書庫に入ってきた善右衛門を、無源は肩を叩きながら労う。
「苦労をかける。折衝の相手として、連中はどうだった?」
「かつての賊といえど、筋道立てて物事を考えられる人間は、少なくないのです。表現を選ばなければ、そうでない者は既に死んでいるでしょうし」
《臣廼川》下流での、灌漑普請に関してである。東岸から《解軛門》にかけての一帯。水を引き入れれば、広大で肥沃な農耕地となることを期待できた。
その計画を実行に移すにあたり、注目すべき存在がいた。かつて賊だった集団が、かねてよりその一画で農耕に従事している。開墾については、先達とも呼ぶべき存在だった。
彼らに渡をつけることは、様々な意味を帯びている。水を引いてその農地を駄目にするような事態が起きれば、諍いが深刻化し、終わった筈の戦が再燃する恐れすらあるのだ。
だから、事前に入念な折衝を行わねばならない。それを単なる手間ではなく、少なからぬ実を得る過程にしたかった。無論、双方にとって。
兵糧米の取引、以前からそれを考えていた。供出、では決してない。
取り上げる、与えてやる。そうした意識の介在する関係は、いずれ必ず破綻する。波守に教わったことだ。
一つの手段として導き出したのが、肥料の斡旋だった。《珠幸》の商人達と交流する中で、思い至ったのである。
肥料の素材の大半が産出される《金號》と長らく敵対関係にある《聖華》国内では、肥料の確保が不安定であった。自然、肥料の価格も高騰する。
だが、《金號》商人と渡り合える今の《珠幸》ならば。肥料を定期的に仕入れられる。
善右衛門は取引の話を持って件の農地に赴き、代表者達(もはや賊とは呼べない)と折衝を行ったのだった。
さらに、普請に必要な地形の精査と、人員および荷駄の配置。合わせて二ヶ月を現地で過ごしている。
その傍らには、半ば強引について来た泉花の姿もあったようだ。
その帰結が明暗どちらに傾いたか、未だ軽率に決められるものではない。ただ事実として、善右衛門は次の言葉を土産として持たされていた。
「今年は土と水の具合も良く、すこぶる豊作が望めそうです。ご主君には何卒よしなに」
後方を統括する善右衛門の到着により、軍議に必要な面子は揃った。
修伍と双竜之丞。あくまで「雇われ」ながら、双竜之丞が騎竜隊を纏め上げているため、修伍は徒士の運営に専心するようになった。
今後は、軍の両輪となっていくだろう。
立場の重さで言えば、筆麻呂にも顔を並べる資格がある。ただ、竜の恵みやその他の事象に対する研究に、現場で打ち込む義務を彼は背負っている。
それは、あの伊達男自身の望みでもあるのだ。
さらに、今一人。
「おう、お初にお目にかかりますかな。新参故のご迷惑をおかけもしようが、どうかご鞭撻の程を」
夏に無源の軍に参じたばかりの遼兵衛は、野生味のある外見とは裏腹に、恭しい挨拶で年少の先達を迎えた。
遼兵衛が来てくれた時、ちょうど善右衛門は任地に発っていた。初めて、まともに顔を合わせた訳である。
挨拶を受けた善右衛門は面映さを浮かべつつ、卓上の地図を見た。感心の波が双眸に広がる。
遼兵衛が仕官ついでの土産だと持参してきた地図だった。地形、道、集落。独自に書き込まれた大量の情報は、この男が燻らせてきたものの熱さを、如実に証明していた。
「戦の話をしたいと思って、皆をここに呼んだ」
居並ぶ四人の顔を、無源はゆっくりと見渡す。
それぞれの修羅場を潜り抜けた、武士の顔である。怯懦も気負いも無く、次に如何なる現実と直面するか、泰然と待ち構えているように見えた。
「遼軍師」
軍師。それは役職でなく通称と言うのが正しく、軍師たれという無源の望みが滲み出ている。
地図の上に、遼兵衛の人差し指が舞い降りた。
大陸北部を南北に貫く《魏糧川》、その東岸の一点。
「結論を先に申さば、我らはまず《金號》と一戦交えることとなりまする」
目を見開き、腕を組み、手で口元を覆う三人の動作は、程度の差こそあれ驚きを示すものだった。それは、事前に聞かされた無源の反応と大差無い。
戦があるとすれば、分裂状態の《久々鱗》統一を標榜しての攻勢か、有り得ぬ訳ではない《聖華》の報復に対する防御だというのが、大方の予想だったのだ。
「《金號》と事を構える理由は何処にあるのです?敵を増やすような動きを、わざわざせずとも」
《金號》は砦を築くにあたって、付近の氏族を内陸に追いやっている。領域を侵した事実こそあるが、開戦事由としては些か弱い。
「善右衛門殿、《金號》は既に謀の手を伸ばしておる。《久々鱗》にな。それを断ち切るのが、戦略上第一の目的なのだ」
北の港町である《紅髭》での交易。それに紛れた《金號》の間者が、多く入り込んでいるというのが、遼兵衛の認識だった。ちょうど、ミズ族の南下が始まるのと前後する時期に。
「連中は有力な氏族、郎党、部曲(私兵集団)に利をもって食い込み、《久々鱗》の分裂を加速させるよう蠢動している。より進んだ交易を望む者達を力で圧迫するよう扇動するのも、その一環と言えよう」
幸いにして、今は《珠幸》といつ逃げ場がある。
それを主導したのは波守の庇護を受けた自分と言えなくもないが、虐げられた者達の執念の結晶でもあるのだ。
「修伍隊長。二つ質問させてもらいたいのだが、構わないか?」
心もち引き攣った顔で修伍は頷いた。捨てたとはいえ、故国にまつわる重い話である。
「まず一つ。国を出る前、遼軍師の申したことについて聞いたことがあるか。具体的な命令、あるいは人伝の噂などで」
「ございません。自分の配属は《聖華》との国境を与る、征南軍でありました。港町を介しているならば、北の護北軍の管轄でありましたろう」
「なるほど、ではもう一つ。隊長個人の主観、印象で構わぬのだが……特に近年の《金號》は、そうした策謀を張り巡らすと思うか?」
口を引き結んで瞑目し、また開くという修伍の動作は、あまりにも苦々しさに満ちていた。残酷な問いかけをしてしまったかもしれぬと、後悔が去来する。
「十分に、有り得ることかと」
実の処、《金號》の策謀を厄介と思いつつも、これといった怒りは無い。
実際に干戈を交えずとも、敵と定めた国の内情を混乱させ、力を徐々に削いでいくというのは、れっきとした軍略の一つなのである。無論、仕掛けられた方は堪らないが。
無源の心中にはむしろ、まんまと扇動に乗せられた《久々鱗》の者達に対する強い憤りが根を張っていた。
目先の甘言に惑わされ、伝統ある国の柱を腐らせるが如き振る舞いを繰り返している。竜の民たる己自身に、恥じる処は無いのか。
傲慢と独善を戒めつつも、目を覚まさせてやるとの思いが消し難くあった。
(現時点での情勢)
【挿絵表示】
「……つまり、《金號》に攻勢をかけることで間者や同心する者どもに揺さぶりをかけ、炙り出そうということだ。そうだな?」
「さようです」
「具体的に何処まで攻め込むか、考えはあるのか。《魏糧川》東岸の砦、始めるとしたらここからだろうが」
双竜之丞が声を上げた。
「その通り。東岸の一つと、西岸の六つ。いわゆる《鎮東七塞》と、その後方を担う《是門城》。これらが攻撃目標になる」
「陥としても維持し続ける余力は無いだろう」
「城はいらん。軍に消えてほしいだけだ。これは、戦略上第二の要件に繋がるのだが──」
《是門城》は《金號》東の玄関口と言われている。攻めの足掛かりであり、守りの最前線なのだ。
それが攻められた時、陥ちずとも無視し得ぬ被害を受けた時、反応は小さなものとなる筈がない。
二つ、想定し得る状況があると遼兵衛は言う。
「まず、東をすっぱり切り捨てて軍を撤収させる。伸び切った戦線を整理し、制御しやすい位置に戦力を集中させるという訳ですな」
地図を見れば分かるが、《鎮東七塞》は《金號》にとって、東の僻地と言うべき位置に在る。齎される利益も無くはないだろうが、補給や連絡の負担も小さくない筈だ。
捨てるには惜しいが、保つのも面倒な地勢。そこに詰める軍が一定以上の被害を受ければ、撤収することは大いに考えられた。
そしてもう一つの想定は、言わずもがな片方の真逆である。あくまで東の維持に拘り、纏まった戦力を結集して新たな防衛網を張る──。
「あちらさんがどちらに転ぶかで、対応も微妙に変わってくる。だが、期待する処はどちらであっても同じなのです」
「何を、期待する」
「《聖華》にござるよ」
南北の雄を噛み合わせる。今以上に。遼兵衛は事もなげに言ってのけたが、中々大胆な策略であるように思われた。
打撃を被った敵が東を捨てるとすれば、いわば任地を離れた待命状態の戦力が俄かに浮上する。それを、何処に向けるか。
奇禍を転じて奇貨と捉える野心を持った将が、今の《金號》には少なくない筈だ。そうした者の目は、長らくの敵対関係にある《聖華》に向く。
正確に言えば、その先にある武勲と栄誉を、勝手に見出すということだ。
(想定戦略 その一)
【挿絵表示】
遼兵衛の説明に、軍の柱石二人が…… 修伍はやはり苦りきって……頷いた。
《金號》の軍人だった修伍は無論のこと、双竜之丞もまた、移動陣地を押し出してまで《鳴蒙川》渡渉に執着する《金號》軍と一戦を交えたという。
その二人が頷く推測であれば、信頼に足ると無源は思った。
「逆に東に固執してくるとなれば、その時は南が比較的手薄になるということ。《金號》に長年手玉に取られてきた《聖華》も、これを好機と北に押し出してくるでしょうな」
(想定戦略 その二)
【挿絵表示】
二大勢力いずれが守り、あるいは攻めるか。その駆け引きが《久々鱗》に干渉する暇を失わせる。
両者の間で膠着が成ったとして、それがいつまで続くかは分からない。得られた時を如何に有為に使うか、真に深慮に値する課題であると言えよう。
「お考えは承知いたしましたが、そもそも能うることでしょうか?川越しに孤立している東岸の砦を陥としたとして、西岸の六砦は警戒を強めるかと思います」
「うん。ご指摘の通り、可能だとしても犠牲が大きゅうなるだろう。そこで殿、東岸で勝ちを収めたならば、冬を挟んで機が熟すのを待ちたく思いますが」
今、季節は夏から秋に移ろいつつある。年内に東岸を攻略し、《魏糧川》を越えるのは年が明けてからということだ。
「《久々鱗》で戦果を喧伝し、新たな戦力を募るつもりか」
私の仕事が増えるな、と双竜之丞はぼやいているようでもある。
新たに参陣を望む者が《久々鱗》から現れるとすれば、それは間違いなく騎竜武者で、その教導は双竜之丞の役目であった。
遼兵衛は唇の両端を上げ、意地の悪い笑みで疑問に応じる。
「軍略如何の話とは別に、わしは此度の戦に《久々鱗》全体で臨まねばならぬと思う。外敵なのだからな。我々より地位も力もあるお歴々の尻に、火を点けてやろうということよ」
交わされる話に頷きつつ、無源は地図に目を落とし続けていた。
遼兵衛が提供してくれた地図。どのような意味をそこに見出すか、各々の職責によって違う筈だ。
善右衛門は荷駄の集積地点を、修伍は陣を張るに適した地形を、双竜之丞は騎竜隊の翔けさせ方を、思案し続けていることだろう。
天下に挑む自分達の姿が、そこにありありと映っているようではないか。