「人間ちゃん! 人間ちゃん……! 人間ちゃん、聞こえるっスか!?」
貴方は壊れ物のように抱き上げられる。
その腕は震えていた。
「さっきの時に骨と血管を繋げて血を止めても、やっぱり内臓のダメージが……!!」
――貴方はやり遂げた――
貴方はそう伝えようとした。
だが、喉は動かない。
「大丈夫……、絶対大丈夫っス……!」
血が口の中にある。
息が浅い。
視界が暗い。
貴方の意識が朦朧とするにつれ、彼女の纏う魔力もまた勢いを失っていく。
あの力は、彼女だけのものではなかった。
繋がった貴方を通して、流れ込んでいたものだったのかもしれない。
そう考えた貴方は、何とか意識を繋ぎとめようとするが、彼女は優しく貴方の頭を撫でた。
貴方の体を隠蔽魔法の膜が包んでいく。
――すまない――
「安心するっス、もう休んで、ちゃんと二人でたどり着くっスから……」
貴方はせめて、意識だけでも失わないよう歯を食いしばった。
「……行くっスよ、
彼女は貴方を抱え上げ、部屋から飛び出す。
部屋の外には、不審に思いながらも工場長の命のまま、直立していた淫魔達がいた。
「クッ……コイツ!?」
「管理人だ! 捕まえろッ!!」
「
淫魔達が動き出すその前に、彼女の視線が、床と壁と、出口までの線をなぞる。
「
床の一部が歪む。
工作魔法陣の時や、先ほどの工場長と対峙した時のような力強さはない。
だが、波打つ床は水面のように淫魔達の足を呑み込み、そのまま膝まで沈めていく。
「ちょっと揺れるっスよ、人間ちゃん!」
加速する彼女が向かう場所は壁。
そこに目掛けて衝突するように突き進む彼女。
あわや正面衝突の直前で、壁が裂ける。
貴方達は、工場の構造を一瞬だけ無理やり押し広げて作った、狭い抜け穴へ飛び込んだ。
「元にあった物質を変えるなら、今の私でもやれるっス!」
しかし、すぐに背後の壁が轟音を立てて爆ぜた。
「追え! 工場長がやられた!! 相手は構成魔法で壁を抜けている! 先んじて網を張れ!!」
追手の怒声が、工場の金属音に混じって近づく気配がした。
「カーッ! 作るより壊す方がそりゃ楽っスよねぇ!!」
彼女は方向を天井に変えて通り抜けると、配管だらけの空間へ出た。
――暗くて熱い――
配管の隙間から見える工場の内部は騒然としていた。
「だから、何なんだよも~」
「第六炉の管理人が、工場長相手に立てこもったんだと!」
「あの子が!? ヤバ、ちょーロックじゃん……!」
「いやいや、あの子がそんな大それたこと――」
「貴様らッ! 退け!!」
響き渡る警報。
走る淫魔達の足音。
各所で開閉する防壁の音。
「えっ、なになにッ!?」
「いたぞ! 上だ!!」
「工場長がやられた! 相手は隠し玉を持ってるぞ! 気を抜くな!!」
「……ッ!」
貴方達の背後に追手の声が響くと、彼女は貴方を強く抱き直す。
「ちょっとだけ、痛いかもっス……!!」
次の瞬間、彼女は配管から飛び降りた。
「撃て! 確実に仕留めろ!!」
そのまま空を駆ける彼女に放たれる魔弾。
しかしそれは蛇のように荒れ狂う配管に防がれた。
「グッ……! 構わん進め!! 取り逃がすな!!」
貴方達は追っ手を躱して飛び続けた。
迫りくる淫魔達を何度も躱し、時には交戦しながら逃げる。
「こっちっス……! ここを抜ければ工場の外周っス!!」
彼女は懐から折りたたまれた地図を取り出す。
魔法の地図。
前に、はぐれた時に使うと言っていたもの。
そこには、淡い線が浮かんでいた。
合流地点。
連絡先。
彼女が事前に話をつけていた組織への道。
地図の線は工場の外縁へ伸びている。
その終端は、貴方も知る場所だった。
「……いつもの公園……、頼むから間に合ってくれっス……!」
彼女が地図を握りつぶすと紙は赤く燃え上がり、まるでビーコンのように点滅しだす。
「馬鹿め! 工場外周は封鎖済みだ! 奴を守る障害物もない! このまま囲むぞ!!」
工場を抜け、見晴らしがよい場所へ出る。
すると周囲には、遠目には鳥の群れにも見える小さな点が、隊列を組んで浮かんでいた。
「クッ……!!」
彼女の動きに精彩がない。
息を絶え絶えにしたその姿は明らかに魔力の消耗が激しいことを示していた。
「見えたっ! 突っ込むっスよ!」
急降下。
内臓が浮くような加速に、貴方の体が彼女の腕の中で跳ねる。
それを抱きしめた彼女は、貴方を守る様に抱き込んだ。
「追い詰めたぞ!!」
地面に突き刺さるような緊急着地は土煙を巻き上げる。
「人間ちゃん……! 大丈夫っスか!!」
気づくと貴方の体を光が包む。
あれ程の衝撃であったというのに、貴方の体は確かに守られていた。
「はぁ……、はぁ……!」
しかし、彼女の体は限界を超えていたのだろう。
彼女は顔に冷や汗を垂らしながら荒い息を繰り返していた。
「待て! もう一人いるぞ……!」
貴方の隠蔽魔法が解ける。
彼女はそれでも貴方の体を隠すように抱き込んだ。
「あれは……、あれは何だ?」
追手の淫魔達は追撃の手を緩める。
というより、理解不能な出来事を前に固まっていた。
「あれは……、まさか……」
「い、いや、見間違えだろう、こ、これは幻惑魔法だ!」
「まて! 早まるな! と、とにかく一度上に報告を――」
「だからその上は奴にやられているんだ!」
地面に堕ちた貴方達の上空を旋回する淫魔達。
今は混乱しているが、じきに貴方達の元へ一気に突撃するだろう。
絶体絶命の窮地の中、既に瀕死に近い貴方の意識は既に限界であった。
――ここで、一人意識を失う訳にはいかない――
貴方は喉の奥で固まった血を咳き込んで吐き捨てる。
「……人間ちゃん、一応聞くっスけど、降伏すれば人間ちゃんの命は助かるっスよ」
――その可能性が高いだろう――
貴方達は顔を見合わせる。
「……じゃあ、決まりっスね」
――あぁ、そうなるだろう――
「徹底抗戦っス」
――徹底抗戦だな――
貴方達は手を繫いだまま立ち上がり、空を睨む。
「とにかくアレは絶対に生かして捕らえろ! 淫魔は仕留めても構わん!! 白兵戦に持ち込め!!」
大挙して空から降ってくる淫魔達に貴方達は最後まで自身の選択をぶつけ―――
「大儀でございました。ああ……! 今日は、何と素晴らしい日なのでしょう!」
(空が歪むAA)
あり得ないことが起きる。
魔法が超常の現象を引き起こすということは、貴方は既に知っていた。
現実が歪む。
まるで夢に見る景色のように、世界が捩じれ、歪み、溶けていく。
「ああ……! お怪我をなさっている……! いけませんわ、すぐに整えて差し上げませんと……!」
声の主は見えない、そもそもこの声がどこから響いているかすら貴方には分からない。
「よろしいのです。どうかお心を安らかに。これはすべて、悪い夢に過ぎませんわ」
まるで胸の内で眠る赤子へ語り掛ける様な慈母の声。
気づけば、貴方の体の傷はまるで夢のように消えていた。
「人間ちゃんが傷つく現実など、悪夢でしかございませんもの。……当然でしょう?」
貴方は動揺の余り、彼女を見る。
(人間と彼女の間で手を繫いでいる上級悪魔のAA)
「うふふ……人間ちゃんのお手は、本当に柔らかくていらっしゃるのね……。んっ……! はぁ……!」
体を震わせるその上級淫魔は、貴方を笑顔で見つめながら、この状況を一切無視して話しだす。
「ふふ……よくぞ、わたくしに庇護をお求めくださいました。褒めて差し上げますわ。褒美は何なりと叶えて差し上げましょう。貴方は、それだけのことをなさったのですから」
「上級淫魔――――、……さま……」
「はじめは詐欺かと思いましたのよ。わたくし、この手の詐欺で全財産を五度ほど溶かしておりますもの」
上級淫魔の言葉に、彼女はほとんど条件反射のように頭を垂れようとするが、それを押しとどめる。
「けれど、あの人間ちゃんの暮らしを綴った記録! ただ者ではないと、すぐに分かりましたわ! 人間ちゃんの息遣いから、産毛の一本一本に至るまで、あれほど叙情豊かに書き上げられた文章! 人間ちゃんが“いなく”とも“見える”ようになった子だと分かりましたの。わたくしと同じですわ!」
興奮気味に捲し立てるその上級淫魔は、先ほどから貴方の顔から一度たりとも目を逸らしていない。
「わたくしたち、きっと良い友になれますわ。そう思って参りましたら……はぁ……はぁ……! ああ、やはり……!」
その時、貴方達の目の前に風が巻き起こる。
警備の淫魔が頭を垂れながら地面に降りたのだ。
「じ、上級淫魔さ――」
「我らの出会いに感謝を。まるで夢のようですわ……!」
(一般淫魔が花弁となって消え、一面に広がる花畑AA)
貴方は、これは夢ではないか。
そんな怖気に似た感情が浮かぶ。
――今、いったい何をしたのだろうか――
「え? 何を仰っておりますの? 今日は、わたくしたちの素晴らしき出会いの日でしょう? ……あら。覚えていらっしゃるのですね」
周りの景色は一面の花畑、そこにはあれ程煙を立ち上らせていた工場も、取り囲んでいた淫魔もいない。
――これは瞬間移動の類なのだろうか――
「……じゃないっすよ、消えたんス、みんな……、あそこにいた全部が」
「違いますわ。皆さまは、ただ夢をご覧になっていただけ。淫魔は夢魔。本来、夢の世界に属するものですもの」
――消えた?――
「多分、というか恐ろしくてゲボ吐くほど信じたくないッスけど、全部夢に溶かして、現実を変えたんです。……そうっすよね?」
消えた。
その言葉を理解するまで時間がかかる。
「ごめんなさいませ。貴方に何かをするつもりなどございませんでしたの。本当ですわ。わたくし、貴方とはきっと良い友になれる気がいたしましたもの」
消えた。
あそこにいる淫魔、全員が、彼女の同僚たちも、工場長や警備、他にいたはずの淫魔達全員が……
まるで夢のように現実が溶けた。
「あ、あら……? ど、どうなさいましたの?」
「……人間ちゃんは、怖いんス、あれだけのことを平然とする貴女が」
「怖い……?」
上級淫魔の笑みが、初めて止まった。
「わたくしが、ですの?」
「そうっス」
「えっ……あっ、ご、ごめんなさいませ! ち、違いますのよ! 落ち着いてお話がしたかっただけなのですわ……!」
慌てながら弁明する上級淫魔は、手を宙にばたつかせる。
(花畑から工場に世界が切り替わるAA)
「ほら、ご覧くださいませ。これで皆さま元通りですわ。人間ちゃんのことは忘れていただきましたけれど……それはお許しくださいましね? 人間ちゃんは、わたくしたちの大事な、大事な秘密ですもの」
彼女は昔、貴方にこう言った。
上級淫魔の力は次元が違うと。
しかしそれは貴方が想像していた次元を優に数段階上回っていた。
「では参りましょうか。人間ちゃんの新しい館へ!」
これは誘いのようで命令だ。
なにせ、貴方のような弱者に出来ることはない。
しかし、それでも貴方が選ぶことが何よりも重要なのだ。