327人殺した転生美少女の俺は、誰も殺していない ~首を刎ねると、現代日本で目を覚ます~   作:里奈使徒

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第5話「天国/結核は、治ります」

 コウメは死んだと思った。

 

 なのに、音が聞こえる。

 

 甲高いサイレン。耳の奥を突き刺すように、途切れなく鳴り続けている。

 

 目を開けようとした。瞼が重い。鉛を載せられたみたいだ。

 

 体が揺れている。左右に振られる。がたがたと、何かが軋んでいる。

 

 重い。息をするたびに胸が軋む。指一本、動かせない。

 

 なんとか瞼をこじ開けた。

 

 白い天井。蛍光灯の光が目を焼く。眩しい。狭い。嗅いだことのない匂いが鼻をつく。鋭くて、冷たい匂い。

 

 腕に何かがついている。細い管。透明な液体が、ゆっくりと流れ落ちている。

 

 ――点滴。

 

 知らんはずの言葉が、頭に浮かんだ。振り払おうとしたが、言葉は消えなかった。まるで最初からそこにあったかのように、頭の中で光っている。

 

 男の声がした。早口で、張り詰めている。

 

「こちら救急34、搬送中。患者二名、成人女性と小児。二名とも重度の肺疾患疑い、栄養失調と脱水」

 

 何かを握りしめていた。黒い箱。声がそこから出ている。

 

 ――無線。

 

 また、知らん言葉が浮かんだ。

 

「女児はSpO2が89、酸素投与中。女性も呼吸音に異常あり。受け入れ先を探しています」

 

 無線の向こうから、別の声が返ってくる。雑音混じりの、機械的な声。

 

「救急34、了解。各病院に照会します」

 

 ピピピ、と電子音が鳴っている。一定のリズム。心臓の鼓動に重なる。自分の心臓の音なのか。機械の音なのか。わからない。

 

 首を動かした。力が入らない。

 

 隣に、小さな体があった。

 

 透明なマスクが顔を覆っている。鼻と口から、チューブが伸びていた。目を閉じている。顔に血の気がない。蝋人形みたいに、白い。

 

 ――ユズ。

 

「ユ、ズ……」

 

 声がかすれる。喉が焼けるように痛い。

 

 若い隊員がこちらを見た。汗が額に浮かんでいる。

 

「お母さん、大丈夫ですよ。今、病院を探してますから」

 

 無線が鳴った。雑音。そして、声。

 

「救急34、城東医療センターは小児科の当直医が不在、受け入れ不可」

 

 舌打ちが聞こえた。男の声が苛立っている。

 

「了解、次を当たってください」

 

 車体が大きく揺れた。体が浮き上がりそうになる。サイレンが一段と高くなった。

 

 また、無線が鳴る。

 

「救急34、中央総合病院はベッドが満床、受け入れ不可」

「了解」

 

 男の声が上擦っている。額の汗を拭う暇もないのか、滴が顎から落ちた。

 

「女児のSpO2、87まで落ちてきた。時間がない……」

 

 ――何が起きてるんや。

 ――この子、死ぬんか。

 

 ユズの顔を見た。白い。動かない。マスクの中で、かすかに胸が上下しているだけだ。

 

 無線が鳴った。

 

「救急34、都立総合医療センター、受け入れ可能。救急外来に直接搬入してください」

「了解! 都立総合、直接搬入!」

 

 若い隊員が息を吐く。肩の力が抜けるのが見えた。車内の空気が、わずかに緩む。

 

 スピードが上がる。サイレンが一段高くなった。窓の外を、光が流れていく。赤、青、白。目まぐるしく変わる。

 

 男がこちらを振り返った。額に汗が光っている。でも、口元は笑っていた。

 

「お母さん、見つかりました。あと五分で着きます。お母さんも、お嬢さんも、絶対助けますから」

 

 ――助ける。

 

 見ず知らずのうちらを。

 

 向こうの世界では、誰もそんなことを言わなかった。貧民街で倒れたら、そのまま朽ちるだけ。誰も見ない。誰も止まらない。死体が転がっていても、誰も驚かない。

 

 ――ここは、違うんか。

 

 窓の外が流れていく。赤い光が回っている。

 高いビル。光る看板。道を走る車が、次々と脇に寄っていく。この見知らぬ街の全てが、うちらのために道を開けている。

 

 ――日本。

 

 またその言葉が、どこからか浮かんできた。ここが、そういう場所なのだと。

 

 あの金髪の少女の顔が、ふと浮かぶ。鎌を振り上げた瞬間。泣いていた。涙を流しながら、「ごめんなさい」と。

 

 痛みはなかった。刃が首に触れた瞬間、温かい光に包まれて――

 

 ――あの子が、ここに送ってくれたんや。

 

 意識が遠くなっていく。サイレンの音が、だんだん小さくなる。

 

 

 ◇

 

 

 次に目を開けたのは、別の部屋だった。

 

 横になったまま、コウメは天井を見上げた。

 白い。清潔だ。窓からの光が室内を満たし、カーテンが風に揺れている。午後の、柔らかい光だった。

 

 体が軽い。

 

 胸の軋みがない。息が、楽だ。肺の奥まで、空気が入っていく。ただそれだけのことが、信じられへんかった。何年ぶりかもわからへん、痛みのない呼吸。

 

 ゆっくりと体を起こした。腕に点滴の管がつながっている。

 

 隣のベッドに目を向けた。

 

 ユズが眠っている。細い腕に点滴の管が繋がり、機械が静かに規則正しいリズムを刻んでいた。

 

 顔色が違う。

 

 青白かった頬に、わずかに赤みが戻っていた。唇にも、血の色がある。

 

 ――咳をしてない。

 

 あの子は、いつも苦しそうに咳き込んでいた。血を吐いて、夜も眠れなくて。熱に浮かされて、うわごとを言って。

 

 抱きしめることしかできなかった。薬は買えない。医者には診せられない。ただ、死んでいくのを見ていることしか、できなかった。

 

 せめて楽に逝かせてやりたかった。苦しまないように。それが、コウメにできる最後のことだった。

 

 ――なのに。

 

 今、ユズは静かに眠っている。眉間にしわがない。苦しそうな顔をしていない。その静けさが、しばらく信じられへんかった。

 

 扉が開く音がして、コウメは顔を上げる。

 

 白い服の女が入ってきた。手に薄い板を持っている。

 

 ――看護師。タブレット。

 

 言葉が、勝手に浮かんできた。

 

 看護師はコウメのベッドのそばまで歩いてきて、微笑む。

 

「あ、目が覚めましたね。気分はいかがですか?」

「……娘は?」

「お嬢さんは順調に回復していますよ」

 

 看護師がユズのベッドに目を向けた。

 

「肺の感染症でしたが、治療が効いています。このまま順調にいけば、一、二ヶ月で退院できると思います」

 

 ――治る?

 

「……治るんか」

「はい。結核は治りますよ」

 

 ――結核。知らん言葉のはずやのに、労咳のことやとわかった。

 

 ――労咳が治る。

 

 何でもないことのように言った。当たり前のことのように。

 

 視界が滲んだ。頬を熱いものが伝う。止まらへん。

 

 あの子が、治る。死なずに済む。

 

 向こうの世界では、絶対に治らなかった。薬はある。でも、症状を抑えるだけ。貧民には、それすら手が届かない。

 

「お母さん? 大丈夫ですか?」

「……すんまへん。嬉しくて」

「泣かないでください。お嬢さんが起きたら、びっくりしちゃいますよ」

 

 手の甲で目元を拭う。次から次へと溢れてくる。止められへん。

 

 布団の端を握って、こみ上げてくるものをなんとか堪えようとした。でも、無理やった。

 

 

 ◇

 

 

 翌日の朝、医者が来た。

 

 白衣を着た中年の男だった。眼鏡をかけている。穏やかな目をしていた。

 

「お二人とも、結核菌が検出されました。お嬢さんは進行していましたが、どちらも完治します」

 

 ――完治。

 

 その言葉が、胸に響いた。

 

「お二人とも、栄養状態がかなり悪いです。しばらく入院して、体力を回復させましょう」

「……お金がないんや」

「費用のことは、後で相談しましょう。まずは治療に専念してください」

 

 ――後で相談。

 

 向こうの世界では、金がなければ門前払いだ。話も聞いてもらえない。

 ここは違う。まず治療してくれる。金の話は、後。

 

 医者が手帳に何かを書きながら出ていく。その後姿を、コウメはしばらく見つめていた。

 

 

 ◇

 

 

 三日後の朝。

 

 窓から差し込む光で目が覚めた。

 

 柔らかな光。温かい。向こうの世界の、埃っぽい光とは違う。

 

 隣のベッドを見ると、ユズの目が開いていた。

 

「ママ……」

 

 小さな手が伸びてくる。

 

 コウメはベッドから降りた。点滴の管を引きずりながら、二歩ほどで娘のベッドに近づく。

 

 小さな体を抱きしめた。温かい。生きている。鼓動が伝わってくる。

 

「ここ、どこ?」

「天国や」

「天国?」

「そうや。天使さんが、連れてきてくれはったんや」

「あの金色の髪の人?」

「そうや。あの子が、うちらを助けてくれはったんや」

「あの人、泣いてたね」

「……うん」

「なんで泣いてたの?」

 

 ――なんでやろな。

 

 あの子は、泣きながら鎌を振り下ろした。「ごめんなさい」と言いながら。

 

 殺すつもりだったのだろうか。それとも、最初から知っていたのだろうか。ここに送れることを。

 

 わからない。でも、あの涙は本物だった。

 

「うちらのために、泣いてくれはったんやと思う」

「そっか」

 

 ユズがベッドの上で体を起こした。窓の外を見ている。

 

 高いビルが並んでいる。空が青い。雲が白い。鳥が横切っていく。

 

「きれいやね、ママ」

「そうやなぁ。きれいやなぁ」

 

 

 ◇

 

 

 退院の前日。

 

 午後の病室に、見知らぬ女が来た。眼鏡をかけた、四十くらいだ。スーツを着ている。

 

 パイプ椅子をベッドの横に引き寄せ、膝の上にファイルを広げた。

 

「ソーシャルワーカーの山本です。身元の確認をさせていただきたいのですが……」

 

 眉を寄せている。困っているような顔。

 

「まず、お名前を教えていただけますか?」

「……コウメや。娘はユズ」

「コウメさん。……フルネームは?」

 

 ――姓なんて、貴族しか持ってへんのに。

 

「……それだけや」

 

 山本の眉が上がる。でも、すぐにペンが動き始めた。

 

「パスポートや在留カードはお持ちですか?」

「……持ってへん」

「保険証は?」

「……それも」

 

 メモを取る手が止まる。室内が静かになった。隣でユズが眠っているのか、規則正しい呼吸の音だけが続いている。

 

「……難しいケースですね。正直に申し上げると、このままだと入管に連絡が行く可能性があります」

 

 ――入管。

 

 不法滞在者を捕まえる場所。その知識が、勝手に浮かんでくる。

 

 ――やっぱり、そう簡単にはいかんか。

 

 天国だと思った。でも、天国にも法律がある。ルールも。身元のない人間は、追われるのだ。

 

 ユズの寝顔が見えた。穏やかに眠っている。頬に血の色が戻っている。

 

 ――この子だけは、守らなあかん。

 

「ただ、お子さんの治療が最優先です。今すぐどうこうということはありません。なんとかしますから。私に任せてください」

「……ほな、任せますわ」

「え?」

「あんたを信じる、ってことや」

 

 山本は目を丸くした。それから、笑う。

 

「お強いですね」

「そうでもないわ。死にかけてたんやし」

 

 

 ◇

 

 

 二ヶ月後。

 

 退院の日が来た。

 

 山本が住む場所を探してくれた。母子生活支援施設。身寄りのない母親と子供を受け入れてくれるところだという。

 

 入管の問題は、まだ片付いていない。いつか、追われる日が来るかもしれない。

 

 でも、今日じゃない。

 

 ――なんとかなる。なんとかしてみせる。

 

 貧民街で生き抜いてきた。ここでもやれる。

 

 ユズの手を引いて、病院の玄関を出た。自動扉が開く音がして、外の空気が一気に流れ込んでくる。

 

 風が頬を撫でた。甘い匂いがする。花の匂い。

 

 見上げる。

 

 桜が咲いていた。

 

 淡い桃色の花びらが、風に舞っている。枝いっぱいに花が膨らみ、青空に溶けていく。一面の桃色。空が、花に覆われている。

 

 ――桜。

 

 頭の中にある知識と、同じ名前の花。でも、見るのは初めてだった。

 

 花びらが一枚、手のひらに落ちてきた。薄い。柔らかい。絹みたいだ。

 

 ――こんなきれいなもんが、この世にあるんか。

 

「わあ……!」

 

 ユズが声を上げた。両手を広げて、舞い落ちる花びらを追いかけている。

 

「ママ、見て。雪みたい!」

「雪やない。桜や」

「さくら?」

「花の名前や」

 

 ユズは両手で花びらを受け止めた。小さな手のひらに、桃色が積もっていく。

 

「きれい……天国の花やね」

「……そうやなぁ」

 

 目の奥がじんと熱うなる。

 

 この子にこんな景色を見せられる日が来るとは、思っていなかった。

 

 病院を出ながら、まだ半分は夢の中にいるようだった。それでも風は本物で、花の匂いは本物で、ユズの手の温かさは本物だった。

 

 手を握られた。小さくて、温かい。

 

「ママ、怖い?」

「……少しだけ」

「大丈夫」

 

 ユズが笑っている。頬に血の気がある。目に光がある。

 

「私がいるから」

 

 ――こんなに元気になって。

 

「ママ、あの天使さんに会えるかな?」

「……会えるんちゃう?」

「ほんと!?」

「うちの勘や。当たるわ」

 

 ――あの子も、いつかここに来る。

 

 根拠はない。でも、確信があった。

 

「いつか、お礼を言いたいな」

「……そうやなぁ」

 

 コウメは空を見上げた。

 

 青い空。白い雲。舞い散る桜の花びら。

 

 向こうの世界でも、同じ空を見ているのだろうか。

 

 ――あの子は今、何をしてるんやろ?

 ――まだ、泣いてるんやろか?

 

 心の中で、祈った。

 

 ――ありがとう、天使さん。

 ――うちら、ここで生きていくわ。あんたがくれた命、大事にするから。

 ――だから、あんたも泣かんといて。あんたは、天使なんやから。

 

 ユズの手を握り返す。

 

 一歩、踏み出した。

 

 知らない街。知らない世界。

 

 でも、怖くなかった。

 

 ユズが隣にいる。それだけで、十分だ。

 

 ――今は、まだ。

 

 桜の花びらが、二人の肩に降り積もっていく。

 風が吹く。花びらが舞い上がり、青空に溶けていった。

 

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