一話
西暦2079年の4月。司波達也、真柴百合香の生誕。
生まれてくる子の約束された成功と惜しみない祝福。明るい希望に満ちた未来の訪れ。皆が思い描いた理想の生誕。それは四葉家にとって最も喜ばしい吉事になるはずだった。
──けれど、そうはならなかった。
──だから、この物語は始まったのだ。
2079年の4月、四葉家の皆が二組の次世代の誕生という吉報に歓喜の声を上げていた。四葉直系である司波(四葉)深夜の妊娠と全くの同時期、四葉分家である真柴家の当主、
この二つの吉事は、一族の皆の心に巣食っていた陰鬱な記憶を晴らす一助となり、司波深夜と
それもそのはず。数年前、2062年の拭い難い悲劇。
四葉真夜が大漢に拉致され、悍ましい人体実験の素体とされた事件。真夜の奪還と報復の代償として一族の主力、主だった実力者30名が死に絶えた忌まわしい過去を払拭するような次世代の命の誕生は、一族の皆に確かな喜びと希望をもたらした。
生まれてくる四葉の血を継いだ次世代。妊娠の報せを聞いた当初、四葉一族の皆は純粋に生まれてくる赤子たちへの希望と祝福に満ちていたが、徐々にその希望と祝福は一族の皆の願いによって歪んでいくこととなる。
世界最高の精神干渉魔法師の育む赤子。まっさらな新雪のごとき精神、自我さえ形成されていない胎児ならば、四葉深夜の有する魔法“精神構造干渉”によって精神構造をいかようにも強化、増幅、改竄、変容させることが可能なのではないか。
まだ、何者でもない命を、無垢な赤子を超越者に仕立て上げるという歪んだ願い。その願いによって生まれるのは、四葉一族をあらゆる理不尽な運命から守る最強の魔法師。深夜の子の生誕を誰もが心待ちにし、一族の誰もがその身勝手な超人願望に浮かされていた。
誰も彼もが最強の魔法師の誕生を狂気に等しい熱量を帯びて待ち望んでいたのである。
その一方で
無論、四葉一族の皆はその懐妊を祝福こそしていた。いたのだが、胎児の段階から世界最高の精神干渉魔法師である四葉深夜の“精神構造干渉”の魔法を受け、一族の想像も及ばぬほど強大に生まれてくるであろう子に比べれば、特別な措置や魔法による施術を受けずに生まれてくる子との期待値の差は明白だった。
そう、深夜は自身の子への精神構造干渉の施術と出産に掛かり切りで、真柴家の赤子にまで何らかの施術を行う余裕はなかった。一族の総意ともいえる期待の想念も深夜の子のみに注がれていた。
その少女が、生まれながらに規格外の天与の才を有していたことに尽きる。
そして、四葉家の運命を変える日は訪れた。
2079年4月24日。司波達也、爆誕。
規格外のサイオン保有量を持つ司波龍郎と四葉家直系の深夜の息子として生まれた司波達也。その生誕時、一族の大勢が喜色満面とした中、当時の四葉家当主であった四葉英作は端的な解析結果を告げた。努めて冷静に、感情を表に出すことはなく。
『この子は、世界を破壊する力を秘めている』
四葉英作。彼は他人の魔法演算領域を解析、その特性と潜在的な魔法技能を読み解く精神分析に特化した魔法師だった。その実力について、以後の四葉家における魔法演算領域分析系の魔法は、そのほとんどが彼の作り上げた術式を基にしていると言えば、凄まじさの片鱗が垣間見えるだろう。
四葉英作氏の評価は此処ではさておき──。
彼は達也の有する魔法の詳細を、一族の皆へ克明に語った。
達也の魔法演算領域には、“全ての物質と情報体を崩壊させる力”、“全ての物質と情報体を、二十四時間以内に限るが復元する力”の二種が宿っている。人も、魔法も、物も一切の区別なく破壊しつくし、また取り戻せる異能。破壊と復元、死滅と蘇生。
敵を一方的に殺し尽くし自分や味方は無事に蘇ることを可能とする夢のような──。
違う、これは、こんなものは味方や自分自身に死ぬことを許さず、未来永劫、敵か、味方のどちらかが死に絶えるまで戦い続けなくてはならない
一個人が背負うには、あまりに重い責任と力。それを、まだ生まれたばかりの、何の罪も因縁もない赤ん坊が有している。
悍ましいほどの罪の意識に苛まれている分家の一同が目にしたのは、深夜の胸に抱かれ、真夜が頭を撫でる小さな赤ん坊の姿。
あの小さな身体は、柔らかな手は、生まれた瞬間から血に塗れることが運命づけられた。それを為したのは、誰だ。誰が、いやナニが悪い?ガチガチ、と奥歯が恐怖の震えで音を出す。動転している誰かの荒い息遣い。顔を手で覆い、瞳の奥は罪悪感で淀んでいる。赤子を慈しむ深夜と真夜の顔を見られず、誰もが頭を垂れた。
間違えた、そう誤りだった。分家や一族の誰もが遅きに失したものの気づいてしまった。
これから何にでもなれるはずだった赤子の未来を焚べて、その代償に得たのは歪んだ願いを一身に背負って生まれた世界を滅ぼしうる怪物。
分家の皆が赤子を見る目は恐怖と慚愧に濡れていた。幼児らしく泣き、笑っているだけで自分たちの醜悪さを突き付けられる。まるで鏡だと誰かが口にした。赤子を通して映るのは自分たちの身勝手さ、己が良ければ世界が滅んでいいという度し難いエゴイズム。
しかも、それを自分たちの手を汚すのではなく、代わりの誰か、自分よりも小さな子供、赤ん坊に任せようとしていたという事実は、分家の当主たちの魂を根元から折るのに十分なほどだった──。
生まれてきた赤子に罪はない。
深夜さんの子はむしろ被害者だ。
でも、生かしておいていいのか。魔法は時として激しい感情によって暴走する。本人の望むとに関わらず、この子はいずれ世界を滅ぼしてしまうのでは?
もっともらしい論法だが、これらは全て上面を取り繕った一般論。より深刻で現実味を帯びた強迫観念が当時、子供を望んでいた黒羽家を中心に椎葉家、真柴家、新発田家、静家へと伝染した。
『もしも、深夜さんの子である“
今後、四葉に生まれてくる赤ん坊は全て、人ではなく兵器になってしまう。
黒羽家を筆頭とし、分家の皆の意見は見事に一致した。
“司波達也を成功例、基準にしてはいけないのだ”。
彼の在り方が正しいというのならば、我々は自分の赤ん坊を差し出さなくてはならない。胎児の段階から“精神構造干渉”の魔法を施術し、強力な魔法を生まれ持たせてその在り方を人間から兵器に捻じ曲げることが四葉としての正しさに──。
否、そんなことは許されない。分家の皆は、“司波達也”を失敗例として扱うことを決めた。例え、当主に命じられようと、罰されようとも“成功例”として扱ってはいけないのだと。
今後、四葉に生まれる子供たちのために。
この結論は、自分たちの醜悪さを否定するためだったのか。それとも一族の子供たちの未来を真剣に案じてのことだったのか。どちらにせよ、同じ四葉家の同胞である達也を切り捨てた時点で分家の皆は自身を正当化する大義名分を喪失した。
それから分家の当主たちが集まって長い話し合いが始まった。“司波達也”を殺すべきかどうか。あまりに非人道的な議題のため話し合いは纏まりを得ず紛糾した。話し合いは数日を要しても終わることなく、やがて達也の誕生から六日後。
西暦2079年4月30日、真柴百合香が生誕する。
その吉報を聞きつけた分家の皆はこぞって真柴家へ祝辞を告げに訪れた。達也の処遇についての話し合いすらも放棄して。いやこの場合は“赤子を殺すべき”などという非人道的な話し合いから少しでも離れて“赤子の誕生を祝福する”という真っ当な人間性を発露する機会に縋りたかったのかもしれない。
分家の皆は、
だが、わざわざ分家一同が駆け付けたのは祝福だけが目的ではなかった。もう一つの目的とは不安を払拭することにあった。生まれた子が“司波達也”と同じように強大過ぎる異能を持っていたら、という言外の不安、恐怖。
いいや、“精神構造干渉”を受けていない真柴家の娘さんは、ただ普通に生まれたはずだ。そう期待を込め、分家の皆は英作の解析結果を待つ。
四葉英作は生まれたばかりの“真柴百合香”を抱きかかえ、その魔法演算領域を解析し始めた。それはたった十数秒の精神分析。百合香の魔法傾向を解析するための
数日前の達也の件があってか、魔法の行使に僅かな躊躇を滲ませながらも四葉英作は、生まれたばかりの百合香の精神を覗き込んだ。
しかし、彼はよくよく理解するべきだった。無垢な赤ん坊であろうとも他者の精神の深奥を覗き込むことの危険さを。
“深淵を覗き込むとき、深淵もまた汝を等しく覗き込むのだ”。
四葉英作は“真柴百合香”の持つ魔法演算領域を観測し、その結果、正気のまま発狂していく自分を客観視した。
見るべきではなかった、見てはならなかった、見てしまった。
見ていた、見ている、見られている、見つめている。
観測されているのは、観測しているのはどちらだ?
“真柴百合香”の潜在的な魔法演算領域の特性:卓越した精神干渉と狂気の支配。
四葉英作は幻視する。畏怖と狂気に満ちた至純にして混沌たる空虚の領域。
複雑怪奇な虹色の輝きを発して視る者の正気を奪う異次元の色彩を。
もしも、この少女がその気になれば、世界は一瞬で狂気と混沌のうちに沈むだろう。それはきっと瞬きの間。覚めない悪夢に救済はない。
殺さなくては──。だが、それをすれば四葉は後戻りができなくなる。
都合の悪い赤子が生まれるたび、一族は無垢の命を奪う罪業を重ねなければならないのか。本当に殺すしかないのか。それ以外の選択肢は……。
四葉英作の殺意と逡巡を、当時の幼い百合香は明敏に感じ取った。
生まれて間もなく感じた最初の恐怖、命の危険。反射的に、かつ臆病に百合香は精神干渉魔法の何たるかを知らぬまま理解もせずに四葉英作を己の魔法の術中に落とした。
その魔法の出来は、
術式に注ぎ込む想子、サイオン量に寸分の余剰なし。そのため術式の発動光は皆無。しかも真柴百合香は初めての魔法の行使で、発動時の兆候を全て隠匿してみせたのだ。生まれたばかりの赤子が、いくつもの修羅場や経験、知識を蓄えた四葉の術者らを前にして、だ。その意味は決して軽いものではない。
通常、魔法発動の直前に周囲の
これは術者の技量でいくらか低減できるがゼロにはできない。だが、このときの百合香の魔法はそのゼロに限りなく近しいものだった。
凪いだ水面に波紋を立てずして石を入れることができるだろうか。
しかも百合香が発動した“他者の殺意を捻じ曲げるほどの精神干渉魔法”の強度を考慮すれば尚のこと。例えるなら、凪いだ水面に石を投げ込みながらも一切の波紋を生じさせないようにする、まさに神業。
四葉英作は本人が自覚しないまま殺意と恐れを、愛情と狂信に変えられてしまった。その事実を、彼は最期まで自覚することはなかったという。
精神干渉の魔法を受けた四葉英作は赤子を抱き、慈愛に満ちた柔らかな笑顔で分家の皆へ報せる。
『この子は、四葉の最高傑作となる』
四葉英作は、滔々と真柴百合香が精神干渉魔法に高い適性を持ち、精神分野における彼女の魔法の幅広い万能性について語った。その語りは大げさな興奮ともとれる熱量を持っていたが、分家の皆がそこに違和感を持つことはなく興奮と歓喜にむしろ積極的な同調を見せるほどだった。
その理由は単純で、達也が生まれる前に抱いていた莫大な期待がそのまま百合香へと流れたというだけの話。他にも達也に対する恐れの裏返しの面もあるだろうが、誰もが四葉家当主がじきじきに下した“最高傑作”の承認に打ち震えた。
なお、この判断がのちの四葉家において“精神干渉魔法は物理干渉を行う魔法よりも高い位階にある”という風潮を形成していくことになる。
こうして一人の怪物は恐れや蔑みと共に生まれ、もう一人の怪物は祝福と歓喜の下に生まれた。その後、二人の待遇は決定的に分かたれる。
達也は分家からの“殺すべき”という意見具申を受けるほど疎まれ、当主である英作が最高の戦闘魔法師として育成することを言い出さなければ、きっと達也の命運は尽きていたことだろう。
有した魔法を暴走させないため、力を徹底的に鍛え上げ、喜怒哀楽の悉くを抑え込ませる。幼子への仕打ちとしてはあまりにも酷であったが、それしか達也を生かす術がないということもあって戦士として育てる訓練に誰よりも熱心だったのは司波深夜だったほどだ。
一方、百合香の生育には常にあらゆるものが惜しみなく与えられた。四葉の序列三位、調整施設を司る紅林の人間が乳母として常駐し、母と父の庇護の下、彼女は丁重に育てられた。毎年の百合香の誕生会では、分家の当主たちがわざわざスケジュールを調整までして参列したほどである。
魔法教育も最高峰のものが与えられた。四葉において最も精神干渉魔法に長けた司波深夜との個人指導をはじめ、四葉家当主である英作とのマンツーマンでの訓練。父たる
分家の皆の期待に押しつぶされないよう、慎重に愛情深く百合香は最高の精神干渉魔法師となるべく魔法を学んでいった。
この二人がはじめて出会ったのは彼らが六歳となった冬のことだ。
幼い百合香にとって魔法を学ぶことは遊びの範疇にあり、特に遊び相手の中でも司波深夜との時間を楽しみにしていた。英作叔父様や父との魔法訓練も悪くはないが、自分を一足飛びに成長させるのは司波深夜しかいないことを分かっていたためだ。
『おかあさま、今日は深夜さまと訓練できるのかしら?』
母と手を繋いだ六歳の百合香は今日のスケジュールを尋ねてみる。あどけない百合香の頭をさらりと撫で、女性は告げた。
『ええ、でも深夜さんにもご都合というものがあるのです。そうすぐにお時間を空けてもらえるわけではありません。確か、ご子息の実戦形式の訓練を先行して行うと聞いています。私やお父様もそれに同席しなくてはなりませんから、貴女は大人しく待っているのですよ?』
『深夜さまの、ご子息?それって、わたくしと同じ年の同じ月に生まれたという?』
百合香の色素の薄い瞳がキラリと好奇心に光る。それを見て、母は僅かに喋りすぎてしまったかと考え込む。今の四葉家において“司波達也”が四葉深夜の実子であることは、あまり表では話さないようにするのが暗黙の掟。何故なら、“司波達也”は四葉にとって失敗作の烙印を押された魔法師なのだから。
深夜をいたく尊敬している百合香に話したことは失態であるかもしれない。母は百合香の肩に手を置き、再度、念押しをする。好奇心が強く、思いもよらぬ行動力を持つ我が子の無軌道ぶりを諫めるために。
『くれぐれも、大人しく待っているのですよ。何か必要なものがあれば、紅林の方に声をかけなさい。外には決して出ないように』
『はい、おかあさま』
はにかんだように、それでいて諦めを混ぜた声で即座に返事を返す。そうすれば、自分の嘘は母にも通じることを幼い百合香は学んでいた。母は百合香を紅林の執事に預けると、何かの準備をしていた父と合流して何処かへ行ってしまった。
二人がいなくなったのを確認し、百合香はすぐさま部屋を出ていく。紅林の執事には、自分が部屋で大人しく本を読んでいる幻覚を魅せている。これから二時間ほどなら解ける恐れもないだろう。
部屋を出た百合香は、監視カメラやあちこちに配備された監視員の目を盗んで父と母の気配、サイオン波動の固有パターンを追跡していく。
百合香は誰に気づかれる事なく、四葉英作と深夜の主導する人造魔法師実験の訓練場に潜り込むことができた。
そして、そこで百合香は目撃する。自分と同い年の少年が、二回りも年上の熟練魔法師を屠った瞬間を。目の前で流れる血、息絶えた骸、それらは恐ろしかったものの百合香の心の中を占めていた想いは達也への賛辞の念だった。
聞こうとしなくても口さがない者たちの声は耳に入ることがある。司波達也は四葉において失敗作であると。これまでは興味がなかったが、達也の実像を見て気が変わった。何が失敗作、何が出来損ないなものか。
あれほどの力を持ちながら疎まれる理由が百合香には分からない。彼が認められないのは理不尽だ。幼子らしい不条理と理不尽に対する怒り。
気が付くと百合香はあの少年を褒めたたえたくて、深夜さまのことで語り合いたくて動いてしまっていた。普通ならば、四葉の直系ということもあって司波達也にも護衛がつけられたはずだ。しかし、達也を意識的に無視しようとする大人たちの意図と、達也を冷遇する周囲の環境が百合香に千載一遇の機会を与えてしまった。
実験を終えた後、簡単な検査を終えると達也は調整官の指示で自室へと戻ろうとしていた。母はこの後も別の魔法師の訓練、調整で忙しいらしい。精神構造干渉の魔法によって、激情を失った達也にとって母の居ない状況も、他の大人のぞんざいな扱いも、心を揺らす原因にはならない。
ぼんやりと調整施設から出ようとしたとき、目の前に人の気配を察知する。深夜や調整官といった大人の気配ではない。これまで彼が視たことのない、達也がはじめて目にする同い年の子供、少女の姿。
愛らしくも華奢な矮躯、ぱっちりとした色素の薄い桜色の双眸、丁寧に櫛を入れられた純黒の髪、妖精を思わせる可憐な容姿。達也は、百合香を見て実感する。
彼女が自分とは違う、四葉の最高傑作たることを約束された少女。
おずおずと愛らしい仕草で首を傾げ、百合香は口ずさむ。
『貴方が、司波達也さまですか──?』
『…………えぇと。はい、おっしゃる通り俺──いえ、私は達也ですが』
達也はそこで気まずさを覚える。これまで魔法の実戦訓練を中心に学んでおり、目上の人間に対する行儀作法などは疎かにしている自覚がある。もし、何か失礼になるようなことをしてしまえば、面倒なことになると無表情のままに頭を痛めた。
達也は自分が一介のガーディアンでしかないことを理解していた。そのため母が如何に四葉直系だろうと、四葉の序列において自分は執事未満の権限しか持ち合わせない。
つまり、分家の人間と対等に語ることを許されていない立場なのだ。
しかし、達也の困惑を余所に百合香はニコニコと微笑んでいる。何か、話すことを望まれていると察した達也は少女の沈黙に促されるまま話を続ける。
『……貴女は真柴百合香様ですね。母から聞き及んでいます』
『まぁ本当ですか、深夜さまがわたくしのことを達也さまにもお話になっていたなんてとても嬉しいです。わたくしも深夜さまからではないのですが、達也さまのお話は聞いております』
『──あまり、お耳に入れて気持ちのいいものではないでしょうね』
『ええ、でも貴方を直接見て、それは誤りだと知ることができました』
『?……誤り、ですか』
達也のぼんやりとした弱い情動、劣等感に分類されるものが微かに疼いた。
『だって、貴方は先の訓練であそこまでの力を発揮し──』
『百合香様──どうか、過分な評価はお控えください』
目上の人間の言葉を途中で遮ることの無礼は百も承知。しかし、達也は目の前にいる四葉の最高傑作が語る自分への評価を聞くに堪えられなかった。
『私は一介のガーディアンでしかないのです。とても、貴方から評価されるに値する魔法師ではありません』
百合香は目の前の、自分と同等の域にある怪物がひどく見当違いなことを言っているのに目を白黒させた。謙遜、というわけではない。百合香は精神干渉の魔法に特化している影響で他者の精神の動きに特別な知覚力を有している。
端的に言うと、他者の言う嘘をほぼ確実に見抜くことができる。尤も、相手が騙されていて、嘘を真実と信じ込んでいた場合は嘘の判別ができないわけだが。
そんな百合香の感情を看破する魔眼には達也の言うことが全て真実でしかない、と映ってしまう。
百合香が達也を間近で視たとき、感じたのは達也に対する畏怖と自分を殺しうる天敵になるという実感。憂いと諦観に沈んだ眼差し、深夜さまとは似つかない凡庸な顔つき。
自分と同格の魔法師、自分が世界全土を発狂させて壊すことができるなら、彼もまた世界を物理的に焼き払えるだけの異能を秘めている。
精神干渉の極致と物理干渉の極致、相反する適正でありながらも二人は互いを意識せざるを得なかったのだ。
実験体としての互いの差異、達也は羨望を通して。百合香は恐怖を通して。
呆然と立ち尽くす百合香に達也は願い出る。
『百合香様、私などに敬語は不要です。貴方は四葉一族の人間であって、ただのガーディアンとは立場が異なる。百合香様にへりくだられてはこちらの立つ瀬がありません』
『……そう、ですか。ええ、でしたら現時点では達也さんの望まれるよう振舞いましょう。しかし、いつまでも立場が不変であるとは限りませんよ?』
下手に出ようとする達也へ百合香はちくりと激励とも皮肉ともつかぬ言葉遣いをしてみせた。
『──鍍金というものは剝がれるものです。それと同様、宝石を石くれに見せかけることはできません。いずれ、誰かがあなたの真価に気づく時は必ず来るでしょう。そのとき、貴方はどのような選択をするのでしょうね』
『……ガーディアンであり続けるか、それ以外の在り方を模索するか、ということですか?』
『いえ、わたくしが言いたいのは……達也さんが自分に嘘を吐き続けるのか、それとも真実を受け入れるのか、ということです。でも、どちらを選ぶにしても心なさい。魔法師の嘘は世界現実を書き換える力がある、またそれは真実にも言えますね。偽ってはいけないこと、明かさなくてはならない事実。その見極めは慎重に──』
曖昧な、受け取り方がいくらでもありそうな形容に達也は困惑する。その様子が愉快で、百合香は機嫌よく微笑んで、その場を後にしようとする。
『ふふふ、それではごきげんよう。達也さん。また何処か、互いの縁が重なったときにお会いしましょうね?』
その微笑みは、あまりにも可憐で、万人の心を捉えてしまうほどの引力を有していた。くらり、と感情を削り取られた達也でさえ、魅入られるほどの幼気な美貌。
離れていく少女の背中、それを無感動に眺めていた達也は自分の中でかすかに残った衝動と呼べるものの命じるまま、自分の異能の一つである規格外の視力、
例えるなら自らの裸身や、臓腑、脳髄の最奥を見られるような実感。不躾な視線、遠慮のない高次元からの眼差し。しかし、百合香の中に不快感は微塵となく、あったのは未知の現象を自分の中に落とし込む作業の充実感だ。
魔法演算領域下で自身の情報知覚能力を配分、そして再統合。
発現に特殊な先天的素養を要する
そのまま百合香は朧げな確信と共に、達也を自分が構築した“
百合香は達也を一瞬で自分の認識下へ置いた。
自分の構成要素を全て視られたと理解した達也はぼんやりとした畏怖を覚え、その場を足早に去っていく。百合香も思わぬ拾い物があったと上機嫌になり、紅林の執事や母たちに気づかれないよう元居た部屋まで戻っていった。
幸い、執事や母に外出したのを気づかれることはなく、しばらくしてからその麗しの相貌に疲労を滲ませる司波深夜と合流して魔法訓練が開始した。
構築したての
その利点、優位性とは“魔法に対する理解力の深さ”──。
これを料理に例えるとして、通常の魔法師の場合はレシピの分量や手順に沿ってしか料理を作ることができない。独自の技巧を振るうことも細やかな調整も赦されない。だが、
つまり、持たざる者よりも遥かに優位な条件下で魔法を編むことができるのだ。
百合香の教師を務めていた司波深夜が目を見張る。自身の弟子である真柴百合香の尋常ではないほどの魔法の上達。魔法を行使するごとに精度が跳ね上がっていく。単なる成長、上達では説明がつかない領域。
『──百合香さん、今日のあなたの魔法発動の精度はこれまでと比べようのないほどに成長しています』
『──お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたします』
ニコニコと嬉しそうにしている百合香へ、深夜はこの激的な成長のわけを聞いてみることにした。
『……これまでの貴方を軽んじるわけではありませんが、今までの魔法行使とは比較できないほどの精度です。いっそ、今までの訓練で力を入れてなかったのでは、と考えてしまうほどに。……何か、大きな変化でもあったのですか?』
『変化、でしょうか……』
此処で百合香は考え込む……振りをして思考を巡らせる。達也との邂逅を省いたうえで説得力のある話の組み立て。語りすぎることは疑いを生じさせるはずだ。内容は簡潔でインパクトあるものが望ましい。
そして僅かな逡巡を終えた百合香は語り始める。
“自身の情報知覚力が先日から鋭敏になり始め、それの制御をしているうちに眼ともいえるような仮想器官を後天的に得た”と。
それは深夜をはじめ紅林の研究者、百合香の母たちにとって寝耳に水の話だった。特に、息子が先天的に同様の異能を持つ深夜にとっては、とてつもなく信じがたい話で疑念を抱きかける段階で百合香は付け加える。
“魔法演算領域下で自身の情報知覚能力を配分、そして再統合、定義した感覚は覚えているため、他の魔法師に対しても再現は可能である”。
それは驚愕の事実だった。精神干渉において凄まじい適性を持つ者が
同じく精神干渉魔法に長けた深夜をして信じがたい内容の話であったのだが、紅林をはじめ真柴家が主導し、緊急での実験スケジュールが組まれることとなる。
実験名は、“情報知覚能力に関する仮想器官生成実験”。
つまり、
実験は、紅林の調整官が選んだ情報知覚能力に長けた調整体を数人、選出。その調整体たちに百合香が精神干渉の魔法的処置を施していき、実験は順調に進み何事もなく成功した。
調整体たちは皆が
この結果を受け、真柴百合香は他の分家や一族の希望者に
真柴百合香はこの一件によって、分家一同からの支持と一族内での揺るぎない立場を確立していった。