無源の秋 〜竜の翼は風雲に舞う〜【毎週金曜12:00&日曜19:00更新】 作:くコ:彡の本棚
地図を眺める度、どうしようもない虚しさに襲われる。それでも、
二つに分かれる内、奥の庵に書斎はあった。地図を眺める時は、必ずそこに篭る。決して、寝食の場である前の庵に持ち出すことはない。
姉弟には、好きに書斎を使っていいと、引き取った時に申し伝えてある。
自分を振り返ると、幼少より本ばかり読んできたが、損をしたと思ったことは一度も無い。だから、同じようにさせているだけだ。持ち出してはならぬ書類を、粗略に扱うような子供でもなかった。
それでも、地図だけは隠した。眺めては、隠す。それも毎回違う処に。それでもあの姉弟は、特に
常より懐に忍ばせておこうかとも考えたが、やめた。虚しさを、日頃から抱え込む行いである。
地図を、広げた。大陸の輪郭。それが変わったことは一度として無いが、その上で繰り広げられる人間の営みは、激しい変転に満ちている。
偉業にしろ愚行にしろ、全ては人の意志が変化を齎すのだ。
ここ十年、《
それは、前半と後半の各五年に分けられる。南下するミズ族とオロ族の熾烈な戦が繰り広げられた、前半五年。それが終結から今に至るまでの、後半五年。
まず、南のオロ族。ミズ族侵攻という大禍に曝され、最大勢力たる盤石さを失っている。絶えた氏族、斃れた有力な武将は数知れない。
何より、宗家の威が失われること甚しかった。有力氏族の多くは、侵攻後の空隙を貪欲に侵食して肥大化し、宗家の施政に干渉を繰り返している。
互いに牽制し合い、あまつさえ小氏族を巻き込んで干戈を交えることさえあった。それを戒め、氏族同士を団結させる力が、今のオロ族宗家には無い。
他方、前半五年で怒涛の進撃を見せ、《
後嗣の無かったミズ族宗家は断絶したが、撤収を指揮した家宰(宗家の腹心)がそのまま全体を纏めている。機さえあれば、再びの南下を始めるとの姿勢を、内外に示し続けながら。
さらに後半五年には、いずれにも属さぬ民の多くが《
規模だけを比較するならば、ミズ族に肩を並べる程になっている。もっとも、統一された一つの勢力が根を張っている訳ではない。
陣借りとして抗争に加わる者、他の氏族を標的に略奪を為す者、ひっそりと静かに暮らす者と様々である。内紛も、時には起こるようだ。
そこまで現状を整理しつつ、
《
そこにあったのは、《
今日の夜明け、それが啓かれる様を目の当たりにしたばかりである。鎚の音に導かれた地竜の群れ、陽光を背に受けた黒影が、一つの奔流と化す光景。
胸中に、ざわめくものがあった。
地図の上に線を一本、引くことは簡単だ。なぞって、消してしまうことも。
その、たかが一本の線が《
皆が、倦んでいる。規模の小さな氏族は特に、解消される兆しの無い対立と猜疑の情勢に、失望すら抱いているのだ。
外との繋がりが生まれたと、彼らが知れば。内での衝突ではなく、外と交わるという展望を抱くようになれば。《
それを呼びかける手段として、地竜の道を啓くことを選んだのだとすれば、周到と言う他なかった。
大人ぶって居丈高に理念を説いたところで、鼻で笑われるだけだろう。幾星霜、竜と共に生きてきた《
例の軍閥は、《
《
それらを実行する経済力を、《
情報の大半は仕入れているつもりだった。
あくまで、知っているだけ。自分に関わりないことではないか。自分が無視しようと忘れようと、彼の者らは目的のために動き続けるだけだろう。
そう思って線を消そうとしても、指は動かない。
地図を、しまい込んだ。昨日と同じ処だ、と思ったが、隠し直す気にはならなかった。
外の空気でも吸い込もうと庵を出ると、
「《
持ってきてくれたのは、《
「中を見たのか?」
「馬鹿にしないで!そんな大事そうな文を覗く女じゃないわ」
「悪かったよ」
姉弟には、仙術の高い素養があった。
たとえば
さらに不思議なことに、文が折り畳まれていても何が書いてあるか知るのも難しくない。しかし、できるとしても
昼餉を作る弟を手伝いに
始めから終わり、文を読み終えるまでの間、
「誰からだったのだ」
「親戚だ。……
自分がやけに物々しい表情を浮かべているであろうことに、
「わしは人に会わねばならん。あの姉弟を、託しておきたい」
「留守居を任せると?」
少し、目線を北に向ける。連なる《
「どう転ぶか分からんが、万が一があれば二人を連れて、お前さんの主の下に行ってほしい。《
「余程のことなのか、それは」
「聞かんでくれ、今は」
いずれ、あり得ることだと思ってはいた。まさかここまで早いとは、予想の埒外にあったが。情報の網を張っているのは、向こうも同じということだろう。
十数秒、瞑目して思索に耽る。あの時引いた一本の線が、瞼の裏に浮かんできた。
出かける支度をしようと、庵に戻る。芋を洗いにきた
何か言いたげな視線を向けられていたが、気づかないふりをした。
────────
会って話そうとの誘いが、あの文には書かれていた。それから、場所と日時の指定。前者は文を届けてくれた、商人の商館である。
その日が来た。常より行き慣れている処だから、わざとらしく装いを整えることはしない。
文が届いてから今日までに、幾度も地図を見た。書き込みも、少し増えている。
平静を保たんとしているのだ。長く自分が続けてきたことだというのに、それを初めて自覚した気がした。
考えを浮かべては打ち消しながら、到着した商館。商人と思しき大勢の人間が、幾つも長蛇の列をなしている。手にした書類や巻物は、取扱品の目録なのだろう。
半分は、
「よくぞお越しくださいましたな」
客間の一つに通され、商館の主の挨拶を受けた。
庵に居を構えて以来、懇意にしている。仕事の返礼のみならず、饗応や季節ごとの贈物といった心細やかな配慮を欠かさない人で、姉弟もよく懐いていた。
「こちらこそ、お手間をかけたばかりか、話の場まで設けていただけるとは」
「いや、何しろこのお話、我が大恩あるお方から是非にと依頼を受けたもので。
それから、少し交易の話をした。商館を訪れている多くの商人は《
大陸中でその名の知れた反物を始め、和紙や履物、それから甘蔗(サトウキビ)糖がそれだ。
「長らく戦争状態にある《
「《
「そうですとも。おまけに、その端緒を掴んだ手段は、山の産物であったとも聞き及びます。好機とは、探せば何処にでもあるものと言うべきか」
小間使いが入ってきて、その者達の訪問を告げた。
商館の主が挨拶を残して退室し、
入ってきたのは、二人である。一人は切れ長の目をした女で、何処の役人という訳でもなさそうだ。
そして、もう一人。よく親しんだ男と握手を交わし、
「久しぶりだ、
「
父の従兄弟の甥。ほぼ他人と言ってよい続柄で、共に過ごしたのも七年程だ。それでも、
非常に痛ましい経緯で彼が《
舌を巻く程に武芸に秀でた
「お前さん、血色が良くなったな」
以前とは、見違えるようである。声にも張りがあった。近年、兄貴分として何もしてやれなかった負い目があるだけに、尚のこと喜ばしい変化だ。
先日、地竜を導く先頭にあったのは
屈託の無い心のありようを示すような、翔け方だった。
「わしとしても安心したよ。女房まで連れてくるとは、中々やるもんだ」
「祝言はまだ挙げてないけどね」
鍛冶の一族だという女は
「和んだところで、そろそろ始めるか?まず、お前さんらを遣わしたのが何者か、わしは分かっているつもりだ」
そう切り出すと、
「考えている通りだと思う。奴は、
「第三者が相手といえ、主君にはいま少し丁寧な言葉を使うものだぜ」
「仕官してはいない。雇われている」
その返事には、予想の裏をかかれた。仕える主と出会い、これまでと違う目線で世を見ることができるようになった、とばかり思っていたのだ。そんな単純なことでもないのか。
それとも、考えるより余程単純な何かを見出して、後ろ暗さを振り切ったのか。
「こっちも色々と情報を入れている。特に、《
「久方ぶりに兄貴の戦談義か」
「茶化すなよ。今じゃ実戦は、お前さんの方が積んでいるだろうに」
行手の陣地をあらかじめ押さえておき、敵の側面を進み続けるという、周到きわまる戦。
言わずもがな、地形を知悉していなければ実現不可能なものだ。周辺の土豪や住人に渡りをつけ、調べ上げたのだろう。
そこまでやる勢力が、
《
聖地といえども、地竜を呼び込む以外に、使いようもない土地だったのである。
今にしてみれば、余計な気を回したものだった。もし、《
「
「私の口から語っても、仕方がないな。それは私の答えであって、あんたの答えになりようがない」
それは、道理である。顔を突き合わせ、自分なりの答えを腹にしまい込む。そこから逃げたという気分に囚われるのも、不本意だった。
「会おう」
弟分の顔を立てるつもりで、会ってみるか。そう決めてしまえば、気持ちを切り替えるのは容易である。
禍福いずれを呼ぶ出会いが待っているのか、分からない。ただ、それを見定めるまでは、付き合ってやろうと思った。
「ありがたい。早速、戻って奴に伝えよう」
「それもいいが、少しは市場で遊んではどうだ。時間が無い訳でもなかろうよ」
「いや──」
「ふふん、逃しゃしないよ
苦虫を噛み潰したような顔で
この目を見せに来たのか。ふと、そう思った。