あらかじめ日記を手に入れたいから未来デパートの商品転売してるけど、魔王って呼ばれてるっぽい 作:評価を…評価をクレメンス
翌朝、黒瀬はあっさりと会社を休んだ。
スマートフォンには上司からのメッセージが何件も溜まっている。「体調管理も仕事のうちだ」「最近気が緩んでいるんじゃないか」といった、いつもの小言の羅列だ。以前の彼女なら腹を立て、頭の中で何度も言い訳を反芻しながら、結局はへこへこと謝罪文を打ち込んでいただろう。
だが今は、さざ波ほどの感情も湧かない。
ネチネチとパワハラを繰り返す上司も、他人のミスに嫌味を挟む同僚も、もはやどうでもよかった。決して相手を許したわけでも、精神的に成長して寛容になったわけでもない。ただ単純に、彼らを「まともに取り合う価値のある存在」として認識できなくなっていたのだ。
もしもボックスで手に入れた肉体は、「人類最強」という無茶なオーダーを馬鹿正直なまでに体現している。腕力、速度、反射神経、知覚器官。どれをとっても既存のホモ・サピエンスとは比較にならず、おまけに体内には未来のひみつ道具までみっちりインストールされている。黒瀬自身、今の自分にどこまでの真似ができるのか、未だに底が見えていない。
昨日まで机を並べていた会社の人間を思い浮かべても、すでに同類という感覚は薄かった。足元の蟻を眺めて「あの蟻は性格が悪い」と本気で腹を立てる人間がいないように、黒瀬にとって社会のしがらみは、急速に遠く些末なものへと変わりつつある。その精神の変化が果たして人間として健全なのかどうかなど、考えることすら面倒だった。
「休みます、で十分でしょう。文句があるなら勝手に言わせておけばいいわ」
事務的な一文だけを送信してスマホを伏せると、会社のことは完全に頭から消去した。辞表を出すかどうかなんて、今すぐ決めるほど重要な問題ではない。今日の彼女には、それよりも遥かにエキサイティングな予定が控えているのだ。
ノートパソコンを開き、昨夜検索した目的地を再度確認する。総理大臣官邸。日本政府に物を売りつけるなら、日本政府で一番偉い人間のトップを取りに行けばいい。ひどく短絡的な発想だった。
政治の仕組みなど知ったことではない。総理と国会と官僚の権限関係など興味もないし、天皇との役割の違いについても義務教育レベルの知識しかない。それでも、自分は単なる「オーパーツの売り手」なのだ。法的な処理やルールの整備など、その手の面倒事はすべて買い手側が勝手に処理すればいい。
「国に物を売りたいんだから、国のトップに直接持っていく。下から順番に稟議を通すなんて、馬鹿らしくてやってられないもの」
服装だけは少し気を使った。会社に着ていくような量販店の安物スーツでは、今の完璧なプロポーションにはどうにも不釣り合いだ。未来デパートで仕入れた着せ替え系の道具を起動し、仕立ての良い黒のジャケットとスラックスを身に纏う。鏡の前に立っていたのは、国家の要人か、あるいは要人を脅迫しに来た超A級エージェントにしか見えない、息を呑むほどの黒髪の美女だった。
髪を軽くかき上げ、その出来栄えに満足すると、黒瀬は移動用のひみつ道具を起動した。
さすがに官邸の執務室へ直接テレポートするのは控えておいた。勝手に他人の家に上がり込んで商談を始めるのはマナー違反だという、小市民的な常識がまだほんの少しだけブレーキをかけたのだ。
官邸から少し離れた路地裏に転移し、そこから正面ゲートに向かって堂々と歩を進める。ものものしい警備の警察官たちとすれ違っても、心拍数は1ミリも跳ね上がらない。銃器で武装した人間が何十人立ち塞がろうと、今の自分に傷一つ付けられるとは到底思えなかった。
入口のゲート付近で、当然のように制止された。
黒瀬は立ち止まったものの、困惑するでも怯えるでもなく、むしろ「なぜ止められたのか本気で理解できない」という顔で警備担当者を見つめ返した。総理大臣に会いに来たのだから、顔パスで案内されるものだと無邪気に信じ込んでいたのだ。
「総理に会いに来たんだけど。商談があるの、通してちょうだい」
警備担当者は一瞬、絶句した。
アポも紹介状もない見ず知らずの若い女が、一国の首相に面会を求めている。それだけなら、たまに現れる「頭のネジが飛んだ迷惑客」で処理できた。だが、目の前の女の態度は違った。彼女の振る舞いには、自分が門前払いされる可能性をこれっぽっちも想定していない、不気味なほどの絶対的な自信が満ちていた。
「……面会のお約束はございますか。所属とお名前、それからご用件をお願いします」
「約束はないわ。名前は黒瀬薫。所属は……一応、まだ会社員だったかしら。未来の道具を売りに来たのよ」
「未来の道具」という単語が出た瞬間、警備側の表情が微かに、しかし決定的に変わった。「黒瀬」という名前に聞き覚えがあったからだ。前日からネットの海を大炎上させ、今朝のニュース番組でもトップで扱われ始めた『タイムふろしき』の出品者と、完全に情報が一致する。
インカムでの確認作業が始まると、黒瀬は隠すそぶりも見せずに鷹揚に頷いた。むしろ、自分から事の顛末を説明する手間が省けたことを喜んでいるフシすらある。
「そう、それ。私が出品したの。まだインチキだって疑ってるなら、ここで見せてあげてもいいけれど?」
だからといって、即座にVIP待遇で通されたわけではない。むしろ連絡網はさらに広がり、確認事項は爆発的に増えた。黒瀬は最初の数分こそ大人しく付き合っていたが、だんだんと退屈になり、長い黒髪を指先に巻きつけて遊び始めた。
「危険物の類はお持ちではありませんね?」
「持ってるわよ。空気砲とかショックガンとか、あと色々と。でも今日は撃つつもりないから安心なさい」
まったく安心できない最悪の回答だった。
一気にこわばる相手の顔を見て、黒瀬も「あ、余計なこと言ったかしら」と察したが、いちいち訂正するのも面倒だった。自分から攻撃する気がないことさえ伝われば十分で、向こうが勝手にピリつく分には好きにすればいい。
黒瀬は何もない虚空へスッと右腕を差し込み、見えない亜空間から一枚の布を引っ張り出した。
目の前でそれを見ていた警備担当者たちの視線が、一斉にその手元へ釘付けになる。本人だけは、もはやそれが現代科学を根底から覆す異常行動だという自覚を失いつつあった。
「今日持ってきたのはこれ。昨日メルカリに出したのと同じ『タイムふろしき』よ。ジャンク品だから無生物しか戻せないし、時間も私が買った時点までしか巻き戻らない。それでも、あなたたちには十分使い道があるでしょう?」
昨日から狂ったように検証動画を分析していた人間にとって、これはもはや笑い事ではない。何もない空間から物理的な質量を取り出した時点で、この女がタイムふろしき以外にも「未知のオーバーテクノロジー」を複数保有していることが確定してしまったのだ。
現場の警備だけで処理できるフェーズを完全に超え、黒瀬は厳重な監視のもと、官邸内の別室へと案内されることになった。
そこからは退屈な質問攻めだった。
官邸の職員、警察のトップ、技術系の専門家らしき背広組が次々と入れ替わり、同じような質問を言葉尻を変えて繰り返してくる。黒瀬は最初こそ真面目に答えていたが、三度目あたりで露骨に不機嫌になった。
「だから、未来デパートってとこで買ったって言ってるでしょう。製造元の会社なんて知らないし、原理も知るわけないじゃない。あなたたち、家電量販店で電子レンジを買うたびに、メーカーの本社へ行って回路図を見せろって騒ぐわけ?」
実演を求められ、急遽用意された新品のタブレット端末が目の前に置かれた。
職員がわざと筐体を叩き壊し、液晶画面に致命的なヒビを入れる。黒瀬はため息をつきながらその上からタイムふろしきを被せ、数秒待ってから無造作に布を払い除けた。
端末は、箱から出した直後の状態に戻っていた。
画面の傷はおろか、筐体の歪みすら消え去り、電源を入れれば何事もなくOSが立ち上がる。内部の基盤や製造番号まで血眼になって調べ始める職員たちを冷めた目で見下ろし、黒瀬はパイプ椅子に深く背中を預けた。
「これで満足? そろそろ本題の商談を始めたいんだけど」
それでも、商談はすぐには始まらなかった。
黒瀬にしてみれば「いらない布を一枚売りに来ただけ」だが、国家からすれば「物理法則を無視する技術を独占し、亜空間に兵器を隠し持っている可能性のある正体不明の存在」が自ら歩いてきたのだ。個人の素性から所有物のリスト、国家安全保障上の脅威度まで、確認したいことは山ほどある。
黒瀬には、その慎重すぎるプロセスがだんだんと滑稽に見えてきた。
人間たちが、自分の理解が及ばない事象を前にして、必死に既存のルールや手続きの壁を積み上げようとしている。つい数日前までなら自分もあちら側の人間だったはずなのに、今ではまるで、分厚いガラス越しに「別の生き物の滑稽な習性」を観察しているような気分だった。
気まぐれに付き合っているうち、ようやく部屋の空気が一変した。
入退室を繰り返していた職員たちがサッと道を空け、それまでとは明らかに格の違う女性が姿を現す。黒瀬も、テレビのニュースで何度か見たことのある顔だった。
この世界の内閣総理大臣、高町。
黒瀬が辛うじて名前を認知している、数少ない政治家の一人だった。
「やっとお出ましね。あなたが高町総理? 随分と待たせるのね、この国は」
高町は黒瀬の向かいの席に静かに腰を下ろすと、黒瀬の顔と、机上のタイムふろしきを交互に見比べた。すでにネットで拡散された動画だけでなく、つい先ほどこの部屋で行われた実演についても、克明な報告を受けているはずだ。
だが、日本のトップが最初に口にしたのは、値段の交渉ではなかった。
「確認させてください。黒瀬さんは、このタイムふろしきの他にも、同種のオーバーテクノロジーを用いた道具を複数所有している。そういう理解でよろしいですね?」
「同種かどうかなんて知らないわよ。移動、収納、翻訳、修理、怪我の治療……まあ、色々あるわ。買っただけで放置してる物もあるし、名前すら忘れたガラクタも多いわね。大半は未来の安物かジャンク品よ」
室内の空気が、物理的な質量を持ったかのように重くなった。
黒瀬はそれを不思議そうに眺める。無量大数円のカタログが並ぶ「未来デパート」を毎日のようにウィンドーショッピングしている彼女にとって、もはやタイムふろしき程度のアイテムでは特別感など欠片もなかった。
「今日はこれを、日本政府に売ってあげようと思って来たの。昨日メルカリに出したら、コメント欄が地獄みたいになって面倒だったのよ。小金持ちを一人ずつ相手にするなんてかったるいし、国にまとめて買い取らせた方が話が早いでしょ?」
高町は即答せず、背後に控える官僚たちへ鋭い視線を流した。
国家が未知の物品を購入する場合、総理が自分の財布から札束を出せば済む話ではないのだ。予算の捻出、法的な所有権の定義、保管のプロトコル、そして諸外国に対する安全保障上の建前。クリアすべきハードルは星の数ほどある。
小声で行われる官僚たちのブリーフィングを途中まで聞いていた黒瀬は、露骨に不機嫌な顔で眉を寄せた。総理大臣がハンコを押せば即決できると、本気で思っていたらしい。
「一番偉い人に直接持ってきたのに、まだ決められないの? 随分と不便なシステムね。まあいいわ、その辺の事務処理はそっちで適当にどうにかしなさい」
高町も、周囲の官僚たちも、誰一人として笑わなかった。
黒瀬が国家のシステムを馬鹿にしているというより、本心から「自分には関係のない下界の些事」と見なしていることが痛いほど伝わってきたからだ。黒瀬自身、彼らに好かれようが嫌われようが、痛くも痒くもない。
机の上のタイムふろしきを、艶やかな指先でトントンと叩きながら、彼女は少しだけ考えた。
メルカリでは9,800円で売ってしまった。今回は国家相手のビジネスなのだから、適当にゼロをいくつか増やせばいいだろう。その程度の、子供のお使いのようなドンブリ勘定だった。
「そうね。とりあえず、十億円でどう?」
官僚の一人が、ピクリと眉を動かした。別の者は無言のまま猛烈な勢いでメモを走り書きし、高町総理も即座に「高すぎる」とは反論しなかった。
その一瞬の空気の緩みを、今の黒瀬の異常に発達した知覚器官は逃さなかった。
「……あら?」
黒瀬は目を細め、官僚たちを舐めるように見回した。誰も目を逸らしたわけではない。しかし、自分が何か致命的な値付けのミスをしたことだけは、はっきりと理解できた。
「今、あなたたち『安い』って思ったわね」
「価格につきましては、当該物品の性能評価や、今後の利用範囲を含め、慎重に協議を——」
「ストップ。十億はなし。今のは忘れて頂戴」
高町が冷静に説明を続けようとするより早く、黒瀬は勝手に値札を引っ込めた。まだ契約書にサインもしていないのだから無効だ、とでも言いたげな堂々とした態度だ。
その場の思いつきで適当な値段を吹き込み、相手の反応を見て即座にチャラにする。その様は、冷徹なビジネスパーソンというより、飽きっぽい残酷な子供のそれに近かった。
「昨日は9,800円で売ったら、あとから『何千万でも出す』って連中が湧いて出たのよ。国家予算があるなら、もっと出せるわよね? それなら、こっちから先に値段を言う必要なんてなかったわ」
そこで一度言葉を切ると、黒瀬の端正な唇が、ひどく楽しそうに弧を描いた。
金額の多寡よりも、目の前の国家権力たちが、自分のポケットから出てきた布切れ一枚に人生を懸けたような顔で翻弄されている状況が、面白くてたまらなくなってきたのだ。
「競争させればいいじゃない」
高町の視線が、刃のように鋭くなった。黒瀬はそれを見て、極上のオモチャを見つけた悪戯っ子のように笑う。
「日本政府だけじゃなくて、アメリカでも中国でもヨーロッパでも、欲しい国を全部集めればいいのよ。一番高い金額を提示した国に売る。それが一番フェアで手っ取り早いじゃない?」
今度は、官僚たちの間の空気が明確に凍りついた。
タイムふろしき単体の経済効果などという次元の話ではない。現代の軍事バランスを容易に崩壊させる未知のテクノロジーが、敵対国へ流出する可能性を、この所有者は何の躊躇いもなく提示しているのだ。
当の黒瀬には、その深刻な危機感がいまひとつピンときていなかった。
日本人だから、日本という国が多少便利になる程度なら別に構わないが、国家に忠誠を誓った覚えなど微塵もない。そもそも、つい数日前まで自分を安月給でこき使って税金を搾り取っていた国に対して、未来の道具を無償奉仕してやる義理などどこにあるというのか。
「そんな青い顔しなくても、とりあえず最初は日本(ここ)に持ってきてあげたじゃない。私だって一応、日本人だもの。そのくらいは贔屓してあげるわよ」
言い草はどこまでも恩着せがましかったが、黒瀬の主観ではこれでも最大限の「特別扱い」だった。数日前までなら総理大臣を前にして到底口にできなかった不遜な物言いを、本人はもう不自然とも感じていない。
力の差が絶対的になりすぎると、相手と対等に振る舞おうという発想そのものが抜け落ちていくのだ。
高町はしばらく無言で黒瀬の双眸を見つめ返し、やがて静かに質問の角度を変えた。
「その『未来デパート』からは、今後も継続して、新たな商品を購入できるのですか」
「もちろん。お金さえあれば、好きなだけ買えるわよ」
黒瀬は即答した。その一言が室内のパワーバランスにどれほどの決定打をもたらしたかを気にするより先に、自分がここへ来た本来の目的を思い出す。タイムふろしきを小銭に換えること自体が、彼女のゴールではない。
「だからこうして稼ごうとしてるのよ。どうしても欲しい物があるんだけど、馬鹿みたいに高いのよね」
『あらかじめ日記』。その価格、無量大数円。
これ以上情報を与えれば、また面倒な質問が増えるのは目に見えているため、商品名を出すのは伏せておいた。それでも、手始めに吹っかけた「十億円」という数字に誰も驚かないのなら、この現代世界から資金をかき集める手段は、思ったよりも無数にありそうだった。
黒瀬はすっかり機嫌を直し、パイプ椅子にゆったりと脚を組んで寄りかかった。
会社で無能な上司に小言を言われながら、指折り給料日を待っていた昨日までの自分が、まるで前世の記憶のように遠い。目の前には、日本という国家を動かすトップたちが、自分の持参したガラクタをどう扱うべきか、脂汗を流しながら真剣に頭を悩ませている。
「ねえ、高町さん。せっかく私がわざわざここまで来てあげたんだもの。タイムふろしき一枚じゃ、つまらないでしょう?」
高町が「他に何を見せるつもりか」と警戒を強めるより早く、黒瀬は何もない虚空へ再びスッと手を差し入れた。
次はどのガラクタを出せば、この偉そうな連中が一番面白い顔をするだろうか。品定めをする彼女の表情は、どうしようもなく楽しそうに輝いていた。
「他の商品も、特別に見せてあげる。気に入ったら、ちゃんと高く買いなさいよね」
その日、日本政府が直面した最大の安全保障上の危機は、タイムふろしきというオーパーツの存在ではなかった。
『未来のテクノロジーを際限なく引き出せる個体』が国内に存在し、そしてその個体がすでに、自分たちを同じ「人間」だとは認識しなくなっているという、絶望的な事実だった。