死を忘れることなかれ   作:つけちゃん

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死を忘れることなかれ / 家元虎之介

 

 

 時間というものは淡々と刻まれる。

 ──泥男の出来事の後でも。

 

 

 しっかり見る気も起こらないものの、いつもの癖でただ電源を入れたテレビから、痛ましい交通事故のニュースが流れてくる。

 スマホのボタンをタップすることすら億劫(おっくう)でも、方々(ほうぼう)への連絡を誰かがやってくれるわけでもない。

 流石に一回くらいは、所属劇団の練習を休ませてもらうべく、電話をかけ……休むどころか、緊急で伝えねばならないことがあるから集まって欲しい、と要請を受けて、重い体に鞭打って練習スタジオへ顔を出す。

 

 

 そこで、合同公演予定先劇団員の、訃報を聞かされた。

 

 

 一人目は、戦隊ものの公演で、主役を演じる予定であった先輩だ。

 主役でありながら、ちっともヒーロー感を前に出そうとしない演技をする方だった。

 初対面の折、「こちらはヒーロー、つまりは攻め入られる殿様側だ。撹乱(かくらん)してくる『すぱい』の動きは、真正面から受けて立とう」などと、わざわざ平仮名発音で宣言し、練習の合間のノリで、ちょっとしたアクションを演ったのだが。

 それを監督が気に入った。

 おかげさまで、初手でヒーローの頭上をバク宙で飛び越えた後、強者との闘いは他者に押し付け、客席にまで縦横無尽に走り回り、ヒーローへの食糧支援を食い──バナナだ。敵も味方も、全員真剣に戦っている場で、この役だけ暢気に、サクラ役から受け取ったバナナをその場で食べる──なおかつ、世界を救うキーアイテムを奪取(だっしゅ)してくる、などという、前代未聞のショッカーが誕生した。

 

 

 忍者の身体能力を活かした強敵役どころか、コミカルな道化役だ。

 だが、だからこそ観客はこう感じる。

 劇中、舞台を邪魔するように客席をうろついていた端役(はやく)が、まさか、物語の進行を一手に担っていたとは!と。

 そうして観ていた子供達はこうも思う。

 もうこいつに盗まれないように、次は自分がヒーローの大事なものを守るんだ!

 …………そんな、笑顔に包まれた舞台に、なる筈だった。

 

 

 忍者は、戦闘員ではない……ショッカーにはなれない。

 先輩と監督が見つけてくれた、忍者が中身のショッカーを、精一杯、演じるつもりだったのだ。

 

 

 

 二人目は、今年の秋に、結婚を控えていた団員。

 相手の女性が、京都の、自分が所属している劇団員のうちのひとりで。演劇を通じて愛を育んだ、似合いのふたりだった。

 女性は勝ち気な、女戦士のような巨躯で、淑やかさを説かれては、男の好みが古いんだよ、時代があたしに追いつきな!と言い返していたのを、目撃したことがある。

 二人から「結婚式の二次会には、雌のキングコングに攫われた花婿、という寸劇でも入れようと考えているがどうか」と、冗談交じりで相談されたこともある。……夫になる予定の人も、彼女に負けず、熊のような体格であるのに。

 

 

 その彼女が。

 婚約者が事件の被害者の一人であった知らせを受けた途端、意識を失い、舞台セットから足を踏み外した。

 

 

 咄嗟(とっさ)に掴んだはいいものの、高所セットであったため、肩をやられたが、彼女のショックに比べれば、大したことではない。

 そのまま一緒に連行された病院で、肩の治療を終え、三角巾で腕を吊られた状態で、ぼうっとロビーに座っていると、備え付けのテレビから、朝からずっと繰り返されている、変死事件関連のニュースが流れ込んでくる。

 

 

(……知っとうよ。こうなると知っていた。分かっていたでござる。

茶子殿も、善殿も、雨宮殿も、その大勢の中にいるというだけの話)

 

 

 大丈夫。もう、狂気に陥るようなことはない。自分は大丈夫。パニックになって、他に迷惑をかけてしまうようであれば、この先、泥男の影に悩まされず生きていくことなど、到底できない。

 自分に言い聞かせ、ゆっくりと深呼吸するも、

『また、これらの事故の車には、共通し、運転手の姿がなかったことから、変死事件との関連性を………』

 アナウンサーが読み上げたニュースの内容に、頭を殴られたかのような衝撃を受けた。

 

 

 運転席には誰も乗っておらず、同乗していたと思われる方の死亡が……

 

 

 車がスピードを一切緩めることなく、下校中の小学生の列に……

 

 

 列車が、駅もダイヤも走行線路も無視して走り続け、危うく大事故……

 

 

 

 この事故による死傷者は何名

 この事故による死傷者は何名

 死傷者は───────。

 

 

 

「…………あ」

 

 

 忍者の自分を要に抜擢してくれたヒーロー。

 知っている。

 彼の五歳になる息子さんが、父親がヒーローになる演劇を、それはそれはとても楽しみにしていたのを、知っている。

 何度か、練習の見学にも来られていて、父親を困らせる盗っ人(自分だ)からキーアイテムを取り返さんと、本気で追いかけられた事も、また別の日には、はるばる京都まで、忍者教室体験に、生徒として来てくださった事もある。

 

 利発な男の子だった。可愛い男の子だった。

 好きなライダーはオーズで、でも忍者もかっこいいと言ってもらえた。

 握手してまたね忍者のおじちゃん、と言ってくれた、あの手の温もりを、覚えている。

 

 五歳だ。

 自我のない幼児ではない。

 

 彼は正しく、両親がどうなったのかを、理解してしまえる。

 今の今まで、遊んでくれていた父が。名前を呼びキスをしてくれていた母が。

 ぐちゃぐちゃ、ぼたぼたと。

 悲鳴を上げながら、崩れていったことを、しっかりと。

 

 

 事件以来、ただ流れていた音が、意味を持つ言葉として、強制的に変換される。

 車に轢かれた小学生、偶々(たまたま)車に同乗していた人。

 いきなり崩れ始めた友人を手で掬い、形を保とうと泣き叫んだ高校生。

 もはや、いくら待てど来ない両親との面会日を支えに、小さな身体で必死に、難病と闘う子供達。

 

 

 母体を殺せば泥男は泥になる。

 子孫たちは、自分の身体が泥になるタイミングを、選べない。

 

 

 どうやって家に帰ったのか、それからの数日間をどのように過ごしたのか、よく覚えていない。

 余程の様子だったのだろう。隣に住む、道場含め今の家の大家さんのお孫さんが、心配して、折り紙の手裏剣と、大きさの不揃いな平仮名で懸命に書いたお手紙を差し入れてくれた。

 

 人伝てに、先輩のお子さんだけは無事であったこと、そして、病院で目覚めた彼女が、婚約者と出会ってからこれまでの、数年間の記憶を、失っていることを知る。

 

 無音になった家の中でひとり、固定電話から、覚えて褒められたばかりであった、祖父母の家の電話番号をプッシュして、両親が泥になったと告げた子供は、どれだけの恐怖と戦っていたのだろうか。

 県外から祖父母が駆けつけた時、僅か半日ほどの時間で、五歳の子供の髪は、斑(まだら)に白くなっており、今も、全ての表情は抜け落ちたまま。周囲からの呼びかけにも、何ら反応を示さないらしい。

 

 あの豪快さを絵に描いたような彼女は、診断名で言えば、自己防衛による乖離(かいり)性記憶喪失、だった。

 だが思わずにはいられない。

 彼女の婚約者が、消したのだ。

 彼女を守るために。数年と引き換えに、幸せな未来と人生を歩んでほしいと願って。

 

 

小さな手が懸命に折った、カラフルな手裏剣を胸に抱く。

『にんじやのおじちゃん、はかくげんちになってわ』。

 

 ……君と、変わらんかったんや。

 あの子は君と、なんも変わらんかったんや。

 彼女だって、夫君となる男性と結ばれて、君のように愛しく可愛い子供さんを、授かるはずやった。

 

 

 

 解っちゃいなかった、解っている気になっただけのクソガキが、ありもしない覚悟を持ったつもりになって、ひとり、暴走した。

 

 善殿と茶子殿が選んだ選択が、何を守っていたのかを。

 自分がした選択が本当に殺したのは、母体でも、泥男でもなかったことを。

 …………今更、知った。

 

 

    ◇

 

 

 このままでは駄目だ、心療内科に行こう。薬の世話になれば、生活の影響も、最小限で済むはずだ。

 大体、芽々殿は極端なのだ。

 確かに今、積極的に生きたいとは思えていない。これは事実だ、認める。

 だからといって、死にたいなどとは思っていない。

 実際こうして、生きるために行動だってしている。

 そう割り切って、何度か通院を繰り返していたとある日。

 担当医から、こう言われた。

「あのね、家元さん。私は、『こうあらねばならない』の理想の患者像などではなく、君自身の心を聞かせてほしいんだ」

 どういうことなのかさっぱり掴めず、訝(いぶか)しげな顔をするだけの自分に、続けて医者はゆっくりと述べる。

 頭を撫でるように、優しく、根気よく。

「癇癪(かんしゃく)でもいい。叫びでもいい。

冷静でいようとして、それが出来る君の胆力(たんりょく)は、目を見張るものがあるけれど。私は、君がたとえ社会人失格の言動をしたところで、それを評価する立場ではないのだから、何ら、慮(おもんばか)る必要はないんだ。

格好つけていない、素の家元虎之介君と、話がしたい」

 言われた言葉を理解しようとして、懸命に頭を回転させる。

 ええかっこしいなど、していただろうか。

百人中百人が、頭のおかしな奴の作り話だと断言するような、荒唐無稽(こうとうむけい)なことしか、話していない。

 まして、自分の精神を安定させたいと、自己中心的欲求を第一に、行動しているというのに。

「普通に……話しとる、つもりなんでござるが……」

 何か悪かったでござろうか。

 そう聞いた自分に、医師はただ悲しそうに肩を落とし、「そう」とだけ応えた。

 

 

 次の通院日。

 偶々(たまたま)、本当に偶々、気になる会話が流れてきて、思わず足を止める。病院関係者専用喫煙所でも、近くにあるのだろうか。

 別に、患者名や、カウンセリングの最中に聞いた内容だとかを、話していたわけではない。百万人を超える変死者だの、血の池事件だの、同時期に多数発生した諸々のため、全国的に心療内科にかかる人も増加しているそうなのだが、そのように、心を疲れさせてしまった人の中には、精神の安定を図り、自ら寓話(ぐうわ)を創り、それをさも本当のように思い込む人もいるらしいというのも、知識として知ってもいる。

 だから当然、自分も、その類と思われているだろうとは、思っていたが。

「彼はまるで、医者が『こうあってほしい』と願うような患者そのものだ。心を語るのに、数式のように分かりやすく、順序立てて説明してくれる。

血の池事件以外の話題であっても、ね」

「ああ、それは……難しいね」

 自分も前回も言われたことだ。それの何が問題だというのだろうか。

 盗み聞きになってしまうとは思ったが、体がそこに留まる。

「そうなんだ。なまじ、自己分析ができてしまっているから、自分が混乱しているのだということを、自覚しているものだから、平静でいようとして、二十四時間常に、極度の緊張状態を、無意識に自分に強いている」

「薬は?」

「かなり強いものだよ。副作用も辛いはずなんだが、そのレベルじゃないと眠れないようなんだ」

「……辛いな。我々には、薬で一時的に苦しさを緩め、患者が話してくれるのを、ただ待つしか出来ない。

薬では、人の意識は変えられない」

 自分のことでは、ないかもしれない。

 というより、これだけで自分のことだと思う方が、被害妄想も甚(はなは)だしい。

 しかし。

「そうしてプレゼンされた心は、ガラスケースに入れられて展示されるばかりで、私にも彼にもその傷は見えるのに、触れることも、一緒に修繕(しゅうぜん)することも、叶わないんだ」

 話がとても整理されて分かりやすいねと、何度も言われた。

 感謝を告げているはずの先生の表情は、いつも、陰っていた。

「僕には、彼を、どうしてあげることもできない」

 

 

 ごめんなさい。

 あなたはとてもいい先生や。こんな面倒な患者にも、真剣に向き合ってくれて、ありがとうございます。

 ごめんなさい。

 辛いと言いたい人は、言ってもいい人は、もっと他に沢山おるやろに、こんなにもいい医師の時間を、俺のために割かせてしまった。

 良くなりたいとか、楽になりたいとか、このままじゃ駄目だからどうにかしてほしいとか。

 心療内科に来ておきながら、こちらが、本心では、そう思っていないのだから。

 

 

 その日はひとまず薬のために、そのまま受診し、帰宅する。

 医師は焦りも苦悩も見せず、血の池事件とは全く違う話を自分にさせ、信頼関係を構築しようと試みていて。

 それがとても、申し訳なかった。

「今回分が、最後の薬になるでござるな……」

 受付では、いつ都合がつくかわからない、と誤魔化し、次回の予約を入れなかった。

 薬だけ受け取って診察無し、ということは残念ながら出来ない。そして、病院で処方されるような薬効成分と同じ物は、市販では賄(まかな)えない。

 だがもう、次を受診する気はない。

(……いや、却って、これで良かったのかもしれないでござる)

 一生ずっと、薬を飲み続けるというわけにもいかないのだ。早めに、薬に頼らない状態での辛さを、ベストな体調だと、自分に誤認させ、慣れさせるには。

 

 極度の睡眠欲求と慢性的な倦怠(けんたい)感・吐き気が治まってくれば、また頭痛、精神不安定、被害者からの声に悩まされることになるだろう。が、被害者からの自分への怨み節など、それこそ自分が作り出して勝手に妄想しているものであるし、何より、言われて当然のものだ。

 これは、俺が、受け止めねばならない。

 

 

 ────大丈夫。

 

 

(大丈夫や)

 

 

 安心してほしい。ちゃんと、普通でいてみせるから。

 

 

(茶子殿、善殿、雨宮殿に、これ以上、心配をかけられないでござる)

 

 

 大丈夫、やれる。頑張れる。

 平気や。問題ない。大丈夫───。

 

 

    ◇

 

 

「────之介、虎之介!寝るんやったら、ちゃんとお布団に横にならんと、疲れはとれんよ」

 揺さぶられ、ぎょっとする。

「お、おふくろ?なんで京都(こっち)におんねん」

「何言うてるの。こっちから連絡したら応答はありよったさかい、生きとうのは分かってたけど。思ったとおりやわ」

 おふくろ曰く、何となく胸騒ぎが続いていたのだとか。

 親……特に母親というものは、子に対して超能力があるに違いない。自分の、日常を装う演技力が大根なわけではない。

 舌打ちをしかけ、ぐっと堪える。

「無理して合同慰霊祭(いれいさい)に出らんでも、悼(いた)む気持ちは、どこで祈ろうが上下は無いんやで。御茶屋さんとこも、それは分かってくれるて」

 そういえば、事件の犠牲者と行方不明者の名前を刻んだ碑が、先日完成し、この度、慰霊祭が執(と)り行われる事となったと……確か、ニュースで流れていたような気もする。

 日本人に馴染み深い五十音表記。茶子殿の姓は『お』。

 ……テレビに映り込んでいたのか。

「別に。最初から、慰霊祭に出席するつもりはあらへん」

「あらそうなん?」

 何故自分が泥になったのか、いつ肉体が失われていたのか、知る由もない犠牲者からすれば、会場は、魂達のよい集合場所になるかもしれない。

 だが自分が慰霊碑の場所を選ぶのであれば、鐘有邸跡一択だ。

 気分的な話でしかないのだが。

「だとしても、お悔やみはお伝えしておかないと」

「…………」

 お母さんが代わりに供花(きょうか)料等々やっとくから、休んでおきなさいという、母の言葉の意味は分かるし、自分のことで手一杯だったせいで、そっちにまで手が回っていなかったのも事実だ。

(花代を供えたところで……)

 犠牲になった方々に、ゆっくりとお休みいただけますようにとは願うが、かといって、一切自分に恨み節を吐かずに、等と、都合のいいことは思わない。

 引き金を引いたのは確かに鐘有馬久留だが、背後に人がいると知っていて、弾を避けたのは自分だ。自分の身を守る為に行ったことであり、正当性を主張できる。

 だがだからといって、なぜ避けたのだと、流れ弾に当たった被害者は言ってはならない、という道理はない。

(そやから、ごめんなさいしか、言われへん)

 

 

 ごめんなさい。

 

 

 泥男になりたくなかったんだ。

 肉体も心も、両方、自分のままで、生きていたい。

 死にたくなどない。

 

 

 どちらかしか選べないから、自分は、自分自身を選びました。

 ごめんなさい。

 

 

 あれこれと世話を焼こうとするのは、正直止めて欲しかったが、最近、家事をする事ができず、諸々溜まっていたのは確かだ。

 いつ頃帰るとも言わず居座ったお袋により、整理整頓が行われ、うっすら積もっていた埃が取り除かれていき、山積みであった洗濯物がきちんと箪笥(たんす)に収納される。

 見覚えのある屋内の姿になるまで、お袋はだいぶ働かねばならなかったはずなのだが、珍しく、小言の一つも飛んでこず終い。

 挙げ句の果てに、忍者教室についても客へにこやかに挨拶しているし、三食自動で出てくる。

 逆に気持ちが悪い。

「そうそう、週末、お父さんもこっち来るから」

「は?」

 勝手に予定が組まれていた。

 夕飯に出てきたうどんをすすっていた手が止まる。

「…………」

「不満そうやね」

「別に」

 不満というほどではない。親の立場になって考えてみれば、子の無事を確認したいというのは分かる。

(起業前と同じような大喧嘩を、またやることになるんやろうかと、うんざりしとるだけや)

 親父は平日仕事があるだろうから、お袋と違って精々一日二日で滋賀に戻り、その時には、お袋も一緒に帰るだろう。

 となると三日。残り三日間、薬が飲めない可能性が高い。

 心療内科からの薬は、副作用が強く、ひどい時には日中ほぼ廃人状態になることもある。

 忍者教室が軌道(きどう)に乗ったとはいえ、まだ僅か数年だ。

 今、そのような様子を見られては、長期休養をとるべきだだの、滋賀に戻れだの、健康になってから再開すれば良いだの騒ぎ出すのは、目に見えている。

 ……人間、何日間であれば、不眠で活動できただろうか。

(ほんま、早よ帰ってくれへんやろか)

 

 

 自分は大丈夫なのだから。

 

 

 

 

「虎之介、お前、自分の今の状態を分かっとらんな。一緒に帰るぞ。準備しなさい。」

 開口一番。

 親父はそう言い放ち、お袋へ当座(とうざ)の生活に必要な物をまとめるよう、指示をしだした。

「ほら、虎之介。これは使うの?使わないの?」

「………………」

 あまりに強引すぎて、何かを言う気にもならない。

 手伝う気配のない自分を他所に、荷物はどんどん厳選(げんせん)されていく。

 髭剃りを入れようとする親父に、剃刀くらい向こうで買えば良いのではとお袋。

 

 

 なんや。そういうことか。

 この人ら、自分の意見聞く気、はじめからないわけか。

 

 

 瞬間、脚が床をへこませる程の強さで、机を拳で強打する。

 

 

 ガン!!!!

 

 

「そやから、俺は大丈夫やて言うてるやろ!おーさわなことすな!!」

 普通にしているだろ。お袋がわざわざ滋賀から京都まで出て来ずとも、普通に飯食って、普通に仕事していただろ。

 そりゃあ万全とは言えないが、ちゃんと病院にも通って、薬も飲んで。

 自分で自分の限界値くらいもう分かる。無理をしないよう、少しずつ身体を慣れさせる訓練もしている。

 大丈夫なんや。罪から逃げたりもしとらん。ちゃんと生活出来とぉ。

 なんも、問題あらへんのに。

 

 

 

 どうして誰も、俺を大丈夫だねと、言うてくれへん?

 

 

 

「いつもそうや。親父もおふくろも、俺を幾つや思うとるんか。

そないにオレは信用ならんか。

あんたら結局、自分らが世話したらんと、俺は何も出来んと、思い込みたいだけやないか。

自分らの自己満足に、俺を巻き込むなや!!!」

 はあはあと肩で息をついて、仕事用のスマホと財布だけを掴んで、玄関に向かう。

 冷静にならなくては。

「虎之」

「俺が戻って来た時。まだ居るようやったら、不法侵入で警察呼ぶからな」

 言い捨て、外へ飛び出す。

 

 

 行き先も見ずにバスや電車を乗り継ぎ、適当に、何となく目に入った景色の場所で降りた。

(ほら、見てみい。別に電車を前にしても、突然飛び込んだりしたいとは思わへん。

鬱とかで、あるんやろ?そういうの。大丈夫やないか)

 私用スマホは……ああ、忘れたか。丁度いい、GPSで居場所を探されずに済む。

 呼吸ひとつ。

 仕事用の端末を使って、忍者教室の予約者に、日時調整の連絡を入れていく。……沢山の忍者体験教室がある中、折角、自分のところを選んでくれたんにな。申し訳ないことこの上ない。

「ちっ!」

 この場にいない両親に対し盛大に舌打ちをし、数度、ぐっ、ぐっ、と屈伸をしてから、軽くジョギングを開始した。

 

 

 

    ◇

 

 

 

 受診理由:金●(ピー)付近強打による救急搬送

 

 

(……黒歴史でござる……)

 両親が無事地元へ帰ってから、暫く。

 ……まあ、親からは相変わらずLINEで生存確認はくるが、居座られるよりは、大幅にストレスが減少した。

 内容も、生活態度への口出しというより、猫が庭に糞をしていくようになったから猫よけを買っただの、オムライスの半熟がきれいに焼けただの、当たり障りのない会話に落ち着いている。

 

 

 自宅兼忍者教室の隣には、家を自分に貸し出してくれている、大家殿の屋敷がある。

 そちらは現在、一部改築中なのだが、そこでちょっとした事故というか騒ぎというか、色々あった。

 具体的には、友人である墓杜芽々殿から、際(きわ)どい位置に蹴りを入れられた。

 下された診断は、一日検査入院、その後三日間の追加入院。現在は点滴をつけて、大部屋の一画のベッドの上で黄昏(たそがれ)中。

 

 

 私は生きます。

 そう宣誓(せんせい)した芽々殿の声が、繰り返し、響いている。

 

 

(あないな顔、見たことなかった)

 あの時芽々殿は、きっ、とこちらを睨(にら)み付け、怒りを顕(あらわ)にし、しかしこちらと目が合った途端、何かに気付いたように、表情が一変した。

 驚(おどろ)きと、戸惑い。それから先程よりももっと強烈な、純粋な怒気。

 そして……涙。

(そないにさせたんは俺やと言われても、わけが分からないのはこっちでござる)

 まさか、あの芽々殿が泣くとは思わなかった。

(たかだか、野郎がちょっと痩(や)せただけやないか。大体、芽々殿自身だって、最後に会った鐘有邸での事件時より、もっと細く)

 そこまでぶちぶちと文句を重ねていると、思考が連動し、いつもの悪夢の姿を芽々殿に重ね合わせて再生する。

 痩せ細り、骨と皮だけになり、次第にそれすらも崩れ、びちゃり、ぼたりと、泥のように骨ごと溶けていく、芽々殿の姿を。

「─────っ!!」

 ぶん、と首を振り、映像を追い払う。

 大丈夫だ。芽々殿は生きると言っていただろう。芽々殿は大丈夫。芽々殿の身体は崩れない。芽々殿は。

 

(俺を置いて逝(い)ったり、せえへん)

 

 大丈夫。大丈夫。

 だから自分も、大丈夫なのだ。

 

 普段であれば、ゆっくりでも押さえ込める不安は、芽々殿が対象になると、極端に凶暴になる。こちらの心の内の登場人物まで、本人の危険性を真似なくともよいものを。

 薬が欲しい。安定剤が。

 衝動を無理矢理抑え込む。

 先日とうとう、心療内科からの薬は底をついた。

(何か、何かないか。痛み止めでも、風邪薬でもいい)

 市販の風邪薬の中にも、ほんの僅(わず)か、麻薬成分が含まれている。正しく用量用法を守ればよい量が。

 それを一気に、大量に飲めば。

 そんなことをしたら、終わりだ。

 頭では解っている。だが、だがしかし。

(止めてくれ。何でよりによって芽々殿で浮かぶ。想像したくもない!!)

 どっどっどっどっ。心音が早くなり、冷や汗が吹き出る。

 落ち着け、落ち着かなくては。

 

 

(嫌や)

 

 

 芽々殿は生きているだろう。

 泥男になってしまったのは、茶子殿と善殿と、雨宮殿だ。自分達ではない。

 

 

(生きる?潰されて、折りたたまれて、血溜まりが)

 

 

 芽々殿は。ちゃんと、生きて、動いて、息をしてくれると。

 言ってくれた。

 芽々殿は生きると。

 

 

 その芽々殿を。

 

 

(俺が殺し……違う、落ち着け。生きてへんのは俺……俺は泥男じゃない。薬を、落ち着け、深呼吸を。薬が、畜生、息が吸えない)

 

 

 ズキン!!!!

 

 

「あがっ!?」

 ありもしない薬剤を求めて動いた体の負傷部位が、備品に当たる。力は軽いものだったにしても、今はとてもデリケートに扱わなくてはならない状態のソコだ。

 脳天を突く痛みに、別の意味で呼吸が止まる。

 どうにか痛みが引いた時には、着ていた下着は汗だくになっていた。

「家元さん」

「うわっ」

 いきなりカーテンが引かれ、同部屋のおいちゃんと、看護師さんの心配そうな顔が覗いた。

「なんや苦しそうやったから、コール押して看護師さん呼んだやけど」

「どうされましたか」

「あ、はは……すんません、騒がしくしてもうて」

「ああ、もしかして何処かにぶつけられました?外傷ないかどうか、ちょっと確認させて下さいねー」

「え、いやちょ、大したことは」

 微妙な笑いで誤魔化した自分が、局部をやや庇っていることに目ざとく気付いた看護師さんは、外野を追い出しカーテンを閉めると、有無を言わせず手際良く患部を確認し始める。追加外傷もなく、アイスノンを差し入れてもらえ、ひんやりと気持ちがいい。

 ……美人看護師さんに、腫(は)れ上がった竿(さお)と、玉のお世話されたことを除けば。

 

 

(…………厄日(やくび)でござる………)

 いつの間にか、鎮静薬(ちんせいやく)を求めていたことは忘れていた。

 

 

 

 

 点滴も終わり、昼間のんびりと病院の敷地内の庭を散歩していると、「忍者のおじちゃん見つけた!」という元気な声と共に、ぼふ、と尻に軽い衝撃(しょうげき)。

 自分をそのように呼ぶのは、一人しかいない。大家殿のお孫さんだ。

 年齢上、泌尿器科(ひにょうきか)という漢字がまだ読めないのは仕方がないが、君くらいの背丈でそれをやられると、ここに罹(かか)っている患者の大半は苦しいので、覚えてほしいところではある。……丁度尻付近に頭突きがくる背丈であるからして。

 くるりと振り返り、子供をひょいと抱き上げる。

「いただいた密書と、賜(たまわ)った手裏剣のおかげで、だいぶ元気なったでござるよ」

「あ、知ってる!『みっしょ』っておてがみでしょ」

「おお、左様でござる。物知りでござるなぁ」

 ぐりぐりぐり、頭を撫でる代わりに、額と額で挨拶を交わす。

 いつもであれば、これできゃたきゃたとご機嫌になってくれるちび忍者殿は、間近にきた自分の顔をまじまじと見るや、「おじちゃん、怒ってる?」と言うではないか。

「いいや、全然怒ってへんよ?」

「忍者はんはね、怪我しとうから、まだ元気が百点満点ではあらへんのよ」

 同行者である大家殿の奥さん……まあ、大家殿で良いだろう、に言われ、こちらが怪我人で、ここが病院であると、説明を受けていたことを思い出したらしい幼子は、そうだった!となった後、痛い人にだっこしてもらっていては悪いと考えたのか、降ろすよう指示してくると。

「どこけがしたの?」

 と、非常に答えづらい質問をしてきた。

 顔面いっぱいに『ぼくしんぱいです』と書いてある。

 

 ……血縁者でもない忍者のおじちゃんのお見舞いに、わざわざ来てくれるほど慕(した)ってくれる、子供の笑顔のためならば。

 

 真面目な顔を作り、子供と視線を合わせて告げる。

「…………これは、男同士の秘密でござるよ。守れるでござるか」

「ひみつ……う、うんっ」

「お父さんやお母さんにも、お話してはならぬでござる」

「わかった」

 神妙な面持ちで、しっかりと首を縦に振るのを見届け、ひそひそ声で、

 

 

「尻を打ち付けて青くなっているのでござる」

 打ち明ける。本当は前の方だが。

 

 

 ぶふぉ。吹き出した彼は、ぱっと口を押さえて祖母に聞かれていないことを確認すると、至極真面目に、絶対に言わない、と固く約束してくれた。

「それにね、大丈夫だよおじちゃん。だってぼくも、おしり青いとこあるもん!」

「左様か。お揃(そろ)いでござるな」

「うんっ」

 因みにちび忍者殿のそれは、言うまでもなく蒙古斑(もうこはん)である。

 

 

 

 休憩室兼食堂へと移動し、改めて大家殿と向かい合う。

「なんや申し訳ないでござる。わざわざ見舞いにまで……」

「家の工事の業者はんがまだ帰りきらんうちに、幼稚園から戻って来てなぁ。忍者のおじちゃんの忍者ぶりを、聞いてもうたんどす。

最近は、変死事件だなんだと、世の中暗い話題ばかりで、周囲の大人はみぃんなピリピリしとうし。おじちゃんはお怪我しとうから、あんまりご迷惑かけちゃあかんよって。ずっと我慢していたところに、あの話題ですやろ?

もう絶対に見舞いに行くんやと」

「あはは……」

 今現在自分の一番弟子、と言っても過言ではないほど、忍者好きの男の子。

 懸命に忍者訓練に励む様子を聞かせてもらう度、祖父にべったりついて忍者教室のあれこれに目を輝かせていた、幼少期の己を客観的に見ているようで、面映(おもはゆ)い。

 食堂でも、ちび忍者殿は牛乳を賞味中。かるしうむなるものをしっかりとれば、骨が丈夫になるのだと、父上殿より教わったからだそうだ。

「まあ私も、別件があったし、丁度ええわ思て」

「ああはい。本当にご迷惑を」

 窓のことといい、敷地内での大騒ぎといい、迷惑もいいところである。特に、自分と芽々殿のやり取りに至っては、大家殿は、完全なる巻き込まれ被害者だ。

「しかしあの子……『めめさん』いうたかしら。

見事な子でいはりますなぁ、将来が楽しみやわ。あないに急いで帰らへんでも。もう少し婆とお話ししていってほしかったわぁ」

 本当に残念そうに、「義娘は子育てにはラフな格好がいい言うて、なかなか着物着てくれへんのやもの。食事も、どうしても、孫の味覚に合わせたものになるから、客をもてなす口実やと、出汁の効いた大人好みのごはん食べやすいし」などと、頬に手を当て言う老婦人。

 曖昧に相槌を打ちながら、ふと思い出した。

 そういえば以前、芽々殿含め、友人達が集まった際は、特に大家殿に挨拶(あいさつ)等もしていなかった。

 あの庭での騒ぎの時が、二人の初邂逅(はつかいこう)だったのか。

「機会があれば、是非もう一度お話ししてみたいものどす。これからの京女に彼女のような、嫋(たお)やかな娘さんがいはると思うと、年甲斐もなく心踊ります」

「あ、いや。芽々殿は京都住まいではなく、県外でござる」

 自分の説明に、何やら呆れた目でこちらを見つめてきた大家殿は、わざとらしく溜息をつき、「……今はそれでよろしおす」として、話題を切り替えてくる。

 自分も、大家殿がわざわざ、孫の為だけに同行してきたとは考えていない。すわ、本題は窓ガラスか近所の方からの騒ぎへの陳情(ちんじょう)か、と身構えつつ姿勢を正す。

 大家殿は鞄(かばん)から、印刷してきたらしい何処かのホームページの用紙を広げ、目的を告げた。

「家元はん、騒ぎと窓ガラスの件。私らに多少でも申し訳ない思うてはるんやったら、暫(しばら)くここの施設でボランティア活動手伝てつどうてきなはれ」

 

 

 示された用紙にはこう書いてある。

『保護犬ボランティア募集』。

 

 

「……………はあ」

 はあ、としか言い様がなく、首を縦(たて)に振る。

 そも、日頃からお世話になりっぱなしの恩人からの頼みごとだ。断わるという選択肢はないのだし、この程度のこと、いくらでも構わない。しかし、大家殿と犬との接点が思いつかず、突拍子もなく聞こえる。

「忍犬だ!」

「にんけん……ああ、了解したでござる」

 犬の写真を見たお孫さんからの発言で、なるほどこれも彼からの発案か、と腑(ふ)に落ちた。

 全ての忍者が犬を相棒としているわけではないが、犬が相棒の忍びも沢山いる。

 かくいう自分も当然相棒を求め、幼少期に実家で犬を飼っていた。柴犬だ。

 といっても本来の飼い主は祖父であり、自分が物心ついたときには既にだいぶ高齢で、忍者犬と聞いてイメージする動きはできず終いだったのだが。

「ボランティアは常に募集してはるけど、特に、平日の日中の人手が不足してはるそうや。ま、殆(ほとん)どのお人が勤務時間帯ですやろしなぁ」

「確かに。そこにいくと自分のような自営業は自由がきく上に、それが男手ともあれば、力になれる事が多そうでござるな。

承知。大家殿、怪我が治り次第、微力ながらご協力させてもらうでござる」

 請け負う自分に、大家殿は何故か、首を横に振る。

「家元はん。優先順位が違(ちご)うてはります」

「優先順位?」

「ボランティアより忍者教室を優先させたければ、件(くだん)の『めめさん』の、涙の原因の1つであるその体。

最低でも、筋肉量と体重を、健常時のそれに戻してから言ってもらいまひょ」

 唖然(あぜん)とする。両親といい、大家殿といい、まったくなんだというのだ。体の持ち主であるこちらは、大丈夫だと言っているのに。

「いや、流石に……暮らしが」

「自営業でいはるからには、万一に備え、しっかり保険かけられてはるはずどすな」

「いやそらかけとるけども!」

 こんな怪我の理由で申請しても通るまい、そう暗に訴(うった)えるが。

「昨今は、病名や怪我の種類を問わず、入院日数や、自宅療養(りょうよう)日数のみで、保険金がおりるものもあるそうやな」

 はー、良い時代になったものや。そう茶化す目はちっとも笑っていない。

 別に意地悪で言っているわけではないことくらい、察せる。彼女もご主人も、年長者として以上に、俺を心配してくれている。

 怖いのは、保険を使うことではない。

 休養とは、僅(わず)かでも休むというのは、それは。

 

 

 ──自分で自分を、大丈夫ではないと言っているのと、同じ事なんじゃないのか。

 

 

 大丈夫なのに、わざわざ、大丈夫ではないなどと、言いたくないだろう、誰だって。

 言わせようとしてくる、周囲が嫌だ。

 

 

 お孫さんがぎゅっ、とこちらに抱きついてくる。

 ……ああ、大人の長話に飽きてしまったのか。

「うちの孫、家元はんに怒ってはるのか、聞きましたやろ」

「ああ、はい……」

「家元はん。なんのために、何がしたくて、忍者を後世に残そうとしてはるのん」

「え……?」

 再び呼吸が苦しくなってきた中、ぼんやりと、大家殿を見返す。

 今何か重要なことを教えてもらえたような気がするが、思考が霧散し始めているためか、聞き逃した。

「ところで家元はん。『京女』はどのような女性を指すか知ってはります?」

 京女。都の、淑(しと)やかで美しい女性を指す言葉だ。

『これから先の京女に、めめさんよのうな』。

 先程の大家殿の言葉を聞いた時の違和感から、吹き出しそうになり、ぱっと口を押さえるが、こらえきれない笑いが漏れた。

 芽々殿と京女。だめだ、結びつかなさすぎる。

 大家殿は笑いだした自分に気を悪くするでもなく、お孫さんへそろそろ帰る旨(むね)を呼び掛け、席を立つ。

「おじちゃん、あのね。きょーおんなはね、ぼくのママのことだよ。パパがいってた」

 下から見上げられ、彼があれから自分にくっついていたことを知る。

 それはそれは、ごちそうさまだ。

 

 見送りに一緒に廊下へ出た自分へ、大家殿はさらりと、

「『嫋(たお)やか』なお人いうんは。

曲がったりしても折れたりせえへん、困難に打ち勝つ芯の強さを兼ね備えた、淑(しと)やかで上品なお人柄を言います」

 ひとこと添えて、去った。

(………やはり、芽々殿とは結びつかない人種のような気がするでござる……)

 

 

 淑やかで上品が入っている時点で。

 

 

    ◇

 

 

 訪れた保護犬施設に、犬がいない。

 

「助かるわ、有難う。確か……実際に犬を飼われた経験は……幼少期にある、ということでよかったかしら」

「左様でござる」

 ボランティア初参加日、早朝。

 広い畜舎と複数のケージはあれど、その中にいる犬の数は少数で、その殆どが空いていた。

「犬は人間より地面に近いでしょう?犬種によっては、暑さや寒さにとても弱い子も。

だから、季節によって、お散歩させてあげるのに向いている時間帯があってね。今の季節は、気温が上昇していない朝早い時間が良いのよ」

 指導してくれることになったご婦人より、各ケージから次々と毛布やシートを回収し、設置されているトイレケースの砂も交換作業を進めながらの説明がある。

 なるほど道理で、肝心の犬が出払っているわけだ。

 

 

 女性を泣かせたからには、結果でそれを払拭しろ。貴婦人からのお達しである。

 細くなった見た目は急激には戻らないが、動くために必要な体力であれば、取り戻した。味などせずとも、摂取すれば栄養にはなるのだ。

(動いて活動するのには、十分でござる。続けていけば、いい加減分かるでござろう、大丈夫なのだなと)

 大家殿には、ご一家総出で何かと贔屓(ひいき)にしてもらっているが、それでなくとも、隣人が病的に痩せていけば、苦言を呈(てい)したくなるというものだろう。

 だが、一つの方法が無理そうなら、別の案を探して代用するくらいのことは出来るのだ。子供ではないのだから。

 

 

 トイレの砂を廃棄する袋は、破損と臭い漏れ防止に二重三重にした、市の指定燃えるゴミ用袋なのだが……おお、なかなかに立派な大きさの。

「保護犬とひとことで言っても、様々な理由を抱えている子達がいてね。今この施設にいるのは、お散歩中の子達の他、何らかの虐待(ぎゃくたい)を受けて、人間を怖がるようになってしまっている犬達」

「むしろ……そういう犬ばかりなのではないのでござるか」

 保護される犬というのだから、てっきり、そういう犬を保護しているのだと思っていたのだが、そればかりではないらしい。

 例えば、犬が迷子になっているところを保護した。

 飼い主が長期入院や転勤などで、本人の意志とは無関係に一緒に暮らせなくなった。

 そういった犬も、保護の対象なのだそうだ。

「勿論、そういった事情があっても、保護犬の施設が受け皿になってくれるから、途中で飼うのをやめて、人間の都合で犬を振り回してもいい、というわけではないわよ。

それでもご主人を慕ってるわんちゃんの気持ちを想像すると切なくなるわ」

 中には、事故後のリハビリを経て愛犬を迎えに来た後、それをきっかけに、ボランティア活動に加わったスタッフもいるとか。

 ケージ内のゴミを集め、中もしっかりと消毒。床は、ホースを引っ張って水と洗剤を撒いてから、デッキブラシで擦る。

 散歩中のメンバーの畜舎がある一角の掃除を終えた後、最後に清掃場所として紹介されたケージ。

 

 

 犬が、そこにいた。

 

 

 檻の片隅に体を丸め、誰かからの視線を避け、自分を居ないものとして声を殺す犬。

 目に入るもの全てに吠えかかり、牙を立ててくる犬。

 本来きらきらと、信頼の証で主人を見上げるはずの目には、ただ澱(よど)みと空虚だけがある。

 

「噛みつきが酷い子もいるから、暑くても、半袖半ズボンで作業しないようにね。

逆に、どんなに掃除がし難いと思っても、奥に縮こまっている子達を、無理に外に出すようなことはしないであげて」

 先輩ボランティアの方の説明に頷き返しつつ、もう一度、格子越しに犬を眺める。

 

 

(死人の目玉でござるな)

 

 

 ゲームや映画の画面ではなく、どこかで実物を目にしたような気がするな、と考え。ああ、と思い至る。

 

 

 鐘有馬久留。あの男だ。

 

 

 妻を生き返らせようとして化け物を作り。

 自身も、人ならざるものに乗っ取られていたと知った、間抜けで、哀れで、それでも惚れた女の肉体の側で死んだ、幸せな男。

 

 微動だにしない犬は、犬ではない何かに見え、形容しがたいある種の嫌悪感を覚える。

 彼らのケージ内の掃除までを終わらせ、その日のボランティアは終了した。

 

 

 

 スマホを手に取る。

 着信メッセージは一つ。母親からの簡易スタミナ飯のレシピ。

 こんもり盛られた豚肉と卵と米の、写真の映え具合がなかなかのものだ。写真の加工方法を研究でもしたのかもしれない。ビール腹にこの飯を食わされるのは父だろうから、下腹と脇腹に効く筋トレメニューを送ってやる。

 その他には、新メッセージも着信もきていない。

 代わり映えのない友との会話履歴を、閉じてはまた開く。

 

(……当たり前か)

 

 強くて、しなやかに、折れることを知らないとも見える彼女だが。

 見せかけるのが上手いだけだ。

 隠すのが得意なだけだ。

 笑ってみせるのが板についているだけなのに。

 ……彼女の、芽々殿の怒りや辛さを、吐き出せることができていたのは。

 

(善殿、茶子殿、雨宮殿)

 

 居心地のよいあの雰囲気を作ってくれていた彼等が欠けてしまえば、元々明るくはない自分と、芽々殿との距離など、あまりにも簡単に遠ざかる。

 

 ……今、彼女の愚痴は、自分達ではない誰かが、受け止めているのだろうか。

 そこまで考えて、馬鹿なことをと頭を振る。

 

(何を、がっかりしているのでござるか。人の事よりも、まずは、自分のことでござる)

 

 最も苦しい友人を支えてくれている、顔も見えないその誰かへの感謝の気持ちは、何故だか欠片も湧いてこなかった。

 

 

    ◇

 

 

 掃除ボランティアに慣れた頃、散歩ボランティアへ活動範囲が広がった。犬が、新人である自分に慣れてきたらしい。

 てっきり、リードに複数頭を繋いで近所を回るのかと思っていたのだが、そういった散歩の準備をしている犬がいる傍ら、バンにキャリーを積むように言われる。

 メンバーは、中〜大型犬。中には自分から、車のキャリーケージに入っていく犬までいる。

「家元さんはさ、昔飼うてたん、柴犬やって?」

「そうでござるが」

「ああ、んじゃそれなりに運動量が多い犬の世話はしたことあるわけやな。でも、今回の奴等の動きみたら、たぶんビビるぜ」

 本日一緒にお散歩担当をしつつ、ボランティア内容を指導してくれるのは、自分よりも若い青年だった。

 

 沢山の荷物と、何匹もの犬を積んだワゴン車の助手席に座り、あちらを曲がりこちらの坂を登り、辿り着いたのは、広々とした、ドッグラン。

 受付を済ませ、荷台のケージの鍵をあけるや、我先にと犬が弾丸のように飛び出していく。

「身体の大きい奴や、牧羊犬(ぼくようけん)や狩猟犬(しゅりょうけん)の血を引いている奴は、それに見合った運動量が必要やさかい。人間がリード引いててくてく歩く、なんて、こいつらにとっちゃ、準備運動にもならへん」

 日本でもレトリーバーやコリーはペットとして人気が高いが、一日あたり、一時間以上駆け足の散歩を最低ニ回。場合によっては、ただのランニングではなく遊びも取り入れないと、犬がストレスを抱え健康を崩す、というのだから、そのバイタリティの凄まじさたるや。

 

 犬達をドッグランに離して終わりではないぞと、飲み水の準備に、糞回収用の袋とスコップの準備、マーキングした場所に掛ける用の水が入った二リットルのボトルを数本出しておく。

「こ、これは犬の飲み水だけではなかったんでござるな……」

「身体デカいやろ。おしっこも量がある。ちゃんと流して帰らな、次に使う犬が縄張り勘違いして迷惑になってまう。

こういう力仕事が多くなるんで、中〜大型犬の散歩は、必然的に、ボランティアでも、体力と力で張り合える、俺らみたいなのの出番、ってわけ」

 青年は、「俺らってば夏休みのラジオ体操やってる小学生並みに超健康」、とけらけら笑いながら、今度は喧嘩の気配のあった犬の間に割り込み、ごぅらあ、ノー!と大袈裟に叱りつけている。

 テンションと溢れんばかりのバイタリティは、彼は犬と張るかもしれない。

 

 続いて青年は、ボールやディスクを持ち出し、おらおらおらぁ!とボールを5つほど投げたと思えば、出遅れた犬にディスクを見せ、こちらも投げた。

「ちょお、そらスピード速いし高い……」

 位置が悪い、犬には取れまい。

 だがそれは、勝手な思い込みであった。

 

 

 駆ける。駆ける駆ける駆ける。全身の筋肉が躍動(やくどう)する。

 ディスクへ追いつき、追い抜き、瞬間、反転。

 土と下草が力強く踏まれる。

 

 

 鬣(たてがみ)の如き金色の毛を朝日に煌(きら)めかせながら、決して軽くはない身体が宙に浮く。

 伸び上がる。口が開く。

 

 

 まるで最初から予定調和だとでもいうように、ディスクがその口に吸い込まれた。

 

 

 忍者犬だ。

 彼らは、本当に、忍者の相棒であったのだ。

 

 

「何やっとるん。ほれ、次投げたらんかい」

 着地まで見事に決めた犬が、一切スピードも緩めず戻ってくる様をぼうっと迎え入れ。青年にどつかれ現実に立ち返った時には、「次にぼおると板を投げてくれる人」としてロックオンされていたらしく、ぐるりと周囲を犬に囲われていた。

 そこに追いかけっこを止めて参戦しようと、突撃をかましてきた毛玉が、大型犬に恥じない巨体で必殺技を繰り出す。

 ジャンプキック、判定、クリティカル。

 芝生に背中から倒れ込んだ自分の顔の上に、もす、と、土の味がするダブルコートが鎮座(ちんざ)した。

 

 

 

「見て見て、俺の家族」

 散歩という名の、一方的に犬に遊ばれぐったりとなるだけのイベントを終え、施設に戻り、解散しかけた時のこと。

 青年に引っ張られ、覗(のぞ)いたスマホ画面には、いっちょ前にゴーグルとヘルメットを被った、ラブラドール・レトリーバー。

「俺が虹の橋渡らせた」

 続いた言葉に、可愛いでござるな、という、ありきたりの感想を、封じられる。

「クソだよクソ。爆走して。んで事故った」

 表情と口調ばかりが戯(たわ)け、だがその声に温度など全くない。

「俺さ、実家バイク屋なんやわ。バイク屋なのにバイクに詳しくない、走りが好きじゃないのは馬鹿にされるなんて、クソみたいな思い込みあって。

んで愛犬は、そんな俺につきおうて、あっちこっちに連れ回された挙句、天国行き」

 心臓が、ぎゅうとおかしな音を立てる。

 ああ、お前の言うとおり、クソや。クソでしかない。

「バイク乗るんが好きなんやない。アイツが駆け回れる場所に、ツーリングしに行くのが好きやった。そんなことも、分からへんかったくせしてな。

そのくせ俺はこのとおり、リハビリ終わってぴんしゃんや。

アイツが乗ってたキャリーケースと肉体が、事故の衝撃和らげるクッションになった、ちゅうことっぽい。

……やっぱクソだろ」

 笑顔のままでそこまで言い切った自称クソ殿は、清掃後の餌やりスタッフに犬の世話を引き継いでなお、語ることを止めない。

 

「何故……その話を自分に?」

「犬に群がられてたから」

 あれだろうか。犬に好かれる人に悪い奴はいないとか、そういう。

 

「ぶっちゃけ話すとさ、家元さんて、到底、犬が寄ってくる要素無いんねんな。

笑わねーし痩(こ)けてっし明らか病んでて側寄るとストレス臭かなんか知らんけど臭(く)っせーし。人間同士でこれだけ分かるんなら、あいつら鼻曲がりそうなもんやろ。

やのに、あいつらずーっと家元さんのこと気にしとう」

「臭……」

 あーそういうの気づかねーって言うよな自分だと。悪びれもなくずばり言われる。……気付いていなかった。

「散歩に連れ出せるメンツはさ、人間への信頼、失くしてへん奴やねん。そやから、人間が辛そうなの見ると、放っとけんで、一生懸命慰(なぐさ)めてくれる」

 見つめられて、咄嗟(とっさ)に体を強張らせる。

 警鐘が鳴りはじめる。早くこの場を辞(じ)して立ち去れと、本能が告げ出すのを、抑え込む。

 当然だ。これは俺の罪。

 どくどく、ざあざあ、血流が耳に喧(やかま)しい。

 黙れ。肉体に命じる。

 自分がクソである証は、何度でも聞かなくては。

(──大丈夫や)

 そうだ、罪を犯したならば、それを認め、反省し、贖罪(しょくざい)していく。

 大丈夫な状態の人間なら、できて当たり前のことを、するだけだ。

 

「家族殺したばかりの頃の俺と、あと、世の中の全部に絶望しとる、奥のケージの犬にクリソツ」

 

 

 無遠慮に振り下ろされた刃を、腹に力を入れて受け止めてから、深呼吸を一度。

 ───事実だった。

 

 

 あの時。虐待の被害で酷く衰弱している犬と、目があった時。

 見透かされた、と思った。

 にご(にご)りきって、見ているようで何も見えていない、震えるだけの、生き物には到底見えなかった彼らは。

 

 

 鐘有馬久留ではない。自分だ。

 紛れもない、あの時芽々殿の瞳を通じて見えた、自分であった。

 

 

 青年は、こちらの肩に手を置いて……ああいやこれは、支えか。

 自分は青年が掴まる杖、ただの棒っきれ。こちらに聞く気があろうとなかろうと、青年は止まらない。

 そういうクソだ。

「癒(い)えねーよな。癒えるわけねぇんだ。それが、自分の責任なら、尚更(なおさら)。

背負ったら倒れるし、背負わなくても追ってくる。周囲は好き勝手に、お前のせいやないなんて、簡単に言うてくる。

何も分かってへんくせに」

 ぎりり。指が食い込む。

 彼も自分も、平気ではない。立ち直れてなどいない。前など向けるわけがない。

 血の繋がらない友人と、多数の他人を手に掛けて。

 血は繋がらず、種族も違えども、無二の家族を潰して。

 倒れていないから、暮らしていけているから、大丈夫。それだけだ。

「……だからそんな、俺は不幸ですみないな空気振り撒くなや。犬でもねえおっさん予備軍に、同情したいとも思わへんわ、むしろウゼェ」

「……犬以外にも……多少は優しく接することを学ぶでござる……。お主とて、数年後には予備軍になるでござるゆえ……」

 ああ、クソ野郎だ。自分も、目の前の青年も。

 クソ仲間へ、もう一度にかっと笑った青年は、手荷物から薬の入った紙袋を取り出すと、続ける。

「俺がずっと診てもらってる心療内科医のセンセ、聞き上手ですごいいい人なんやけど。紹介しよか?」

「その先生の良さなら、よく知っているでござるよ」

 かさかさ振られた袋に印字してある薬局名から、近くの病院を脳内検索し、彼のいういい先生が、自分もお世話になったあの医者であろうと推測する。

 自分の返答に、青年はそれ以上無理強いをするわけでもなく、そか、とあっさり引き下がると、今度こそ、ほなまた明日、と、挨拶をして別れた。

 

 

 

 自宅へ戻り、食事を摂(と)ろうとしたが、いつも以上に流動食が飲み込みにくい。オーバートレーニングによる食欲低下を引き起こしているようだ。

「たった、あれしきの運動量で……」

 自分の身体の衰(おとろ)え具合に、愕然(がくぜん)とする。

 いや、気付いていたのだ、本当は。

 もっと前から。

 本音を言えば、善殿と茶子殿の姿なきままで鐘有邸を後にした、あの瞬間から。

 大丈夫な、つもりだった。大丈夫なのだと、言いたかった。

 大丈夫でなくては。そうでなくては。

 

 

(爺ちゃん)

 

 

 忍とは。

 主命によっては、親しき友人の腹を探り、旅人から情報を集め。商売から得た利益でもって、国へ尽くす。時には笑顔で、騙(だま)しぬき、裏切る。

 

 

(爺ちゃん)

 

 

 かつてのとおりの忍者を再現したいわけではない。

 だが、大切だと見定めたもののために死力を尽くす心や、安易(あんい)に激高(げっこう)しない、耐え忍ぶ忍耐力を、忍者という生き様と、在り方を。

 その伝統と文化を、伝えていくと、約束した。

 年々老いて細くなってなお、背筋をぴんと伸ばし、贅沢(ぜいたく)はなくとも、その腕一本で家族を養ってきた、忍者と武の師匠たる祖父と。

 

 

(繋ぐと、約束したでござる)

 

 

 折れたくない、歩き続けなくては。

 今が頑張り時なのだ。

 起業後5年続けられる事業は約半数。その年月、がむしゃらにやり抜いてきた。きっかけはYouTubeのおふざけ動画からでも、実際の忍者の歴史に興味をもってくれる人も出てきた。小さな愛弟子も持てたし、役を通じ忍者を広める方面に至ってはまだこれから。

 止まりたくない。休んでは駄目だ。

 平気でいさせてくれ。常に平常心でいさせてくれ。

 いっそ何も感じないようになってくれれば。

 

 

 ──だが、何のために?

 

 

(……そうだ、連絡しなくてはいけないでござる。洗ってくれ、と)

 忍者を受け継いでくれるかもしれないうちの一人である、大家殿のお孫さんが、ふと思い出される。

 そうだ、自分の手で抱き上げてしまった。真っ白な命に触れてしまった。

 きっとあの子は血だらけだ。直ぐに連絡し、洗ってあげてくれとお願いしなくては。念入りに念入りに。

 あれから日数は経っているが、血液はそう簡単には落とせない。

(いや違う、まただ。発作が起きてまう)

 誰か。誰だ。

 喚(わめ)ける人。話せる相手。本音と本音で会話が出来る、かけがえのない。

(善殿。雨宮殿、茶子殿………芽々、殿)

 

 アドレス帳から番号を呼び出し、通話ボタンを押す。

 芽々殿が足払いで自分の体勢を崩し、善殿がそのまま布団を掛けてきて、茶子殿が『快眠歓迎』など銘打たれた怪しげ極まりない新薬の薬瓶をこちらの口へ突っ込めば、菓子殿がラベンダーのアロマを焚き、トドメに雨宮殿が子守唄を歌ってくる。

 そんな光景があるべきで。それが続くと思っていて。

 今、自分は。芽々殿に蹴られるまでで、そのまま地面に激突する。

 なんならもう、芽々殿までもが、もう二度と。

 

 

『現在、電話に出ることができ』

「─── 何、泥男なんかに食われとんのや!」

 

 

 コール音数回。初期設定の機械音声が、留守番電話への切り替えを案内するのに被(かぶ)せて、怒鳴りつけた。

「機械いじりと運転ばっかりしとらんと、鍛(きた)えてやるって言ったやろ、なあ、善。返り討ちにしろや、化物くらい!」

 何度も男二人で話した。二十歳の誕生日に酒を持って突撃した。実はこっそり猥談(わいだん)も。あの時ばかりは女性陣は立入禁止にさせてもらったが。

「………怖くなかったか」

 優しく穏やかな気性の善殿は、だからこそ、大きな機械に憧れるのだと言い、自分には見ても到底理解できない、複雑な工業機械の運転資格勉強へ、取り組んでいた。

 現在は、ビルの中の涼しい部屋に居ながらして、現場の大型機械を運転できるのだと。資格を取って、就職試験を有利に進め、母親に楽をさせてやるのだとも言っていた。

「……いや、怖いに決まっているでござるな、変なことを聞いた。すまぬでござる」

 善殿が聞いてくれている。ゆっくりと、感情が落ち着いてきた。

 呼吸が整う。

 

 ぽた、ぽた。どろりとした流動食の残りが、カップを伝って皿に落ちる。

 泥男になった者達も、こんなふうに、溶けたのだろうか。

 

「………茶子殿は、パニックになっていなかったでござるか」

 ぴぴっ。留守録の限界時間を知らせる音がなるが、構わずに続ける。

 もう一度かけ直す勇気はない。

「先日、芽々殿のことを、嫋(たお)やかだと言われたでござる」

 嫋やか。茶子殿に対してであれば、腑(ふ)に落ちた言葉だったかもしれない。

 逆境を、芽々殿のように不敵にではなく、泣きながら真面目に受け止めて、そして、ふんわり笑って、まず周囲を気遣う女性。

 彼女と芽々殿は、自分ら男より、遥かに強い。

「似合わぬでござろう?芽々殿に」

 突然男の腹に跨(またが)り、腹や胸をべたべたと人前で触りまくった挙句、急所に鋭い蹴りを放ってくるような女だ。

 人のことばかり怒って、結局、酒に逃げたくなるほどの何があったのか。あちらの心は軽くなっていないではないか。

「そっちの生活はどうでござるか。母君と無事会えていると良いでござるが。

もし、自分への恨みを言いたい奴に絡まれてるなら、無理して堰(せ)き止めていなくてよいでござるよ。その間に、母君を、天国旅行に連れて行ってやってほしいでござる」

 ……まだ、怒っているのだろうか。芽々殿からは、あれから音沙汰が無いままだ。

「……芽々殿は、あれから、どうしとぉ? 様子を見てきてくれたり、とかは…………頼むの、流石に、強欲がすぎるでござろうか」

 

 

 耳に押し当てたスマホからは、ただ、無音。

 

 

 

    ◇

 

 

 

 保護施設に、寂しがり屋の犬が増えた。

 名前を呼ばれたがり、遊んで欲しい、撫(な)でて欲しいと訴(うった)えてくる。そのくせ、聞こえる声や匂いがご主人様のものではないと分かるや、項垂(うなだ)れてクンクンと高く鼻を鳴らす。

 どこにいるの。ぼくを置いて、何処に行っちゃったの。ぼく、捨てられたの?

 とうに主人の匂いなど失せた玩具や毛布を手繰(たぐ)り寄せ、夢で会おうと目を閉じる。

 

 ……皆、泥男事件の巻き添えで、飼い主を喪(うしな)った犬達だ。

 

「ほら、千葉が一番被害が大きかったじゃない、変死事件で。

県内の色々な施設がフル稼働しているそうなのだけど、手が回らなくなってきたそうでね。

大好きなご主人様と過ごした土地を離れるのは辛いだろうけど、保健所送りになるよりは、新しい家族との良いご縁があることを、元の飼い主さんも、絶対に望んでらっしゃる筈(はず)だから」

 ベテランスタッフの女性は、痛ましい目をしながら、連れてきた犬を撫ぜる。

 因みに、千葉の施設から距離のある京都の施設に、何故声がかかったかというと、ここと母体となるNPO団体を同じくする、姉妹施設だからなのだそうだ。

「こっちに連れてきた子だけでも、幸せになって欲しいわ……。保健所に連れて行かなくてはいけない子も居たから」

「新しい飼い主が見つからなかったとか、そういうことでござるか?」

 問いかけに、先輩ボランティアスタッフはそうではない、と首を横に振る。

「殺処分された犬はね、きっと、変死事件の真相を知ってしまった子達なのよ」

「それは……一体どういう」

「突然、性格が乱暴に、攻撃的になったんですって。

何でも……生まれたばかりの赤ちゃんにまで、牙を立てる事件すらあったとか。

それだけ聞けば、狂暴な犬だからだ、になるんだけど」

 泥男の真相など、何も知らないはずの相手から、『だけど、犬が原因ではない』と言わんばかりの言い方をされ、どきりとする。

 

 そのとおりだ。

 あの変死事件で変わったのは、犬ではない。

 人だ。

 

「私ね、気付いちゃったの。

今回の事件で、人間に襲いかかった子の家族が、軒並(のきな)み、変死している被害者である事に」

 ごくり、知らず喉が鳴る。

 同じだ、と、茶子殿は言っていた。泥男は、原子レベルで本人と同じだと。

 記憶も想いも、そのままの複製。誰にも…本人にさえ、自分が偽物だとは分からない。

 ベテランスタッフは続ける。

 犬だけではない。噂話の範囲でしかないが、猫も、鳥も、魚も、爬虫類も、そういうペットが一定数、いたらしいと。

「だから私は思ってる。

変死事件の被害者は、中身が入れ替わっていたのよ。

ウイルスだか洗脳だか知らないけど、人間の身体が泥のように溶けだすなんて、もうそれは、元から人ではなかった証拠みたいなものじゃないの。

あの子達は、大好きな家族を取り戻そうと、大好きなご主人様と大好きな妹や弟を取り戻さんと、得体の知れない化物と、必死に戦っただけ」

 なんて、SF映画の見すぎだって、夫からは笑われたんだけど、と最後を茶化した婦人に、自分はその説に同意すると伝える。

 科学的な分析においては本人だと断言され、寸分違わぬ肉体と記憶を持とうとも、動物達の第六感は、ソレを主人とその家族ではない、と断じたのだ。

 どんなに似せようとも。どれだけ取り繕(つくろ)おうとも。分かる者には、分かったのだ。

「でもね、じゃあ、ご主人様達ではなくなったナニカに歯向かわなかった子達が、頭が悪い駄目な子だとも、思わないの。

分かってて、気付いていて、それでも、それでも……って。違和感を見ないふりをする気持ちも分かるから。

絆が強ければ、尚更。

互いを愛しているのだもの。ペットと人間だって、相思相愛になれるのよ。

どちらの選択も、愛だからこそ。私は、全力で素敵な飼い主さんとの出会いを後押しして、ハッピーエンドを求めたい。こんな健気な子達の未来がめでたしめでたしにならないなんて、そんなのおかしいじゃない」

 

 

 愛。

 

 

 またこの言葉だ。

 

 

 鐘有馬久留を狂わせた感情。自分らから、友を奪っていった感情。

 愛とは尊く、暖かく、相手を包み込むような、などと。出鱈目ばかりだ。

 

 

「それは、化け物を受け入れる……ということでござるか」

 自分の言葉に、何かしらおかしなところでもあったのか、婦人はこの会話で初めて、犬の世話をやく手を止め、こちらを向いた。

「家元さん、あなた……酷いフラれ方でもした?さもなくば、付き合っていたお相手が、実は、自分以外の男と二股かけていて、家元さんはキープされていた側だったとか」

「何でそうなるでござるか。というか前後の話との脈絡が無さすぎるし、それこそドラマの観すぎでござる!」

 なんでも『迷子になって人恋しそうに鳴いている犬と、今の俺が被って見える』、だそうで。

 女性の脳の話題の飛び具合が分からない。

 

 

 

 だがしかし、ここで問題が起きる。

 こちらの施設でも、保護犬の飽和が起きてしまったのだ。

 

 殺処分となる動物を、一匹でも多く救いたい。とはいえ計画性のない無闇な多頭飼いは、虐待へ繋がる。

 話し合いの結果、現在施設にいる犬を数頭、一時預かりボランティアへお願いしようという話になった。

 ボランティア団体が探していた条件は、飼育経験あり、体力あり、犬の世話をする時間あり、犬を飼うことについて同居者の同意あり。

 ……自分は自営業を休業中、庭付き一戸建て、独り暮らし。

 

 

 そうして彼女は、我が家へ来た。

 ボーダーコリー、雌(めす)、三歳、成犬。

 何やら犬の競技界に参加していた犬らしく、去年のアジリティーとディスクの参加犬に、同じ模様の犬がいたことを、散歩役の青年が覚えていた。

 幸いにして、参加しているNPO法人が大手で、広報も熱意のある人がいてくれたおかげか、預かりボランティア側の負担費用は、然程(さほど)ない。

 とりあえずで買い込んだ必要品は、この子が慣れ親しんだ物ではないが、それでも一応、人間を拒絶してはいない犬は、新しい暮らしを始めることを受け入れてくれた。

 

 初日、我が家の庭のアスレチック──子供忍者体験用のあれこれだ──を発見すると、パタパタと尻尾を振って駆け出して行き、遊ぼ!というようにこちらを振り返ってうぉん、と鳴きかけ……目に入ったのが主人ではないと思い出すや、戸惑うように動きを止めた。そのままアスレチックの見える位置に陣取ると、伏せて動かなくなってしまう。

 無理にあれこれ世話をしようとはせず、犬の好きにさせておく。

 自分は自分で、日課のトレーニングがあるのだ。犬にばかり構ってはいられない。

 視界に入る人間が、庭の器具を使い、筋トレや懸垂(けんすい)、ボルダリング等のメニューを淡々と行う様子を、犬は何の感情も篭(こ)もらないような目に、ただ、映し続けていた。

 

 

 急遽(きゅうきょ)増えた同居人との生活は、思った以上に、困難を極めた。

 一時預かりにあたり、彼女の引き継ぎ事項を読んだのだが、内容は、下記のとおり。

 

 

『保護時、該当宅の家の冷蔵庫の扉や引き戸、庭の水道の蛇口に至るまで、全て開いた状態であった。

本犬は、中の食料を見つけて食べ、水を飲んでいたらしく、飢餓(きが)状態ではないが、腐敗し始めた食料も口にしていたようで、胃腸が弱っている。

受診結果、暫(しばら)くは、固形物ではなく、柔らかくした餌(えさ)を与えるよう指示されたが、固形物ではない食事に拒絶反応を示す。

緊急の場合、シリンジ等での餌やりを推奨』。

 

 

 お粥(かゆ)やふやかした餌を出すと、側にも寄らない。

 あまりに絶食ストライキが続くため、胃腸を考慮し、どんどん固形物が消えて液体に近づいていったのだが、今度は餌皿をひっくり返して半狂乱に吠えまくる。

 やむを得ずシリンジで強制給餌(きゅうじ)を試みれば、押さえつけて飲み込ませた後、無理にでも吐き出したがるような素振りを見せ、大量に水を飲んだ後、本当に吐いた。

 動物病院に担ぎこむ羽目になり、点滴と、本犬が気絶している間にこっそり胃に送り込んだ流動食で、一命を取り留める始末。

 獣医によれば、酷いストレス環境下に置かれているとのこと。

 元いた千葉が恋しいのではないかとの声も上がったものの、餌に対する反応は、向こうとこちらとで変わっていないという結論で、相談に乗ってくれた先輩ボランティアも自分も、困り果ててしまう。

「全く……何がそんなに気に食わないでござるか」

 犬への愚痴(ぐち)は、日に日に増えていた。

 少しでもストレスの軽減になればということで、ケージの扉は常に開けてある。運動好きの彼女に合わせ、庭にも出ようと思えばいつでも出て良い。

 犬の方も、この待遇に不満はなさそうだ。

 不満を露わにするのは、こと、食事だけ。

 食うものなど、胃に入れば何を食べても同じだろうに。どうせあの日から味などしない。

「……生きるためだけの食事で良いのなら、自分と同じでござろうに」

 いつものように、タンパク質摂取(せっしゅ)と、顎(あご)を衰(おとろ)えさせぬための、脂(あぶら)の少ないササミ肉を焼いただけの肉とサラダ、豆のスープを平らげた後、カロリー保持用の、介護食高カロリーゼリーの封を切り、皿に複数個取り出す。

 最近出番が増えた木製のワンプレート皿。磁器(じき)製の皿は、我が家に犬がきてから、使用回数が一気に減っている。

 ゼリーでカロリーが補(おぎな)えるのは有り難いが、妙に甘ったるく、後味がすっきりしないのが難点だ。

 一気に喉へ流し込もうとして、思い直し、居間にある犬のケージの前で、立ち食いすることにする。

 

 

 スプーンでゼリーを口に運ぼうとして、犬から思い切り、体当たりをされた。

 

 

 ゼリーが上着を汚し、スプーンと皿が床に当たって硬質(こうしつ)な音を立てる。

 ……ああ、また掃除をしなくては。

 というかなんなのだもう。自分は、ここまで我慢し続けて、どうして、こんなやっかいな犬の面倒などみているのだろう。

 腹を立てる気力すら、最早湧いてこない。

「そんなに警戒せずとも、これはお前の食事ではないでござる……」

 見えない位置に行って素早く皿から直食い、一旦ゼリーを冷蔵庫に隠す、なども試そうとしたが、どちらも、執拗(しつよう)な猛反対に遭(あ)い、断念せざるを得ない。

 ならばと、このゼリーは彼女のものではなく、人間の食べるものであるため、警戒しなくてよい旨を分からせるべく、いっそ目の前に座り込み、新たに用意したゼリーを口に、

 

 

「────っ」

「ヴヴゥ……」

 

 

 運びかけた瞬間、目の前に犬の牙があった。

 

 

(全力で噛み付いてきよった………)

 咄嗟に側に丸めて置いていた上着を犬の口に突っ込み、ガードできたのは、単なる反射だ。

 

(よし、分かった。施設へ返すでござる)

 馬鹿みたいな話だが、ここまで頑張って漸(ようや)く、その考えに至る。

 自分はよくやった。十分に我慢した。いい加減、義理も果たせただろう。自分の人生を犠牲にしてまで、犬のボランティアを続ける気は、元より無い。

 立ち上がり、施設へ送り返すための手順を頭で反芻(はんすう)しつつ、必要品を準備していく。

 犬の近くで、またもやがちゃんと大きな音が鳴る。ああ、本当に煩(うるさ)い。

 近づかず、横目で様子だけを確認する。皿などが割れて怪我をしていては事だ。

 だが、どうせ服を吐き出そうとして暴れているのだろう、という予測は外れた。

 彼女は、服を噛んだままだという違和感など無いかのように、ゼリーの入っている皿ではなく、人間用のスプーンへ攻撃を繰り返していた。

 ……スプーン?

 ゼリーは散らばってもいない。隠されている。

 犬ならば、床にぶちまけるか、皿を無視する。流動食が嫌……ではない。

 人間が食べるのが嫌……そっちか?

 いや。

「…………まさか」

 確かめようと、台所へ引き返し、ブロック栄養食を持ってくる。

 

 ゼリー皿への道を阻(はば)む犬に、ブロック栄養食を示し、ばきりと噛み付いてみせてから、そっと、その口に挟まった上着を取り外した。

 

 唸(うな)り続けていた様が嘘のように、警戒がおさまる。

 大人しくお座りの格好になると、ぱたり、ぱたり、とこちらを見上げて尻尾を振ってきた。

 まるで、「大丈夫?大丈夫?」とでも、問いかけてくるかのように。

 

 

 

 

 瞬間。天啓(てんけい)のように、物事が繫(つな)がった。

 

 

 

 恐怖を覚えるほどのスピードのバイクに乗せられても、主人が別のナニカに置き換わってしまったことを察していても、主人を愛していたペット達。

 自身のその後の人生全てをかけ、贖罪(しょくざい)を続ける年若いボランティアの青年。己が化け物になってしまっていたことを目の当たりにしても、それでも犬を、家族を、愛していた飼い主。

 申し送り書に記載があったではないか。

 保護されたとき、人間はおらず、しかし食べ物と飲み物を、愛犬が確保できるようにしてあった、と。

 アジリティーやディスク競技に参加していた犬だ。勘が鈍(にぶ)かったり、頭が悪いわけがない。

 

 

 財布を引っ掴むと、家を飛び出した。

 窓から、落ち込んでとぼとぼと指定されたケージ内へ戻る犬が見えたが、怪我はしなさそうであるため、ひとまず信じて留守にして、自転車を飛ばす。

(そうや。食わなあかんねや。食わんと、倒れてまう)

 泥と化し、身体の欠片を落としながら、それでもまず、想ったのは。

 自力では冷蔵庫や引き出し、蛇口(じゃぐち)をひねる手を持たない、愛する相棒のこと。

 彼女の主人の、最期の願いは。

(そんなこと。どうやったらいいのか、もう)

 分からない。自分はどうやっていた。

 待てども待てども、愛しい仲間は崩れて溶けて、もう立ち上がらない。

 笑い合った時間は、過去にしか存在しないものになった。

 何をどれだけ願っても、喉枯れるまで泣き叫んでも、善殿も、茶子殿も、雨宮殿も、生き返りはしない。二度と言葉を交わせることはない。

 この先の電話も、永遠に一方通行。

 

 

 鳥のミンチ、冷凍のカット南瓜、同じく冷凍ブロッコリー、レンジ白米、おからパウダー、オリーブオイル、温度計。暗記するほど繰り返し作った材料を掴み、会計を済ませる。

 籠いっぱいに買い込んだ物を入れ、全力でペダルを漕(こ)いで帰宅し。スニーカーが片方ずつ玄関と室内の床に転がるのも構わずに、台所へ駆け込んで、調理を始める。

 実家の犬が、大好物だったレシピだ。完全な老犬になってからは、これにシニア犬用ミルクを掛けてやると、食いつきが良かった。

 冷凍野菜はレンチン後更に細かくし、材料を全て混ぜ合わせる。フライパンにオリーブオイルを垂らし、成形したものを入れて蓋をして、蒸し焼きにしていく。

 水分が多く、かなり緩(ゆる)めだ。ひっくり返して裏面を焼くのは難しい。

 火が通ったら、焦げ付き防止シートごと冷凍庫へ。

 冷えるのを待つ間に、犬用のミルクをレンジで飲み頃まで温める。

 

 

(分かった。ようやっと分かったでござる)

 

 

 当たり前だから意識することが無かっただけで、そも。

 

 

(芽々殿に、会いたい)

 

 

 謝らなくては。酷い仕打ちをした。

 そして、あの屈辱(くつじょく)を倍返ししてやらねばならぬ。

 

 

(覚えていろ。男の金的の恨みは、深いでござるぞ)

 

 

 とめどなく溢(あふ)れる涙を、何度も袖(そで)で拭いながら、温度計を冷凍庫のハンバーグの中心部まで差し込んで、冷え具合をチェックする。

 大丈夫であることを確かめ、ケージの前へ持って行った。

 

 

 

「邪魔するでござるよ」

「………?」

 犬のケージの前へ、味付なし蒸し焼きハンバーグを置く。皿の上のごはんが固形物であることを見ると、彼女は不思議そうに顔を上げはしたが、ケージから出て口をつけようとして、はたと止まる。

 ……『待て』をしているのか。

 本当に、どうして気付かなかったのだろう。彼女はこんなにも聡(さと)いというのに。

 

「これは、2人の食事でござる」

 吠えても、噛み付いても、休んで身体を固めてほしいと訴えても。ただただ、崩れていくだけの大好きな家族を目の前に、彼女はひたすら混乱したに違いない。

 それでも、受け取ったのだ。本気で本心で唯一の、願いを。

 

 

 ───『生きろ』!

 

 

 ハンバーグを半分に切り分け、皿を別にする。支えを失った部分からほろほろと崩れはするものの、固形を保ったハンバーグ。

 

「大丈夫でござる。これは、君のご主人様やない。これは人の体が溶けた泥やない。

……俺は、溶けも崩れも、せえへんよ」

 

 

 片方を差し出す。

 

 

「堪忍や」

 

 

 ───『私は生きます』。

 

 

「自分らは、お前に、ご主人様を食わそうとしてたんやな」

 

 

 

 ちゃんと食べよう。そして生きよう。

 背後は、それでも生きると言ってくれた人が守ってくれる。

 自分は、前を向けないのならば、後ろを向いたまま、前向きに生きる彼女と背中合わせに立ち、バック走で全力疾走しながらついていこう。

 彼女の背後から不意を突こうとする物事に、対処しよう。

 周囲の警戒に、頼もしい味方もここに増えてくれた。

 

 

 柔らかいハンバーグを、一人と一匹で、一緒に頬張る。

 犬用を兼用のため、味付けなどしておらず、どちらかというと、南瓜の甘みがするはずのそれは、少しの塩気がした。

 

 

「いい食いっぷりでござる」

「おんっ」

 

 

 

 

 今度こそ、自信を持ってこの言葉を口にしよう。

 

 

 

 

 大丈夫や。

 

 

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 あれから、お互いに食べ、しっかり眠り、しっかり運動もできるようになった自分と一頭は、みるみる体調が回復した。

 今ならば、両親や周囲の心配をただ跳ね除け、大丈夫だと言い張るだけの死人であったと、素直に分かる。

 

 

 犬は正式に里親希望を出して、引き取った。

 保護犬の里親には、『独り暮らしの者は不可』といった規則を設けているところもあるらしいのだが、幸いにしてボランティアに参加していたNPO法人では、それはなく。

 ……まあ、万一の時の引き取り手として、滋賀の両親に、保証人になってもらう必要はあったが。

 

 その関係で、犬と一緒に写った写真をLINEへ送り、ついでに心配かけてごめんとメッセージを添えたところ、やはり母親は、再び京都まですっ飛んできた。

 迎えに行った息子を見るや、明るい所へ引っ張っていき。顔色と肉付きを確かめ、良かった、本当に良かったと、ぼろぼろと大泣きしながら、息子ではなく犬に縋(すが)りつく。

 帰り道のペットタクシーの中で、運転手殿に、親御さんに迷惑をかけるものではないと説教を受けたが、流石に今回ばかりは反論が出来ない。

 母を慰(なぐさ)める犬にまで、なんだか悪い人認定されたような気がする。

 

 

 オンラインで父親にもリアルタイムで顔を合わせ、写真の肥え具合──激痩せから健康時の体型に近付いただけだが──が加工ではない旨を証明し、ここでも盛大に雷を落とされる。

 犬は父の大声にびっくりして主人の側から早々に逃げた。

 薄情にもほどがある。

 

 

 

 ひとしきりの混乱が落ち着いてから、二人と一匹で、大家殿の宅を訪ねる。このご家族ほど、親身になっていただき、その分ご迷惑をかけた方々はいない。

 驚いたのは、玄関で大家殿に会うやいなや、母親が深々と頭を下げ、謝礼金の入った封筒を差し出したことだ。

 聞けば、両親は、あの日自分が家を飛び出して間もなく、隣家である大家殿を訪ね、息子を気にかけてやってほしいと、懇願したのだとか。

 父親に至っては、不徳の致すところで申し訳ないが、どうしたらあの子を救ってやれるのか分からない、何卒お力添えをいただけないだろうか、と、土下座までしたという。

(親父………)

 即座に自分も、その場に膝をついて頭を下げた。

「実は、正直。そこまでする義理は流石にありまへんと、突っぱねるつもりどした」

 これは今回の件に対する、皆さんの真剣なお気持ちを表しはるものどすから、受け取らせていただきます。

 そう言って母の差し出した封筒を丁寧に受け取り、自分達を客間に通した大家殿と奥方殿は、念願の忍犬のご登場に大歓喜する孫と一匹が庭で戯れる様子を見ながら、一通の封筒を渡してきた。

 

 

 わざわざ、裏面を上にして。

 

 

 封筒の裏面に書かれているものといえば、差出人の名である。

 その位置に目をやり、意外性に首を傾(かし)げた。

 

 

『墓杜芽々』

 

 

 意味がわからない。彼女からの手紙であれば、直接、自分宛になるはずだ。というか、物を送る必要があれば宅配便になり、それ以外であればメールかメッセージ機能があればこと足りる。

 よしんば自分のあまりの不甲斐なさに、愛想も尽きて友情も枯れ果てたために、連絡をとりたくなかった、ということであったとしても、ほぼ初対面である大家殿宛てに、手紙を出す理由にはならない。

 彼女は何を届けてきたのか、中を覗き込み。

「…………っ」

 封筒を取り落として、口元を覆う。

 こみ上げるあらゆる感情の暴風を抑え込む。

 だが涙までは、止めることができない。

 庭に面した窓から、客間を覗いていた幼子が、突然泣き出した俺に驚(おどろ)いている。

 ああ、そうやな、かっこいい忍者のおじちゃんは、最近とんと泣き虫になった。

 

「靭(しな)やかに曲がる強さのありはる、嫋(たお)やかなお人でも、ぞんざいに扱いはると、折れてしまいますよって。

芽々さんに、ようお礼を言いなはれ」

 言葉にならない。

 母の手が背を撫でるも、嗚咽(おえつ)を漏らしながら、はい、はい、と何度も頷くしかできない。

 

 

 

『家元さんに、どうか、溶けない相棒を』

 

 

 

 じーじ、ばぁば、忍者のおじちゃんどうしたの。なんの忍術に失敗しちゃったの。

 大慌てで、庭から直に家に上がり込もうとする見習い忍者殿と、自分達との間に置かれた机の上に。

 大家殿に紹介され、ボーダーコリーと出会った、あの保護犬施設NPO団体の紹介資料が、封筒からこぼれて、広がった。

 

 

 

 

 母と、そして画面越しの父と。色々な話をした。

 かなり迷った末に、泥男の真相をも。

 楽になるためではない。

 作り話お伽話(とぎばなし)ととるのも構わない。

 あなた方の息子は、この先この罪を背負って、それでも生きると。

 その覚悟を示す証人になってくれと、お願いした。

 

 二人からは、嘘だとも、事実として丸ごと信じるとも、言われず。

 ただ、そうか、と。

 そして、お前が無事でよかった、と。

 ぽつりと、そのふたことだけが、返ってきた。

 

 

 

 

    ◇

 

 

 

 

 

 いよいよ、復讐(ふくしゅう)の幕が開ける。

 滋賀に戻った母上および大家殿にも激励(げきれい)され、気合いは十分。……情けなさも十分。

 『話す機会を設けてほしい』との果たし状と共に、新幹線のチケット番号を相手へ送りつけたところ、一回目の返信は早めにあった。

 内容は、『社畜を舐めるな、休日申請は最低三ヶ月前からの早い者勝ちで、それでも希望が通るとは限らない』。

 その後は既読すらつかなくなった。

 ではこちらが愛知へ向かうべく、買い出しから戻ったその日の我が家の庭の一角。

 

 新ご主人様より上位者を発見した我が家のニューフェイスが、人様の彼女を秒で骨抜きにした美人なお姉さんと、アスレチックを楽しんでいる。

 

 既読もつかなくなった理由は、全力で仕事を叩き潰(つぶ)していたためか。そうだとしても、我が家に犬がきたことは、秘密にしていたのだが。

(おい、なんでござるかその相思相愛っぷりは)

 家主が留守であるのに庭を自由に使い始める、その堂々としたジャイアニズムと、それに阿(おもね)る新人。特に新人の方は、誰に尻尾を振れば良いのか、見抜くのが早い、且(か)つ、的確すぎないか。家族ヒエラルキーで上位を獲(と)れるタイプでござるな。

(よかろう、でござる。相手にとって不足なし)

 

 君の元ご主人が、その名を、どんなつもりで付けたのかはわからないし、知る由もない。

 けれどその名は、自分にとって、特別な響きを持つ。

 

 

 メメント・モリ(死を忘れることなかれ)。

 

 

 色々な意味で、とても良い名だと思う。

 

 

 ……こちらの復讐は、一生がかりになる。

 しっかりと、責任をとってもらおうではないか。自覚したからには。

 

(攫(さら)うでござるよ。嫋(たお)やかで、美しい、未来の京女殿)

 

 

 生命輝く世界にいる、新しい家族。

 

 

「─────めめ!」

 

 

 呼ばれて駆け寄る一匹を、もう一人の芽々が、ぽかんと大口を開けて眺めている。その様がなんとも狙い通りで、してやったりと言いたい気分がこみ上がり。

 

 事件以来初めて、彼女と同じくらい口を開け、声を立てて、笑った。

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