無源の秋 〜竜の翼は風雲に舞う〜【毎週金曜12:00&日曜19:00更新】   作:くコ:彡の本棚

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蒼眸 ~瑠璃亜~

 

 あの男を篭絡できぬまま、年が明けてしまった。

 

 一族の使命。大陸各地に散逸した仙遺物を回収し、封印するという大義があるのだ。そのために、戦場に立つ。術を高める。身を投げ出して伽をすることも厭わない。

 

 疑問を覚えたことは無いし、生まれながらの務めに誇りも持っていた。だからこそ、あの大物を確保する大任は必ず成功させたかったというのに。

 

 混戦の靄を突っ切り、外れている筈の具足を押さえに向かう直前、新たに纏う者が現れた。容易には信じがたいことであったが、事実である。

 

 仙遺物の力を解き放つ資質を有する者が、現れることがある。それは血筋や修練の結果ではなく、魂そのものに宿る天稟。類稀な可能性が、あの未熟な青年の裡に眠っているのだった。

 

 あの男に自らの秘密を明かしたのには、狙いがある。

 

 直に聞くまで、こちらの真の目的が奈辺にあるか、向こうは悟っていなかった。だから、快楽による責めに、歯を食いしばってひたすら耐えていたのだ。

 しかし、今は。具足を自ら手放させる、その意図が明らかとなった以上、警戒はただ一つの方向を持つことになる。

 

 こちらの思う壺だった。ただでさえ、若き身に思わぬ重圧を背負わされている。思い通りにはなるまいと、頑なさは増してゆくだろう。

 弾性を失った感情は、張りつめた糸と同じだ。きっかけさえあれば、あっさりと断ち切られてしまう。その布石を置いた。後は、好機が訪れるのを辛抱強く待つのみである。

 

 ……このような事情があるため、あの男が自分を連れて出歩くのは好都合だった。心が大きく揺らぎ、具足との結びつきが脆弱なものとなった瞬間を、この目で確かめる機会に恵まれるかもしれぬ。

 

八百波(やおなみ)》の東に進路を取り、野営を含め一週間程駆けた。同道しているのは、瑠璃亜(るりあ)を含め十騎あまりに過ぎない。

 かねてより出されていた触れでは、北方で調練を行うものとされていた。しかし現実として、総大将の麒道斎(きどうさい)は……聞吾(ぶんご)は反対の方角に在る。

 

 これが真の調練だった。指示を仰ぐべき指揮官が当初の予定と異なる地点に在る時、当地の判断で陣を維持できるか。伝令の態勢を素早く確立できるか。その力量を測り、課題を洗い出すための。

 

 それに加え、近頃とかく不穏な動きを見せる東方の土豪達の備えを、直に検める意味合いもあった。目で見るのみならず、各々が自らの見解を述べ、皆で吟味する。

 

 僅かな供廻りと共に東を見晴るかす、赤い影。この男なりに色々と思案して、此度の調練を考え出したのだろう。

 痛々しいまでに未熟な男ではあるが、溺れてはいなかった。降って湧いた力にも、自分の体にもだ。

 

 心中で、奇妙な色を帯びた何かが、首をもたげているのを感じていた。

 

「おい、何を見ている」

 

 敵意と警戒に染まった声を発したのは、大人になりきれていない齢十五、六の青年である。軍の再編によって引き上げられた見習いの内、唯一旗本(総大将の直卒部隊)に配属されているという。

 それなりに、腕は立つのだろう。

 

 敵対していながら、陣中で歩き回ることを許されている自分を訝しむのは、当然だった。それでも、直接的に反感をぶつけてくる幼い真似をするのは、この青年くらいのものである。

 熟練の将兵のように、総大将の断を信頼する心構えが、まだできていないということだろう。

 

「おかしな素振りを少しでも見せようものなら、有無を言わさず叩っ斬る。いつでも目が光っているのを忘れるなよ」

 

 言うだけ言うと去ってゆく青年の背を、瑠璃亜(るりあ)は冷ややかに見つめる。敬慕してやまぬ総大将の中身が入れ替わっていることを教えれば、どんな顔をするだろう。真実を知ってなお、威勢よく自分に噛みつけるものだろうか。

 

 落ちかかる。何かが。それに気づいた時、近くの森から音の塊が届いた。冬の鳥獣が一斉に逃げ出す気配。一本の木が、倒れていた。

 

 聞吾(ぶんご)が数騎を引き連れ、音のした方向へと駆けてゆく。他の者は命ぜられる前に、ごく自然と周囲を警戒する態勢を取っていた。

 瑠璃亜(るりあ)も後を追うようにして、森に辿り着く。幹の半ばからぼきりと圧し折られた木。目出し頭巾の男が、蝉のようにへばりついていた。ただし蝉とは異なり背中から、全身の骨を砕かれ絶命しながらである。

 

 それ以外に、四つの人影があった。生きているのは一つだけだが。自分と同年代と思しき男で、背に斬り傷を負いながら木陰に座り込み、こちらを睨み付けている。

 術の気配だ。首から提げている祭具には、術式を組んだ際の仙気の残滓が揺蕩っている。自他の血に汚れた装束も、皇都付武官の役儀を担う術士が着用するものだった。

 

「その緋縅……銀浪党(ぎんろうとう)やらいう叛徒どもの首魁だな?」

 

 手傷を負いながら、襲ってくる者を術で返り討ちにしたのだろう。体力を使い果たし、荒い息遣いをしながらも、術士の声からは鋭さが失われていない。

 

 叛徒呼ばわりにいきり立つ兵を制し、聞吾(ぶんご)は静かに問いかける。偉大な総大将は、この程度で声を荒げぬのだ、と自らに言い聞かせるように。

 

「それなりの立場に在る者のようだが、何故ここに?何故、襲われておった」

「呆けているのか。此奴らはお前の飼い犬であろう」

「知らん」

 

 瑠璃亜(るりあ)としてもそれは同様である。

 あるいはこちらに身を置いている間に、皇都でまた良からぬ企みがあって、この術士は巻き込まれたのであろうか。

 

「一度だけ問う。手当をしてほしいか?」

 

 自分も含め、驚きの視線に四方から貫かれてなお、聞吾(ぶんご)は平然としている。

 

「どうだ」

「是非、お頼みしたい」

「気持ちのよい返事だな」

 

 斬られた箇所を水筒の水で清め、聞吾(ぶんご)が手を翳す。具足から淡い光が溢れた。術士の、自らの体を癒す力がみるみる内に高まる。糸で縫い合わせるように、傷口が塞がってゆくのだ。

 

「けっ、叛徒に施しを受けて恥ずかしくないのかよ」

「為すべきを為すために生を求むることを、恥とは言わぬ」

 

 青年の皮肉に対し、術士は一切の逡巡も無く言い切った。僅かな偽りすら入り込む余地の無い、決意のようなものが感じられる。あるいはこの男、他人を欺いたことすら無いのではなかろうか。

 

 感心と興味を隠すことなく、聞吾(ぶんご)が問うた。

 

「お前の為すべきとは?」

「決まっている。皇都に蔓延る佞臣奸物を一掃し、遍く民にとって公正にして情理に満ちた政を実現させることだ」

 

 先程まで痛みに汗を浮かべていた顔に、今は夢を語る熱っぽさを浮かべている。童のような夢物語を、恥ずかしげもなく口にするものだと思う。

 この術士には能力も、熱意もあると言ってよい。だからこそ、今の皇都で陽の下を歩ける筈がない。仙術の大家を僭称する羅聖近衛(らしょうこのえ)は、出る杭を打つ機会を常日頃より窺っているのだ。

 

「無論、熱意だけで国政を変えられぬ。大身となりて能うることを増やすためにも、私は生きねばならん」

「見上げたものではないか。我としても、助けた甲斐があったというものだ」

「異なことを。皇都の体制と軍の綱紀が改まれば、お前達は劣勢となるであろうに」

「どうかな。大言通りの公正な政とやらが真のものとなれば、存外我らも面白おかしく生きられるかもしれん」

 

 二人の男が笑みを交わす。

 供廻りも、どこか誇らしげな様子で見守っている。

 

 馬鹿げている、と思う。敵なのだ。武士の情けだの、好敵手だのと酔いしれた言葉には虫唾が走る。戦場で干戈を交わし、命を奪い合う血腥い光景を飾り立て、目を逸らさんとする女々しさそのものではないか。

 

 もしかすると、自分もこのような感傷がために、今なお命永らえているというのだろうか。そう考えると、無性に腹が立って仕方がない。

 

 それにしても、聞吾(ぶんご)の落ち着き払った態度は何としたことであろう。こちらが明かした秘密に動揺し、逆上して首を絞めてきた先日の姿とはまるで結びつかぬ。

 あの時から今日までの間に、何か開き直るきっかけでもあったか。そうは思い難い。大度ある英雄、その印象を見せつける芝居かとも思ったが、それらしい生臭さは無かった。

 

 微熱に似た感覚がこめかみにある。錯綜した思考の中で、袋小路に迷い込んでしまったようだ。

 

 敵襲。

 

 警戒に当たっていた兵の叫び。不吉な風が木々を震わした。

 

 ────────

 

 数にして、三百ないし四百といったところか。各土豪が繰り出した手勢の混成部隊であるらしく、五か六勢力に類別できるであろう。

 

 苦虫を噛み潰したような顔で、術士が目の前の原野を睨んだ。敵は明確にこちらに狙いをつけ、じわじわと間合いを詰めてきている。

 

「不覚だな。私を狙った刺客の大元であろう」

「土豪どもに恨みでも買っていたか」

「近頃、この一帯の諸勢力が《金號(きんごう)》に通じているとの疑惑が立っていた。それを質す書簡を届ける任を帯びてここまで来たものの、有無を言わさず襲われてな」

「そうか……」

 

 術士の話は、半ば正鵠を得ているだろう。東の土豪達が《金號(きんごう)》に抱き込まれているのは、まず相違無い。やや不自然な仙気の流れ……煌石(こうせき)の存在をはっきりと感じる。

 だが、土豪の手勢が真に狙っていたのは術士ではあるまい。使者一人を抹殺するためにここまで派手に動いては、かえって皇都の疑念を確かなものとしてしまうだろう。

 

 銀浪党(ぎんろうとう)の総大将、それが僅かな兵と共にここに来ていることを知り、飛び出してきたのだ。

 

 しかし、敵勢の量と質がやや中途半端なものと思われる。百単位の敵が先陣だとするなら、千を超える本隊が後続として控えている筈だが、どうもそのようではない。

 あるいは少数精鋭でもって確実に首を狙うというなら、選りすぐった少数の刺客を露見せぬように差し向けるのが自然だ。

 

 そのいずれでもないという事実が、緻密な計画が敵に不足していることを如実に表している。

 

「調練の締めだ。駆け抜けるぞ」

 

 聞吾(ぶんご)がそう言うと、鞍に跨った皆が静かに頷いた。乗り手の覚悟が伝播してか、白麒(はくき)も凛然として鼻を鳴らす。

 

 瑠璃亜(るりあ)もまた、共に死地を切り抜けねばならない状況に在る。聞吾(ぶんご)と具足の結びつきは、危険が目前に迫り、かえってその強さを増している。この状態で討死などされては、仙遺物の回収という任を果たすことができないのだ。

 

「私も参ろう。帰途ぐらいは己が手で切り開かねばな」

 

 術士も白麒(はくき)を駆ってここまで来ていた。先程治療している最中、襲撃を逃れていたのが戻ってきたのである。

 

「風の術については、些か腕に覚えがある。足手纏いにはならん」

「よかろう。それから、名を聞いておこうか」

風笑(ふうしょう)

 

 頷くと聞吾(ぶんご)は小手を翳し、敵の動きを注意深く観察する。

 

 北から東にかけ、翼を広げるようにして敵は展開している。長槍を構えた徒士(歩兵)が並び、壁を形作っていた。一見厚みに欠けるように見えるが、その奥には機動戦力としての軽兵がひしめいているだろう。

 一歩進むごとに刃を突き出される、泥濘のような備えだ。

 

 数の劣勢は否定しようがないが、こちらには強みもある。白麒(はくき)ならではの破砕力と機動力は、広く展開する敵の一点を突破するのに十分だし、敵が何処の守りを固めるか、その判断を迷わせることができる。

 

 では、麒首をいずれに向けるべきか。

 

「北の一角を食い破りましょう。最短経路で味方と合流するのです」

 

 血気盛んに青年が主張する。調練の成果と言うべきか、北に赴いていた一個大隊とは既に伝令の遣り取りを行っている。一番新しい報告では、半日もかからない距離にいた筈だ。

 

「若造、そいつはまずいぞ。我らは死地に飛び込むこととなる」

 

 やや年嵩の兵が、逸る青年に待ったをかけた。向こう傷だらけのその男は戦歴があるだけに、一帯の地勢に通暁しているらしい。

 

「このまま北に進めば、水捌けの悪い低地に入る。溶けた雪が染み込み、ぬかるみと化しておろう。白麒(はくき)はたちまち足を取られるぞ」

「屈辱的ながら、西に離脱を図るというのは?」

 

 もう一人がそう提案したが、すぐさま否定された。

 

「もっと厄介な連中が西に潜んでおることもあるだろうが。蛇を避けて鬼に出会したのでは、笑うに笑えん」

 

 往疋(おうそ)の軍が西への帰路を塞ぎ、こちらの捕殺を狙っている。その可能性は捨てきれない。練度も統率も、土豪の手勢などでは及びもつかぬだろう。

 逃げる最中で遭遇したことを考えると、流石に西への転進は厳しい。

 

 思案する中、数十の敵が刀槍を振り翳してこちらに突撃してきた。こちらが小勢と見て飛び出してきたのである。やはり、指揮は徹底していないようだ。

 

 風笑(ふうしょう)が、前に出る。任せろ、と態度で示していた。寄せてくる敵の群れを冷静に見据えている。

 手に、丸薬程の大きさの光。仙術の種だ。術を発動するにあたり、あらかじめ仙気を練り上げ、保持しておく者は多い。それを指して種と呼ぶのである。

 

 抉り込むように、種を地面に擲った。破裂した光は一瞬の内に膨大な量感を伴って広がり、獣の遠吠えにも似た大音声を響かせる。

 竜巻が、前進する敵を呑み込みながら荒れ狂った。

 

 先頭の敵兵十数人は逃げることもできず、人語を話す枯れ葉となって舞い上がった。風の怒号が響く中、途切れ途切れに連なる、悲鳴と断末魔。

 地面に叩きつけられ、絶命した味方に息を呑んだ敵が、慌てて退いてゆく。

 

 風の術を守りに使えば矢玉避けとなるが、攻める場合は風の刃で敵を斬り裂く、自らを高速で移動させるというのがよく見られる使い方である。

 

 竜巻を喚び出して敵を砕くというのは知識としてあったが、戦場で目の当たりにしたのは初めてだった。いわゆる、剛の風使いか。

 

風笑(ふうしょう)よ」

 

 呼びかけた聞吾(ぶんご)の声には、決意が滲んでいる。

 

「その竜巻で我らを飛ばせるか」

「何?」

「竜巻に乗ってぬかるみを飛び越える」

 

 正気か、と思った者が何人いるか分からない。少なくとも、自分はそうだ。

 しかし、聞吾(ぶんご)は正気であり、本気そのものだった。そこにこそ、有無を言わさぬ圧がある。

 

「まず、飛ばすことはできる。駆ける態勢を維持しながらだ。しかし、その後どうなるかは敵を見れば分かるだろうが」

 

 指差した先には、骨を砕かれた敵の骸が点々と転がっている。飛び越えることができても、そのまま地面に叩きつけられては、人麒ともども無事ではいられまい。

 

「そこだ。詰めの一手を、我らは打てる」

 

 聞吾(ぶんご)の視線が動く。止まった。目の前で。

 

瑠璃亜(るりあ)

 

 衆目の前で名を呼ばれ、流石に鼻白んだ。自分の名を初めて知った兵も、この中にはいるだろう。

 何を問われるか、頼まれるかは嫌でも分かった。

 

「あの時、我らの突撃を止めた術だ。地面に落ちるのをあれで防げるな?」

「はい」

 

 差し迫った戦況と、こちらを射抜いてくる聞吾(ぶんご)の目線が、返答に逡巡を捨てさせた。

 

 覆水の術、という。

 

 人、獣、矢玉、そして術。あらゆるものの勢いを止め、反転させてしまうことを真髄とする。極めれば、滝の流れすら逆しまにするも容易い、とさえ言われていた。

 

 過日の戦では白麒(はくき)隊の突撃をそれで押し留め、投槍や矢を悉く跳ね返してみせた。

 高処から落ちるという時になって、勢いを相殺して無事に着地するというのも、使い方としては確かにある。

 

 しかし、より肝心なことがある筈ではないか。

 

「各々方、本気で命をお預けなさるおつもりですか。よりにもよって、このわたくしに?」

 

 聞吾(ぶんご)としては、自分に殺されることはないということを既に承知しているだろう。しかし、事情を知る由も無い他の者は。

 今なお生き永らえている仇敵の術に、死命を賭けようというのか。

 

「自分は、殿のご決断に従いまする」

 

 年嵩の兵があっさりと言う。青年も、負けじと声を張り上げて賛同する。皆が賛意を示すのに、十を数えるまでもなかった。

 おまけに、今日会ったばかりの風笑(ふうしょう)までも。

 

「そういうことだ。頼むぞ」

 

 つくづく、大馬鹿者ばかりだった。

 

 ────────

 

 手始めに、敵の東側に攻めかかった。

 

 言わずもがな、これは陽動である。東への突破を企図していると見せかけ、機動戦力を引きつけるための。

 それを悟られる訳にはいかないので、攻勢に手は抜かなかった。

 

 強い。銀浪党(ぎんろうとう)が誇る白麒(はくき)隊の強きこと、確かに無双であった。

 あの時も自分が戦場にいなければ、戦は銀浪党(ぎんろうとう)の一方的な勝利で終わり、彼らは凱歌を上げていただろう。

 

 そして、聞吾(ぶんご)の運命も異なるものとなっていた。

 

 右、左。無造作に振るわれる得物に触れた敵が、砂でできたように崩れてゆく。

 聞吾(ぶんご)が"先代"より受け継いだ十文字槍。穂先が横に走れば、十人からの敵が両断され、二十個の首が飛んだ。

 

 他の兵もそれに続き、立ち塞がる者を残らず叩きのめしている。手傷どころか、疲労さえも感じてはいないようだ。

 

 瑠璃亜(るりあ)は愛用の双太刀を鞘に収めたまま、拾った槍で眼前を薙ぎ払う。何より、撃ち込まれる矢玉を跳ね返すことに専心した。

 意識すら向けることなく、術を発動する鍛錬は飽きる程積んでいる。やがて恐れをなした敵は、撃ち込んですらこなくなった。

 

 敵の構えが明らかに変わった。東を厚くしつつ、しかし尻込みして向かってはこない。

 待ち望んだ瞬間だった。

 

「駆けろ」

 

 次の瞬間、吹き飛んでいた。景色が。

 

 ほとんど直角に麒首を転じ、北に向かってひた駆けた。一人も欠けていない。

 

 半ば、意識を捨てていた。白麒(はくき)が地面を蹴りつける衝撃に突き上げられ、ようやく現世と繋がっている。そう思える。

 

 それは刹那のようにも、長い長い時間のようにも感じられた。行手の兵。恐怖を満面に張り付けて退散してゆく。

 ぬかるみ。見えた。仙気が高まる気配。

 

 風が、唸りを上げた。

 

「飛べっ」

 

 音が聞こえなかった。否、置き去りにしていた。

 今、自分達は確かに飛んでいる。それだけは痛い程に実感できた。

 

 呆然と見上げる、敵の気配を感じる。彼らの目には、翼を生やした自分達の姿が見えているのだろうか。そう思うと、少し可笑しかった。

 

 地面に、手繰り寄せられる。冷たい壁。叩きつけられる。

 叩きつけられたら、痛い。そして、死ぬ。当たり前のことを、何故か真のものと思えない。

 

 視界が青い輝きに満ちた。

 

 駆けていた。

 夢を、見ていたのか。そんな気がした。ずっと地面を駆けていて、何にも遮られることなく、ぬかるみを越えたのだと。

 

 そうでないことは、狂おしいまでの歓声でようやく分かった。

 

「御味方、御味方にござる」

 

 千を超す麒影が前方から驀進してくる。はためく、旌旗。満ち始めた安堵は、異様に勇ましさに包まれている。

 

「殿、ご無事を信じておりましたぞ!」

 

 勢いのまま敵に攻めかかる味方の一個大隊は、水平の滝だった。

 そして始まったのは、戦などではない。数、練度、勢い、全てにおいて上回る敵の強襲を受け、叫喚と共に敵が逃げ回る光景だった。

 

 生還を祝する言葉は、誰も発さない。当たり前であるかのように、不敵な笑みを浮かべている。

 

 静かに佇む聞吾(ぶんご)の影。それから目を離すことができない自分に、瑠璃亜(るりあ)は気づいていなかった。

 




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