバゼットを追いかけ、その鈍重な巨躯を揺らす。そして土埃を纏いながら振り上げられたその拳は。
「はぁ──ッ!」
革靴を履いたバゼットの足蹴りによって打ち砕かれた。
星の引力に招かれるままに、男装の麗人はそのまま一直線に胸辺りでむき出しになっている使い魔の
パワーとは、質量と加速度で決まるものだ。バゼットはお世辞にも重い方とは言い切れないが、それを補って余りある速度によって、彼女の健脚は岩をも砕く一撃となる。
「う、嘘でしょ……っ!?」
ドンッ……と、鈍い音を立ててバゼットが大地に降り立った。背後には胸に風穴を空けたゴーレムが一体、それを動かしていた
少女が驚き声を上げたのは、己の使い魔が倒されたからではない。あんな即席の土塊人形、執行者相手には即座に破壊されて当然のものだ。
彼女が目を見張ったのは、その後の出来事である。
畳返し──あろうことかイリヤスフィールの前にいるこのスーツ姿の女は、ゴーレムを貫いた慣性でそのまま大地を穿ち、岩盤そのものを励起させて見せたのだ。
くるりと反転する一枚岩に巻き込まれ、使い魔たちが宙を舞う。そしてまるで棒高跳びでもするかのように、その女はイリヤスフィールの目の前へと迫ってきた。
「なんてパワーなの、このゴリラ……っ!」
思わず悪態をつき、イリヤスフィールは体を銀糸で覆う。だが、その厚みが不十分であったせいだろう。
「うぐっ……!」
バゼットの放った衝撃は彼女の繭を貫通し、少女の小さな右腕を粉々に破壊した。
「内部破壊……! 発勁、いや、ルーン魔術で衝撃を増幅したのね……っ!」
拳のグローブに刻まれたルーン、それをいち早く察したイリヤスフィールはぶらりと垂れ下がる右腕を何の惜しみもなく“ああもう、プラプラしてうざい! 邪魔!”と切り落とし、即席の義腕を編む。
ぼとりと、乙女の右腕が地面に落ちる。
「──遅い!」
「──ぁあッ!!!」
それと同時に、バゼットの回し蹴りが彼女の左肩へと炸裂した。
鈍い音を立てて、無事だった少女の左腕上部と関節が砕けていく。
(しくじった! 私ってば、近接戦はこうも苦手だったなんて!)
もはや使い物にならなくなった左腕も切り落とし、イリヤスフィールは対魔術師のレンジである中距離戦を中心に教育課程を設定した、己の師たる切嗣を呪った。
「……もはや両腕は使い物にならないでしょう、イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。投降し、私に身柄を預けることをお勧めしますが」
少女から吹き出た血を浴びたのか、頬にかかった血糊を腕で拭いながら女は言う。外から見れば冷徹な執行者そのものであるが、バゼットは内心目の前の少女に恐れを抱いていた。
失った腕を、こうも簡単に切り捨てられるなど、一体どのような精神性をしているのだろう……と。
視界の端で、地面に打ち捨てられた少女の腕を見る。外側は腕の形をしているが、衝撃により内部は完全に破壊されていた。内出血により紫に変色し、今はもう命の色を失いつつあるその肉の塊がそれを示している。
「冗談でしょう? 腕がなくったって、私の主武装はここにあるもの。むしろ腕がなくなってスッキリしたわ。こんなもの、あるだけ邪魔だもんね」
一方のイリヤスフィールは善意からか、それとも仕事の都合からか出たバゼットの提案を一笑に付すと、銀糸を鉤爪のように鋭く尖らせ周囲に浮かべた。
月光に照らされて輝く光沢が、その鋭さを如実に示している。
「そうですか、なるべくなら生きて回収しろと言うのが協会の命令なのですが……致し方ありませんね」
銀の触手がうねり、暗い赤髪の女の首を刈り取らんと殺到する。狙われたバゼットはまるで波にでも乗るかのようにその触手の海をすり抜け、一歩ずつ目の前の少女へと距離を詰めた。
「──“回収”、ですって……?」
少女は色を失った声で、女の言葉を反芻した。糸の束から何本かがハラリと床に落ち、イリヤスフィールの分身となって立ちはだかる。だが、執行者たるバゼットの前には足止めにすらならず打ち砕かれた。
「あはは、そっか、そうよね。封印指定執行者って、魔術協会にとって価値あるものを蒐集するのが役割、なんだっけ。どうやって私のことを耳にしたのか知らないけれど、そりゃあ
封印指定、協会は一代限りの稀有な才能を
どうやって知ったのか知らないが、ともかく目の前の女は自分の身を捕らえに来たらしい。それを知ったイリヤスフィールはくつくつと堪えきれないとばかりに笑みを漏らすと。
「あはは、ねぇ──死ねよ、
スーツ姿の女を覆う銀の鳥籠、その節々に錬成された砲門全てから、少女の
バゼットは一度誘拐され地獄を見た少女に対し、二度目を経験しろと言ったのだ。少女が激怒するのも無理はない。
およそ数十、イリヤスフィールが瞬間的に出力できる魔力量を限界まで込めたその魔弾の群れは、当たればいかな魔術師とて致命傷を免れない。ましてや四方八方、全方位からの砲撃ともなればそれは言わずもがな。
だがしかし。
「『
バゼットの拳の上に、一つの鉄球が浮かんでいた。空間を切り裂く蒼雷をまとったそれは、あらゆる攻撃に対し後の先を決めることができる因果逆転の力。
相手の攻撃に合わせて発動することで、『相手の攻撃より先に放たれた』と現実を改変する、バゼットを
「──
名をフラガラック。ケルト神話において、太陽神ルーが海神マナナン・マク・リールより与えられたとされる、後攻にして絶対先攻たる神剣。
その輝きが今、イリヤスフィールの頭蓋を砕き、赤い血華を咲かせたのだった。
◇
「あぁ、もうムカつく! 今のなんでやられたわけ!? ほんっと、意味分かんない!」
むくりと体を起こし、戦場から離れた森の中で少女は蘇る。それから癇癪を起こしたように、彼女は棺を殴った。死んだのに死因が分からないのでは、無駄死にのようなものだ。
「一度勝ったくらいで良い気にならないでよね……