それを成し遂げた彼女は部屋の中からひょっこりと頭を出して、いつものように情けない声で貴方を呼んだ。
――……貴方はいつも自分は弱いと言ってた気がするのだが――
「いや、こちとら初手で大技食らって死にかけた雑魚なんスけど……、あっ、これっスか? いやこれは強いとか弱いとかの話じゃないっスね」
周りにあるのは傷一つない空間と置かれた無数の鋼の繭。
彼女はそれを部屋の外へ放り投げ、振り返った後に貴方を見て苦笑する。
「いやっスねー、超絶馬力の工作機械の中に相手がいる状態で、ボタン押しただけのヤツを強者って言うっスか? そういうことっスよ」
――それを相手に押し付けられる者が強者というのではなかろうか――
貴方のそんな呟きを彼女は話の分からない子供を見るような目で流してしまう。
「とにかく、急いでこっちに来るっス」
彼女の手招きに従い、貴方は工作室の中へと足を踏み入れる。
「よしよし、来たっスね」
彼女はゆっくりと息を吸った。
「
彼女の言葉を皮切りに、室内が波打つ。
大きな音に気づき後ろを振り返れば、貴方が通った扉が閉じていくのが見えた。
いや、ただ閉じたのではない。
扉の形をしていたものが、壁へと沈み込んでいく。
そして四方の壁から硬質な音が響くと、まるで部屋の壁の材質すらも変化していく。
驚きのあまり後ろに一歩下がれば、踏みしめた足元から金属と結晶を混ぜたかのような不思議な高音が聞こえる。
外と内が切り離される。
貴方は、そこが部屋ではなく巨大な箱へと変じたと理解する。
彼女が工作魔法陣で作り上げた破られない密室。
「ふぅ……、これでとりあえずの時間は稼げるっスね」
彼女はそう言って、深く息を吐いた。
工作室は、もはや工作室ではなかった。
閉じた扉は壁へと沈み込み、四方の壁は金属と結晶を混ぜ合わせたような不思議な質感へと変わっている。
外の音は遠い。
今ここに居るのは彼女と貴方だけ、その他全ては分厚い膜の向こうに押しだされている。
後は道具を作るだけ。
これほどの魔法を行使できる彼女なら逃げることも出来るだろう。
貴方の胸には自然と安堵の息が漏れていた。
「あー、人間ちゃん、実はまだ、やんないといけないというか……、言わなきゃいけないことがあるんスよね……」
彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべると壁へ目を向ける。
「外から破るのは面倒っスけど、破れないわけじゃないっス。今のうちに――」
そこで、彼女の声が止まった。
床の光が、揺れた。
それは一瞬のことだった。
工作魔法陣の線を走っていた青白い光が、肺から息を抜かれたように細くなる。
壁へ伸びていた光の血管が脈を失い、色あせてゆく。
「……早いっスね」
彼女が小さく呟く。
――何が起きたのだろうか――
「外部供給を切られたっス」
その言葉の意味を、貴方はすぐには理解できなかった。
「工作魔法陣は工場の魔力系統に繋がってるっス。この部屋を無理やり掌握してる間は、その流れを使える。逆に言えば、外からそこを止められたら――」
彼女の言葉を待たずに、答えは目の前で示された。
密室を形作っていた壁の外から何かを削るような轟音が響く。
「……こうなるっスね」
彼女は笑おうとした。
しかし、その笑みはひどく薄かった。
貴方は、そこでようやく気づく。
彼女が作ったこの密室は、外敵を拒む箱だった。
だが、魔力を断たれた今、それは貴方達を閉じ込めるだけの箱になっている。
外から破られるのを待つだけの、巨大な牢獄。
そして何より貴方は致命的な事実に気づく。
――これでは、工作魔法陣を使えないのではないか――
「うーん、そうっスね」
彼女はあっさりと頷いた。
そのあまりに平静な態度に声を上げるが、一拍おいて彼女の真意を予測した。
――そのための魔力タンクということだろうか――
貴方はそう問いかけた。
貴方と彼女が貯めた魔力。
それは彼女が大事に隠し持っていたはずである。
――それがあれば、魔道具を作れる――
貴方の言葉に彼女はしばらく黙っていた。
それから、懐へ手を入れる。
取り出されたのは、見覚えのある容器だった。
魔力タンク。
だが、それは。
空だった。
中に揺れていたはずの光はない。
瓶の底に残るわずかな滓すらなく、ただ透明な器だけが、工作室の薄い光を虚しく反射していた。
――なぜ――
「ごめんっス」
彼女は短く言った。
「それ、もう空なんスよ」
貴方は、彼女の手にある空の容器を見つめる。
――いつからだろうか――
「工場長に逆らった時っス」
彼女はその静かな目を逸らさなかった。
「あそこで全部使ったっス。人間ちゃんを隠すのと、あの命令に抗うので、綺麗さっぱり空っぽっス」
貴方の喉が詰まる。
では、あの時。
詰所で、彼女が二人で貯めた魔力を使うことを拒んだ時。
――貴女は、もうそれが空だと知っていたのだろうか――
「……知ってたっス」
彼女の声は貴方に言い聞かせるように静かな声で言葉を続ける。
「それに……、実を言うとそもそもアレは魔道具用じゃないっス」
――どういう、ことだろうか――
その言葉に、貴方は息を忘れた。
「潜入用っス。隠匿魔法とか、緊急時の逃げ道とか、危ない時に無茶を通すための保険。魔道具を作るための燃料じゃないっス」
――だが、貴女は――
「人間ちゃんの為の魔道具を作る用、ってことになってるって言ったっスね」
彼女は苦笑する。
「嘘じゃないっスよ。人間ちゃんの為に使う魔力ではあったっスから」
その言い方が、あまりにも彼女らしくて。
あまりにも卑怯で。
貴方は何も言えなくなる。
「それに、外から足した魔力じゃ駄目だったんス」
彼女はそっとしゃがみ込む。
「何回試しても形にならなかった。魔力タンクを使っても、支給魔力を使っても、工作魔法陣の系統から引っ張っても、どうしても機能しない」
彼女は床の魔法陣へ視線を落とす。
「多分、道具の性質がそうなんスよ」
薄く消えかけた魔法陣の線を、彼女は指先でなぞる。
「人間ちゃんが魔族と話すための道具。魅了にも、管理にも、所有にも引っ張られないための道具。外から借りた魔力で作ると、どうしても余計な繋がりが残るんス」
彼女は笑った。
「だから、私自身の魔力だけで作るしかないっス」
その言葉の意味を、貴方は理解したくなかった。
――それは、つまり、貴女が――
「まぁ、たぶん死にかけるっスね」
彼女はあっさりと言った。
「死ななきゃセーフっス。淫魔の体は魔力で出来てるっスから」
――それでは、どうやって二人で逃げるつもりというのだろうか――
「……人間ちゃん、やっぱそこで怒ちゃうっスよね」
――当たり前である――
貴方の声に彼女は少しだけ嬉しそうに目を細めた。
だが、すぐに表情を引き締める。
「でもね、人間ちゃん、……時間がないっス」
壁の向こうで、低い振動が響く。
外から何かが打ち込まれている。
密室の壁が、ほんのわずかに歪んだ。
「人間ちゃん、この部屋はいずれ破られるっス」
彼女は貴方へ向いて手を伸ばし、懐から折りたたまれた小さな紙を取り出した。
それは魔法の地図。
彼女がもし、貴方がはぐれた時に使うと言っていたもの。
「実はこれもそういうつもりで入れてきて……」
――……聞きたくはない――
「前に話した、人間ちゃんを保護してくれそうな組織。そこの中で、話が通じそうな淫魔とコンタクトは取ってあるっス」
彼女は魔力タンクを握り込む。
「グッ……、ふぅ……、――これで、人間ちゃんの隠蔽が逃げ切るくらいは持つっス」
空だった容器の底に、ほんのわずかな淡い光が灯る。
彼女は魔力タンクと地図を貴方の手に押し込んだ。
「この部屋が破られたら、混乱に乗じて逃げるっス。地図が合流地点まで案内するっスから、その通りに走るっス」
貴方は渡された地図を見下ろす。
その薄い板には、淡い光の線が浮かんでいた。
まるで貴方のためだけに、もう出口が描かれているかのように。
――貴女は、一体……、いつからそのつもりだったのだろうか――
「保険っスよ。何事もなければ、私が職場で倒れるだけで済んだっス」
彼女は軽い調子で言った。
しかし、貴方は気づいていた。
この計画が立てられた時点で彼女は、こうなることを予測していたのだと。
――これは、自分だけ逃げる道だ――
彼女の尾が、ほんのわずかに揺れた。
――貴女がいない道だ――
「……」
彼女は、答えなかった。
外壁がまた軋む。
今度は先ほどより大きい。
「人間ちゃんは、帰らなきゃダメっス」
彼女はようやく、そう言った。
――……それを、貴女抜きでやれというのだろうか――
「できるっスよ」
彼女は即答した。
「だって人間ちゃんは、私が思ってたよりずっと強いっスから!」
その言葉は、優しかった。
だからこそ、貴方には許しがたかった。
「その……、人間ちゃんこんな時になんなんっスけど、お願いがあるっス」
――聞きたくない――
「まぁ、別にいいっス。ダメならダメで……、えへへ、その……、人間ちゃん、私のこと、名前で呼んでもらいたいっス」
――なぜ今になってそんなことを言うのだろうか――
「……だって、最後かもしれないッス。ダメ……っスか?」
――その言い方は余りにも卑怯だろう――
「えへへ……、やった……、嬉しいっス」
貴方は、この世界へ来てから、何度も彼女に選ばれてきた。
拾われ、匿われ、彼女の背中の後ろで生き延びてきた。
「……私の真名はLyllythae 言いにくいっスかね?」
そして今、彼女はまた貴方を選ぼうとしている。
自分自身を、選択肢から外して。
――「■■」――
貴方は彼女の名を呼ぶ。
その一言だけで、彼女はまるで全てが救われたように顔をほころばせる。
ただ、名前を呼ばれただけ。
それだけで彼女は、まるで長い祈りが届いたようにささやかに笑った。
それを見て、貴方は胸を焼くような無力感からこぶしを握る。
「……怒ってるっスか?」
――自分でも信じがたいほどに怒っている――
「そりゃそうっスよねぇ……」
彼女は困ったように笑った。
壁が鳴る。
外からの解体は、確実に進んでいる。
響く音がより近づいているのを貴方は肌で感じた。
残された時間は少ない。
それでも貴方は、地図を握りしめたまま動けなかった。
「人間ちゃん」
彼女は床の魔法陣へ両手をつく。
「今から作るっス」
消えかけていた工作魔法陣の線が、再び光を帯びる。
だが、それは工場から供給される青白い光ではなかった。
彼女の身体から流れ出る、紫がかった魔力。
血のように。
息のように。
命そのもののように。
その光が、床の魔法陣へ染み込んでいく。
彼女は一呼吸分だけ息を吸った後、ふと貴方の顔を見る。
貴方の顔を見た後、たったそれだけのことだというのに、彼女は心底安らいだかのようにほほ笑んだ。
なにか声をかけなければならないと貴方が思ったその瞬間、彼女の視線は魔法陣へと寄せられる。
「
声は、震えていなかった。
「
だが、その手は震えていた。
「《/font》
魔法陣の中央に、小さな光が生まれる。
心臓の欠片のような、鮮血の赤。
それは形になりかけて、すぐに崩れかける。
「グッ……!」
彼女の肩が跳ねた。
身体の輪郭が、一瞬だけ砂のように揺らぐ。
貴方は思わず踏み出そうとする。
「大丈夫っス……!」
彼女の声が、それを止めた。
「絶対にこれを作るまで、私は消えないっスよ……!」
――なぜ、どうして、そこまで――
「決まってるじゃないスか」
彼女は魔法陣に目を向けたまま答える。
「人間ちゃんを帰すためっス」
その言葉と同時に、外壁が大きく震えた。
密室の一部に亀裂が走る。
外から、低い声が響いた。
「時間をかけろ。魔力は断っている。中の者を殺す必要はない」
工場長の声だった。
「箱だけを壊せ、下手人は回収する」
その声に、彼女の肩がわずかに強張る。
だが、手は止まらない。
「
小さな光が再び形を取り戻す。
人間と魔族の間にある断絶を、断絶のまま越えるための道具。
その輪郭が、少しずつ、少しずつまるで編まれるように生まれていく。
貴方は、渡された地図を見下ろした。
そこには、逃げ道が示されている。
彼女がいない道。
彼女が用意した道。
彼女が、貴方に選ばせようとしている道。
――貴女を、ここに置いていくために選んだわけではない!――
彼女は何も言わず詠唱を続ける。
「
ただ、ほんの一瞬だけ。
すこしだけ困ったような顔で、笑った。
「……ほんと、人間ちゃんは」
彼女は息を吐く。
「やさしいっスね」
――貴女がそれを自分に言うのか――
彼女は貴方の言葉に嬉しそうにほほ笑むと、再び魔法陣へ向き直る。
「見ててください、私が、人間ちゃんを帰す道具を作るところ――
そして彼女は作り上げた。
貴方のための、たった一つの道具を。
彼女の心のように鮮やかでありながら、どこか控えめな赤く煌めく小さな宝石を。
「……出来たっス」
彼女はそれを愛おしいもののように摘まみ上げ、口づけを一つ落とした。
貴方はそれを見てまるで、彼女の慈しみに触れているような心地になる。
「受け取ってください……」
差し出された彼女の手の輪郭は宙に溶けかけていた。
それを貴方は受け取ろうと手を伸ばし――