某日、藤谷医科大学病院、小児科病棟の個室にて。
「はじめまして、エリちゃん」
「は、はじめ、まして……」
エリちゃんは相澤先生のながーいおみ足のうしろからちょこんと顔を出して、彼のゴワゴワのズボンをちいちゃいお手てできゅむっと握った。頬っぺたをポカポカあつくしながらもたどたどしく挨拶すると、しゃがんでエリちゃんと視線を合わせてくれていたその男の人は、ニッコリと嬉しそうに笑った。
「僕は 相澤 操太 といいます。よろしくね」
「! あいざわ……」
「うん。こっちの相澤先生の、兄弟です」
「きょうだい……おとうと?」
「正解! すごいね、よく分かったね」
「ん……」
目を丸くして凄い凄いと手を叩いて賞賛するその人に、エリちゃんはちょっと困った顔をして、相澤先生のズボンに引っ付いた。褒められ慣れていないので、どうしたらいいのか分からないのだ。
「おんなじ相澤だから、僕のほうは、操太くんと呼んでください」
「えと。はい」
「呼んでみて」
「……そうた、くん、……さん」
「惜しい! 操太くんだよ」
「そうた、くん」
「じょうず。もう一回」
「操太くん」
「よくできました!」
「え、えへ……」
隙あらばニコニコ褒める操太くんにエリちゃんはちょっぴり照れ照れした。適応が速い。エリちゃんはいつの間にか握るのを相澤先生のズボンから自分のワンピースに変えて、相澤先生の足を挟まずに操太くんと話せるようになっていた。デクさんとルミリオンさんを除けば恐らく最速である。相澤先生はエリちゃんが操太くんに夢中なのをいいことに複雑な心境を隠さず顔に出した。依頼したのは他でもない自分だし彼はプロとして大真面目に仕事をしているだけなのだが、三十路も近い独身の弟が幼女に名前呼びを強要するシーンを見るのは流石に何か心に来るものがあった。
「僕は、個性訓練士というお仕事をしています。個性を使うのが苦手な子が、上手に使えるように、使い方を教えたり、一緒に練習する人のことです」
「……くんれん、」
「うん。エリちゃん、個性使うの、怖い?」
「! ……うん」
「そっか。……エリちゃんと同じで、自分の個性が怖い子が、実は結構いるんだ。そんな子達が、自分の個性を怖がったり嫌いになったりせずに、使いこなして、一緒に生きていけるようにするのが、僕のお仕事です」
「……」
エリちゃんは、操太くんの仕事の話を聞いているときは大きな目を瞬かせて心をキラキラさせて聞いていたのに、それが自分についての話に展開すると急に元気をなくして暗い顔になった。エリちゃんは個性についていい思い出がほとんどない上に、他人に自分のせいで迷惑をかけるということを未だいけないことだと考えているからだ。操太くんは相澤先生からエリちゃんの事情をあらかた聞いていたので、様子の変わったエリちゃんに驚くことなく、エリちゃんと同じ視線の高さのまま、優しい声で訊いた。
「エリちゃん。自分の個性、嫌い?」
「……。ちょっと、だけ」
「使いたくない?」
「……あんまり」
「そっか。じゃあ、ちょぴっとだったら?」
「……」
「ほんのちょっとも、絶対使いたくない?」
エリちゃんははいもいいえも言えずに、寄る辺ない顔で視線をうろうろさ
せて、最終的に相澤先生の顔を助けを求めるように見た。相澤先生は子供に対して大変甘い男だが、同時に先生でもあるためにエリちゃんに素知らぬ顔をした。これはエリちゃんが自分で答えなければいけない質問で、そのことを相澤先生はよく分かっていた。
「……デクさんが……」
「うん」
「褒めて、くれました。優しい個性だって」
「うん」
「でも……私、」
「うん」
「私、の、個性、……優しいままで、使いたい、です。でもそんなの」
「できるよ」
「えっ」
スッパリ遮ったのはなんと相澤先生だった。えっ、と言ったのはエリちゃんではなく操太くんである。
「だから呼んだんだ」
「……うん、できます。僕と練習したらね」
操太くんはちょっぴりしどろもどろになりながら肯定した。合理性の塊である相澤先生はこれを信頼ではなく事実と呼ぶので、操太くんは昔から相澤先生のことが大好きで大嫌いだった。
「でも、操太くんに迷惑が」
「かからないかからない。僕はお仕事で来ているので、むしろエリちゃんが訓練してくれないと僕は今日の夕ご飯がなくなります」
「! それは……だめです。やります……!!」
「よかった」
「おい騙すな」
「事実だろ」
エリちゃんはそれまで迷っていたのが嘘のようにきっぱり返事をした。他人が傷付くくらいなら自傷を選ぶような子なので、傷付かなくていい人助けなんてものを提示されてしまえばもっと選びたいに決まっていた。
そんなエリちゃんに操太くんは優しく笑いかけて、直後全く表情を崩さずに相澤先生と圧縮言語による大人の会話をした。つまりは兄貴の奢りという話である。相澤先生は生徒に対してそうであるように、弟にもまた自覚なく甘いので、反論せずに溜息で済ませてしまう。それを見て、賢いエリちゃんは ほんとにご飯なくなるんだ……! と訓練を頑張る決意をより固くしてしまうのだった。
本来顔合わせだけの予定だったところを、操太くんは実際に個性の練習をして、エリちゃんがほんの少し個性の扱いに自信を持つ所にまで漕ぎ着けた。エリちゃんが思いの外やる気になってくれたので、週1くらいで無理なくいくかなと考えていたところを週2〜3回に増やすというおまけ付きで。給料分以上の最高の働きをして、操太くんは颯爽と帰っていった。相澤兄弟はとにかく多忙なので、お互いまだ仕事が残っていた。夕食の約束など、タイパを重視する彼らにとっては本当なら重荷以外の何物でもない。
帰り際、操太くんはエリちゃんをちょいちょいと手招きで呼んで、やっぱりしゃがんで目線を合わせて、両手を握ってエリちゃんと話してくれた。
「エリちゃん。これから雄英で暮らすんだよね?」
「うん……」
「相澤先生……兄貴を、よろしくね」
「へ」
「は?」
「兄貴ね、目離したらすぐにご飯食べないし、寝ないし、平気で無理するし、見た目全然気にしないしでだめだめなんだ。だからね、エリちゃんが見ててくれると嬉しい。任せてもいい?」
「おい操太」
「!!! まかせて!!」
「ありがとう」
エリちゃんは操太くんの手をぎゅうっと握って、嬉しそうにピョンピョン跳び跳ねて言った。迷惑をかけるばかりだと思っていたところに、自分にできる仕事ができたからである。相澤先生は叱るに叱れず眉間に皺を寄せた。エリちゃんの手前溜息もつけない。
弟は昔からこういう、人の意志の方向を導いて上手くことを運ぶのが得意だった。自分には向いていないからと断る彼をヒーローに誘った過去を思い出す。惜しい気持ちが今もない訳ではないけれど、これで良かったとも思う。彼はただの市民を少しずつヒーローにするのが得意で、それはヒーローという立場ではどうしても難しい。尚余談だが、このあと半年後くらいに教え子の一人が見事ヒーローのままそれをやってのける未来が待っていたりする。
操太くんが出ていったドアの先を未だ見つめ続けるエリちゃんは、お目目をキラキラさせて言った。
「あいざわ先生」
「うん」
「私、がんばります」
「うん」
彼女は小さな女の子の可愛らしい、けれどしっかりした口調で言った。人の役に立ちたいという心理はヒーローの専売特許などではなく、実はかなり普遍的な感情だ。そしてときに、目的は人それ自体を強くする。
6歳の子供の監視が何程のものか。面倒の2文字にしかならないそれを、相澤先生は決してそんな風に捉えず、彼女に言われればちゃんと食事をとって眠るだろうし、このあとの食事会で操太くんを咎めたりすることもない。全て分かった上で操太くんは彼女にお願いしたのだ。それは、兄という生き物が決まって弟に弱くできているせいでも、相澤消太という人間が最高にカッコイイヒーローであるせいでもあった。