無源の秋 〜竜の翼は風雲に舞う〜【第二章鋭意執筆中】 作:くコ:彡の本棚
あれは、昨年の暮れのことだった。
原本は全て
あらゆる知識に触れ、何処に行っても前を向ける価値観を育んでほしい。
竜の民として生まれ、《
書かれた国の個性が、筆致や内容に浮き出ているのも興味深い。《
《
竜と共に暮らす伝統、山で生きる心得は、氏族の内で経験と共に継承されるものである。歴史なども、語り部たる呪い師の口伝によって今に残るのが当たり前だ。
人と人、人と竜の交流によって受け継がれる心というものは、確かに尊い。しかし、長い長い歴史に触れる、最も容易い手段を顧みないというのは、あまりに惜しいことではなかろうか。
庵で一人重ねていた思案を中断させる気配を、
土の中を往く地竜の声を聞こうとして、いつしか人の気配も判別し得るようになっていた。それなのに、ここまで近づかれたとも分からなかったとは。
自然体を心がけて、庵を出る。警戒が過ぎれば、かえって破局を招きかねない。
目の前に二人立っていた。具足を纏った、若い男二人だ。先程より感じている密やかな気配の主とは思えない。
「この庵には誰も住んではおらん筈だ。ここで、何をしていた?」
「何をしていた、とはこちらがお聞きしたい。この庵に出入りすることは、以前住んでいた友人に許しを得ていることです」
誰何に応じながら、ちょっとした違和感を覚える。この者達は、庵が無人だと知っているのか。庵を、守らんとしているように見えるのは何故か。
「友人?」
また、別の声。二人が道を開けるように分かれて直立し、威儀をただした。
現れたのは、むくつけな武の気配を漂わせた壮年の男だった。いかにも戦慣れした風貌で、潰れている右目も戦の中で失ったものか。
《
「ひょっとすると、
「私をご存知なのですか?だとすれば」
「我が名は
事を構える必要の無い相手だというのは、分かった。少し話でもしようかと思い立ち、
────────
見かけで人を判断すべきではない。それは当たり前だ。しかし
多分、人と接することに楽しみを見出す性質ではないのだろう。態度も言葉遣いも丁寧ながら、それも相手と距離を置くための手段であるようだ。
ただ、かえって安心できるというところもある。初対面で臆面無く舌を回転させ、おためごかしを絶やさない相手であれば、招いたのを悔いねばならなかったろう。
それにしても、冬は冷える。身を切る寒風が吹き荒ぶ《
「それは『號隆記』か?」
「読んだことがおありで」
「故国の歴史なのでな。子供の頃は主要箇所を諳んじさせられ、うんざりしたものだ」
それを聞いて腑に落ちた。
「我ながら、未練だな」
「何がでしょう?」
「殿の臣たるを決めた時、飛び出した故国は心の内でも捨て去るつもりだった。だのに、今でも書の内容を思い出すことさえできる。嫌になる程に」
ばつが悪そうに首を振りながら、
「貴殿も、何処かの氏族に属する者なのか」
「私がお仕えしているのは、《
それでは伝わらぬかと、
「遍く《
「いわゆる神職、というものかな」
「それが最も近いでしょうね」
「《
その《
「《
「約定」
「そうだ。国と国の威信に関わる条約から、子供同士の他愛ない口約束まで。一度交わした約定は、何を置いても守り通す」
言葉を交わしながら、湯を沸かしていた。立ち昇る湯気に遮られ、
「それに悖る振舞いは、《
「公正ではあります」
「軍勢においても然り。将が誓いを果たさなければ、時に敗北以上に軽蔑される。当たり前のことだが」
滔々と語る声が憂いを帯び始めた時、庵の外から
「始まるか。よければ、共に来てほしい。見せたいものがある」
促されるまま、外に出た。先程誰何してきた二人が、南を指し示している。《
「これから、何が?」
「貴殿の方が詳しかろう。遊竜の儀、というものをやるそうだ」
「なんと」
それは新年の前後に催される、《
ここ十年、凄惨な大戦と絶えぬ小競り合いが原因で、各氏族は飛竜を手元に留め置き続けているのだ。
「隊長、ご覧あれ」
一人が高揚した面持ちで叫んだのと同時に、解き放たれた飛竜の群れが、押し寄せる大波の勢いで現れた。谺する羽音が寒空を揺るがし、こちらにまで振動を伝えてくる。
それは、いずれ飛竜達が次なる戦に駆り出されることをも意味する。それを思えば無邪気に喜んではいられないが、絶えていた伝統の復活を目の当たりにした感慨は、やはり否定し難い。
夾雑物の無い冬の空に降り注ぐ陽の光が飛竜の鱗を照らし、まるで光の雲の如く輝かせた。暫し、言葉も忘れてその様を見つめる。
「紆余曲折という程の経緯ではないにせよ、自分はここに流れ着いた」
独語しているようなさりげない口調で、
「このような光景を見ることができたのだ、多分間違いではなかったのだろう」
微笑を浮かべたように見えたが、あるいは気のせいであったかもしれない。
────────
帰還の途上、あの日の出会いを思い出すのは何故なのか。より印象に残ったのは、見た光景と聞いた話のいずれなのか。
あれから、七月。あまりに激しい変転が《
オロ族の武者五万騎が《
この十年で毀われていた竜の民の矜持を今一度示し、どう在るかを問いかける戦だった。
一歩踏み出した。地竜が土の中を泳ぐ微かな振動を、足の裏で感じながらだ。十歩歩いてはそれを確かめ、進むべき方向を見定める。
向かうは、遍く竜の民が仰ぎ見る聖地。幾重にも張られた結界が守る、神域だった。
谷沿いに進むだけでは決して辿り着くことはできず、気がつけば元いた処に戻っている。正しい道も入る度に変わる。そうした仕掛けが施されていた。
必要なのは地竜の動きを確かめ、仙気の流れを探ることである。幼少より修練を積んでいたこともあり、今では何処に行くにもそうして近道を探すのが習慣になっている程だ。
か細い糸を手繰るような感覚を忘れず、見えざる導の下進み続ける。暫くして山道に入った。右へ左へ、降っては登るを繰り返す。
剥がれ落ちた飛竜の鱗も方々に見えた。いずれは山肌に溶け込み、《
やがて、漂う空気がはっきりと変わり始めた。微かに冷たく、張り詰めたようではあるが、肌を刺してくる感覚はむしろ心地良い。
左右を生い茂る草木に挟まれた坂。木々を搔き分けるのではなく、招き入れられる心持ちで、坂を上り続ける。
頂に辿り着いた時、目の前には山々に築かれた広大な遺跡群と、それに抱かれるように立ち並ぶ数多の天幕があった。
《
そして
《
飛竜が土を食みやすいよう整地を行う者、田畑を耕す者、巡礼の旅に発つ者。其処彼処に見える"守人"は全て、竜神に仕える使命を与えられた同胞だった。
営地の中央に構える大天幕へ、
その騎竜武者達は一見気ままに飛び回っているようで、曲者が近寄れば急降下して両断する構えを、いつも崩さない。
かといって、近づく者悉くを拒絶する剣呑さを発している訳でもなかった。どこまでも自然体の警固。それは、大天幕の主の宸襟を安んずる心配りでもある。
「お入りなさい」
入口の前に立った瞬間、それが見えているように中から声がかけられた。老成した女性の声。促されるまま入ると、無意識の裡に背筋が伸びる。
ここは、豪奢な宮殿ではない。敵と向かい合う城塞でもない。当たり前のことを、歩きながらふと考えた。荘厳な空気は微かな緊張を促し、取り留めのない思案を呼び起こす。
最奥、御帳台(貴人の座す帳付きの台)に至り、
「参上仕りましてございます、我が君」
帳が開かれた。雲の隙間から陽光が差し込むのを見る思いで、目を細める。
「よくぞ戻った。無事の帰還を嬉しゅう思うぞ」
「恐れ多きこと。お健やかであられるようで、何よりにござる」
御帳台に座している小さな影は、まさしく童のそれだった。人としての齢は、ようやく十を過ぎた頃であろう。
しかし、その小さな双肩に背負っているのは、人の想像など及びもつかぬ長きにわたり天地を守り続ける、竜の神性なのだ。
竜神の代行者にして《
「……
「そなたに声をかけてすぐ、裏より出たぞ。何ぞ用があるそうな」
「なるほど。さて──」
帰還の挨拶をするだけならば、もう辞去すればよい。だが、《
何から話そうかと思案する
「この方が聞こえやすいでな。中は狭苦しゅうて、つまらん」
「いけませぬ、尊き御身をみだりに晒されては」
「今だけじゃ。
歯を見せて笑う齢相応の仕草に、
一息つくだけの時を供するのは、崇敬を受けるよりずっと心安らぐものだろう。そうした意義は敢えて考えあぐねることなく、
話の種を増やすにしても書見とは便利なもので、伝奇や怪談の暗誦は特に喜ばれる。それから、《
「海か。前にそなたは、海に住まう竜の民の話をしてくれたな」
「《
やがて、《
「それにしても、
「そうした特異な在り方が、かえって皆を糾合し得る力になったのだとも思えます」
「
「《
買い被るつもりは無かった。《
「もっともなことではあるが、余は南が気にかかってならぬ」
「南というと、《
「まさしく……」
心持ち声を低めた
「骸の兵が動き始めた」
童の声ではなかった。
「仮初めの眠りは千年と続くまいと思うていたが、僅か二百年とはな」
「骸の兵」
「兵どもは集まり、いずれ軍を催す。何処にもあらざる空を裂き、地を揺るがす幽鬼の進撃が始まる」
「何処にもあらざる……」
始まった、と
「心せよ。彼の者らの影は、《
ばっと顔が伏せられる。青々とした黒髪に覆われた顔を、
「朱に染まる鏡は」
止まった。
喉を締め上げられる感覚に、
上げられた顔。髪の隙間から覗く、澄んだ瞳。
「あっ……」
「参った、参った。またいつもの病じゃ。骸の兵とやらは何であろうの?」
肺に溜まっていた空気を吐き出し、
────────
今一人、会っておくべき相手がいた。
向かったのは、《
静かに張り詰めた空気が漂い、神域と呼ぶに相応しい荘厳な雰囲気を湛える丘。その頂に設けられた祭壇で、祈りを捧げる一つの人影がある。
凛とした佇まいが纏っているのは気品であり、貫禄でもあった。
「御台様」
振り向いた顔には幾条かの皺が刻まれていたが、血色の良い肌には僅かな弛みも無い。重き使命を帯びた以上、人は老いることすら許されないのか。そう思ったのは一度や二度ではない。
《
そして、当代において御台の地位に在るのが、水羅《みら》御台であった。今年で六十七という齢を感じさせない、確固とした足取りで近づいてくる。祭壇を見ると、焚かれた香が天に向かって煙を伸ばしていた。
「謁見を終えたようですね。結界に緩みが生じたようで、修繕のためお側を離れたのですが」
「そのおかげをもちまして、恐れながらじっくりとお話をさせていただきましたよ」
御台と話していると妙な懐かしさを覚え、つい甘えた口ぶりになる。敢えて喩えるなら、母親に対するそれに近いのかもしれない。
「それは何よりです。さぞや私に対する悪口に花を咲かせたことでしょうね」
「おや、やはり御台様に隠し事などできようもありませんな」
「戯言を」
身分の上下を問わず、相手が求めることを見抜く。それを叶えるにも、決して恩着せがましくはやらない。それは立場上の責務というより、本人の資質によるものだろう。
そもそも、結界が緩むことなどあり得ない。《
大天幕にしても、そうである。何者かが辰星之君《たつぼしのきみ》を生害する、拐かす、あるいは大天幕に火をかけるといったことを企図しても、大天幕に仕掛けられた術が発動して、立ちどころに下手人を滅却するだろう。だから、大天幕を離れるなどということもできる。
「では、聞きましょうか。お前が両の眼に映した、竜の民の今を」
話す内容は、先程と内容自体に大きな違いは無い。ただし、俗世から隔絶された《
氏族同士の諍い、表に出ぬ折衝、有力氏族の謀略。
御台を相手に話をするのは、そうした配慮を考えてのことでもあった。
「ほう、件の
「
春の大戦、《
あれは、忍びだったのだろう。
周到な準備を重ねて
「彼の者に目的があるとすれば、それを言い表すのは容易きこと」
「つまり?」
「《
そう言って深く息を吐き、瞑目した御台にかける言葉を、
御台は"守人"を束ねる身として《
かつて御台が御台でない一人の"守人"、
事の発端は四十年前、
竜神の威光は遍く《
それのみでは救えぬ民、正し得ない不条理があると、御台は考えているようだった。
あるいは
御台が目を開いた。
「ところで、またも神託があったようですね?」
「左様です。それをお伝えせねばと」
すなわち、その身に竜神の意識を降ろすことにより、預言という形で御告げを口にするのだ。
当人にとっては、決して心安らぐものではあるまい。何を語っていたかの記憶こそ残っているが、それが何を意味するかは分からないのだから。
己が口にする事柄の意味が分からないというのは、小さからぬ不安の種だろう。
重要だと思われる言葉をかいつまんで、御台に伝えておくことにした。骸の兵、何処にもあらざる天地、死せる凶星、朱に染まる鏡。
「何処にもあらざる、とは《
「はい。《
「当地のことは、其処で生まれ育ちし者に聞くのがよろしいでしょうね」
「いずれにせよ、我らが君の御心を煩わせずに事が済めば、それに越したことはありません。苦労をかけてしまいますが」
「思うところは私とて同じ。一先ず北に足を運ぼうかと」
「せめてあと三日、ここで羽を休めた後になさい」
玉虫色をした御台の双眸、複雑な輝きが折り重なる。偽らざる本音を口にする時の、証だった。
「外を巡ってきたお前と話す時を得られることを、我らが君はどれだけ楽しみにしておられることか。お前が考えているより、遥かに」
「はっ……」
「齢の離れた親友、とさえ思っておられましょう」
御台に脈絡の無いことを言われるのには慣れていたつもりの
「何とも、恐れ多きことを仰せになります」
「貴人に対し距離を置くことで礼を尽くすのは当たり前ですが、当の御相手に寂寥を押しつけることもある。少しだけ捨てることも、時にはよろしいかと思います」
薄く微笑んだ御台は返答を待たず、踵を返して祭壇へと戻っていった。
呆気に取られていた
御台が語ったのは、より普遍的な人付き合いに纏わる心得であったかもしれない。そう思った。
もっと、肚を割って話をすべきかもしれない。
霧に煙る丘の向こう、《
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