貴方は何よりも早く彼女に駆け寄った。
だが、伸ばした手が途中で止まる。
どこに触れればいいのか分からないほど、彼女の体はボロボロだった。
肩は不自然に落ち、指先は血と魔力で濡れ、口元には赤黒いものが広がっている。
床に投げ出された尾は力なく震え、折れた翼の端から、紫がかった光の粒が砂のように零れていた。
―― ――――――――ッ!!――
貴方が呼びかけると、彼女はほんのわずかに目を開けた。
焦点の合わない瞳が、貴方を見つける。
それから彼女は、ひどく小さく笑おうとした。
「……見苦しいとこ、見せたっスね」
貴方が腕を差し入れ、どうにか彼女の身体を起こすと、彼女は苦痛に眉を寄せる。
――喋らなくていい、すぐに治療をすべきである――
「心配しすぎっス……、魔力があれば戻るっス。淫魔の身体はそういう作りっスから……」
――魔力が必要なのか? なら二人で貯めた魔力があるはずだ
その言葉を聞いて、彼女は折れた腕で貴方の胸を押し出す。
「それは……、あー……、ダメっスよ、それは一応……、人間ちゃんの為の魔道具を作る用ってなってるんスから……」
――今はそんなことを言っている場合ではないだろう――
「ふふっ、怒った人間ちゃんもかわいい……、じゃなくて、もっといい方法があるっス」
彼女は震える手で詰所の壁を指す。
そこには、小さな金属箱が据え付けられていた。
たしか淫魔達が魔力を詰めた容器が収めてあった箱であると貴方はすぐに気づくだろう。
――今すぐ持ってくる――
貴方は金属箱の前へ近づき、箱の内部で、青色の光が灯る瓶を取り出し、すぐさま彼女の元へと戻る。
――前のように、かければいいのだろうか――
「そうそう、それを私にぶっかけてくださいっス……」
貴方は瓶の蓋を力まかせに取ると彼女に注ぐように傾ける。
流れ出る青い粒子は次の瞬間、彼女の身体へ流れ込んでゆく。
「ギッ……!」
彼女の背が反る。
折れたように見えた腕が、内側から形を戻していく。
体の崩れた部分に薄い光が集まり、内側から肉が盛りあがるように閉じる。
翼の端から零れていた光の粒も、少しずつ輪郭を取り戻していった。
纏っていた光が落ち着くと、彼女は荒い息を吐いた。
「……もう、大丈夫っス」
――あれ程の傷である。そんなわけがない――
「淫魔の体は魔力で出来てるんスよ? ですから壊された体もほらこの通り」
貴方の前で両手を広げる彼女、その肌に傷は一切ない、しかし貴方はそれでも心から湧く気持ちを抑えられずにいた。
――だがそれは、壊されても痛まないという意味ではないだろう――
「……そうっスね、ごめんっス人間ちゃん、だからそんな顔しないで欲しいっスよ」
彼女に謝られ、行き場のない感情を貴方は鎮めようとする。
貴方はただひたすら己の無力さを噛み締めることしかできない。
そんな貴方を見た彼女は逆に貴方を抱えて立ち上がる。
「よーし! じゃあ行くっスよ!」
場違いなほど明るい声を出す彼女は、魔力が詰められた瓶の保管所に、貴方を抱いたまま近づくと、片っ端から自身の体に振りかけた。
――これは使ったら自腹になるものではないのだろうか
彼女が瓶を取るたびに、箱の側面に小さく使用記録が刻まれていく。
彼女の名前と、差し引かれる額と、取り返しのつかない数字だけが増えていった。
「まーそうっスね、けど、もう関係ないっスから」
あっけらかんとそう言うとさらに瓶を開けていく彼女の真意を掴めずにいると、彼女は突然貴方の顔を真剣な顔でのぞき込む。
(……今っスね)
彼女の声が、頭の中に落ちる。
―― ……何を、だろうか――
(道具は今日、作るっス)
その声は、ひどく静かだった。
怒りでも、焦りでも、恐怖でもない。
それらを全部押し込めた後に残る、硬い決意だけがそこにあった。
(今を逃したらチャンスはないっス)
あまりにも危険だと、彼女に言うのは簡単だった。
しかし、貴方は彼女が誰のためにここまでしてくれているかを知っている。
(工場長は私を見逃したわけじゃないっス、私がありったけの魔力で抵抗してくるなんて欠片も想定してなかったんスね)
彼女は、工場長が去った扉を見つめたまま言う。
(……おそらく消耗したから一度引いてみせただけ、魔力の補充なりもっと部下の数を揃えるなりしたらすぐに戻ってくるっス)
――機を見るという選択肢は……、選択肢はないのだろうか――
(ここで私が超絶キレッキレの言い訳で誤魔化しても明日から工作魔法陣は工場長の承認制になるっス)
貴方自身ですら唾棄してしまうような、現実味のない惰弱な提案を、彼女はバッサリと切り捨てる。
(そうなったらもう詰みっスね、危険とか、難しいとか、そういう話じゃなくなるっス、だから――)
そこでふと、彼女は言葉を切る。
貴方は自身の揺らぐ目を見られ、思わず顔をそむけた。
(……そうっスね、これは人間ちゃんの為の作戦っス)
彼女だけが代償を払い続けている。
その事実を知りながら、それでも機を待とうとした自身の惰弱さを、貴方自身が誰よりも軽蔑していた。
(人間ちゃんが嫌だって言うなら、私はやめてもいいっスよ、ってなんかこれすごい卑怯な言い方っスね)
その言葉は優しい。
だが、貴方には分かった。
それは彼女が迷っているからではない。
最後の決定権を、貴方に返そうとしているのだ。
――自分は……――
この世界へ来てから、何度も彼女に選ばれてきた。
救われ、庇われ、守られてきた。
だからこそ、この選択だけは貴方が選ぶものであった。
彼女を止めるのか。
彼女と行くのか。
どちらを選んでも、傷つくのは彼女だ。
貴方は――
貴方は、彼女の手を握った。
――行こう――
貴方の言葉に彼女は一瞬、目を見開く。
それから、ひどく眩しいものを見るように目を細めて笑った。
(ほんと、人間ちゃんは物語の主人公みたいなこと言うっスね)
――まさに主人公のように体を張る貴女には及ばないだろう――
貴方達は顔を見合わせながら、ほんの少しだけいつもの調子で笑った。
そして、互いの目を強く見つめ合った後に歩き出す。
長い道程のたった一歩目を踏み出すため貴方は――