──妻の顔をしたSM女王様は、妻ですか?


※本作は、
ゆっくりゲーム実況者グループ『めめ村』の皆様による
クトゥルフ神話TRPGプレイ動画『泥男は誰だ』を元にした二次創作(分岐IF)です。
 
※本編の重大なネタバレを含みます。

※本来チラシの裏は、ネタと習作のみとの事ですが、原作の特性上、こちらに投稿いたします。

【リプレイ動画】
iemon様
https://youtu.be/eSRPKo4bx18?si=CFUDLtqmWuzNuF7b

茶子様
https://youtu.be/yhNmTZNs8l4?si=aGBfXlXrlDYoBJZH

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生き返ってみたら夫が浅慮と難聴を極めていたので、愛の力で無双する

 

 

 脚が地を蹴る。

 床を埋め尽くす肉塊を踏み、鐘有亜美の首が納まる八面体、そしてその正面にいる男、鐘有馬久留へと。

 脱ぎ捨てられた布地が舞い、あらわになった太腿(ふともも)のベルトから取り外された(むち)が、臙脂色(えんじいろ)豪腕(ごうわん)へ変化した右手に固く握られる。

「いいっ……加減に私を解放しろやあああ!!」

 ひゅぱっ……パァァァン!!

 繰り出された一撃は、風切り音を立て馬久留のすぐ横に振り下ろされ。周囲の肉塊は弾けとんで蒸発した。

 

 

 肌にぴたりと張り付く布は黒。今しがた暴力を再現してみせた鞭は、そこにあるのが当然の(ごと)く、その手に収まっている。

 こつり。(とが)ったヒールが前へ進む。馬久留の背が、背後の八面体へ触れた。

 彼女はまさに。

 

 

 SM女王様──。

 

 

 

「な、なになになになに。ねえあれ誰」

「化物が更に化物に。これが地獄の光景でござろうか」

 望月善と家元虎之介、二人の青年は、ここまで同行してきた、女王藍美──鐘有藍美の肉体はこの場に二つあることから、便宜上(べんぎじょう)呼称(こしょう)だ──の変貌(へんぼう)ぶりに、目を丸くしてがたがた震えるばかり。

 馬久留も、何が起こっているのか理解が追いつかないのだろう。あんぐり口を開け棒立ちしている。

 そのような些事(さじ)には一切お構いなしに、堂々とした足取りで、夫、馬久留へ近づいていく女王藍美。

「死んだ後に強制的に目覚めさせられてから、それでも私は帰ってきたと伝えようと、こっちが下手に出ていれば。

いい歳してリアルな人間でお人形さん遊び継続ですか、下半身で物事をお考えなのかしら。

……股の間にぶら下がっている、その御大層な脳味噌(のうみそ)鞭打ちますよ」

 

 そうかこれが泥男の捕食。

 思わず股間に手をやり、ひゅっと息を()む家元と望月。

 

「い、いきなり何を……いや、これこそお前が藍美ではないという何よりの証ではないか!馬脚を(あら)わしたな出来損ないが!!」

 狼狽(ろうばい)したのも数秒のこと、鬼の首を取ったかのように、喜色も(あらわ)に責め立てる馬久留に、しかし女王藍美は慌てる素振りもなく、その言い分をはっ、と鼻で笑ってみせる。

「貴方こそ。その八面体の中にいる私に対し、『ハァハァ、いつ見ても藍美タンのほっぺたは、馬場に(たたず)黒駒(くろこま)の、キュッと締まったお尻の筋肉のように、(なま)めかしくて素敵だね。あぁ許されるのなら、自分は君に集る蝿を追い払う毛の一本になりたい』と(おっしゃ)らないとは。

如何(いかが)されたんですか」

「おわあああ!!日記にも書いていない心のポエムを何故知っているううぅ!!?」

「昔デートの後に(うまや)で、私の写真と馬のお尻を見比べながら、鼻息荒く自分の世界に浸ってらっしゃったのを、ばっちりしっかり目撃したからに決まっているじゃありませんか。

あ、馬場のスタッフの方含め、複数人と一緒でしたから、証人もおりますよ」

 親切ですよね、今のうちに別れなさいとご心配していただきました、と柔らかく微笑んでいるその手には、繰り返すが鞭がある。

「とても情熱的で、愛されているなと心が震えました」

 当時を思い出したのか、きゃー恥ずかしい言っちゃった、と頬を染め顔を(おお)う女王藍美。

 

 妻の頬を馬のケツに似ていると評する夫と、その夫からの愛情表現を喜ぶ妻。

 なるほどこれが(たで)食う虫も好き好き、割れ鍋に()(ぶた)というやつか。

 こんな実例で納得したくもなかった学びが外野に増えた。

 

「黒駒っていうのは……?」

「鐘有さんが馬主をされている、レース馬である『ビューティフルアーミー』ですね。先日のステークスでも好成績を残している馬です」

「そうなの!?私もそれに賭ければ良かった」

 疑問を口にしたのは御茶屋茶子。つい昨日競馬で五万を溶かしたばかりだ。

 解説は賭け事常連の墓杜芽々。

 何故女性陣は、目の前の光景と会話を聞きながら冷静に世間話と洒落(しゃれ)込めるのだ。女王藍美も大概(たいがい)化け物だが、墓杜と御茶屋も化物であった。

「……ふ、その情報を知っていたのは見事だ。だが、これで終わりではないぞ出来損ない!」

 ショックを振り払うかのように視線を鋭くし、びしぃ!と女王藍美に指を突き付ける馬久留。捨て鉢になったか、言動がもはや悪役そのものだ。

 

「何故ならこの私もまた、偽物……。泥男だからだ!」

「でしょうね。それが今更何か?」

 

 

 ………………。

 

 

「な、何か、って…」

 狼狽(うろた)える馬久留に対し、女王藍美は「男というのはこれだから……」と、頭痛が痛むと言わんばかりにやれやれと首を振りつつも、きちんと説明はしてくれた。

「貴方より先に泥男になっている私が、その可能性に思い至らないわけがないでしょう。

この家で買った女を次々と泥男にして、さらにその女と一緒にいるんですよ。

ちょっと見た目だけ私に似た別の私と、二人っきりの屋根裏で、ナニをしようとしていたのだか」

 御茶屋が「そういえばそうだね別の女の人の身体だね!?」と要点をまとめて口に出してくれたため、男二人は再び、何とも言えない居心地の悪さに(さいな)まれ、こっそり部屋の隅っこに移動し、背景と同化することにする。

「それで?」

「え」

「その事実を自覚してからここへ(こも)っているということは、自分が泥男だと分かり、何もかもがどうでも良くなった、的な事と解釈しても?」

「あ……ああ。まあ、うん……」

 

 きっと自分の耳が変なのだな。望月はそう思う。

 目の前の女王と悪役は夫婦だ。愛し合っている男女だ。

それが(そろ)って泥男になってしまっていた事実が発覚した。

 ならば交わされる言葉は『それでも貴方を愛する私の気持ちは、藍美のものなの』『例え肉体はどうあれ、私が彼女を想う心は(まが)い物などではない』となるべきで、それ以外が聞こえるのは錯覚だ。

 

「今の言葉からして、馬久留、あなたの泥男への認識とは、本人ではなく偽物。

つまり……。

『自分は泥男になるのは嫌だしなる気もないが、妻なら泥男にしてもいいや。

自分の辛さと寂しさを埋めるためなら、妻の人権も心も、無視しても構わないだろう。

妻なんて生き物は、夫が自由にしていいただの道具で玩具(がんぐ)だろ』。

と判断されての行動だったと、そういう事でよろしいですわね」

 

 女王藍美による視点別解説に、墓杜と御茶屋は拍手喝采(かっさい)を送り、家元と望月はもう恋なんてしないと心に誓う。

 夫を見る藍美の目は、最早もう真夏の常温に数日置いた生ゴミでも眺めるかのようだ。

 

 

 くるり。女王藍美は振り返り、御茶屋へ話しかける。

「茶子さん、子供の頃の夢は何でしたか」

「えっ、えぇと。茶子はアイドルになりたかったかな」

 急に話題を振られ、戸惑いつつも素直に答える御茶屋。

「素敵ですね。人間、歩んだ人生や叶えた叶わなかったなどは別の話で、そういった憧れは幾つかありますよね。

私はお姫様になりたかったです」

「「え。今が大人版お姫様」」

 御茶屋と望月はその素直さから正直に口にした。

 墓杜と家元は、喉まで出かかったツッコミを、空気を読んで飲み込んだ。

 女王藍美は馬久留に向き直り、やや落ち着きのある静かな口調で語りかける。

「私……貴方の中では、私は藍美ではないのでしたね、藍美は。生き返ることができたら、またご自分と共に生きてくれる。そう決めつけていませんか、馬久留」

「うおおぉん、捨てないで藍美たん!」

 がしぃ!馬久留が八面体にしがみつく。

 いやそっちかい。家元はぼそりとツッコんだ。

「私から藍美を奪う男は全員殺すう!うわああん!」

「馬久留、私今真面目な話してましたよね。

はいこっちを向く!話している相手の顔をちゃんと見る!」

 そう言いながら女王藍美は、胸の谷間からティッシュを取り出し馬久留に差し出している。

 今度は声を我慢できた外野は思う。愛って偉大だなあ。

「偽物とはいえ仮にも藍美の顔にそのような事を言わせたのは、そこの男二人、お前らか。……いや違うな二人とも印象にも残らんモブ顔だ。

……はっ、分かったぞ。そこのスーツ女、貴様だな!?

藍美は渡さん、せめて馬面になってから出直して来るがいい!」

「芽々は寝不足による(くま)と肌荒れでだいぶ印象が損してるだけで、本来の綺麗さはこんなものじゃないよ!?」

 藍美の次に顔面偏差値が高い墓杜への、一方的な恋敵認定。

 これには墓杜ではなく、御茶屋が本気になった。

 何処から取り出したものやら、指には隈を隠すコンシーラー、肌色をよく見せるトーンアップルースパウダー。

「茶子さん、馬は私にお金をもたらしてくれるかもしれない生き物なので、私よりも美しいですよ」

「駄目だよ芽々。芽々はお馬さんより美人だって分からせてやりたいから、お化粧しよう」

「私はお化粧は不要ですけど、家元さんが一度お化粧を体験してみたいと言っていませんでしたよ」

「!?」

 当て逃げにも程がある。

 ぎょっとした家元は、全力で首を横に振り拒絶の意を示すが、うっきうきになっている御茶屋には見えちゃいない。

「お、やってみるか?虎之介。セーラー襟のチュニックなら、サイズ入りそうなの家にあるぞ」

「さり気なく化粧以外に服装も追加されているでござる!」

 

 ゴミの後始末にてきぱきと動く藍美の手。その間にもぶびんっ、と音がし、馬久留の鼻水と涙が染みたティッシュが追加されていく。

「……私、どうして馬久留が好きなんでしょう……」

「れ、恋愛って、複雑です、ね……?」

 女王藍美の吐いた特大の溜息に、望月はひとまずそれだけ返した。

 

 

 

「馬久留……の、偽物さん」

「ぐ。くそ、そういう呼び方をされるのであれば返事をせざるを得ない。

何だ、藍美の偽物め」

「本物の貴方と、本物の藍美さんとが知り合ったのは、成人してからでしたね」

 急な話題転換ではあったが、なるほどそのとおりの記憶を持つ馬久留は、訝しげに女王藍美を見つめつつも、首を縦に振る。

「では、貴方と知り合った後の藍美であれば、貴方は藍美をご存知なんですよね」

「そうだ」

 横柄に頷いた馬久留へ、女王藍美は「では、聞かせていただけますか」と前置きするや、斬り込んだ。

 

 

「貴方と出会ってから事故死するまでの間に。藍美は何回、瞬きをしましたか」

 

 

 関連性皆無の質問内容に、馬久留を含め、女王藍美以外の全員の脳に、クエスチョンマークが飛び交うが、お構いなしに、女王藍美は畳み掛ける。

「瞬きが難しいのであれば、口にした食パンの枚数や米粒、欠伸の回数、トイレに行った総合計時間などでも構いません。

さあお答えくださいな」

 ピシィ。鞭が床を打ち、カウントダウン開始。

 知らず、馬久留は心臓の位置を手で抑えた。

「藍美が藍美足るには、貴方と出会う前の人生の経験も、人格に影響していますから、当然必要になってきますわね。

題名は忘れましたが、私の心に印象深く残っている絵本をご存じですか。母のお腹の中で聴いていたらしいのです。母や父は沢山の本を私へ胎教として読み聞かせてくれていたので、複数の本が混ざっているのだろうと笑って教えてくれました。

その全ての本の内容を教えてください」

 本能が聞かないことを、理解しないことを選ぶ。

 だが言葉は馬久留の妻の姿をとり、容赦なく彼を解体した。

 

 

「馬久留。

あなたが言う本物の藍美とは、あなただけに認められる必要がある、あなたの都合の良いように作り変えられたナニカ。

泥男ですら、ありはしません」

 

 

 

「黙れ、この偽物めえええっ!!!!」

 

 

 目の前の女王藍美を突き飛ばす。自分の口から出た『偽物』という響きに、馬久留は深く頷いた。

「馬」

「ああ、そうか、そうだったな。私の不幸を願うのは、貴様が藍美の偽物だからだった。

私は藍美を愛している。藍美も私を愛している。愛する者の不幸を願う者などいるものか。

どうだ満足か、偽物め。

私も偽物の仲間入りした上に、もしかしたらいたかもしれない本物も、ただの肉塊に成り果てた。貴様が尽く、他を潰して焼き尽くしたせいだ。

死ね、消えろ、跡形もなくこの世からいなくなれ。

出来損ないの貴様がいるせいで、藍美が生き返らなかったのだ!!」

 ガン、ガン、ガン。

 殴りつける。妻の顔をした泥男という化物を、何度も、何度も。

 その臙脂色の豪腕で、馬久留の頭など簡単に(ほふ)ってしまえる女王藍美は、ただじっと、夫を見つめ続けた。

 拳が叩きつけられ、口が切れ、歯が折れても、ずっと。

 女王藍美にできた傷から出た血と、上から落ちた水とが混ざり、流れ落ちる。その水が、馬乗りになっている自分の目から落ちていると気づかず、(わめ)くだけ喚く。

「くそ、くそ、突然奪われたんだ。突然かかってきた電話で!電話で君が事故に巻き込まれたと!!即死だと聞かされた私の気持ちが分かるか!!!

知りもしないくせに。私の絶望を想像できないような女なのかお前は!」

 独りにしないでくれ。

 置いて逝かないでくれ。

 死が二人を分かつとも、馬久留はあの日、そう誓った。

「藍美、君を愛してる。愛しているんだ、愛しているんだ!

どうして死んだ、何故生き返ってくれない。私と離れ、君は平気なのか!」

 

 

 絶叫。

 

 

 血だらけの手で、今度は己の喉を()きむしりはじめた馬久留の手を、女王藍美はそっと包んだ。

「私は帰ってきましたよ、馬久留」

 つい今しがた自分を殴りつけてきた男の手。藍美にとっては、愛おしい夫の手。

 女王藍美は思う。確かに自分は偽物に違いない。

 愛しているからではすまされない。妻を自分の代用品にしたり、思い通りにならなければ他責をして力で排除しようとしたり。

 最低の男だ。

「私はここにいます。帰ってきました。もっというならここにいる肉塊の全てに宿っています。全て私です。

貴方が認められないのは、貴方自身が、もう理解しているからです。本当はもう、私が死んでしまっているんだって」

「そんなことはない!私は、私が例え泥男になろうとも、藍美が。本当の藍美が戻ってきてくれるのなら、私は!」

 だが、同じだ。藍美は自身をそう断じる。

 

 

(もし、立場が逆であったのなら。私もあなたと同じことをする)

 

 

 もう一度馬久留に会いたい。言葉を交わしたい。ただそのためだけに、人の道を踏み外す。

 だから藍美は微笑む。

 内出血で青黒く腫れ上がり、不格好な化け物の顔で、不敵に。

「自分の死を自分で認めるのは怖かった。自分の生を諦めねばならないと受け入れる決心をしたのは、今からでも覆したい気持ちはあります。でも」

 藍美は、ここまで共に来てくれた四人を思い浮かべた。

 藍美に沢山の勇気をくれた四人。

「御茶屋さんが、私を受け入れてくれました。

望月さんが、私を認めてくれました。

家元さんが、私を否定してくれました。

墓杜さんが、私を見定めようとしてくれました」

 一つ一つ。言う度に女王の虚勢が剥がれかけるのを、腹にぐっと力を入れて、藍美は耐えた。

 

 

「……私は、私の行く末を、私自身で決めていいのだと。

私は私だと、胸を張っていいのだと、気づかせてくれました」

 

 

 死にたくない。素直に心が叫んでいる。

 死なせてほしい。本心からそう願っている。

 どちらを選ぼうとも、愛する人をただただ苦しめる。

 最低で、間違っていて、後悔ばかりがいつまでも尾を引くのだろう。

 

 

 藍美の指先が震えている。

 馬久留は目の前の藍美を見た。今まで見てもいなかったことに、ようやく気がついた。

 本物の藍美ならば絶対にしない、SM女王などというふざけた格好をし。妻と同じ顔をしながら、好き放題に夫の愛情を否定してきた、偽物。

 

 

 それは妻の顔をしていた。

 

 

(──ああ、藍美だ)

 

 

 同じだけだと思い込んでいたのは、馬久留であった。

 馬久留は藍美の上から降り、彼女を起こし、愛する女性の手を、今度こそ掴む。

(藍美だった。君は、最初から。

私も君も、本物だった)

 泥男になった藍美と馬久留。偽物になった藍美と馬久留。

 本当の、藍美と馬久留。

「なら生きてくれ。もういっそ、他の男と再婚しても構わない。

生きて幸せになってくれ。

何でもする。なんだってしてやる。頼むから、お願いだから。

……死なせてほしいだなどと、そんな残酷な事を言わないでくれ」

 殴りつけたせいで、その美貌(びぼう)が見る影もなくなっている藍美の目を見つめ、訴える。

 今度こそ、伝われと。

「あなた」

 名前ではなく、夫を表す呼称で馬久留を呼び。(あご)を片手で支えると、クイ、と持ち上げ(のぞ)き込む藍美。

「貴方と生きたい。この先も生きていたい。他の人の事なんかどうでもいいと、言ってしまいたい。私はここです、帰ってきました。私は居ます。

でも、出来ません」

 

 

 私は貴方の妻だけれど。

 産まれる筈だったお腹の子が、人間を捕食する様をよしとする母には、なれません。

 

 

 誰かが息を呑んだ。

 告げられた内容は、現状を更に絶望へ突き落とす、残酷な事実だった。

「………あの、日。君は、体調不良が続いていて。私は心配で、病院で診てもらおうと」

「ええ。内科に送って行ってくれると言ってくださいましたよね。産婦人科にと思っていましたので、断りましたけど」

「日記を見たんだ。まだ秘密だと。なんのことか分からなかった。聞けないまま、君はいなくなった」

「嬉しかったです。男の子でも女の子でも、貴方に連れられて、馬場で馬に慣れていく我が子の姿を夢想しました」

「これから帰宅すると連絡があった。連絡があったんだぞ、藍美…!」

 

 

 そうして帰路の途中で、彼女と小さな生命は、強制的に終わらされた。

 年間世界で約百三十五万人の中の死亡事故のうちの一つ。たったそれだけの、よくある出来事。

 

 

「お父さん」

 

 馬久留の肩が小さく揺れる。

 

「私達の子供に、言われたいですか。歳下の、知り合ったばかりの方々に尻拭いさせて。お父さんってばかっこ悪い、と」

「……………」

 それでもなお、認められない。諦めきれない。最早どうでもいいのだと投げ捨てたはずの願いが、せめて、我が子にだけでも奇跡をと、目覚めたばかりの父としての心が、馬久留へ訴えかける。

 みっともなかろうが、最低だと(ののし)られようが、全世界を敵に回しても。

 ただ、大切な人の幸せを。

 

 何かを言おうとするも、唇を戦慄(わなな)かせるだけの馬久留の頬を、愛おしそうに数回撫で。

 藍美は、

「いい加減にしなさい。さもなくば、あなたに首輪と鎖を付け。この服装と鞭姿で、昼間に近所を練り歩きますよ」

 ドスの効いた声で、夫の尻に対し、正しい鞭の使い方を行使した。

 

 

 

   ◇

 

 

 

 ドドドドドドドドド。

 墓杜達が屋敷の外へと出てきて間もなく、鐘有邸は、地下に吸い込まれるように崩れていく。

 

 ──女王陛下は四人に丁寧に礼と別れを述べると、馬久留を伴い、母体がいるという更に地下へと続く階段を下って行った。

 この崩壊はおそらく、夫婦の答え……お尻をきちんと拭き終えた結果なのだろう。

 地響きを聞きつけ表に出てきた近所の住人と一緒に、ほけっ、と土煙を眺めながら。四人は、同じ気持ちを胸に抱く。

 

 

 

 今度から、安請(やすう)け合いをしないようにしよう。


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