あらかじめ日記を手に入れたいから未来デパートの商品転売してるけど、魔王って呼ばれてるっぽい 作:ゲケエベレッケ
「翻訳コンニャ……ゲフンゲフン! 『世界全書ロンゴロンゴ』だ」
彼女は円卓の上に置いた灰色のゼリー状の物体を指差し、わざとらしく咳払いをしながら仰々しい名前を口にした。
さらに彼女は虚空から一枚の鏡を取り出すと、再び咳払いをする。
「そしてこのフエルミラ……ゲフンゲフン、『物体増殖』の鏡を使えば……」
パチン、と彼女が軽快に指を鳴らした瞬間だった。
鏡に映った灰色のゼリーが、まるで細胞分裂でも起こすかのようにボコボコと膨れ上がり、瞬く間に円卓を埋め尽くすほどの量に増殖した。
「とりあえず、この初出しのロットで十億円ってとこでどう? これで世界中のあらゆる言語が完璧に理解できるようになるんだから、安いもんでしょ」
(……ちょっとふっかけすぎたかな。原価30円のコンニャクだし。もし怒られたら、半額くらいまで値引き交渉に応じよう)
そんな転売屋としてのせこい計算を脳内で巡らせている彼女をよそに、日米のトップはまたしても完全に硬直していた。
十億。ドルに換算すればたったの数百万ドル。
合衆国大統領の脳内には、最初に強烈な歓喜が走った。
(安すぎる! このふざけたゼリーの塊を兵士に食わせるだけで、言語の壁が完全に消滅した完璧な多国籍軍が作り放題になる! 同盟国との連携エラーも、現地での情報収集のロスもゼロだ!)
だが、歓喜は一瞬で終わった。
先ほどの転移装置の悪夢的なシミュレーションを経た彼の最高権力者としての脳髄が、この『翻訳コンニャク』がもたらす真の恐怖を瞬時に弾き出してしまったのだ。
もし、日本とアメリカの国民全員が、一切の学習なしに完全なバイリンガル、いや、すべての言語の通訳者になれたとしたら。
まず、移住と海外旅行のハードルが実質ゼロになる。言語の壁という最大の障壁が消えれば、優秀な人材はこぞって海外へ流出するだろう。日本人がアメリカの企業にリモートや移住で就職し、高いドル建ての給料を稼ぎ、物価の安い日本で消費するのが当たり前になる。結果、アメリカからは莫大な資本が流出し続け、逆に日本の国内産業は深刻な空洞化を起こす。
さらに恐ろしいのは教育と文化への破壊的影響だ。
語学という、人類が何万時間もかけてきた学習プロセスと受験システムが、ただコンニャクを食べるだけで一瞬にして崩壊する。語学ビジネスや通訳という職業は即座に消滅する。
そして「言葉だけが完璧に通じる」ことの絶望。文化的な背景やハイコンテクストなニュアンスの欠如したまま、言葉の意味だけがダイレクトに伝われば、些細なすれ違いが致命的な文化衝突を招く。言語の壁が消えたSNSは、地球規模の剥き出しの民族対立とヘイトスピーチの戦場と化すだろう。言葉という、人間が社会性を保つための最大の防御壁が取り払われてしまうのだ。
そして大統領の思考は、さらに最悪の「有効な使い方」へと至ってしまった。
もしこの『世界全書ロンゴロンゴ』が、人間の言語だけでなく、あらゆる生物の意志を翻訳してしまったら?
(……もし、食肉加工センターの職員や一般の消費者の耳に、牛や豚の『痛い!』『殺さないで!』という悲痛な絶叫が、完璧な英語や日本語として聞こえるようになってしまったら……?)
想像しただけで大統領は吐き気を催した。
人類の精神はそれに耐えられない。食肉産業は即座に崩壊し、世界規模の飢餓と凄惨なトラウマが蔓延する。たった一つのゼリーが、転移装置という物理的チートとは別のベクトルで、人類という種、言語による社会性を最大の強みとする人間種族の精神構造と社会システムを内側から食い破る『概念爆弾』なのだ。
悪意などなくても、ただ普及するだけで社会が壊れる。
大統領は青ざめた顔で円卓を叩き、立ち上がりかけた。
「だ、駄目だ! そんなもの……論外だ!!」
再び拒絶の言葉を叫ぼうとした大統領の腕を、横から伸びてきた手が強く掴んだ。
「総理……?」
大統領が驚愕して振り返ると、そこには、いつの間にか冷や汗を拭い、異様なほど鋭い、獲物を狙うような目をした日本国総理大臣の姿があった。
総理は無言のまま、大統領の腕を強く引き、その発言を強制的に遮ったのだ。
■■■■
モスクワ、薄暗い執務室。
分厚いカーテンの隙間から差し込む三月の冷たい日差しが、私の机の上に散乱する報告書を照らしていた。
私はロシア連邦の軍事情報局で、長年、暗号解読と情報保全のトップを務めてきた。私の頭脳と、この国が誇る世界最高峰の暗号化技術は、西側諸国のあらゆる諜報機関のサイバー攻撃を退け、我が国の軍事機密を完璧に守り抜いてきたという自負がある。
だが、ここ一週間で、その私の誇りも、我が国の軍事戦略の根幹も、文字通り音を立てて崩れ去った。
「……またか」
デスクに置かれた暗号化通信端末の画面に、新たな報告が上がってきた。
三十分前、クレムリンの地下深く、電磁波を完全に遮断した極秘の作戦会議室で決定されたばかりの、ウクライナ東部への特殊部隊の奇襲ルートと、部隊長の名前、さらには携行する兵器のシリアルナンバーまでもが、その一言一句違わず記載されている。
情報の流出先は、あろうことかウクライナ国防省の公式Twitter(現X)アカウントだった。
【ロシア連邦軍第〇〇特殊任務旅団の皆様へ。〇〇〇の森からの奇襲作戦、お疲れ様です。待ち伏せの準備は完了しておりますので、どうぞお気をつけてお越しください】
そんなふざけた、しかし背筋が凍るほど正確な煽り文句と共に、我が国の絶対の機密情報が、全世界に向けてリアルタイムで堂々と晒されているのだ。
「一体、どうなっているんだ……!」
私は両手で頭を抱え、震える声で呻いた。
内部にスパイがいるというレベルではない。システムへのハッキングの痕跡すら一切ないのだ。ただ、我々が独自の暗号アルゴリズムを用いて端末に打ち込んだ瞬間、その情報がまるで『翻訳された平文』のように、ウクライナ側がアクセス不可能なはずの強固な軍事データベースへと直接、リアルタイムで書き込まれ続けている。
ありとあらゆる軍事行動、補給路の変更、部隊の再編、果ては指揮官たちの愚痴めいた通信内容までもが、すべてガラス張りにされているのだ。
極秘の作戦会議で決定された事項が、データベースに入力されたわずか五分後には、敵国のSNSで世界中の笑いものになっている。
これは戦争ではない。一方的な情報のレイプだ。
我が軍は完全に身動きが取れなくなった。どこへ軍を進めても、何を企てても、すべてウクライナ側に筒抜けなのだ。奇襲は不可能。防衛線の構築も無意味。兵士たちは、見えない神の目に常に見張られているという恐怖で士気が完全に崩壊し、前線は事実上の機能停止に陥っていた。 相手に自分の手札が、カードを引く前から全て見えているポーカーなど成立しない。戦術も戦略も無意味。結果として、上層部は全面的な作戦停止と撤退を決断するしかなくなったのだ。
泥沼化し、もはや誰にも止められないと思われていたこの忌まわしい戦争は、信じられないことに、たった数日で強制終了させられようとしていた。
「……だが、これで良かったのかもしれない」
私は深く息を吐き、デスクの上の家族の写真を見つめた。
妻と、まだ幼い娘の笑顔。
正直に言えば、私自身、この終わりが見えない戦争に疲れ果てていた。前線で無為に散っていく若い兵士たちの報告書を見るたびに、胃が焼け焦げるような罪悪感に苛まれていたのだ。
街を歩けば、市民たちの顔からは心なしかあの重苦しい暗雲が消え、スーパーで買い出しをする妻の表情も、最近はどこか明るい。誰もが、この悪夢のような情報の筒抜け状態が、逆に戦争を終わらせる決定打になることを理解し、密かに安堵しているのだ。
ウクライナ側に我が国の機密を垂れ流している謎の情報提供者。
一体どんな魔法を使えば、世界最高峰の暗号を瞬時に、かつ全自動で解読し、敵国のデータベースへ直接叩き込めるのか。その手口は悪魔的であり、到底人間の業とは思えない。
だが、私はその見えざる手に、感謝すら抱いていた。
どれほどの血を流しても終わらなかった殺し合いを、たった一週間で、誰一人殺すことなく(社会的な死者は多数出たが)物理的に不可能にしてくれたのだから。
そして何より、この絶望的な状況下で、一瞬にして我が国とウクライナ、そして西側諸国との調停をまとめ上げた、日本の総理大臣とアメリカ合衆国大統領の手腕には、過剰なほどの感謝と畏敬の念を禁じ得ない。
彼らは凄まじかった。
まるで、我が国の指導者たちの腹の底、言葉の裏に隠された細かいニュアンス、さらには文化的な背景までをも完璧に理解しているかのように、一言の齟齬もなく、最も繊細で困難な和平交渉を驚異的なスピードで妥結させたのだ。
通訳を介しているはずなのに、彼らの言葉は直接我々の脳髄に響くようにクリアで、温かく、そして絶対に逆らえないほどの説得力を持っていた。あのような超人的なコミュニケーション能力を持つ指導者が、この世界に存在したこと自体が奇跡だ。
「ありがとう……本当に、ありがとう」
私は誰にともなく呟き、冷たいコーヒーを一息に飲み干した。
この理不尽で不条理な情報の暴露が、結果として私の愛する家族の未来を守り、この国を泥沼から救い出してくれたのだ。
謎の情報提供者も、日米の偉大な指導者たちも、私にとってはまさに神の使いのような存在だった。
■■■■
官邸の最深部、盗聴防止用のジャミングが幾重にも施された極秘の特別公衆トイレ。
その広めの個室の中に、日本国総理大臣とアメリカ合衆国大統領という、世界のツートップが並んで座っていた。
「……ヤバくねこれ」
大統領が、鏡越しの私に視線を向けてぽつりと呟いた。
「ええ、ヤバすぎますね」
私も全く同じ感想を口にした。
先ほどの会議で大統領が叫んだ、インフラや社会構造が崩壊するという『人類滅亡Kシナリオ』。あれはあくまで、あのゼリーが全世界に普及した場合の話だったのだ。個人、あるいは我々のような限られた一握りの人間だけが独占する分には、あの絶望的なシナリオは発生しない。
代わりに発生するのは、完全なる情報無双。そして何より、暗号の完全なる解読だ。
現在の軍事通信や国家機密の伝達は、すべて数学を介した高度な暗号技術によって守られている。しかし、あの翻訳コンニャクを食った我々の脳には、どんな複雑な暗号アルゴリズムを通したデータであっても、すべて親切な『母国語の平文』として直接流れ込んでくる。言語という概念の枠組みに当てはまるものなら、デジタルの暗号だろうと機械語だろうと、すべて意味として理解できてしまうのだ。
現状、日米連合軍だけで世界を容易く滅ぼせる。敵国が核の発射ボタンを押すタイミングすら、その直前の通信指示で完璧に理解できるのだから。先回りして潰すなりでいかようにも対応できる。ワンサイドゲームもいいとこだ。
残りのゼリーについては、破壊してあの化け物の機嫌を損ねるわけにもいかず、かといってこれ以上誰かに食わせる訳にもいかない。結果、我々二人の体内に10キロ流し込んだ結果、こうして誰の耳にも届かないトイレの中で籠城するハメになっている。
世界中では今、謎の情報提供者の話題で持ちきりだ。ウクライナにロシアの機密を垂れ流した張本人。CIAも公安も血眼になって探しているが、当然見つかるわけがない。我々がカモフラージュのために、身内である彼らに探すフリを命じているだけなのだから。
「しかし……日米のお互いの軍事情報も筒抜けになってしまったな」
大統領の言葉に、私は苦笑した。そう、同盟国とはいえ、互いの腹の底から機密コードまで完全にガラス張りだ。ある意味で、情報における究極の相互確証破壊が成立してしまっている。
「しっかし、前のロシアの交渉で支持率が5%も上がったぞ」
「奇遇ですね。私もです」
互いにニヤリと笑い合う。その時、厚い壁の向こう側、遥か遠くの廊下でSPたちがヒソヒソと交わしている私語までが、完璧な日本語と英語として耳に飛び込んできた。
私がこめかみを押さえると、大統領も深く頷いた。言葉の意味を捉える能力が拡張されすぎた結果、微かな音声すら脳が勝手に拾い上げてしまうのだ。
「……最近、遠くの声まで聞こえすぎる。基本は意識してカットしているが、イカれてるなこの機能、見聞色の覇気かよ」
思わず口に出た私のセリフに、大統領が反応した。
「おや、総理も読んでいるのか? 私はワノ国編の奇形ラッシュ展開がたまらなく嫌いでね、W7編こそが至高だよ」
「大統領、ワンピース好きだったんですか」
こんな状況でもなければ、海を越えたオタク語りで花が咲いたかもしれない。だが、すぐに大統領の顔から笑みが消え、鋭い為政者の目に戻った。
「……あの国も、本格的に動き出しているらしい」
あの国。国際社会の裏側で、密かに『魔王』と呼ばれていた国。中国だ。
彼らがなぜ魔王と呼ばれているのか、その具体的な理由はさておき、長年我々にとって最大の警戒対象であったことは間違いない。
「魔王、ね」
私が鼻で笑うと、大統領も肩をすくめた。
「本物の『アレ』を見てしまった後だと、随分と名前負けしているように感じるな」
歩く終末。世界の法則を無自覚に玩具にする本物の魔王。あれに比べれば、人間の作り上げた覇権国家の脅威など、まだ理解の及ぶ範囲にあるだけ可愛げがあるというものだ。