無源の秋 〜竜の翼は風雲に舞う〜【第二章鋭意執筆中】   作:くコ:彡の本棚

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神域の守人

 

 あれは、昨年の暮れのことだった。

 

 遼兵衛(りょうべえ)の仕官が決まって住む者がいなくなった庵を、覚承(かくしょう)は事あるごとに訪っていた。蓄えられた膨大な蔵書で、書見に勤しむためである。

 

 原本は全て遼兵衛(りょうべえ)が仕官先に移したが、姉弟が各々の術で写本を作ってくれたのだ。主に珠幸で入手した書物の種類は多岐にわたり、史書に地誌、兵学書、貴人の日記から子供向けの草子まで揃っていた。

 

 あらゆる知識に触れ、何処に行っても前を向ける価値観を育んでほしい。遼兵衛(りょうべえ)の親心が棚に見えるようで、微笑ましく思ったものだ。

 

 竜の民として生まれ、《久々鱗(くくり)》を出た経験が無い覚承(かくしょう)にとっても、書を通じて得られる知見は貴重な財産だった。

 

 書かれた国の個性が、筆致や内容に浮き出ているのも興味深い。《聖華(しょうか)》の書は、千年にわたり洗練された文化の華麗なるを雄弁に語り、《金號(きんごう)》の書は、新天地で逞しく生き抜く人々の知恵と勇気を伝えている。

 

 《久々鱗(くくり)》に刻まれた累代の歴史、根付いている人の営みも、決して引けを取るものではない。だが、書という形で残ってはいないのだ。

 

 竜と共に暮らす伝統、山で生きる心得は、氏族の内で経験と共に継承されるものである。歴史なども、語り部たる呪い師の口伝によって今に残るのが当たり前だ。

 

 人と人、人と竜の交流によって受け継がれる心というものは、確かに尊い。しかし、長い長い歴史に触れる、最も容易い手段を顧みないというのは、あまりに惜しいことではなかろうか。

 

 庵で一人重ねていた思案を中断させる気配を、覚承(かくしょう)は感じた。複数の人間、庵を囲い込んでいる。

 

 土の中を往く地竜の声を聞こうとして、いつしか人の気配も判別し得るようになっていた。それなのに、ここまで近づかれたとも分からなかったとは。

 

 自然体を心がけて、庵を出る。警戒が過ぎれば、かえって破局を招きかねない。

 

 目の前に二人立っていた。具足を纏った、若い男二人だ。先程より感じている密やかな気配の主とは思えない。

 

「この庵には誰も住んではおらん筈だ。ここで、何をしていた?」

「何をしていた、とはこちらがお聞きしたい。この庵に出入りすることは、以前住んでいた友人に許しを得ていることです」

 

 誰何に応じながら、ちょっとした違和感を覚える。この者達は、庵が無人だと知っているのか。庵を、守らんとしているように見えるのは何故か。

 

「友人?」

 

 また、別の声。二人が道を開けるように分かれて直立し、威儀をただした。

 

 現れたのは、むくつけな武の気配を漂わせた壮年の男だった。いかにも戦慣れした風貌で、潰れている右目も戦の中で失ったものか。

 

 《久々鱗(くくり)》ではあまり感じたことのない、雰囲気を纏っているような気もする。

 

「ひょっとすると、覚承(かくしょう)殿」

「私をご存知なのですか?だとすれば」

「我が名は修伍(しゅうご)。軍師殿の御友人に対する無礼、平に容赦されたい」

 

 事を構える必要の無い相手だというのは、分かった。少し話でもしようかと思い立ち、覚承(かくしょう)は主不在の庵に修伍(しゅうご)を招じ入れた。

 

 ────────

 

 見かけで人を判断すべきではない。それは当たり前だ。しかし修伍(しゅうご)は外見の印象そのままに、話の弾まない男だった。

 

 多分、人と接することに楽しみを見出す性質ではないのだろう。態度も言葉遣いも丁寧ながら、それも相手と距離を置くための手段であるようだ。

 

 ただ、かえって安心できるというところもある。初対面で臆面無く舌を回転させ、おためごかしを絶やさない相手であれば、招いたのを悔いねばならなかったろう。

 

 それにしても、冬は冷える。身を切る寒風が吹き荒ぶ《久々鱗(くくり)》の冬は、鋭いと形容するのが正しかった。覚承(かくしょう)は湯を沸かすために腰を上げた。

 

「それは『號隆記』か?」

 

 修伍(しゅうご)が口にしたのは、一時棚に戻そうとした書の題名だった。苦難の北伐から《聖華(しょうか)》よりの独立に至るまで、波乱に満ちた《金號(きんごう)》の興隆について記されている。

 

「読んだことがおありで」

「故国の歴史なのでな。子供の頃は主要箇所を諳んじさせられ、うんざりしたものだ」

 

 それを聞いて腑に落ちた。修伍(しゅうご)の独特な雰囲気とは、異国人なるが故のものなのだろう。

 

「我ながら、未練だな」

「何がでしょう?」

「殿の臣たるを決めた時、飛び出した故国は心の内でも捨て去るつもりだった。だのに、今でも書の内容を思い出すことさえできる。嫌になる程に」

 

 ばつが悪そうに首を振りながら、修伍(しゅうご)覚承(かくしょう)の出で立ちに興味を抱いたようだ。

 

「貴殿も、何処かの氏族に属する者なのか」

「私がお仕えしているのは、《久々鱗(くくり)》の山々に息づく人竜の結びつきそのものですよ」

 

 それでは伝わらぬかと、覚承(かくしょう)は表現を変えようとする。

 

「遍く《久々鱗(くくり)》を守り照らす竜神、その代行者たる御方の座す地を、守る使命に生きる者達です。抽象的な物言いとなってしまい、申し訳ありませんが」

「いわゆる神職、というものかな」

「それが最も近いでしょうね」

「《聖華(しょうか)》でも、仙術という叡智に神を見ている」

 

 その《聖華(しょうか)》に背を向けて成立した《金號(きんごう)》では、神を戴く思想がきわめて希薄であるという。

 

「《金號(きんごう)》で生きる規範となるのは、約定だ」

「約定」

「そうだ。国と国の威信に関わる条約から、子供同士の他愛ない口約束まで。一度交わした約定は、何を置いても守り通す」

 

 言葉を交わしながら、湯を沸かしていた。立ち昇る湯気に遮られ、修伍(しゅうご)の表情は窺い知れない。

 

「それに悖る振舞いは、《金號(きんごう)》において最悪の罪業だ。法という約定を破った民を王は罰し、公約を忘れた王を民は見放す」

「公正ではあります」

「軍勢においても然り。将が誓いを果たさなければ、時に敗北以上に軽蔑される。当たり前のことだが」

 

 滔々と語る声が憂いを帯び始めた時、庵の外から修伍(しゅうご)を呼ぶ声がする。

 

「始まるか。よければ、共に来てほしい。見せたいものがある」

 

 促されるまま、外に出た。先程誰何してきた二人が、南を指し示している。《解軛門(かいやくもん)》の方角だった。

 

「これから、何が?」

「貴殿の方が詳しかろう。遊竜の儀、というものをやるそうだ」

「なんと」

 

 それは新年の前後に催される、《久々鱗(くくり)》伝統の祭礼だった。人を乗せ続けた飛竜を好きに飛び回らせ、その心身を慰労する。人間の都合がために戦場で散らした飛竜の魂を、在るべき処へ帰すためでもある。

 

 ここ十年、凄惨な大戦と絶えぬ小競り合いが原因で、各氏族は飛竜を手元に留め置き続けているのだ。

 

「隊長、ご覧あれ」

 

 一人が高揚した面持ちで叫んだのと同時に、解き放たれた飛竜の群れが、押し寄せる大波の勢いで現れた。谺する羽音が寒空を揺るがし、こちらにまで振動を伝えてくる。

 

 覚承(かくしょう)はそれを通じて、人界の喧騒を忘れて空を舞う飛竜の歓喜を、はっきり感じ取った。存分に気晴らしを果たした後は、安住の地たる《解軛門(かいやくもん)》に戻り、春の訪れまで翼を休めるのだろう。

 

 それは、いずれ飛竜達が次なる戦に駆り出されることをも意味する。それを思えば無邪気に喜んではいられないが、絶えていた伝統の復活を目の当たりにした感慨は、やはり否定し難い。

 

 夾雑物の無い冬の空に降り注ぐ陽の光が飛竜の鱗を照らし、まるで光の雲の如く輝かせた。暫し、言葉も忘れてその様を見つめる。

 

「紆余曲折という程の経緯ではないにせよ、自分はここに流れ着いた」

 

 独語しているようなさりげない口調で、修伍(しゅうご)は言った。

 

「このような光景を見ることができたのだ、多分間違いではなかったのだろう」

 

 微笑を浮かべたように見えたが、あるいは気のせいであったかもしれない。

 

 ────────

 

 帰還の途上、あの日の出会いを思い出すのは何故なのか。より印象に残ったのは、見た光景と聞いた話のいずれなのか。覚承(かくしょう)は歩を進めながら、そんなことを考えた。

 

 あれから、七月。あまりに激しい変転が《久々鱗(くくり)》に起こった、否、起こっている。

 オロ族の武者五万騎が《至空山(しくうざん)》に集い、精強を誇る《金號(きんごう)》軍を撃ち破った大戦。奪われていた西の領域を取り戻した、というだけの話ではない。

 

 この十年で毀われていた竜の民の矜持を今一度示し、どう在るかを問いかける戦だった。覚承(かくしょう)はそう思う。言葉に起こすことはできずとも、忘れ難いものが心に根を張り始めた者は、少なくない筈だ。

 

 覚承(かくしょう)は切り立った谷を前にして、内心で口を閉ざした。ひたすら静寂を求めて心気を統一すると、風にそよぐ木々の音さえも耳に届かない。

 一歩踏み出した。地竜が土の中を泳ぐ微かな振動を、足の裏で感じながらだ。十歩歩いてはそれを確かめ、進むべき方向を見定める。

 

 向かうは、遍く竜の民が仰ぎ見る聖地。幾重にも張られた結界が守る、神域だった。

 

 谷沿いに進むだけでは決して辿り着くことはできず、気がつけば元いた処に戻っている。正しい道も入る度に変わる。そうした仕掛けが施されていた。

 

 必要なのは地竜の動きを確かめ、仙気の流れを探ることである。幼少より修練を積んでいたこともあり、今では何処に行くにもそうして近道を探すのが習慣になっている程だ。

 

 か細い糸を手繰るような感覚を忘れず、見えざる導の下進み続ける。暫くして山道に入った。右へ左へ、降っては登るを繰り返す。

 剥がれ落ちた飛竜の鱗も方々に見えた。いずれは山肌に溶け込み、《久々鱗(くくり)》の一部となってゆくだろう。

 

 やがて、漂う空気がはっきりと変わり始めた。微かに冷たく、張り詰めたようではあるが、肌を刺してくる感覚はむしろ心地良い。

  

 左右を生い茂る草木に挟まれた坂。木々を搔き分けるのではなく、招き入れられる心持ちで、坂を上り続ける。

 頂に辿り着いた時、目の前には山々に築かれた広大な遺跡群と、それに抱かれるように立ち並ぶ数多の天幕があった。

 

竜神陵(りゅうじんりょう)》。竜の故郷にして、旅の果てに竜の民が辿り着いた、《久々鱗(くくり)》発祥の地。

 そして覚承(かくしょう)にとっては、何にも代え難い生きる寄る辺である。

 

久々鱗(くくり)》の地に永久の加護を与え、全ての竜に祝福を齎すとされる竜神の伝説を受け継ぐ、この地を与る者達は"守人"と総称される。

 

 飛竜が土を食みやすいよう整地を行う者、田畑を耕す者、巡礼の旅に発つ者。其処彼処に見える"守人"は全て、竜神に仕える使命を与えられた同胞だった。

 

 営地の中央に構える大天幕へ、覚承(かくしょう)は一歩ずつ近づいてゆく。出入口には警固が一人もいないように見えるが、空にはいるのだ。

 その騎竜武者達は一見気ままに飛び回っているようで、曲者が近寄れば急降下して両断する構えを、いつも崩さない。

 

 かといって、近づく者悉くを拒絶する剣呑さを発している訳でもなかった。どこまでも自然体の警固。それは、大天幕の主の宸襟を安んずる心配りでもある。

 

「お入りなさい」

 

 入口の前に立った瞬間、それが見えているように中から声がかけられた。老成した女性の声。促されるまま入ると、無意識の裡に背筋が伸びる。

 

 ここは、豪奢な宮殿ではない。敵と向かい合う城塞でもない。当たり前のことを、歩きながらふと考えた。荘厳な空気は微かな緊張を促し、取り留めのない思案を呼び起こす。

 

 最奥、御帳台(貴人の座す帳付きの台)に至り、覚承(かくしょう)は跪いた。

 

「参上仕りましてございます、我が君」

 

 帳が開かれた。雲の隙間から陽光が差し込むのを見る思いで、目を細める。

 

「よくぞ戻った。無事の帰還を嬉しゅう思うぞ」

「恐れ多きこと。お健やかであられるようで、何よりにござる」

 

 御帳台に座している小さな影は、まさしく童のそれだった。人としての齢は、ようやく十を過ぎた頃であろう。

 

 しかし、その小さな双肩に背負っているのは、人の想像など及びもつかぬ長きにわたり天地を守り続ける、竜の神性なのだ。

 

 竜神の代行者にして《久々鱗(くくり)》の真なる宗主、その御名を辰星之君(たつぼしのきみ)という。

 

「……水羅(みら)御台は何処に?」

「そなたに声をかけてすぐ、裏より出たぞ。何ぞ用があるそうな」

「なるほど。さて──」

 

 帰還の挨拶をするだけならば、もう辞去すればよい。だが、《竜神陵(りゅうじんりょう)》を出ることも滅多に能わない辰星之君(たつぼしのきみ)には、外より戻った者の話を聞くという楽しみがある。

 

 何から話そうかと思案する覚承(かくしょう)の前に、影が舞い降りた。辰星之君(たつぼしのきみ)が御帳台を降りたのだ。

 

「この方が聞こえやすいでな。中は狭苦しゅうて、つまらん」

「いけませぬ、尊き御身をみだりに晒されては」

「今だけじゃ。水羅(みら)の小言を気にせんでよいことなど、滅多にあるまい」

 

 歯を見せて笑う齢相応の仕草に、覚承(かくしょう)はかえって痛ましさを覚えた。童として当然の情動の多くを、押さえつけられる御身である。

 

 一息つくだけの時を供するのは、崇敬を受けるよりずっと心安らぐものだろう。そうした意義は敢えて考えあぐねることなく、覚承(かくしょう)は口を動かし始めた。

 

 話の種を増やすにしても書見とは便利なもので、伝奇や怪談の暗誦は特に喜ばれる。それから、《珠幸(じゅこう)》で見かけた珍品や芸人の話に、泊に繋がれた大船の話。

辰星之君(たつぼしのきみ)は大きく身を乗り出しており、御帳台の上にいては転げ落ちていたかもしれぬ。

 

「海か。前にそなたは、海に住まう竜の民の話をしてくれたな」

「《珠幸(じゅこう)》にも、来ていることでしょう。彼らは進んで身分を明かすことなく、漁や交易に従事していると聞きます」

 

 やがて、《魏糧川(ぎろうがわ)》での大戦が口の端に上った。強敵を相手に奮戦した武者達の華々しい武働きに、辰星之君(たつぼしのきみ)は目を輝かせたが、数多の兵や飛竜が戦場に散ったことに思い至ると、悼むように瞑目した。

 

「それにしても、無源(むげん)のことよ。余の知る古今の《久々鱗(くくり)》武者と比して、随分趣が違う気がする」

「そうした特異な在り方が、かえって皆を糾合し得る力になったのだとも思えます」

覚承(かくしょう)はそのように思うのだな」

「《久々鱗(くくり)》を掻き回すお人ではございましょう。良きか悪しきか、未だ掴みかねてはおりますが」

 

 買い被るつもりは無かった。《久々鱗(くくり)》に齎されるべき安寧とは何か。その答えもあやふやな情勢の中で、無源(むげん)という男の存在が如何なる意味を持つのか、軽率に断じる訳にはいくまい。家臣として仕える遼兵衛(りょうべえ)も、そう思っているだろうか。

 

「もっともなことではあるが、余は南が気にかかってならぬ」

「南というと、《聖華(しょうか)》が何か?」

「まさしく……」

 

 心持ち声を低めた辰星之君(たつぼしのきみ)の目を、覚承(かくしょう)は注意深く覗き込む。その瞳に、人界のものとも思い難い煌めきがある。

 

「骸の兵が動き始めた」

 

 童の声ではなかった。

 

「仮初めの眠りは千年と続くまいと思うていたが、僅か二百年とはな」

「骸の兵」

「兵どもは集まり、いずれ軍を催す。何処にもあらざる空を裂き、地を揺るがす幽鬼の進撃が始まる」

「何処にもあらざる……」

 

 始まった、と覚承(かくしょう)は息を吞みつつ、できることは鸚鵡返しだけだった。少年の顔からは表情が消え失せ、上体を振り子のように揺らしている。

 

「心せよ。彼の者らの影は、《久々鱗(くくり)》の地にも既に差しておる。北じゃ。死せる凶星は遠からず飛び立とうぞ」

 

 ばっと顔が伏せられる。青々とした黒髪に覆われた顔を、覚承(かくしょう)は窺えなくなった。

 

「朱に染まる鏡は」

 

 止まった。

 

 喉を締め上げられる感覚に、覚承(かくしょう)は耐え続ける。ほんの僅かな間である筈の沈黙が、ひどく長い。

 

 上げられた顔。髪の隙間から覗く、澄んだ瞳。

 

「あっ……」

 

 辰星之君(たつぼしのきみ)は両目を瞬かせ、鼻の頭を掻いて破顔した。

 

「参った、参った。またいつもの病じゃ。骸の兵とやらは何であろうの?」

 

 肺に溜まっていた空気を吐き出し、覚承(かくしょう)は微笑んだ。お戻りになられた、という安堵が胸中にある。

 

 ────────

 

 今一人、会っておくべき相手がいた。

 

 向かったのは、《竜神陵(りゅうじんりょう)》で祀られる御神体、それを仰ぎ見る丘である。天候如何に関わらず、濃い霧の垂れ込める一帯だった。

 

 静かに張り詰めた空気が漂い、神域と呼ぶに相応しい荘厳な雰囲気を湛える丘。その頂に設けられた祭壇で、祈りを捧げる一つの人影がある。

 

 凛とした佇まいが纏っているのは気品であり、貫禄でもあった。

 

「御台様」

 

 振り向いた顔には幾条かの皺が刻まれていたが、血色の良い肌には僅かな弛みも無い。重き使命を帯びた以上、人は老いることすら許されないのか。そう思ったのは一度や二度ではない。

 

竜神陵(りゅうじんりょう)》における御台とは、竜神の代行者たる存在の養育を担う、女性の傅役を指す。"守人"の活動を総括し、万一の有事においては対応の指揮を取ることにもなっている。

 

 そして、当代において御台の地位に在るのが、水羅《みら》御台であった。今年で六十七という齢を感じさせない、確固とした足取りで近づいてくる。祭壇を見ると、焚かれた香が天に向かって煙を伸ばしていた。

 

「謁見を終えたようですね。結界に緩みが生じたようで、修繕のためお側を離れたのですが」

「そのおかげをもちまして、恐れながらじっくりとお話をさせていただきましたよ」

 

 御台と話していると妙な懐かしさを覚え、つい甘えた口ぶりになる。敢えて喩えるなら、母親に対するそれに近いのかもしれない。

 

「それは何よりです。さぞや私に対する悪口に花を咲かせたことでしょうね」

「おや、やはり御台様に隠し事などできようもありませんな」

「戯言を」

 

 覚承(かくしょう)にはとうに分かっていた。辰星之君(たつぼしのきみ)に安息の時を与えるため、御台は適当な理由をつけて大天幕を離れたのだと。

 身分の上下を問わず、相手が求めることを見抜く。それを叶えるにも、決して恩着せがましくはやらない。それは立場上の責務というより、本人の資質によるものだろう。

 

 そもそも、結界が緩むことなどあり得ない。《竜神陵(りゅうじんりょう)》を守る結界は遥か数百年前以来のもので、それを制御するのも御台の役儀であるが、その技量は歴代で三指に入ると言われているのだ。

 

 大天幕にしても、そうである。何者かが辰星之君《たつぼしのきみ》を生害する、拐かす、あるいは大天幕に火をかけるといったことを企図しても、大天幕に仕掛けられた術が発動して、立ちどころに下手人を滅却するだろう。だから、大天幕を離れるなどということもできる。

 

「では、聞きましょうか。お前が両の眼に映した、竜の民の今を」

 

 話す内容は、先程と内容自体に大きな違いは無い。ただし、俗世から隔絶された《竜神陵(りゅうじんりょう)》が《久々鱗(くくり)》の現況を把握するための、重要な務めだという色を帯びることとなる。

 

 氏族同士の諍い、表に出ぬ折衝、有力氏族の謀略。辰星之君(たつぼしのきみ)の耳には、あまり入れたくない話も多い。現実を忌憚無く伝えることが大事なのは無論だが、故郷たる《久々鱗(くくり)》への失望を抱いてほしくはない。

 御台を相手に話をするのは、そうした配慮を考えてのことでもあった。

 

「ほう、件の無源(むげん)が《金號(きんごう)》の間者を」

涼綺(りょうき)の潔白なるを証ずるため、という形ではございましたが。居合わせた者どもは逆の意味で捉えたことでしょう」

 

 春の大戦、《至空山(しくうざん)》の本陣にて起きた騒動。その仔細を聞き、覚承(かくしょう)には一つ腑に落ちたことがある。昨年末、庵の外に感じながら、その元を最後まで掴めなかった気配のことだ。

 

 あれは、忍びだったのだろう。修伍(しゅうご)の指揮下、《久々鱗(くくり)》の山中で動く調練をしていたのだ。《金號(きんごう)》の間者を捕縛するために。

 

 周到な準備を重ねて涼綺(りょうき)の背信を暴いた無源(むげん)の目的が奈辺にあるか、未だ判然としなかった。《金號(きんごう)》による不正な干渉を断ち切りたかった、というのはあるだろう。しかし、それだけか。

 

 涼綺(りょうき)氏はといえば、《至空山(しくうざん)》での一件で求心力を失い、同心する有力氏族らに足元を見られてもいるらしい。徒党における首のすげ替えとは、往々にしてこうした形で起こるものかもしれぬ。

 

「彼の者に目的があるとすれば、それを言い表すのは容易きこと」

「つまり?」

「《久々鱗(くくり)》の在り様に対する、不敵にして不遜なる挑戦」

 

 そう言って深く息を吐き、瞑目した御台にかける言葉を、覚承(かくしょう)は見つけることができなかった。

 

 御台は"守人"を束ねる身として《竜神陵(りゅうじんりょう)》の戒律に忠実だが、戒律そのものを変えようとしかねない急進的なところがある。

 かつて御台が御台でない一人の"守人"、水羅(みら)だった頃。二十年の長きに渡り《竜神陵(りゅうじんりょう)》への出入りを禁じられていたことがあるらしい。

 

 事の発端は四十年前、覚承(かくしょう)が生まれる前の話であるから、詳しくは知らない。様々な噂に照らすと、当時オロ宗家がミズ族に対し不当な仕置を行っており、《竜神陵(りゅうじんりょう)》の権威を以てそれを正すべきと強硬に主張したようだ。

 

 竜神の威光は遍く《久々鱗(くくり)》を照らせど、支配はしない。それは絶対の大原則であり、だからこそ全ての竜の民が尊崇の念を抱き、《久々鱗(くくり)》はあくまで一つで在り続けてきた。

 それのみでは救えぬ民、正し得ない不条理があると、御台は考えているようだった。

 

 あるいは無源(むげん)の動きについて、為したくても為し得なかったことに他ならないと思っているのかもしれない。

 

 御台が目を開いた。

 

「ところで、またも神託があったようですね?」

「左様です。それをお伝えせねばと」

 

 辰星之君(たつぼしのきみ)が現世に生を受けてより背負う、竜神の名代たる宿命。それが目に見える形で現れるのが、神託、または啓示と呼び慣わされるものだった。

 

 すなわち、その身に竜神の意識を降ろすことにより、預言という形で御告げを口にするのだ。

 

 当人にとっては、決して心安らぐものではあるまい。何を語っていたかの記憶こそ残っているが、それが何を意味するかは分からないのだから。

 己が口にする事柄の意味が分からないというのは、小さからぬ不安の種だろう。

 

 重要だと思われる言葉をかいつまんで、御台に伝えておくことにした。骸の兵、何処にもあらざる天地、死せる凶星、朱に染まる鏡。

 

「何処にもあらざる、とは《竜神陵(りゅうじんりょう)》と通ずるところのある言葉ではありますまいか」

「はい。《聖華(しょうか)》に、竜神の聖地があるとは思い難いのですが」

「当地のことは、其処で生まれ育ちし者に聞くのがよろしいでしょうね」

 

 無源(むげん)に渡りをつけ、手掛かりを得よと言っているのかもしれない。あの軍勢には《聖華(しょうか)》より移って、手腕を発揮している者も多いのだ。

 遼兵衛(りょうべえ)に取次役を頼めば、困難なことではなかろう。

 

「いずれにせよ、我らが君の御心を煩わせずに事が済めば、それに越したことはありません。苦労をかけてしまいますが」

「思うところは私とて同じ。一先ず北に足を運ぼうかと」

「せめてあと三日、ここで羽を休めた後になさい」

 

 玉虫色をした御台の双眸、複雑な輝きが折り重なる。偽らざる本音を口にする時の、証だった。

 

「外を巡ってきたお前と話す時を得られることを、我らが君はどれだけ楽しみにしておられることか。お前が考えているより、遥かに」

「はっ……」

「齢の離れた親友、とさえ思っておられましょう」

 

 御台に脈絡の無いことを言われるのには慣れていたつもりの覚承(かくしょう)も、それには流石に狼狽えた。

 

「何とも、恐れ多きことを仰せになります」

「貴人に対し距離を置くことで礼を尽くすのは当たり前ですが、当の御相手に寂寥を押しつけることもある。少しだけ捨てることも、時にはよろしいかと思います」

 

 薄く微笑んだ御台は返答を待たず、踵を返して祭壇へと戻っていった。

 

 呆気に取られていた覚承(かくしょう)だったが、その背を見送る中で平静を取り戻してゆく。

 御台が語ったのは、より普遍的な人付き合いに纏わる心得であったかもしれない。そう思った。

 

 もっと、肚を割って話をすべきかもしれない。辰星之君(たつぼしのきみ)と、それから御台ともだ。あるいは御台は、言外にその望みを伝えてきたのであろうか。

 

 霧に煙る丘の向こう、《竜神陵(りゅうじんりょう)》の御神体を仰ぎ見る。白い帳に覆われて、全容を確かめようもなかった。

 




 
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▼ これは、英雄に憧れた少年が――いつか、誰かにとっての英雄になるまでの物語。▼ 生まれてから十七年。▼ 母と二人、森の奥で暮らしていた少年ルキウスは、物語に登場する英雄へ憧れ、ハンターになるため旅へ出る。▼ 胸が躍るような冒険を夢見て辿り着いた、自由交易都市エルドラン。▼ そこで彼は、この世界の常識を初めて知った。▼「え? 人間は千年前に滅んだ種族?」▼「…


総合評価:1660/評価:8.45/連載:69話/更新日時:2026年08月31日(月) 21:00 小説情報

【書籍化】異世界転生周回プレイもの(作者:にーしち)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

主人公「なぜ俺が選ばれたんですか?」▼女神様「貴方には素養があります。私の願いを叶えるのに必要不可欠な素養が」▼主人公「それは......?」▼女神様「貴方がどんなゲームも100%達成トロコンしないと納得できず千回だろうと一万回だろうと周回して全てを遊び倒す究極クソ廃人だからです」▼主人公「なるほど!」▼※カクヨムでも連載中です▼※2026年7月20日、オー…


総合評価:31159/評価:9.18/連載:34話/更新日時:2026年08月27日(木) 18:15 小説情報

死霊術師でも英雄になれますか?(作者:久川 晶 (旧:パリスタパリス))(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

『いや、これで英雄は無理じゃない……?』――ある同級生の言葉。▼※第一章完結しました。▼※カクヨム様にてマルチ投稿しています。


総合評価:11316/評価:8.98/連載:20話/更新日時:2026年08月18日(火) 19:35 小説情報


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