茨戸ではすでに乱闘が始まっていた。
血飛沫と怒号の中、アサムは迷いなく腕を斬り落とし、喉を裂く。躊躇という概念が存在しないかのようだった。
(……血の気が盛んなことだ)
尾形は物陰から銃を構えながら、その姿に目を奪われていた。人を殺すことに抵抗がない。まるで殺戮のためだけに育てられた兵士。尾形もまた淡々と引き金を引く。
偶然斬り倒した男の懐から、黒墨の刺青が彫られた皮を見つけた。
「……あ? なんだ、これ」
拾い上げた瞬間――
ジャキッ
「それを渡してもらおうか」
銃口がこめかみに押し当てられる。アサムは片手を上げ、ゆっくりと振り返った。
「……アンタが土方か?」
フードの奥から覗く瞳は、微塵も揺れない。
「いかにも」
現れたのは、かつて写真で見た男――、土方歳三。老いてなお鋭い眼光は健在だった。
「用心棒、雇わない?」
「……何を急に」
物陰から姿を現した尾形が呆れたように言う。
「話が急すぎるぞ」
そこへ、永倉新八をはじめとする面々が集まってくる。永倉はアサムの顔を見た瞬間、目を見開いた。
「お主……史戸那か?」
アサムは静かにフードを外す。
「……生きていた、とでも?」
その名を聞き、土方の瞳がわずかに細まる。
「俺はお前の遺体を見た。生きているはずがない」
「その辺の孤児を殺すくらい、連中にとっちゃ造作もねぇさ」
空気が張り詰める。
やがて土方は銃を下ろした。
「奴を用心棒として雇えと?」
「元第七師団、尾形百之助。遠距離の狙撃手だ」
名を言い当てられても、尾形は驚かなかった。
(……どこまで知ってやがる)
「史戸那も付いてくるんだろう?」
「足手纏いにはならねぇ。使えなければ殺せばいい」
その口調は、先ほどまでのアサムとは別人だった。
史戸那――、第七師団へ潜入していたスパイの名。
好戦的で荒々しい人格。
土方は短く息を吐く。
「いいだろう。その刺青人皮は史戸那が先に手にした」
「刺青人皮?」
「金塊の在り処を示す地図だ」
第七師団も集めている、と告げられ、アサムは鼻で笑った。
「……争奪戦か」
頷く尾形。こうして、二人は土方一派へ加わることとなった。
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夜。
外で休んでいた尾形がふと問う。
「……今更だが。名前、いくつある?」
「偽名込みで?」
「篠崎史戸那以外だ」
アサムは指折り数え、面倒くさそうに肩を竦めた。
「三つくらい」
「何て呼べばいい」
「……アサム。それがアイヌの名だ」
[[rb:史戸那 > シトナ]]は“男名”。
アサムは“女名”。
だが、その真実を知る者はほとんどいない。
「史戸那は、一番嫌いな名だ」
「なぜだ」
「あの頃は何も知らなかった。ただ、与えられた知能を振り回して、罪を重ねた」
尾形が手を伸ばしかけた、その時。
「史戸那!」
土方の声。振り向いた瞬間、空気が変わる。柔らかな影は消え、冷え切った眼光だけが残る。
(……こんなにも、人は纏う空気を変えられるのか)
「来い」
「ああ」
尾形はとっさに手を掴んだ。
「行きたくねぇなら、行かなくていい」
アサムは一瞬だけ目を伏せ、
「……またあとで」
手を振り払い、土方の後を追った。
――土方の部屋
向かい合う二人。
「最後に会ったのは二年前か」
「……ああ」
土方はじっと見据える。
「アサムとは誰だ?」
「ウイルクから何も聞いてねぇのか」
ウイルクの名に、土方の眉が動く。
「利用価値のある"道具"だと豪語していたはずだ」
アサムの言葉に、土方は不意にアサムの後頭部へ手を回し、胸へ引き寄せた。
「……アサム。それは違う」
「……は?」
「和人でありながらアイヌとして生きる娘だ、と誇っていた」
思考が止まる。
「……"女"であることは口外しない」
「……」
「隠すなら、貫き通せ」
それだけ言い、土方は部屋を出た。一人残されたアサムは、深く息を吐く。
(……何がしたかったんだ、あの人は)
だが答えは出ない。考えるのをやめ、尾形の元へ戻るのだった。
部屋へ戻ると、尾形がいた。だがアサムが戸を閉めるや否や、いきなり腕を掴まれ、そのまま強く抱き寄せられる。
「……?」
困惑する間もなく、耳元に低い声が落ちる。
「……何された?」
「何も」
即答だった。
「俺の元を離れるつもりか?」
何を言い出すのか、とアサムは目を瞬かせる。
(……ああ)
ようやく理解する。この男は――
相当、面倒くさい。
土方の元へ向かったあの一瞬。自分の手を振り払った、その行為。それが尾形の内側で何かを刺激したらしい。
「……いずれは離れるかもな」
わざと曖昧に答える。尾形の腕に、わずかな力が籠もる。
「約束と違う」
「私が必ず、生き続ける保証はない」
するりと拘束を抜け、距離を取る。
「……死ぬつもりか」
「死に場を探してる、と言ったら引く?」
無表情だった。尾形は言葉を失う。その顔は若いはずなのに、妙に古びている。長く生きた者の目。
「だから、君と来た」
「それが理由か?」
あまりに出来過ぎた筋書きだ。だが問い詰めようとした瞬間――、
「これ以上聞くなら、外出る」
完全な拒絶。尾形は小さく息を吐き、言い直す。
「……ならせめて、外に出るな」
「……分かりました」
壁にもたれ、沈黙が落ちる。やがて尾形が布団に入ると、アサムも当然のように潜り込む。
その首筋に視線が落ちた。
耳の後ろから背へ続く無数の傷。
そして、うなじにわずかに覗く刺青。
網走の脱獄囚たちのものとは違う。
(……どれだけ隠してやがる)
いつも着替えは先に済ませている。弱みを見せない。知られないようにするほど、暴きたくなる。尾形は無言でアサムを抱き寄せ、そのまま眠りに落ちた。
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翌朝
隠れ家には
牛山辰馬と家永カノの姿があった。
牛山は豪快に飯を食い、家永はアサムを見て目を細める。
「まあ……美麗人。あなたの身体、いくつか欲しいわ」
愛想笑いでやり過ごす。料理を任され、手際よく仕上げる。
「器用だな」
「コタンで母の代わりに作っていた」
嘘だった。親の顔など知らない。生まれて間もなく、捨てられた。
無言で箸を進める尾形の視線だけが重い。
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縁側
「腕は鈍っていないようだな」
そう言って、土方歳三が笑う。
「手合わせしよう」
尾形の視線が刺さる。
「……嫉妬でもしてるのか」
小さく頷くと、土方は愉快そうに笑った。
「実に面白い男だ」
刀を取りに戻る。その背を見送りながら土方が言う。
「次、史戸那に手を出したら殺す、とでも言うつもりか?」
「……」
「愛したか」
尾形の瞳が揺れる。
違う。
これは愛ではない。
所有欲だ。
壊れそうなものを手元に置いて観察したい衝動。
それだけだ。
「――あの子はまだ傀儡だ」
土方の声が低くなる。
「愛を知らずに育った者は、己を道具としか思わん」
刀を抱え戻るアサム。腕まくりの下に広がる、火傷の跡。
「その腕は」
「生まれてすぐ炙られたらしい」
軽い口調。土方の目が細まる。
刀を握った瞬間、空気が変わる。
――史戸那。
好戦的な人格が浮上する。
先に動いたのはアサム。左手で刀を振るい、距離を詰める。金属音が響き続ける。
やがて力負けし、刀を弾かれる。
「……敵わないな」
「楽しかったぞ」
掌に滲む血。平然としている。
「狙撃は」
「弓の方が好きだ。銃は重い」
接近戦を好む理由は言わない。血飛沫を浴びたいからだとは。
尾形はただ見ていた。
普段の穏やかな顔と、戦闘時の狂気。
どちらが本物なのか。
いや――
どちらも本物だ。
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土方が去る。
尾形が近づくと、アサムは一歩引いた。
「……どうした」
腕を掴む。
「何?」
本気で分からない顔。
「俺を避けるな」
「そう」
無理やり振り払う。
「気分が悪い。歩いてくる」
背を向ける。
尾形は追わない。だが視線は外さない。
胸の奥で何かが軋む。
これは恋ではない。
理解できない存在への執着。
壊れる瞬間を見届けたい衝動。
それでも――
他の誰かの手で壊されるのは許せない。
尾形百之助は、その日から自覚する。
自分が、アサムに対して異常な執着を抱いていることを。
それは愛情ではない。
狩人が獲物に向ける視線に、よく似ていた。