無源の秋 〜竜の翼は風雲に舞う〜【毎週金曜12:00&日曜19:00更新】   作:くコ:彡の本棚

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岐路に立つ 〜聖華〜

 

 情勢が大きくうねり始めていることを、誰もが肌で感じている。

 

久々鱗(くくり)》と《金號(きんごう)》の衝突は、今や焦眉の急であった。

 山の稜線を覆い、はためく翼で空を埋め尽くす騎竜隊。対する《金號(きんごう)》軍は徒士(歩兵)隊が長槍の穂先を天に掲げ、銃口を並べている。

 

 そのような光景が広がることを夢想し、高揚した瑠璃亜(るりあ)の白皙に朱が差した。

 

 銀浪党(ぎんろうとう)はそうした情勢から置いてけぼりを食らっている、あるいは元より関わりないようにも見えるが、決してそうではない。

 両勢力の対峙は、巡り巡って《聖華(しょうか)》に影響を及ぼし、銀浪党(ぎんろうとう)に身の処し方を考えることを強いる。

 

 本拠の《八百波(やおなみ)》から西に数日の山。その中腹に聞吾(ぶんご)がいる。瑠璃亜(るりあ)と、僅かな供廻りを連れ、さらに西を見晴るかしていた。

 

 視線の先には、数千の兵が横陣を敷いて槍を構え、威勢の良い掛け声と共に一斉に突き出している光景がある。

 立ち昇る熱気の性質が、武家の軍勢とはまるで異なっていた。忠義でも功名心でもない、より素朴で深刻なものを源としているようだった。

 

 彼らをして、翠鐘一揆(すいしょういっき)と称する。

 

 二十年前。豊かな港町として発展を遂げつつあった、《聖華(しょうか)》西端の一帯。

 在地の土豪が前触れも無く取り潰された直後、王都から派遣された太守(長官)の暴政によって、そこは搾取と腐敗の巷と化した。

 

 足蹴にされ、唾を吐かれたまま黙っている程、民草とは従順でか弱い存在ではない。虐げられた者達の怒りは炎となって燃え上がり、圧政者達への逆襲が始まった。

 

 とある強力な盟主の存在もあって、一揆勢は太守の抹殺と軍勢の駆逐を成し遂げる。そして以後十二年、《聖華(しょうか)》西端は民の治めたる地として、半ば独立の様相を呈していたのだ。

 

「寄せ集めの一揆衆ながら、動きが纏まっておりますな。我らはともかく、朝廷の差し向ける惰弱な軍勢ならば、容易に跳ね除けるでしょう」

 

 壮進(そうしん)が感心しながら言った。襲撃があった日、自分に突っかかってきた青年である。不当な裁定で実家が没落し、流れ着いてきたという。

 

 名を覚えたのは、襲撃を切り抜けた後だ。いずれ離れるなり、裏切るなりすることとなろうと、それまでの短い間は覚えていてもいいと、思うようになっていた。

 

 皆がわざわざ山に登って西に目を向けているのは、調練の見物をするためではない。

 銀浪党(ぎんろうとう)の仇敵たる往疋(おうそ)の動静を知る一環として、行われていることだった。

 

 一揆勢は《金號(きんごう)》を交易の相手としている。単なる叛乱軍に留まらない銭と産物の遣り取りを行い、兵糧攻めなど物ともしない確固たる基盤を有しているのだ。

 

 それに紛れる形で、《金號(きんごう)》の間者が多く侵入してきているらしい。

 それ自体は以前よりあったことだが、昨年、《魏糧川(ぎろうがわ)》での戦の後は、より執拗なものとなっているようだった。

 

久々鱗(くくり)》との戦に備え、南を掻き乱しておこうと企図しているだろうというのが、大方の推測であったが。

 

「するとこれは、《金號(きんごう)》がいずれ西から《聖華(しょうか)》に攻め入るための、瀬踏みであると仰せですか?そして往疋(おうそ)もそれに与すると」

「うむ。往疋(おうそ)めは組む相手を変えた。《金號(きんごう)》の侵攻を利用し、我らを消してしまわんとの肚に違いあるまい」

 

 借りてきたような言葉だ、という印象があった。ただし、正鵠を射てはいると思われる。

 

 昨年、使命のために往疋(おうそ)の軍勢に身を置いていた時、鼻につんと来るような気配が染みついた幾人かが、本陣に出入りしていたのを覚えている。その気配とは、煌石(こうせき)のそれではなかったか。

 

 重々しく諭す言葉に、供廻りは納得した様子で何度も頷いている。

 誰が口にしたのか、という違いはあろう。自分、あるいは壮進(そうしん)のような軽輩が言ったところで、全面的な支持は得られまい。

 

「となれば往疋(おうそ)めは、仇敵どころか国賊ではありますまいか。一日でも早う攻め滅ぼすに如かず」

 

 皇都に叛徒と看做される銀浪党(ぎんろうとう)が言うのもおかしなものだと思ったが、故国を侵攻されることが愉快でないのも、人の情としては当然のことである。

 

 そして、往疋(おうそ)を早期に討たねば危ういなどというのは、今更声高に言うまでもなかった。

 襲撃を受けたあの時と同じ、無防備にも見える態勢で山などに登っているのも、往疋(おうそ)が手勢を動かすのを誘っているからだ。

 

 その動きを見極めて山の抜け道を探り、狭隘な谷を避けて敵本拠の《宇沢(うたく)》に迫る方法を見出せないかとの狙いであるが、流石に往疋(おうそ)は見え透いた誘いに乗ろうとはしない。

 

 いずれにせよ、自分には関わりないことだ。自分に言い聞かせるように、瑠璃亜(るりあ)は心中で呟く。

 あの緋縅、目当ての仙遺物を押さえて帰還できるなら、意気ばかり盛んな叛徒の行末などどうでもいい。どれだけ隆盛しようと、緋縅が無ければ隆盛も一時の夢に過ぎぬだろう。

 

 斜に構えた考えを抱きながら、総面に覆われた聞吾(ぶんご)の顔を見る。

 自分しか知らない若者の素顔が、その下にはあるのだった。

 

 ────────

 

 結局往疋(おうそ)は動きを見せず、何も事が起きぬまま、数日後の夕刻には《八百波(やおなみ)》に帰還した。

 

 そして、夜。瑠璃亜(るりあ)は常通り聞吾(ぶんご)の寝所へと向かっていた。週に一度来る「その日」である。初めの頃はひとたまりもなく、女のような声を上げつつ褥で震えていた若者も、近頃は中々耐えるようになっていた。

 

 伽を仕掛けた男は例外無く、こちらの「本丸」に立ち入らぬまま果てる者ばかりだった。少しでも抗う手合いと寝ることに、楽しみを見出しているのは確かだ。

 

 寝所に入ると、聞吾(ぶんご)は横になって目を瞑っていた。さりとて褥の上ではない。腕を組んで横を向きながら、頭の横には一枚の紙。

 見れば、それが《宇沢(うたく)》周辺を描き現したものであるのは、すぐに分かった。

 

 絵図を脇に除け、聞吾(ぶんご)を仰向けにする。瑠璃亜(るりあ)は装束の前をはだけて胸の上半分を露にすると、這い寄るように聞吾(ぶんご)の上に覆い被さってゆく。

 

 瞼が開く。目が合った。

 

「今日はいい」

 

 寝ずに黙考を続けていたらしい。興が削がれた瑠璃亜(るりあ)ははだけた前を直し、床に座り込んだ。胡坐をかいた聞吾(ぶんご)と目線が重なる。その瞬間、盛大な溜息を吐いた。

 

「床に就かれる前に、嫌な顔でもご覧になられましたか」

 

 聞吾(ぶんご)は苦い笑みを口元に湛えると、先程除けた絵図を広げてくる。

 

「この紙の上で、俺は何度も軍を動かしてみた。《宇沢(うたく)》攻めが成らずして、銀浪党(ぎんろうとう)に未来は無いものな」

「妙案は浮かばれまして?」

「考えが最後まで続かない。谷で立往生して、山中の伏兵に遭い、本陣を急襲される。決まってそうなるんだ」

 

 ここを本拠に選んだという一点だけで、往疋(おうそ)が如何に厄介かよく分かる。聞吾(ぶんご)はそう慨嘆した。

 

 白麒(はくき)隊の機動力が殺される狭隘な谷は、まさに死地である。《宇沢(うたく)》に至るには避けて通れないそこは、往疋(おうそ)の主力たる軽兵にとっては絶好の戦場でもあった。迂回できる間道の類も、まるで見つかっていないようだ。

 よしんば《宇沢(うたく)》に到達できたところで、周到な往疋(おうそ)のことである。砦の大手には幾重もの罠が仕掛けてあるだろう。

 

 陥とすのは無理だと捨て置けば、それこそ往疋(おうそ)の思う壺だろう。聞吾(ぶんご)が皆に話した推測が正しければ、ひたすら待つだけで銀浪党(ぎんろうとう)を《金號(きんごう)》軍に潰してもらえるのだから。

 

「では、御無理でしょうね」

「それは違う。俺はやる」

 

 聞吾(ぶんご)の顔に強靭な意志の線が浮かび上がる。

 

「紛い物でも、成り代わりでも、皆の前で俺は不死身の麒道斎(きどうさい)なんだ」

「しかし、手立ては……」

「見つけ出す。考え抜く。できることは全てやる。それしかない」

 

 迷いなく言い切って絵図に目を落とす聞吾(ぶんご)の姿を見る瑠璃亜(るりあ)の心中に、微妙なものが蟠り始めた。

 

 思い出されるのは、襲撃を受けたあの日のことである。嘲りに激昂して女の首を絞めてくるような未熟な若者が、危地に在って沈着かつ大胆な判断を下したことに、ひどく当惑したものだ。心を二つ持っているのでは。とさえ思った。

 

 今ならば、何となく分かるかもしれない。この男は、皆が何を求めているかを汲み取ることについて、天稟があるのだ。

 

 皆が求めることを成し遂げるために何が必要か、己が何をすべきかを、頭と心の両方で考える。そして自分自身を滅してしまうことはなく、己の希望をもその中に織り交ぜ、答えを導き出す。

 そうしたことを常日頃から、意識もせぬまま行っているのか。

 

 それとも、緋縅を偶然にも纏ったその日から、超常の術に拠らずして、自分自身の在り方を変えたということだろうか。

 

 仙遺物との強い紐帯は、そうした内面から生み出されるものなのだろう。

 感心しかけた自分が悔しくて、紛らわそうと瑠璃亜(るりあ)は話を振った。

 

「それにしても、往疋(おうそ)の動きと来る《金號(きんごう)》の侵攻を結びつけるとは、流石の御賢察にございますね」

 

 すると聞吾(ぶんご)は、ばつの悪そうな顔で頬を掻く。

 

「実を言うと、あれは巳助(みすけ)に教示してもらったんだ。自分の考えだと公にはしないでくれ、などと言われて」

 

 やはり、入れ知恵だったか。

 巳助(みすけ)という名には聞き覚えがある。というより、他ならぬ聞吾(ぶんご)がくどい程口にしていたのだ。

 

「御友人であられますか」

「友人なんてものではない。生涯の盟友だと、俺は確信している」

 

 そう言って、聞いてもいない二人の来歴について話し始めた。生まれ育った村が戦火に滅んだ彼らは銀浪党(ぎんろうとう)の門を叩き、厳しい試練を突破して一員となったという。

 

 それから、巳助(みすけ)という男がどれだけ知恵が回り、情勢に目を向けているかということを、熱っぽく捲し立ててきた。

 こちらがやや倦んでいるのを、知ってか知らずか。この辺りは、やはり幼さの現れであろう。

 

「ただ、二人ともは旗本となれなかったのですよね」

「向き不向きだ。調練や実戦では見えづらいあいつの良さを、俺は知っている。いずれ軍師に引き上げたいと思うのだが、固辞されてばかりで」

「本当は側に置いておきたいだけだったりして」

 

 揶揄のつもりで瑠璃亜(るりあ)は言ったが、聞吾(ぶんご)は俯き、考え込むように唸った。

 

「身の丈に合わぬ立場になって、寂しさは消えないからな。隠れて会っていると、積もる話もあまりできない」

 

 瑠璃亜(るりあ)は青い両目を見開いた。

 会っているのか、幼馴染と。公には既に死んだ身でありながら。

 

 そのことを知った時、小さな稲妻に貫かれた気がした。それは、ずっと頭の片隅に置いていた疑問を、氷解しうる何かの到来を告げているように思える。

 

 あの襲撃があってから、同じ事態が二度と出来することのないよう、瑠璃亜(るりあ)はそれとなく聞吾(ぶんご)の身辺に注意を払っていた。

 何といっても、緋縅を取り戻す前に死なれては困る。

 

 これまでは何が起こるということはなく、いわば徒労に終わってきたのではあったが。

 

「そうだ。ところで、瑠璃亜(るりあ)

 

 名前ぐらいは、気軽に呼ばれる程度の間柄にはなっている。

 

巳助(みすけ)に誘われたのだが、お前、湯治に行きたくはないか?」

 

 徒労が徒労でなくなる日が、遠からず来そうだった。

 

 ────────

 

 銀浪党(ぎんろうとう)の勢力は主に、《八百波(やおなみ)》の南西に向けて広がっている。

 

 その一角にある名も無き湯治場は、皆が心身を癒す場として、長きに渡り愛されているという。

 白麒(はくき)隊が巡邏するのに適した見晴らしの良い平野に囲まれ、外から襲撃される恐れも無かった。

 

 中央部に建てられた営舎は総大将が休むためのもので、周囲には小さな温泉が幾つか湧き出ている。警固に当たる大隊が交代で入る大きな温泉は、離れにあった。

 

 営舎の中。総面で姿を変えている聞吾(ぶんご)に引き合わされる形で、瑠璃亜(るりあ)巳助(みすけ)と顔を合わせた。

 好きになれそうもない顔、そう思ったのを悟られぬよう気をつける。形自体は整っている方だが、表情に心の底の澱みが滲み出ているかのようだ。この世が自分を不快にするもので構成されている、とでも言いたげである。

 

 営舎は戦功があった者を総大将が招き、共に湯に浸かる栄誉を授ける場でもあった。此度は先の襲撃に遭った際、共に死地を抜けた供廻りや救援に駆け付けた大隊長を、日毎に招じ入れての慰労が行われている。

 そして、今日の二人が最後という訳だった。ほぼ初対面の二人にある共通点。今ならば、それがよく分かる。

 

 しばらく、情勢の話などをした。確かに巳助(みすけ)は、他国の現状に至るまで情報を入れ、よく見ているようだ。称賛する聞吾(ぶんご)も、友人の買い被りで言っているのではなかった。

 

 だが瑠璃亜(るりあ)が注目していたのは、話す内容ではない。巳助(みすけ)の表情の細かい移り変わりだった。

 分かる。感じる。総面の下で笑みを浮かべた聞吾(ぶんご)が称賛する度、不満と憎悪の気配がほんの僅かに、しかし確かに濃さを増すのを。

 

 そこまで分かれば、推測を疑う理由は何も無かった。

 

 徐に、瑠璃亜(るりあ)は腰を上げる。

 

「お二人には積もる話もおありでしょう。真に僭越ながら、お先の湯浴みを御免なれ」

 

 二人の下を辞すと、すぐさま装束を脱いで籠に放り込んだ。営舎と直結した温泉へと歩いてゆく。一糸纏わぬ裸身を撫でる風は、何か予兆めいたものを具えているようにも感じる。

 営舎から僅かに離れた温泉に向かう。途中まで、その痕跡を残しながらだ。

 

 誰も見ていないことを確かめると、瑠璃亜(るりあ)は気配を消して営舎からすぐの温泉に身を投じた。静かに、一滴の飛沫も立てず。

 ここならば、営舎の中で何が起ころうと、立ちどころにそれを把握できるだろう。

 

 身の強張りを解してくれる湯の温もりに息を吐き、思索に耽る。湯面に浮かぶ乳房が、島のように揺蕩っていた。

 

 ひたすら、待つ。事が起こるのを。間違いなく何かが起きるという確信はあるが、それに際してどう動くのかは、現実になってからでなければ判断がつきかねる。

 

 体の外側を包み込む熱が、丹田へと集まってゆくのを感じながら、どれだけの時を過ごしたものか。

 頬に朱が差し、逆上せているように外からは見えるだろう。それでも、頭の中は自分でも驚くほどに冷え、澄み切っていた。

 

 気配。営舎がざわめく。

 

 弾けた。殺意が。

 

 その瞬間に瑠璃亜(るりあ)は立ち上がり、流れ落ちる湯の襦袢を脱ぎ捨て、裸のまま営舎へと駆け出した。

 

 戸を開けて、飛び込む。床を踏み鳴らす音が交錯し、長閑な沈黙を乱している。

 脱いだ装束のある籠を、ちらと見た。そこには唯一の得物である脇差があった筈だが、今は無いとはっきり分かる。「奴」が持ち去ったのだろう。しかし、それならそれで良かった。

 

 着替える時も惜しい。裸身を踊らせ、聞吾(ぶんご)がいる部屋の戸を僅かに開けて、中の様子を伺った。

 

 赤。赤い飛沫。それが床を汚している。

 

 向かって左、総面を外している聞吾(ぶんご)の姿。脇差を抜き放った右腕からは、血が滴っていた。得物を振るうのに支障をきたす程深いものではないと見えたが、右の手先はひどく震えている。

 

 そして、瞳はもっと震えていた。「奴」を……切先が赤く染まった脇差を持つ、巳助(みすけ)を見ながら。

 

巳助(みすけ)、何故だ。何故このような真似をする。乱心したか」

 

 必死の問いかけを聞いた巳助(みすけ)の顔からは、人にあるべき感情の一切が消え失せている。

 

「何故だと?聞いて分からぬ奴に言ったとて時の無駄だが……敢えてこちらから問おう。俺は、お前にとって何だ」

「親友だ!」

 

 聞吾(ぶんご)の声は罅割れていたが、澱みが無かった。

 

「ずっと一緒の、親友だった。育った村が潰れて、銀浪党(ぎんろうとう)に入って、身の丈に合わぬ立場に俺がなっても、ずっと。そして、これからもだ」

 

 巳助(みすけ)は低く笑い始めた。思わず耳を塞ぎたくなるような、死者の呻きにも似ている笑声。

 

「そうだ、俺達はずっと一緒だった。身の上も、立場も、同じ筈だった。しかしお前は、誉れ高き総大将の旗本になった。俺を置き去りにして。そしてその挙句に……」

「ああ、そうだ。偶然だったんだ。到底俺には背負いきれない。だから、お前を軍師として迎えたいと──」

「あの日、お前の居処を土豪どもに売ったのは俺だ」

 

 聞吾(ぶんご)の顔が紙のように白くなる。逆に、瑠璃亜(るりあ)は自分の推測の正しきを知った。

 調練の間隙に乗じた襲撃の裏に、総大将の本当の居処という機密を、売り渡した裏切者がいるのではと思った。しかし、狡猾で抜け目無い往疋(おうそ)ではなく、ろくに統率も取れていない土豪どもを選んだのは何故か。

 

 その疑問が、数日前の聞吾(ぶんご)の一言で氷解した。情報を売った者は聞吾(ぶんご)を亡き者にしたかったが、往疋(おうそ)に得をさせたくもなかった。

 

「どうして」

「俺が物にする銀浪党(ぎんろうとう)は、傷の少ないままにしておきたかったのでな」

 

 勝ち誇ったようた様子の巳助(みすけ)は、唐突に床板の一枚を捲り始めた。その下から現れたのは、引金の付いた鉄の筒……雷火(らいか)を携行可能にした短筒であった。

 

「ところで、この湯治場と営舎は、俺達にとっても思い出深い場所だ。そうだろう」

「そ、そうだ。俺達が御大将のお招きを受け、共に湯に浸かる栄誉を賜った。忘れるものか」

「お前はこう言上したそうだな。本来お前だけが招かれるところ、俺と共に行けぬのであれば意味が無いと。それに感心した大将が、俺も招いたそうだが」

 

 直後に現れたのは、悍ましい程に歪み切った憤怒の相。

 

「俺はお前に、栄誉のおこぼれを与えられた訳だ!まるで物乞いのように!さぞや良い気分であったことだろうな、ええ?」

 

 瑠璃亜(るりあ)は、ふと気づいた。聞吾(ぶんご)と総面……あの緋縅との結びつきが、みるみる内に衰微していることに。

 

 親友に裏切られたこと、その淵源が相当に深いものであった事実を突きつけられ、絶望に心が折れかかっているのだ。

 

 このまま、待てばよい。撃たれて死ぬまでの間に、緋縅との紐帯は完全に消えて失くなる。その後に巳助(みすけ)を抹殺し、緋縅を確保すれば。

 

 それで、務めを全うできる。

 

「お前は既に死んでいる身。しかし、俺だけは覚えておいてやろう。お前の真の死に様を」

 

 引金に、指がかかる。閃光。弾丸が飛び出す。

 

 それは、一直線に聞吾(ぶんご)の体を目指し──、

 

 止まった。

 

 営舎にいる三人。誰一人として、何が起こったか分からなかったに違いない。蒼光が男二人の間を包んだかと思えば、弾丸が空中で静止したのだ。

 

 瑠璃亜(るりあ)には辛うじて分かった。その光が、己の両目から発せられたことが。

 それは理性を、本能をさえも超えた何かの結果だった。

 

「……女狐め!」

 

 部屋に飛び込んだ瑠璃亜(るりあ)を睨め付け、巳助(みすけ)は毒づく。流れを逆しまにし、自分に向かってきた弾丸を躱しながら。

 

 薄衣一つ纏わぬ、丸腰の女ならば与しやすいと見たか、巳助(みすけ)は標的をこちらに変えてくる。

 激情のままに突き出される脇差。銀浪党(ぎんろうとう)の一員として積んだ鍛錬をも忘れているのか、まるで冴えが無かった。

 

 火照った白磁の肌に、一筋の傷を付けることも叶うまい。

 身を翻して乱れ突きを避けつつ、自分の脇差が部屋の片隅にあることが分かった。

 

 上身を僅かに屈め、心気を研ぎ澄ます。

 逸る巳助(みすけ)はそれを好機と見たか、大きすぎる動きで脇差を振りかぶってきた。

 

 その時、瑠璃亜(るりあ)の脇差が意思あるもののように飛び、主の手に収まる。

 遠方にある己の得物を、手元に呼び寄せる術。尋常な武士ならば驚くだろうが、一族にとっては初歩に過ぎなかった。

 

 巳助(みすけ)が驚愕した一瞬に鞘から引き抜き、腹部に刃を突き入れる。衣を、皮膚を、肉を破るしたたかな手応え。

 装束の半ばを真っ赤に染めた巳助(みすけ)が、仰向けに倒れ込んだ。

 

 咄嗟に躱したのか、急所を僅かに逸れたようだ。笛のような音が口から漏れている。

 

「……巳助(みすけ)!」

 

 石のように固まっていた聞吾(ぶんご)が、唇を震わせて近づいてくる。手には、未だ汚れていない脇差。

 息絶え絶えの親友に……裏切者に歩み寄っていく。

 

聞吾(ぶんご)。おお……聞吾(ぶんご)聞吾(ぶんご)……」

「嘘だ。こんなこと、嘘だ……!しっかり……しっかりしろ、巳助(みすけ)っ」

 

 巳助(みすけ)の傍に、聞吾(ぶんご)が座り込む。

 

 目。

 

 見開かれた両目に迸る、憎悪の光。

 

 何処にそんな力を残していたか。がばりと上体を起こした巳助(みすけ)の右手が閃き、脇差を突き出した。

 

 噴き上がる、血の間欠泉。

 

 交錯する二本の脇差。巳助(みすけ)の脇差は虚しく空を切り、聞吾(ぶんご)の脇差は巳助(みすけ)の胸に深々と突き立っていた。

 

 肺腑が破れたのだろう。口から血を溢れ出させた巳助(みすけ)は、何かを発することもできず、虫のように身を捩らせて絶命した。

 

 部屋に重い沈黙が降りる。咽せ返るような血の匂いが立ち昇り、生き残った男と女の鼻を侵した。

 

「殺した……」

 

 聞吾(ぶんご)がぎこちなく口を開け閉めする。

 

「殺した。死んだ……殺したんだ。俺が。俺が……」

 

 許しを乞うように頭を垂れながら、聞吾(ぶんご)は繰り返すばかりだった。

 




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