327人殺した転生美少女の俺は、誰も殺していない ~首を刎ねると、現代日本で目を覚ます~   作:里奈使徒

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第2話「絡まれた鬼」

 夜風が、肌に残った汗をゆっくりと冷ましていく。

 

 今日は珍しく、走ることなくヴァンと並んで歩いていた。住宅街を抜け、二人は駅前の繁華街へ足を向ける。

 

「ヴァンさん、本当に歩くだけでいいの?」

「ああ」

「重りは?」

「今日はいい。休養も訓練のうちだ」

「武術の基礎は?」

「体が回復してからだ。だが、寝ているだけでは駄目だ。軽く動かして、血を巡らせる」

 

 ――アクティブレスト、か。

 

 前世でジムに通っていた頃、インストラクターがそんな言葉を口にしていた。

 

 疲労を抜くためには、完全に動きを止めるよりも、軽い運動で血流を促した方が回復が早い。

 

 最初は半信半疑だったが、実際に体はその通りに応えてくれた。

 

 まさか異世界で、同じ理屈を耳にするとは思わなかった。

 

 ――ヴァンさんって、あらためて思う、只者じゃない。

 

 ――俺の感覚だが、異世界の科学や医学は前世より何世紀も遅れている。そんな環境なら、「鍛錬は気合だ」「根性が足りない」で片付けられても不思議ではない。

 

 それでもヴァンは違う。

 

 体の状態を観察し、経験を積み重ね、理屈として最適解を導き出している。傭兵の経験知が、現代スポーツ科学とほとんど変わらない。

 

 だからこそ、あの強さなのだろう。

 

 そんなことを考えているうちに、気づけば駅前に着いていた。

 

 深夜十一時を回っても、駅前はまだ眠ならない。

 終電へ急ぐ会社員。飲み足りないのか、笑い声を響かせる若者たち。居酒屋から流れ出てくる酔客。

 

 コンビニの明かりとネオンが濡れたアスファルトを照らし、行き交う人々の顔を赤や青に染めては消していく。

 

 そんな喧騒の中で、不意にヴァンの足が止まった。

 隣を歩いていたルーシェも、つられるように立ち止まる。

 

 ――えっ……? 何?

 

「ヴァンさん、急にどうし――」

 

 ルーシェが言い終わる前に、前方の路地から、四人の男が出てきていた。

 

 だぼついたパーカー、腰の下まで下がった短パン、金色のチェーン。肩で風を切って歩いている。

 

 三人が横に広がる。一人が正面。ヴァンとルーシェの前方を、扇形に塞ぐ配置。

 

「うっす。ちょっといいか、おっさん」

 

 先頭の男が、口元だけで笑った。

 

 その背後には三人。

 

 どいつも二十歳そこそこ。だぼついた服に金のアクセサリーをぶら下げ、いかにも夜の街で粋がっている連中だった。

 

 四人の視線が、一斉にヴァンへ向く。

 

「その子、何歳?」

 

 返事を待たず、男はニヤリと笑う。

 

「どう見ても未成年じゃん。こんな時間に連れ歩いてるとか、普通にアウトでしょ」

「しかも外国人? いやぁ、見ちゃったなぁ、俺ら。パパ活ってやつだろ、それ」

「おっさん、金で釣って未成年に手ぇ出すの、シャレになんないんで。警察に話したら面倒なことになるよ?」

「まあ、俺らも鬼じゃないし」

「そうそう。少し誠意見せてくれたら、見なかったことにしてやるよ」

 

 茶髪が下品に笑った。他の三人も、追随して笑い声を上げる。

 

「……それとも、このまま交番行く?」

 

 四人がじり、と距離を詰める。

 

 ――なるほど。

 

 ルーシェは心の中で小さく息をついた。

 誰かと思えば、ただのチンピラ、ゆすり屋だった。

 

 ――お前らだれにかつあげしてんねん。凄腕の傭兵相手に命知らずにもほどがあるぞ。

 

 だが、当のヴァンは何も言わなかった。肩の力を抜いたまま、そこに立っているだけ。

 

 その沈黙を、不良たちは都合よく受け取ったらしい。

 

「なんだよ、おっさん。黙っちゃって」

「ビビってんの?」

 

 茶髪が鼻で笑う。

 

 次の瞬間には、興味を失ったようにヴァンから視線を外し、ルーシェへ向き直っていた。

 

「ねぇ彼女、こんなヤバいおっさんに金もらってないでさ」

 

 茶髪が距離を一歩、詰める。

 

「俺らと来なよ」

「俺らがちゃんと面倒見てあげるから」

「日本のこと、いろいろ教えてあげるよ。異文化交流ってやつ?」

 

 後の三人が下品な笑い声を上げる。

 

 茶髪はさらに顔を寄せ、口角を歪めた。

 

「それともさ……俺らが、もっと気持ちよくしてやろうか?」

 

 下手な口説き文句を並べながら、男たちは遠慮なく距離を詰めてくる。

 

 ――ふむ、酒場で働いていれば、この程度の酔っ払い予備軍は何人も相手にしてきた。

 

 いつもなら笑顔を貼りつけて「うふふ、困るなぁ〜」と美少女モードで適当にあしらって終わりだ。

 

 だが、今日は違う。隣には鬼教官ことヴァンがいる。

 ここで弱々しい態度でも見せれば、明日の訓練が倍になるだけで済まない気もする。

 

 思わず背筋が寒くなった。

 

 ――よし。修行の成果見せてやるか。こんなチンピラ四人、ギフト持ちでもないんだから、余裕だろう。

 

 ――制圧する? やっていいですか? ヴァンさん?

 

 視線だけで問いかける。

 しかし、ヴァンは微動だにしなかった。

 

「アハハ。そのおっさんが助けてくれるとでも思った?」

 

 茶髪が肩を揺らして笑う。

 

「見ろよ。置物みたいに固まっちゃってるじゃん」

 

 茶髪が薄ら笑いを浮かべたまま、ルーシェの肩へ手を伸ばす。

 

 その瞬間だった。

 

 ヴァンが一歩、前へ出る。

 

 自然な一歩。

 

 それだけで、伸びた手はルーシェへ届かなかった。

 

「おいおい、ビビって突っ立ってりゃ済んだのによ。ヒーロー気取りか、おっさん」

 

 兄貴分が乱暴にヴァンの胸ぐらを掴む。

 

 ヴァンは眉一つ動かさない。

 

 無造作に、その手を払い落とした。

 

「……っ」

 

 兄貴分の笑みがわずかに揺らぐ。

 

「誰に喧嘩売ってるか、わかってねぇみたいだな」

「何もわかっていないのは、お前たちだ」

 

 ヴァンの声は静かだった。

 

 怒鳴りもしない。

 威圧するでもない。

 ただ事実を告げるような口調だった。

 

「あぁ?」

 

 兄貴分のこめかみに青筋が浮く。

 

「ナメてんじゃねぇぞ」

 

 後ろの一人が一歩前へ出る。

 

「兄貴、やっちまいます?」

「ああ。警察呼ばれる前に終わらせるぞ」

 

 その一言で、四人が一斉に散った。

 左右へ。

 背後へ。

 

 逃げ道を塞ぐように、ゆっくりと包囲を狭めていく。

 

 ――お、お前ら……。

 

 ルーシェは思わず額を押さえた。

 

 目の前にいるのは、ただの中年男ではない。

 

 歴戦の傭兵。

 

 "猟犬"の異名で戦場を駆け、生きるために人を斬り、人を殺し、生き延びてきた男。

 

 幾度となく死線を越えてきた、本物の武人だ。

 

 その相手に、夜の街で粋がるチンピラが四人。

 

 勝負にすらなっていない。

 

 ――合掌。

 

 ――お前ら、死んだぞ。

 

 夜の喧騒だけが妙に遠く聞こえる。

 

 張り詰めた空気の中、ヴァンがゆっくりとルーシェへ視線を向けた。

 

「ルーシェ」

「は、はい」

「武術を始める前に、ちょうどいい教材が現れた」

「教材……ですか?」

「あぁ、実戦ほどわかりやすい手本はない」

 

 静かな声だった。

 

 怒気も、威圧もない。

 

 だからこそ、不思議な重みがあった。

 

「よく見ておけ。武術とは、こう使うものだ」

 

 

 ◇

 

 

 ヴァンが、半歩だけ前へ出た。

 

 それだけだった。

 

 茶髪の姿が消える。

 

 視界が追いつくより先に、

 

 ――ドォッ!!

 

 鈍い衝突音が夜の駅前に響いた。

 

 茶髪が数メートル先のアスファルトへ叩きつけられている。

 

 背中から落ちた衝撃で肺の空気を吐き出し、かすれた呻き声を漏らす。

 

 それきり動かない。

 

 ヴァンは、もう元の位置に立っていた。

 

 服の乱れ一つない。

 

 まるで最初から一歩も動いていなかったかのように。

 

 ――えっ!?

 

 ルーシェは瞬きを忘れた。

 

 何をした?

 

 見えなかった。

 

 投げたのか。打ったのか。崩したのか。

 

 何一つわからない。

 

 わかるのは、茶髪が一瞬で戦闘不能になったという事実だけだった。

 

 ――神業すぎる。これ、動画に上げたら間違いなくバズるぞ。

 

 残った三人は完全に固まっていた。口を半開きにしたまま、誰一人として動けない。

 

 何が起きたのか。理解が追いついていない様子だ。

 

「あ……あ?」

 

 坊主がかすれた声を漏らす。

 

 混乱を振り払うように拳を握り締め、そのまま突っ込んだ。

 

 ヴァンは動かない。

 

 いや。

 

 動いたようには見えなかった。

 

 次の瞬間、肘が坊主の顎を正確に捉える。

 

 乾いた音。

 

 坊主の体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 

 白目を剥いたまま、ぴくりとも動かない。

 

「ひっ……!」

 

 金髪が悲鳴を上げる。

 

 踵を返し、そのまま脇目も振らず夜の街へ逃げていった。

 

 残ったのは、先頭の男――最初に下卑た笑みを浮かべていた兄貴分だけだった。

 

 顔から、笑みが落ちている。

 

 ヴァンが、その男の前に立った。

 

 手は、触れていない。ただ、立っている。それだけだった。

 

「失せろ」

 

 ヴァンが、軽く手を振った。

 

 兄貴分の顔が、屈辱で歪む。

 

「て、てめえ、覚えとけよ。絶対、殺してやる!」

 

 兄貴分が真っ赤な顔で怒声を放つ。怒鳴り声だけが夜の街へ虚しく響いた。

 

 ヴァンは何も答えない。

 

 ただ、その虚勢を静かに見送る。

 

 やがて懐から煙草を一本取り出し、唇に挟んだ。

 

 ライターが小さく鳴る。

 

 火が灯る。

 

 ゆっくりと煙を吐き出した。

 

 ――渋い。イケオジすぎる。

 

「殺す、か」

 

 ヴァンがぽつり、と呟く。

 

「本気か?」

 

 兄貴分は振り返る。

 

「あぁ、本気だ」

「フッ」

 

 ヴァンが小さく笑う。

 

「何がおかしい?」

「世界が変わっても、お前のような奴はどこにでもいるんだと思ってな」

「どういう意味だ?」

「口にするだけなら、誰でも殺せる。本気で殺す者は、黙って引き金を引く」

 

 兄貴分の額に、青筋が走る。ピクピクと怒りが露わになった。

 

「なめるな! 俺は渋谷連合の頭だぞ。俺を口だけの三下と一緒にしやがって」

 

 ヴァンは答えない。煙草を指先で挟んだまま、退屈そうに煙を吐く。

 

「……いいだろう、ここまでこけにされたんなら、お前だけじゃねぇ」

 

 兄貴分の口元が歪む。

 

「家族ごと地獄に落としてやる」

 

 その瞬間だった。

 

 ヴァンの目から、一切の温度が消えた。

 

 ――やばい。

 

 ――あのバカ、愛妻家のヴァンさんになんてセリフを言うんだ、まさに死亡フラグだ。

 

 ――死んだな、あいつ……って違う。ヴァンさん、やっと妻子と安息の生活を手に入れたところだぞ。

 

 その生活を、こんなチンピラのせいで崩されてはいけない。

 

 ――もちろん、やられるんじゃなくて、やってしまった、という意味でな。

 

 殺人は重罪だ。それはこの日本でも同じ、いや、日本だからこそ、逃げ場がない。

 

 ヴァンに前科を付けるわけにはいかない。身分証だって持っていない。一度警察沙汰になれば、面倒どころでは済まない。

 

 ――――止める。ここで終わらせる。奴に格の違いというのを見せつけるのだ。

 

 ルーシェは一歩前へ出た。

 

「あの、お兄さん」

「なんだ?」

「悪いこと言わない、逃げた方がいいよ」

「は? ふざけんなよ嬢ちゃん」

「ふざけてない。あなたじゃ、絶対に勝てないから」

 

 ルーシェは首を横に振った。

 

「聞いて。ヴァンさんとは住んでる世界が違うの。修羅場、いっぱい潜ってる人だから」

「修羅場だぁ? 俺だってなぁ、喧嘩は上等、ステゴロで何人沈めてきたと思ってんだ。修羅場くぐってんのはこっちだ」

「……あ、ごめん、言い方間違えた。修羅場、っていうか、本物の戦場」

「は……?」

「あえて言うけど、ヴァンさん異国の戦場帰りだよ」

「せ、戦争経験してるとでも言うのかよ」

 

 ――オッ!? 兄貴分が少しびびっているようだ。トーンが落ちている。これはもう少し押せば穏便に解決できそうだ。

 

「そうだよ。あなたが経験した修羅場なんて、幼稚園のお遊戯レベル。だからケガしないうちに退散してって」

 

 兄貴分の顔から、血の気が引いていく。

 

 いや、引いていったあと、逆に、紅潮し始めた。

 

 ――あ。

 

 ――やっちまった。これはやりすぎたってやつだ。あおりすぎて恐怖より先に、男のプライドを粉砕してしまった。俗にいう引くに引けないってやつを。

 

「ふ、ふざけんな……ふざけんなよ……!」

 

 兄貴分の顔が怒りで歪む。

 

 懐へ手が走る。

 

 引き抜かれたのは、鈍く光るサバイバルナイフだった。

 

「ぶっ殺してやるぞ。俺はやる時はやる男なんだよ、刑務所なんざ怖くねぇ!」

 

 刃先が街灯の光を弾く。

 

 それでもヴァンは眉一つ動かさなかった。

 

 ――よりにもよって、ナイフ?

 ――ナイフが得意なヴァンに、ナイフ。

 ――ヴァンが最も慣れ親しんだ得物で挑む。勇気あるな、お前。

 

 ヴァンの腰には、たぶん今も、五本は隠れている。投擲用、刺突用、護身用。用途別に。

 

 そんな人に、サバイバルナイフ一本で挑むのは、虎の口に頭を突っ込むのと、ほぼ同義だった。

 

「死ねぇっ!」

 

 兄貴分が、叫びながら突っ込んできた。

 

 ナイフの切っ先が、ヴァンの胸を狙って、まっすぐ突き出される。

 

 ヴァンが、半歩、身を引いた。

 

 刃は、彼の胸を、紙一重で外していった。

 

 その勢いで前のめりになった兄貴分の手首を、ヴァンが軽く掴んだ。

 

 ぐきり。

 

 嫌な音が響いた。

 

 ナイフが指先から滑り落ち、乾いた音を立てて転がる。

 

「ぁ……」

 

 兄貴分の口が開く。悲鳴にならない声だけが漏れた。

 

「ひ、ひぃい、ば、化け物」

 

 そう言って、兄貴分が、転がるように逃げ出す。数メートル進んだ先で、震える手でスマホを取り出した。恐怖で、指がまともに動かない。それでも、必死に画面をタップする。

 

「た、助け――」

 

 最後まで言わせなかった。

 

 ヴァンの姿が揺れる。

 

 次の瞬間には、兄貴分の真横に立っていた。

 

 蹴りが走る。

 

 ドゴッ。

 

 横薙ぎの一撃が頬骨を打ち抜く。

 

 兄貴分の体が横へ吹き飛び、アスファルトを何度も転がった。

 

 スマートフォンが宙を舞い、乾いた音を立てて地面へ落ちる。

 

 兄貴分は白目を剥いたまま動かない。

 

 ルーシェは呆然と立ち尽くしていた。

 

 ――鬼だ。

 

 いや。

 

 鬼ですら、ここまで容赦はないんじゃないんだろうか。

 

「鬼教官」というあだ名は、まだ甘かったかもしれない。

 

 ヴァンが何事もなかったように振り返る。

 

「行くか」

「う、うん」

 

 歩き出そうとして――足が、止まった。

 

 路地の向こう、街灯の下。

 

 制服の影が、こちらに歩いてくる。

 

 

 ◇

 

 

 警察官だった。

 

 巡回中なのだろう。自転車を押しながら、騒ぎのあった路地へまっすぐ歩いてくる。

 

 ルーシェの背筋を冷たいものが駆け抜けた。

 

 ――やばい。

 

 気絶したチンピラが三人。地面に転がるサバイバルナイフ。アスファルトには飛び散った血。

 

 事情を知らない人間が見れば、どう映るか。

 

 状況だけ見れば、ヴァンが加害者である。

 

 まずい。これは本気でまずい。

 

「ヴァ、ヴァンさん!」

 

 慌てて袖を掴む。

 

「こっち、こっち、別の道から――」

 

 ぐい、と引っ張る。

 

 しかしヴァンは微動だにしない。

 

「ヴァンさん、警察ですよ、見られたら――」

「ルーシェいいんだ」

「いや、よくないですって。警察には現行犯逮捕ってものがあって」

「知ってる」

 

 ――いや、知ってるなら逃げようよ。ってあぁもう遅かったか。

 

 そうしているうちに、警察官は二人の前まで歩いてきていた。

 

 自転車のギアが、カラカラと鳴る。深夜の静寂に、その音だけが響く。

 

 二十メートル、

 十メートル、

 五メートル。

 

 自転車のライトの光が、ヴァンの足元を照らした。

 

 ルーシェの背中を冷たい汗が伝う。

 

 ――来た。目が合う。

 

 終わった。これは、終わった。

 

 警察官が、足を止める。そして一瞬だけ、路地を見渡した。

 

 倒れた男たち。

 転がるナイフ。

 アスファルトに飛び散った血。

 

 そのすべてへ視線を向ける。

 

 そして。

 

「こんばんは」

 

 穏やかな笑顔で会釈した。

 

「夜遅いですから、お気をつけて」

 

 もう一度、軽く頭を下げる。

 

 それだけだった。

 

 警察官は何事もなかったように自転車を押し、二人の横を通り過ぎていく。

 

 ルーシェは瞬きを忘れた。

 

 ……え?

 

 思考が止まる。

 

 脳の処理が、追いついていない。

 

 見た。

 絶対に見た。

 

 倒れたチンピラも。ナイフも。血痕も。

 全部。

 

 なのに、何も言わなかった。

 

 通り過ぎていった警察官の背中を、ルーシェは呆然と見送る。

 

 遠ざかる自転車。等間隔のペダルの音。鼻歌でも聞こえてきそうな、平穏そのものの後ろ姿。

 

 カラ、カラ、とペダルの音だけが夜に溶けていく。

 

「……え?」

 

 ようやく声が漏れた。

 

「ヴァンさん、見ましたよね? あの警官絶対、見えてましたよね? ナイフも、血も、あの倒れたチンピラたちもなのに無視して――」

「コウメだ」

 

 ヴァンが、短く言った。

 

 ルーシェの口が、半開きのまま止まる。

 

「このあたり一帯、もうコウメの縄張りだ。警察も含めてな」

 

 ヴァンは、また歩き出していた。

 

 ルーシェが慌てて追う。

 

「な、何それ、警察も含めてってどこまで――」

「ま、そういうことだ。納得しておけ」

 

 ヴァンの口調は、淡々としていた。

 

 ルーシェの脳裏に、コウメの笑顔が浮かぶ。

 

 そうだった。

 

 普段は豪快な関西弁で笑い飛ばし、人懐っこく接してくれる女性。

 

 けれど、それだけじゃない。

 

 人の心を意のままに操る、底知れないギフトの使い手でもある。

 

 そのコウメが――。

 

 警察まで動かしている。

 

「コウメさん、こわ……」

 

 ルーシェの口から、思わず本音が零れた。

 

「違う。コウメより、本当に怖いのは……」

 

 ヴァンが、半歩先を歩きながら、ぽつりと呟いた。

 

「え?」

「いや、なんでもない」

 

 ヴァンが、小さく首を振った。

 

「いやいや、なんでもなくないです。気になりますって。誰なんです?」

 

 ヴァンは返事をしない。前だけを見たまま歩き続ける。

 

 その背中を見て、ルーシェもそれ以上は聞かなかった。

 

 駅前のネオンが少しずつ遠ざかる。

 

 代わりに住宅街の静けさが二人を包み込み、街灯に照らされた影だけが、長く夜道へ伸びていた。

 

 

 ◇

 

 

 路地の角で、警察官は一度だけ振り返った。

 

 倒れた男たち。

 血痕。

 ナイフ。

 

 そのすべてを視界に収める。

 

 それでも無線には触れなかった。手帳にメモも取らなかった。

 

 ――あの一帯で起きたことは、報告不要。

 

 上からの通達は、それだけだった。

 

 理由を尋ねた者はいない。

 尋ねようとした者も、いない。

 

 警察官は自転車へ跨る。

 

 深夜の巡回を再開した。

 

 今夜も、この街で変わったことは何もない。

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