無源の秋 〜竜の翼は風雲に舞う〜【11月22日(日) 第二章開幕】 作:くコ:彡の本棚
勝利をもって奸臣を退け、国政を正道に立ち戻させる。
父からそう告げられた時、
やはり、父は座して宮中の腐敗を待つような人ではない。栄えある皇国の将軍として、起とうとの意志を抱き続けてきたのだ。
気がつくと、弓美寿々は立ち上がっていた。隣の
「
「待てというに。今日明日に軍を催すとは言うておらん」
「認めるに忍びないことを、まず認めねばならぬ。羅聖近衛の専横を憎む文武官の足場は非常に脆く、軍さえも首根を押さえられている現状をな」
「大蔵省や軍部省に相当食い込まれているという噂は、やはり」
塩砕の言葉に、十鵠は苦虫を噛み潰しながら頷く。財政と軍政を統括する各々の省を汚染しているからこそ、羅聖近衛は確固たる権勢を築きつつあるのだろう。
《
「かくも閉塞的な情勢下では、直ちに事を起こしたくもなろうが、ゆめそれはならぬぞ。数年越しの入念な準備を整え、容易に瓦解せぬ反攻の礎を築くことこそ肝要だ」
《斬穢関》以西を描いた地図が、目の前に広げられた。十鵠の指は皇都を発し、《
「南の諸勢力への押さえとして築かれた砦、それを与る
言いたいことはよく分かる。《浜床砦》は皇都より離れているため、力を蓄えるにうってつけであろう。《邇倭須江》に面しているため、水陸両面での進軍や輸送も可能だ。
そこまで考えて、弓美寿々ははっとした。
奸臣を除くという立派な名分があるとはいえ、皇都に進撃する軍勢に列する自分を幻視したのである。この感情を何と呼ぶかの答えを見出せず、ただ首筋に汗が張りつく。
その時、左肩に重さを感じた。慣れ親しんだ温もり。顔を上げると、目の前には宥めるような父の顔。
「続けるぞ。この砦に弱点があるとすれば、それは《斬穢関》であろう。我らの意図を察した者がここに手勢を篭めれば、後背に脅威を抱え込むこととなる」
「そちらにも心利きたる方を置くいうんは……」
「露骨すぎるな、その動きは。不穏の動きありと讒訴されては意味があるまい」
それから、同心が期待できそうな人物の名前を三人で出し合った。如何なる形での助力が望めるか、あるいは立場に縛られて加勢は困難であろうとの見立てを重ねてゆく。
言葉を交わす限り、父はいたって平静に見えた。国を救うためとはいえ、皇都に弓を引く行いに何ら悩むところは無いのか。
そんな筈はなかった。自分が生まれる前から、皇国の矛かつ楯として戦い続けてきた父の想いは、考えも及ばぬ程に重く大きかろう。
理性で導き出した大義と、心に刻まれた宿将としての在り方の摩擦。それを乗り越えるに至った答えとは何であるのか、親子といえど軽々しく聞けるものではなかった。
「姫様と自分は、如何様に動けばよろしゅうございますか?」
差し当たり、弓美寿々には一番気になる事項である。十鵠は再び地図に指を這わせ始めた。
「よく見るがよい」
再び、指が皇都を発つ。そのまま《浜床》、《斬穢関》と東に向かって滑っていき、やがて地図を突き抜けてしまった。
「二人で若衆を率い、関を越えよ。そして、当地の土豪と誼を結ぶのだ」
塩砕と二人で顔を見合わせた。下向せよとの命が、自分でも不思議な程に重く聞こえたのもあるが、それ以上に、父の思考がどうにも測り得ないものであると思えてならぬ。
「せやけど、地縁も血縁も無い方々というんに」
「これから作ればよい。土地や血脈に、縛られることのない縁をな」
二つの意味がある布石であると、十鵠は語る。《斬穢関》の動向を都度確認し、こちらに仇なすと思われた場合、報告を上げて警告すること。
そして、当地において可能な限り多くの義勇兵を募り、戦に耐え得るように調練を施すこと。
「殿?申し上げ難きことなれど、彼の地で募兵を行うのは──」
訝しむ塩砕の言葉を遮るように、弓美寿々は再び立ち上がった。今度は十鵠も止めようとせず、じっと視線を注ぎ続けている。
「寿々は真に嬉しゅうございます。軍略を語らう相手に、わたくしをお選びくだはったことが」
「そうだ。武門の娘たるお前ならば、重々承知していよう。我が心の裡を聞いた以上、いずれか選ぶべき二つの道を」
悩む時は必要なかった。ずっと以前より心に秘めていた答えを、はっきりと伝えればよいだけのこと。小さく息を吸い込む。
「お受けいたしまする。御父様は内外の敵から皇都をお守りになって、良き報せをお待ちあれ」
娘は深く一礼し、父は重々しく頷く。それが、親子の交わした約束だった。
二人で屋敷を辞し、兵舎へと戻ってゆく。往路と復路は同じものであるのに、足取りの軽さはまるで違っていた。
「姫様、御無礼を覚悟でお聞きいたしますが……本心からお受けになる気であらせられるので?」
周囲を見渡し、入念に気配を探っていた塩砕が切り出す。
「いずれに対する無礼なのやら」
「関を越えた東となれば、軍民共に皇都への帰属意識はきわめて薄い。先方としては不満と恨みこそあれ、献身する義理や所以があるとは、どうも」
弓美寿々は愛用の鉄扇を取り出し、瀟洒な仕草で煽った。不安を隠さぬ塩砕に、殊更心のゆとりを示してやる。
思えばこの鉄扇は、初陣に先立って父に贈られたものだ。あの頃、既にして皇都の在り様や宮廷の情勢は変質をきたしていたというのに、そうとも知らず、武者として同じ処に立てると舞い上がっていた。
今更ながら恥じ入ったとて、詮無いことではあるのだが。
「御父様ともあろうお人が、できもせん任を与えることなどあらしません」
「それは、申されるまでもないこと」
「では敢えてそれをなさるとなれば、その真意は奈辺におありやろうね?」
「さて……」
老獪とも言えようが、いかにも父らしい迂遠さだと思う。つまるところ、乱の渦中となる皇都から、娘を始めとする若者達を逃がしてやりたいというのだろう。
塩砕も蒙昧なふりをしているが、よく分かっている筈だ。父の意を汲んでいるからこそ、そんな芝居をしたりする。やはり受けない、と答えれば、来る戦に与る機を放棄することとなろう。
塩砕をして、自分の胸中は完全に読みきれないと見えた。ぱちり、と鉄扇を閉じる。
「この鉄扇を賜ったあん時、お前も傍らにおったな。御父様の訓戒を一緒にお聞きして」
「覚えておりますとも。偏に将たるの資格とは、己が言葉に責任を持つことであると」
「その資格、あたくしらで問うてみいひんか?」
唖然として固まる塩砕の顔から、自分は余程に悪どい笑みを浮かべているのだろうと、弓美寿々は鏡を見るように分かった。
関を越える、その肚は決めていた。そこまでは父の思惑通りであろう。だが、関の向こう側で事態がどのように推移するかは、自分の努力と才覚次第。これは、父を超えるための戦でもあるのだ。
父に、将兵に、そして皇都の皆に胸を張ることのできる結果を携え、戻ってこよう。まだ出立してもいないのに、弓美寿々は早くも決意を固めていた。
────────
娘が話を承服してくれたことで、十鵠は一先ず安堵していた。
何かと気負いがちな弓美寿々のことだ、避難のためという表現を使えば、頑として首を縦には振らなかったろう。
もっとも、務めだ使命だのといった言葉の裏にある真意を、分かっているような素振りではあった。あのじゃじゃ馬なりに、父の心中を慮ったということか。
「一端に親心を計りおって」
独りごちた時、来客を告げる声が部屋の外から響いた。お通しせよ、と促してから暫く後、赤い具足に身を包んだ少壮の武者が現れた。
「
深く一礼して上げた顔には、屈託の無い笑みが浮かんでいた。幾度も困難を味わいながら、明るさを捨てていない者の顔である。
「よくぞ戻られた。海を渡って西から皇都へとなれば、危険も多かろう」
「何のこれしき。武者一人で突っ切る方が、手勢を率いるより安全なこともござる」
運ばれてきた茶を、一三嵐は美味そうに啜る。決して粗野ではない。それでいて、どこか抜けているような愛嬌があった。
まだまだ若いこの男が、
それは、皇国の起源たる《仙興島》および、そこに築かれている《紅歌殿》の守りを担う皇国軍の最精鋭であった。
この国で最重要の聖地を託されるのだから、武芸や用兵の手腕と同等以上に、絶対の忠誠と無私の献身が求められる役儀である。
一三嵐はその全てを、きわめて高い水準で兼ね備えた若き傑物と名高い。
「昨日は義父にも、顔を見せて参りましたよ。……瘦せておいででした、切なくなる程に」
「この国のため、心身を削って働いておられる御仁だからの。あまりお力になれず、我ながら情けない限りよ」
一三嵐の出自や親類縁者について、知る者は国内にいなかった。ただ一つ確かなことは、既に両親が亡いというこの男の義父が、《聖華》の内政を統括する重鎮であるということだ。
十鵠は談笑を続けつつ、娘を皇都から離す決断をするに至った経緯について、内心で思い起こしていた。
────────
北市街での一件について十鵠が知ったのは、起きてから四日後であった。対《金號》の備えがある、《鳴蒙川》河口の検見より戻る最中だったのである。
市中での生害。そうするに至った経緯はともかく、起きた事実そのものを糾弾せねばならぬ十鵠の立場だった。まして、実の娘が起こしたこととあっては。
屋敷に呼びつけた弓美寿々に叱声を浴びせ、北市街への出入り禁止、宮殿への参内権剝奪、許可なしに領地へ戻ることの禁止を言い渡した。
「甘んじてお受けいたします、将軍」
《護主城》に在る以上、皇国軍の指揮官と部下という間柄でもあるのだから、将軍と呼ぶこと自体はおかしいことではない。
しかし呼ばれてみれば、頑なに己の道理を信ずる娘の心を感じずにはいられなかった。自分は武士の本分を果たした。殊勝にも平伏する弓美寿々の背から立ち昇る気は、雄弁にそう語っている。
弓美寿々を下がらせ、一人で思案に耽る十鵠の意識は、二つに割れていた。娘の振舞いを幼稚な情動だと冷たく断じる側と、それでも、と異を唱える側。困ったことに、後者が少しづつ優勢になりつつある。
「羅聖近衛直参の町廻衆だと」
口に出してみれば、やはりどこか狂っていた。
羅聖近衛はあくまで
町廻衆とやらは、国政における不可侵の原則を毀している羅聖近衛の専横、そのほんの一例に過ぎないのだろう。
活動の内実を確かめてみても、眉を顰めずにはいられぬものばかりだった。不正の疑いありとして商人から財貨を召し上げ、役所に押し入って歓待と贈賄を強要し、明確な根拠も無く住民を皇都から退去させることまでしているという。
退去を強いられた者の名を検めていけば、やはり、という言葉が口をついて出る。退去を強いられたのは羅聖近衛に反発する名士か、彼らと懇意にしている者達ばかりだ。
現在は臨時の政令が布告され、町廻衆の活動は停止されている。ただし、あくまで「一部の者による素行不良を戒めるため」との名目で、市街の警固という職掌を侵したことの糾弾は含まれていない。
不快な納得感が胸に渦巻くまま過ごすこと、三日。二通の書状が届けられた。
一つは中務省(宮中の職務、国政全般の統括)よりの出頭命令である。弓美寿々の起こした生害に係る、対応の是非について詮議を行うという。
誰に諮ることもせず事を起こした軽率さと、節度の欠如について娘を 責はしたが、対応そのものは決して誤りではなかった。民に実際の被害が及んでいること、当人に反省の意識はまるで見られず、同様の被害がまたも起こり得ること。
こういった背景を勘案すれば、粛清に及ぶのも無理からぬ事態ではあるのだ。皇国千年の歴史上、類似した故事は枚挙に暇がない。
以上の説明は、刑部省で行うべきことである。市民が当事者となる刑罰や訴訟の統括を職掌とするため、民が巻き込まれた此度の一件においては、主体となるべき省であるからだ。
だが、命令は中務省から下った。民の被害を有耶無耶にし、廷臣同士の諍いに矮小化させてしまおうという訳だ。
姑息な手ばかり、よくぞ思いつく。鼻で笑いたい気分にすら駆られた。
そして、もう一通。これは小人どもとは比較にもならぬ大物からの文である。
「
内政を司る省全ての頂点に立つ、国政の最高責任者。それが
齢八十に迫らんとしている誉小路の顔を、十鵠は脳裏に浮かべた。今なお国政への熱烈な意欲と、冷静で理知的な叡智の光を湛えた双眸。
顔の左半分には大きな火傷痕があるが、これは大火から皇后と皇太子を救い出した、忠義を示す勲章であった。
現在、陰謀渦巻く蜘蛛の巣と化した宮殿において、孤塁を守り続けている。触れ一つ出すにも道理に合わぬ横槍が入る昨今、水涸れへの対策や町廻衆活動停止にも、陣頭に立って取り組んでいるのだ。
文を開こうとして、その内容が尋常のものでないことをすぐに察する。
術が施されていたのだ。差出人の想定する相手でなくば、文はただの白紙としか見えない。高名な術士でもある誉小路の手によるものだろう。
読み進めた。そして、読み終わった十鵠の胸に去来したのは、覚悟を決めるべき時が来たとの予感であった。
────────
二日後の朝、中務省に出頭した。
詮議とやらの内容も、想像した通りである。議場に並ぶ顔を見れば、羅聖近衛の息がかかった者ばかり。猜疑と嘲笑に満ちた、不快きわまる時間だった。
こちらの揚げ足を取り、言いがかりをつけて追い詰めようとしてくる相手には、ただ正論で応ずるに限る。脅迫めいた言を浴びせられても、平然と気づかぬ風を作った。
弓美寿々を愚弄する言葉も何度か出たが、怒る気にもならぬ。権威に縋りつくだけが取り柄の輩に、娘の真価が分からぬのは当たり前だ。
時の無駄でしかない詮議が終わり、議場を辞した十鵠は皇都南の武家街に赴いた。皇都に詰める武家の屋敷、兵舎、武器蔵などが軒を連ねている。
商店が立ち並ぶ一画で、小さな書肆(本屋)に入った。棚にはたきをかけている、三十がらみの女を呼び止める。書状に記されていた合言葉を、声を低くして伝えた。
「ここに無い書を読みたい。何処だ?」
ほんの刹那、穏やかに笑む女の顔に冷たい線が浮かんだ。
「四半刻(三十分)、お待ちを」
女が奥へと消えてゆく。言われるがまま四半刻を過ごすと、確かに戻ってきた。
外見も雰囲気も、先ほどと異なるところは無い。にも関わらず、女からははっきりと血と鉄の気配が漂っている。
女の先導に従い、武家街を歩く。人目につかぬ方、つかぬ方へと裏道を選んでいるのが、長く暮らしてきた十鵠にはよく分かった。
「こちらにございます」
「
若い頃は学院で机を並べ、《聖華》の柱石たらんと誓い合った間柄である。
ただし、顔を合わせる機会はそう多くない。それぞれ、《鳴蒙川》の河口と中腹の守りを与っており、両者は中々に距離が空いているのだ。
たまに顔を合わせ、近況を語らいながら酒を酌み交わす、という仲である。
二月程前に戦で深傷を負い、養生していると聞いてはいたが、詳しい経緯は知らない。《金號》軍は度々河口へと押し寄せてくるので、その対応に追われて調べられずにいた、というのもある。
その戦友の下に導かれたのは、どういう訳か。女の方に向き直ると、ぽっかりと穴が空いたような沈黙に迎えられた。
そこに誰かがいた、という事実さえ否定するかのように、女の姿、気配までも掻き消えていたのである。
屋敷に入ると、ひりついた空気が肌を刺す。困難な作戦を目前に控えた陣中の雰囲気に、どこか似ている。
門の衛士も、中で働く下女や奉公人も、緊張と警戒を浮かべた顔で案内してくる。それは、自分が危うい領域に踏み込まんとしている事実を、はっきりと突きつけてきた。
「なんだ、酒の一瓶も土産に持ってこんか。偉くなっても気の利かん奴よ」
「そちらこそ、一度臥せったところで蟒は逃げんらしいな」
万尉は庭に面した縁側に座していた。一見して大事なさそうにも見えるが、こちらに向き直る動きはやはりぎこちない。やられたのは、右の脇腹か。
「聖相閣下の文を、受け取った」
訪った理由として、十鵠はそれだけを言った。聞きたいことは山積しているので、片端から尋ねると収拾がつかなくなる。
そして万尉の方も、伝えたいことが幾つもあって、何から切り出そうか困惑しているように見えた。
「皇都を出ろ、
二十足らずを数えて待っていたら、万尉から出たのは思いもよらぬ提案だった。
「何を言うか、貴様。一切合財を放り出せと」
「将の座を辞し、自領へ戻るのだ。《斬穢関》を越えてもいい」
「貴様が同じことを言われ、二つ返事で首を縦に振れるか?」
この齢で地位になど縋りはしない。しかし、皇国軍の武人として数十年を生きてきた身として、皇都を捨てるという選択には理性を超えた忌避感を覚える。
栄光も、苦難も、捧げ続けた忠義の全てをも擲てというのか。
「分かっている。せめて、若い連中だけでも逃がしてやることだ」
「何故だ。単なる思いつきで出てくる思案ではあるまい。何がお前にこんなことを言わせる」
「以前、俺が不覚を取ったのを覚えているか」
昨年の春、《鳴蒙川》の砦に詰めていた万尉とその手勢が皇都に召還されている間隙を縫って、《金號》軍が強襲してくるという事態が生起していた。
最前線の楯たるを自らに任じてきた万尉としては、後悔を引き摺るのも無理からぬことではある。
「悔いは今でもある。前線に穴を開けたこと以上に、あの命令に諾々として従ったことにな」
「何を言う。貴様の立場で言ってよいことか、それは」
「よいから聞け!あの時から今に至るまで何が起こったのか、お前だけに話してやろう」
有無を言わさぬ勢いで語り始める戦友の話を、十鵠は真正面から聞くこととなった。
《鳴蒙川》を引き払い皇都への帰途につく万尉らの前に、皇都付の目付なる者が一隊を率いて現れる。
ただ帰るだけの移動に目付とやらが同道してくるのに、相当きな臭いものを感じはしたが、拒むだけの理由も無くその先導に従うこととなった。
進み始めて数日で、万尉は明らかな異常を認めたという。
「景色がまるで違うのだ。歩いても歩いても、《邇倭須江》の流れさえ見えてはこん。空気は澱んで、言いようのない息苦しさも感じた。あれはまるで──」
まるで、現世ならざる領域に迷い込んだような。
そう気づいた時、行手に数千の軍勢が突如として湧き出し、有無を言わさず襲撃をかけてきたのである。
決して強兵ではなかったようで、異常事態に浮足立つ万尉の部隊でも撃退は難しくなかった。だが、
「それからは泥沼だ。斬りに斬っても敵は湧いて出て、際限というものが無い。人の軍勢と干戈を交えている、その手応えさえも」
どうにか襲撃を撥ね退けた万尉らは、進み続けて翌日、慣れ親しんだ街道に出た。目付の部隊は戦に加勢もせず、謎の軍勢が去った後の戦場を調べ、いつの間にか消えていたらしい。
「難儀であったな。そのように面妖な賊の跳梁など、報告が上がってはいないが」
「あれ程薄気味悪い敵なんぞ、そういるものではない。腹に穴を空けられたのは、俺の衰えに他ならんが」
「何だと?」
たった今聞いた話は昨年、万尉の負傷は二月前の筈である。両者に因果などあろうものか。もし、その不整合を説明し得る事実があるとすれば。
「一度だけではないのか、奴らと戦ったのは」
「俺に限った話ではないぞ。数万は下らぬ兵が何処とも分からぬ戦場に投じられ、得体の知れん敵との戦を強いられている」
万尉は一度話を切り、右腹の傷痕をさすった。穿たれた時のことを思い返しているのかもしれぬ。その間、唐突に大きくなった話に困惑する十鵠は、黙っていることしかできなかった。
「そして、遥かに前からだ。十年あまり前、《斬穢関》の守兵が突然呼び戻されたことがあったろう」
「あれもそうだというのか?馬鹿な」
あまりにも無理がある話ではあるまいか。如何に厳格な緘口令を布いたところで、数万の兵の口を閉ざしきることができる筈もない。何らかの噂となって然るべきだ。
万尉にしても、左様な異常事態に直面している素振りすら、今まで見せたこともなかったであろうに。
「俺とて術によって、頭に鍵をかけられていたのでな。聖相閣下に解き放たれるまで」
「聖相閣下……」
「屋敷で養生できるよう取り計らってくださったのも、あの御方よ。鼠どもに嗅ぎ回られることもない」
誉小路は万尉を通して、自分に事実を伝えんとしたのか。先導したあの女も忍びか何かで、此度の密談を探ろうとする何者かの間者を排除してくれたのだろう。
そして、何者かとは。
「かつてのお前も、他の将兵も、術で記憶を封じられていたというのだな。そんな術を恣にするであろう存在を、私はたった一つしか知らぬ」
羅聖近衛という存在に対し、十鵠の心は敵としての明瞭な輪郭を与え始めていた。
皇国の将兵を、目的すらも明らかならぬ戦に使い捨てる。彼らの命を預かる将軍として、到底赦せるものではない。
無論、決めつけるのは危険なことだ。しかし、皇国軍の内政と軍事それぞれの領域を侵し、市街の安寧を脅かしている奸臣どもである。
兵を使い潰すことに何らの呵責を抱くこともなく、剰え皆の記憶に立ち入って事実を揉み消すなど、羅聖近衛にして尤もなことではあろう。
「俺が皇都を出ろと言ったのはな、いずれ来る羅聖近衛との対決にあたって、外に強力な味方を確保しておきたいからよ」
「私を貴様の下に呼び寄せた、聖相閣下の御真意もそこにある訳だな」
頷く万尉の顔は、差し迫った内憂に対する危機感と共に、真実皇国のために動いている充足感を湛えていた。
自分に届いたものと同じ書状が、幾人に送られていることだろう。一定以上の部隊や荷駄を動かす権限を有し、羅聖近衛の汚染を受けていない人物となれば、すぐには思い浮かばない。
「俺達は三十年を超える長きにわたり、皇国の武者として死線に立ち続けてきた。あと何年、それができるか分かったものではない。己の衰えも思い知らされたことであるし」
言葉と裏腹に、万尉の語りには卑屈な響きが無い。
この男は養生している身の上を利して、同志たり得る皆に渡りをつけ、彼らを繋げてゆく役儀を自らに課しているようだ。
「多分、最後の大仕事だ。せいぜい意地を見せてやろうではないか」
庭から吹き抜けてくる風が、頬を打つ。《邇倭須江》の潮の匂いが微かに鼻腔をくすぐり、十鵠に形容し難い懐かしさを齎した。
初陣を迎えたばかりの頃と、同じ匂いだった。皇国の未来に永遠の光があると、根拠も無く信じられたあの頃と。
────────
過去に遡行していた意識の一部が戻ってきた時、一三嵐が辞去する時刻となっていた。
「ご壮健なれ、将軍。いつか沓を並べて戦に臨む日を、楽しみにしております」
「となれば、調練は一層励まねばならんな。仙興聖衛旗の足を引っ張る訳にはいかぬ」
十鵠は門前に立ち、白麒に跨って駆け去る一三嵐の背を見送った。隠し事を抱える後ろめたさを覚えながら。
誉小路は書状の中で、一三嵐には一切を告げるべからずと記していた。
書状が届いたことから、万尉に明かされた事実まで。十鵠はそれを忠実に守り、他愛無い世間話以外の言葉を、一三嵐と交わしていない。
政戦両略を鑑みたうえでの配慮に、違いはなかった。
仙興聖衛旗は皇国の聖地を守るという役儀上、政治的に無欠の中立が要求される。大原則を無視して味方に引き入れんとし、さらにはそれが露見しようものなら、それだけで大逆の汚名すら被りかねないのだ。
それを抜きにしても、《仙興島》は海の要衝として国防上重要な位置を占めており、防備に穴を空ける訳にはいかなかった。
宮廷内が政争で四分五裂しようと、建国の聖地を侵されてはならないのだ。羅聖近衛とて、それを踏み躙る程に正気を失ってはいまい。
そして、義息に対する親心もあろうか。心境はよく分かる。自分が、娘に対して関を越えよと言った時と、そう異なるものではない筈だ。
若人を巻き込むことなく、年寄りだけで片をつけられるなら、それに越したことはなかった。
十鵠は自室に引き上げて座り込むと、《斬穢関》以東の情勢について、再度思案に耽った。
地図は広げない。地図の上で指や石を動かすのは、皆で見解を共有すべき場合であり、一人で沈思するには外から何らの情報も入れない方が捗るのだ。
さて、三人で意見を出し合った際、詮議が煩雑にならぬようにと、敢えて後日に回していた要素が存在する。《聖華》東端にて勢力を固めているという《
一昨年には《聖華》東部に跋扈する賊徒を撃滅し、昨年の《
彼らが本拠とする《
だが十鵠の見るところ、その底力たるや侮り難いものがある。《
本来、山深き地域でなければ目にすることのない物産、珍品が皇国中の市場で見られるようになった。《久々鱗》で産された品が《
そうした営みが、彼らの経済基盤なのだろう。単に貯め込むのではない、財を内外で回すことにより膨らませる、その術を知っている者達だということだ。
さらに、独立自治に至上の価値を見出す《臣廼湖》の者達に対し、皇国による締付けに抗するための選択として、協力体制の構築を提示したのだとしたら。
軍の力と流通の網、そして情勢の深い処を見通す目を持った相手が、遥か東にいるかもしれない。その事実は十鵠に単純な、それでいて深刻な思案をさせずにおかなかった。
自分達が事を起こす段になって、彼らは厄介な敵となり得るだろうか。どこまでも、無関係な存在で在り続けるだろうか。
それとも……。
十鵠は己の半ばを無意識下に沈め、容易に答えの出ない問いを重ね続けた。
それは、自分が見出すべきものでないかもしれぬ、と心の片隅で思いながら。
いつも応援してくださる読者の方々に、改めてお礼を申し上げます。
感想、高評価、お気に入り登録などをしていただけますと、大変励みになります。面白いと感じていただけましたら、何卒よろしくお願いいたします。