どうして、あの時言えなかったのかな。
胸の奥にひっかかったままの言葉が、今でも抜けない。
あの日の朝は、いつもと同じだった。
青空は澄んでいて、風はやわらかくて、鳥の声が遠くで響いていた。
世界が終わるなんて、誰も思っていなかった。
姉は私の皿にパンを置きながら笑った。
「アリス、起きるの遅いよ」
「お姉ちゃんが布団引っ張るからでしょ」
そんなやり取りが、どうしてあんなに遠く感じるのかな。
テレビのアナウンサーは、妙に落ち着いた声で言った。
「三日後、地球に隕石が衝突します」
その瞬間、空気がひんやりした気がした。
両親は慌ただしく地下シェルターの準備を始めた。
私は袖をつかんで言った。
「地下なんて嫌だよ。暗いし、息苦しいし」
姉は少し考えて、いつもの調子で笑った。
「じゃあ、私も残るよ。アリス一人にしない」
その言葉が嬉しくて、でもどこか怖かった。
今思えば、あの時止めるべきだった。
「行って」って言うべきだった。
でも私は言えなかった。
言ったら、姉が悲しむ気がしたから。
家族が地下へ消えていく時、姉は振り返ってウインクした。
「大丈夫だよ」
その笑顔が、胸に刺さったまま抜けない。
三日間、私たちは普通に過ごした。
散歩して、アイスを食べて、昼寝して。
「終わりって、案外静かだね」
「うん。もっと騒がしいと思ってた」
そんな会話をしながら、私はずっと心の奥で思っていた。
――本当は、行ってほしい。
――でも、一人は嫌だ。
その矛盾が、喉の奥で固まって動かなかった。
三日目の朝、姉は言った。
「ちょっと散歩してくるね。すぐ戻るよ」
私は止めなかった。
止められなかった。
言葉が、どうしても出なかった。
そして世界は白く光った。
気づいたら瓦礫の中にいて、風だけが通り抜けていった。
痛みはなかった。
ただ、胸の奥がひどく冷たかった。
姉を見つけた時、姉はいつものように手を振った。
「アリス、やっほー」
その声が少し震えていたことに、私は気づかないふりをした。
姉は少しずつ薄くなっていった。
輪郭が風に混ざって、空に溶けていくみたいに。
私は泣きながら言った。
「ごめんね……ごめんね……」
姉は優しく笑って言った。
「アリスがいてくれたから、私は幸せだったよ」
その言葉が、今も胸に残っている。
どうして止めなかったのかな。
どうして、あの時ただ一言「行かないで」って言えなかったのかな。
最後に姉が消える瞬間、私はようやく言えた。
「お姉ちゃん……大好きで……大嫌い」
風が頬を撫でた。
まるで「困った子ね」と笑っているみたいに。
「終末観察プログラムを終了します」
青空だけが、何も知らないふりをして広がっていた。