見つからなかった徘徊老人のその後を書きました。

仕事で付き合いのあった方で、こんなふうに生きてくれていたらいいな、と思っています。

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第1話

夕焼けの逃亡者

 

春子は知っている。ここは牢獄だ。

 

 何日か前からこの「ぬくもりの園」という名の、しゃらくさい施設にいる。

 

 壁は薄いピンクで統一され、どこからか聞こえてくる音楽は、子供だましのような陽気さで気が滅入る。毎日、園児のような手足の運動を強要され、周りを見れば、話の通じない、目がうつろな老人ばかり。こんな場所につまらない退屈が澱んでいる。

 

早く家に帰りたい。

 

 春子は毎日、施設の玄関で待った。大きなガラス扉の前に立ち、外の景色を眺める。夕焼けの時刻が一番切ない。必ずあの人が、一番星が瞬き始めるころ、迎えに来てくれるはずだ。

 

「遅いねえ、今日は。」

 

 春子は小さく呟く。来る日も来る日も待つが、迎えは来ない。もちろん、来るはずもなかった。春子の夫は、三年前に静かに息を引き取っている。春子は、その事実を思い出せない。記憶の膜に、その悲しい真実は溶けてしまっていた。

 

 春子は待つことに飽きた。もう、自分の脚で帰るしかない。

 

 思い立つとすぐに体が動いた。タンスから引っ張り出した古いポシェットに、財布とハンカチ、それに何となく着替えを詰め込んだ。職員に見つからないように、廊下をそろそろと進む。

 

 幸運にも、奇跡のような偶然が春子を助けた。施設の玄関は、ちょうど送迎の車が到着し、スタッフが扉を開けたままにしていたのだ。職員の背中越し、春子は小さく息を呑み、そして滑り出すように外へ飛び出した。

 

 春子が消えたことにスタッフが気づいたのは、それから一時間後のことだった。

 

「春子さんがいない!」

 

 その報告を聞いた主任の背筋は、冷たい氷柱がすーっと通ったように凍りついた。認知症の高齢者が、施設から無断で外に出る。それは、最悪の事態を意味した。

 

 地域ぐるみの大捜索が始まった。パトカーのサイレンが、夕暮れの街に響き渡る。夜通し職員や警察、近隣住民が探し回ったが、春子の行方は、影も形も見つからなかった。まるで最初からいなかったかのように。

 

春子は歩いていた。

 

 逃げ出せた解放感はすぐに薄れ、立ち込める不安が取って代わる。頭の中の地図は、家のある場所を示してくれない。道行く景色に、見覚えのあるものは一つもなかった。

 

 頼りになったのは、遥か昔の古い記憶。まだ幼い頃、自然豊かな田舎に住んでいた記憶だけだった。

 

 春子の故郷は、山が近かった。山へ向かえば、何か手がかりがあるかもしれない。

 

 春子はひたすらに、山の方へと足を向けた。

 

 ずっと、ずっと歩いた。脚の付け根が熱を持ち、鉛のように重くなるまで歩いた。春子は山育ちで、足腰は年老いた今でも人並み以上に丈夫だったが、もう限界が近かった。

 

 古い田舎道の路肩に、春子は座り込んでしまった。荒い息を整えていると、小さな声がかけられた。

 

「婆さんか?」

 

 顔を上げると、見知らぬ老人が立っていた。よぼよぼとした、背の曲がった、どこにでもいるようなお爺さんだ。

 

「はて、どなたですかね?」

 

春子は尋ねた。

 

お爺さんは、春子の隣にゆっくりと腰を下ろした。

 

「婆さん、ワシじゃよ。あんたの旦那じゃ。」

 

 春子は、その言葉を聞いて記憶の糸を手繰った。確かに、言われてみれば、そんな気がしてきた。優しい、少し困ったような、あの人の顔だ。

 

「あれ、お爺さん、ごめんなさいね。帰りが遅くなっちゃって。」

 

 謝る春子に、お爺さんはわざとらしく溜息をついた。

 

「全くだ。何日家を開けていると思ってるんだ。さあ、帰るぞ。」

 

 お爺さんは、座り込む春子の手を引いて立ち上がらせた。そして、おぼつかない足取りで、小さな一軒家へと案内し始めた。

 

 春子は、いつものようにそれを介助してあげた。少し背中を支え、一歩一歩、その歩調に合わせてゆっくりと歩いた。

 

 もちろん、このお爺さんは春子の夫ではなかった。彼もまた、同じように妻に先立たれ、認知症を患い、そして息子や娘に見放されて、一人寂しく暮らしていたのだ。

 

 春子もお爺さんも、お互いに対して少し違和感を抱えていた。相手が、自分の知っているあの人とは少し違う。しかし、二人は言葉にはしなかった。双方ともが、お互いを必要としていたからだ。

 

「お帰りなさい」と言ってくれる人がいる。

 

「待ってたよ」と迎えてくれる人がいる。

 

手を引いてくれる人がいる。

 

支えてくれる人がいる。

 

 こうして、この奇妙な共同生活は長く、何年も続けられた。

 

足腰が悪く、少しだけ記憶の混濁があるお爺さん。

 

記憶の混濁はひどいが、体は健康なおばあさん。

 

 二人は、それぞれの得意なこと、できることを補い合った。春子は家事や畑仕事をこなし、お爺さんは家具や家の修理を担当した。喧嘩もなく、穏やかな日々が流れた。まるで、遠い昔の夫婦生活をなぞるように。

 

それから数年後。

 

 今日も役場の職員が、お爺さんの様子を見に家を訪ねて来た。

 

 子供たちと折り合いが悪く、妻を亡くしてから随分塞ぎ込んでいたと聞いていたが、ここ数年はおばあさんの友達が出来たようで、すっかり元気にしていたようだ。

 

「あの人も隅に置けないな」などと、要らないことを考えながら職員は家の扉をノックした。呼び鈴を鳴らしても、対応がない。

 

「留守かな?」と思ったが、嫌な予感がして、家の扉に手をかけた。鍵は掛かっていなかった。

 

職員は、そっと家の中へ入る。

 

居間に行くと、老人二人がコタツに当たっていた。

 

 直前にお湯をやかんで温め始めたのだろう。職員が中に入ると、すぐに、高い金属音が鳴り始めた。ヤカンが沸騰した合図だ。

 

老人たちは、静かに眠るように亡くなっていた。

 

 その顔は、まるで長い長い夢を見て、ようやく目覚めることができたかのように、それはそれは幸せそうに微笑んでいた。

 

 職員は、鳴り続けるヤカンの音だけが響く静かな部屋で、思わず立ち尽くした。そして、沸騰しきって吹きこぼれ始めたヤカンの火を、そっと止めた。

 


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