湯気の立ちこめる浴場。
石の床に、さらさらと湯の音が響いている。
メトーデは別の準備があるらしく、
温泉には後で入ると言っていた。
そのため、一同は先に身体を洗い終え、
湯船の方へ向かっていた。
だが——
洗い場の隅で、まだ一人だけ残っている人物がいた。
長い髪を丁寧に洗っているゼンゼだ。
泡だらけの髪を、静かに指で梳いている。
その横を通りながら、ゼーリエが言った。
「ゼンゼ……先に入っているぞ」
「……はい」
ゼンゼは短く返事をするが、
手は止まらない。
フリーレンが振り返りながら呆れたように言う。
「髪洗うのにどんだけ時間かかってるの……」
ユーベルはもう寒そうに肩をすくめている。
「ゼンゼー、寒いから先入ってるよ〜」
フェルンも軽く頭を下げた。
「ゼンゼ様……私もお先に失礼しますね」
次々と通り過ぎていく一同。
取り残されたゼンゼは、
泡だらけの髪を抱えながら小さく呻いた。
「うう……」
「私も早く入りたいのに……」
必死に髪をすすいでいる。
長すぎるのだ。
とにかく、長い。
◇
その頃、湯船では——
湯気の向こうで、四人がゆったりと肩まで浸かっていた。
「はぁぁ〜〜……」
ユーベルが大きく息を吐く。
「あ〜生き返る〜〜……」
肩まで沈み込み、
だらんと腕を湯に浮かべている。
ゼーリエも目を閉じ、
静かに湯を味わっていた。
「これは……たまらんな……」
低く呟く。
フリーレンは湯を指で掬いながら鼻をひくひくさせた。
「温泉って独特な匂いがするけど……」
「これが、本物の証拠だよね〜」
フェルンも静かに頷く。
「本当に……来て良かったです……」
しばらくの間、誰も喋らない。
ただ、湯の音だけが聞こえていた。
やがて——
ユーベルがぽつりと口を開く。
「武道館ライブ……」
湯に顎を乗せながら続ける。
「まあ色々あったけど、やれて良かったよね……」
フリーレンもぼんやり空を見上げる。
「もう、あのステージが懐かしく感じる……」
フェルンは苦笑した。
「一生分は動いた気がします……」
すると、ゼーリエが鼻を鳴らす。
「ふん……何を言っている」
「我々は、まだまだこれからだ……」
フリーレンが横目で見る。
「意識高いなぁ……」
ユーベルもにやにやしながら言った。
「……そんなこと言っちゃってさ」
「ゼーリエも本当は疲れてたんじゃないの……?」
ゼーリエは目を開ける。
「ふん……」
少しだけ間を置き、
「別に……疲れてないとは言ってない」
ユーベルが肩を揺らして笑う。
「素直に疲れたで良いんだよ……そこはさ……」
フリーレンも頷いた。
「ゼーリエも素直になったら良いのに……」
「……」
ゼーリエは黙り込む。
静かに湯面を見つめた。
武道館の光景が、ふと頭に浮かぶ。
あの日のステージ。
一生懸命に生きた少女。
小さな手で書かれた
『うたのれんしゅうのーと』
少女の、母親の想い。
そして——
果たせなかった約束。
湯気の中で、
ゼーリエは静かに目を閉じた。
するとユーベルが、少し柔らかい声で言う。
「別にさ……」
「一息ついても良いんだよ……今ぐらいはね」
ゼーリエは少しだけ視線を逸らす。
「……善処する」
照れ隠しのように、湯に口をつけた。
ぶくぶく、と小さく泡が立つ。
ユーベルが吹き出す。
「おお、今日は意外に素直じゃん……」
からかうように言う。
ゼーリエがちらりと睨む。
「……黙れ」
だが、どこかいつもより怒気は弱かった。
そして。
洗い場の方から、ぱしゃぱしゃと水の音が止んだ。
やがて、
長い髪をまとめたゼンゼが、
ようやく湯船の方へ歩いてくる。
フェルンが振り返った。
「ゼンゼ様、お疲れ様です……」
ゼンゼはぐったりした顔で頷く。
「……や、やっと洗い終わった……」
心なしか、肩まで落ちている。
フリーレンがじっと見て言った。
「なんか……すごい疲れてるね」
ゼンゼは苦笑する。
「……髪が長いと、こうなるんだ」
それから湯船の方を見る。
ゼンゼは小さく笑う。
「……温泉ですっごい顔が緩んでるよ、フェルン……」
フェルンは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「本当に……すごく、気持ちよくて……」
ゼンゼはゆっくりと湯に足を入れる。
じわり、と熱が伝わる。
そして肩まで沈み込んだ。
「……あぁ……」
大きく息を吐く。
少し目を閉じる。
「この独特な匂い……」
「本物の証拠だ……」
その瞬間。
ユーベルがニヤニヤしながら言う。
「フリーレンと同じこと言ってる……」
フリーレンは腕を組んで得意げに頷いた。
「むふふ……本物の証拠だからだよ……」
ゼンゼも小さく笑う。
「温泉あるあるだな……」
フェルンが湯に手を浸けながら言った。
「ほんとに、身体がポカポカしてますね……」
湯気の中で、頬がほんのり赤い。
すると、隣のゼンゼの顔も——
みるみる赤くなっていく。
「……」
少し眉をしかめる。
「……ダメだ……」
額を押さえる。
「熱さにやられてしまう……」
そして、ふらりと立ち上がった。
ユーベルが吹き出す。
「はっやwwwww」
ゼンゼは少しだけ胸を張る。
「……私は、小まめに分けて楽しむタイプなんだ……」
フリーレンが首を傾げる。
「……にしても早いね」
ゼーリエが鼻を鳴らす。
「……軟弱な奴め……」
ゼンゼはしょんぼりする。
「……すみません」
フェルンが少し体を起こした。
「では、私も熱くなってきたので、
一度おいとまさせてもらいます……」
ゼンゼが振り返る。
「行こう、フェルン……」
「はい、ゼンゼ様」
二人はゆっくりと湯船から上がる。
床に足をつけた瞬間——
湯気の外の空気が、ひんやりと身体を撫でた。
「……ふぅ」
ゼンゼは軽く息を吐きながら、洗い場の方へ歩いていく。
フェルンもその後ろをついていった。
……
五分ほどが過ぎた。
湯気の中で、フリーレンがふうっと息を吐く。
「私もそろそろいいかなぁ……」
肩まで浸かっていた身体をゆっくり起こす。
「じゃあね二人とも、私はあがっちゃうね」
ゼーリエが半分目を閉じたまま答える。
「……ん……ああ、わかった……」
その内心では——
(……私も本当はあがりたいのに……)
(ゼンゼにああ言った手前、
流れで出にくくなってしまった……)
隣では、ユーベルがまだだらんと湯に沈んでいる。
「私はもうちょっと入ってるよ〜」
ゼーリエはちらりと横目で見る。
(……チッ)
(こいつが出たら、私も出るとするか)
フリーレンは縁に手をつきながら振り返る。
「のぼせないようにね〜」
そう言って、
ゆるゆると湯船から上がっていった。
ぱしゃ、と湯の音がして。
浴場には、二人だけが残った。
ゼーリエとユーベル。
静寂。
湯気が、ゆっくりと流れていく。
しばらくの沈黙のあと。
ユーベルがぽつりと口を開いた。
「……あのさ……」
ゼーリエが視線だけ向ける。
「……なんだ」
ユーベルは湯に顎を乗せたまま言った。
「……あの女の子のことだけど……」
その瞬間。
ゼーリエの動きが止まる。
「……」
何も言わない。
ユーベルは続ける。
「ゼーリエは……頑張ったと思うよ……」
ゼーリエが眉をひそめる。
「……なんだ、いきなり」
ユーベルはくすっと笑う。
「……顔に書いてあるから」
ゼーリエは黙ったまま、水面を見つめる。
湯気の向こうで、水がわずかに揺れていた。
ユーベルが小さく肩をすくめる。
「生きてたら、そういうこともあるよ……」
ゼーリエは鼻で笑った。
「ふん……」
少し苦々しい笑みを浮かべる。
「私はお前の何十倍、何百倍も生きているのだぞ」
ユーベルはその顔を見て、ふっと微笑む。
「……長く生きてても、慣れてないんだね……」
ゼーリエの目が細くなる。
そして、小さく鼻を鳴らした。
「……慣れてたまるか」
ユーベルはその顔を見て、ふっと笑う。
「……思ったよりまともで安心したよ」
ゼーリエがじろりと睨む。
「……ふん、お前こそ」
ユーベルが首を傾げる。
「ん、私……?」
ゼーリエは腕を組み、少しだけ呆れたように言った。
「……この際、言うが」
「危なそうな感じを出してたのは序盤だけで、
其の実、ただのイジりキャラではないか……」
ユーベルが一瞬、黙る。
湯気の向こうで、目を細めた。
「……」
そして、ぽつりと口を開く。
「ゼーリエ……それはね……」
少しだけ間を空ける。
ユーベルの表情がぎこちなくなった。
「メタだよ……」
沈黙。
妙に気まずい空気が流れる。
湯気だけが、ゆっくりと揺れていた。
ゼーリエは小さく目を閉じる。
(……そろそろ、本当に熱くなってきた……)
頬もじんわりと熱い。
しかし、ここで先に出るのも癪だった。
ゼーリエは横目でユーベルを見る。
「……貴様、風呂からいつあがるんだ」
ユーベルは湯に顎を乗せたまま、のんびり答える。
「んー……もうちょっとかなぁ」
「お風呂長いんだよねー私……」
ゼーリエは小さく頷く。
「……そうか」
しかし内心では、かなり限界に近い。
(……まだだ)
(ここで出たら、負けた気がする……)
するとユーベルがくすっと笑った。
「……熱いなら、あがったら?」
「顔、真っ赤だよ……」
にやにやしている。
ゼーリエが睨む。
「……うるさい、黙っていろ」
ユーベルは肩を揺らして笑った。
「……ふふ、はいはい……」
……
さらに——
十分後。
湯気の中で、ユーベルがとうとう眉をひそめた。
「ゼーリエ、やばいってほんと……」
さっきまでの軽口とは違い、
少し本気で心配している。
「もう、そういう顔色の人みたいになってるって……」
若干、引いていた。
ゼーリエは、
ぐったりと湯に浸かったまま動かない。
「……」
やがて、かすれた声で言う。
「貴様は……いつになったらあがる……」
ユーベルは湯に顎を乗せたまま答える。
「んー……あとちょっとかなぁ……」
その言葉を聞いた瞬間。
ゼーリエの意識が、ふっと遠のく。
(こ、こいつ……)
(早く出てくれ……)
しかし、
ここまで来て先に出るのも癪だった。
ゼーリエは必死に言い返す。
「……私も……まだ……大丈夫だ……」
ユーベルは呆れたように肩をすくめた。
「……どうなっても知らないよ」
——さらに、十分後。
◇
畳の上。
ゼーリエが仰向けで寝かされていた。
顔は真っ赤。
完全にのぼせている。
その横で、
ゼンゼがタオルを水で濡らし、額を冷やしていた。
「ゼーリエ様……大丈夫ですか……」
ユーベルは腕を組んで笑っている。
「この人意地はるんだもんwww」
フリーレンは呆れた顔で言った。
「……だから、のぼせるって言ったのに」
フェルンがうちわをぱたぱたと動かしている。
「……すっごい、全身真っ赤ですね」
風がふわりと当たる。
ゼーリエはうっすらと目を開けた。
「……ゼンゼ……水……」
ゼンゼはすぐに頷く。
「ゼーリエ様、どうぞ」
コップを差し出す。
ゼーリエはふらつく手でそれを受け取り、
ゆっくり水を飲んだ。
ごく、ごく。
少しだけ息をつく。
しかし、体を起こそうとした瞬間——
「……うう」
顔をしかめる。
「顔を起こすと……視界が……上下に……」
ぐらり、と天井が揺れる。
ユーベルが吹き出した。
「私の何百倍も生きてるのに、
そこも慣れてないんだねwww」
ゼーリエがうっすらと睨む。
「……ユーベル、黙れ……」
その時——
部屋のドアがすっと開いた。
戻ってきたのはメトーデだった。
手には、しっかりとカメラを構えている。
「皆さん、そろそろお食事に……」
そう言いかけて——
ふと、
部屋の中央に視線が止まる。
畳の上。
真っ赤な顔で寝かされているゼーリエ。
メトーデが目をぱちぱちさせた。
「あら、ゼーリエ様……」
「のぼせられました……?」
ゼーリエはうっすらと目を開ける。
「……のぼせていない……」
すぐ横から、ユーベルが爆笑した。
「いや、どう見てものぼせてるからwww」
腹を抱えて笑っている。
メトーデはくすくすと笑った。
「あらあら……ふふ……」
そして、ゆっくりとゼーリエのそばへ歩み寄る。
「私が治療して差し上げます……」
そのまま膝をつき——
そっと、ゼーリエの頭に手を置いた。
なで……なで……
ねっとりと、ゆっくり撫で始める。
ゼーリエが薄く目を開けた。
「……これが……治療か……?」
メトーデはにこやかに頷く。
「はい……」
なで……なで……
ゼーリエの髪を丁寧に撫で続けている。
ゼーリエは顔をしかめた。
「……すごく鬱陶しいんだが……」
しかし、
のぼせているせいで抵抗する気力もない。
されるがまま。
メトーデはそのまま顔を近づけ——
ゼーリエの頭に頬ずりする。
「ゼーリエ様、元来治療とは鬱陶しいものです……」
すりすり。
ゼーリエは完全に嫌そうな顔になった。
「……」
部屋の隅からフリーレンがぼそっと言う。
「……多分違うと思う」
——そこでようやく。
メトーデが軽く手をかざす。
淡い光がふわりとゼーリエの額を包み込み、
体にこもっていた熱がすっと引いていく。
「……はい、これで大丈夫ですよ」
メトーデがにこやかに言った。
ゼーリエはゆっくりと体を起こす。
「……ふう」
さっきまでのぐらつきは、
だいぶ収まっていた。
……
部屋では、
夕食の準備が整うのを待ちながら一同がくつろいでいる。
メトーデは先ほど撮った写真を確認して、
満足そうに頷いた。
「撮れ高でしたね……」
妙にツヤツヤしている。
フリーレンが苦笑した。
「ちゃんと仕事もしてるんだ……」
フェルンも感心したように言う。
「メトーデ様、流石お仕事への抜かりがないですね」
メトーデは嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、これでもしっかり楽しませてもらってますよ……」
フリーレンは肩をすくめる。
「……勿論、それは知ってる」
その横で、ユーベルが畳にごろんと転がった。
「ご飯まだかな〜」
ゼーリエが腕を組んで聞く。
「……食事は何が出てくるのだ」
ゼンゼが少し考えて答えた。
「おそらく、旅館であれば和食ではないでしょうか……」
その言葉を聞いた瞬間。
ゼーリエが目を細める。
「やはり、“和”か……」
どこか意味深に頷く。
フリーレンはきょとんとしていた。
「でも、和食って何が出てくるんだろうね……」
「予想もつかないよ……」
本当に何も知らなそうな顔で首を傾げている。
ゼーリエがじっとりと視線を向けた。
「……」
「何も知らんではないか、貴様……」
フリーレンは胸を張る。
「ふふん、ゼーリエ」
「さっき言ったでしょ?」
少し得意げな顔で続けた。
「“和”はね、雰囲気で感じるものなんだよ……」
相変わらず意味不明だ。
フェルンが呆れた声を出す。
「それにしても、
フリーレン様は“和”について何も知らないんですね……」
フリーレンは真顔で答えた。
「知ることがむしろ冒涜になるんだよ、フェルン」
フェルンは即座に返す。
「本当に何を言ってるんですか、この人……」
ゼーリエはこめかみを押さえながら呟いた。
「誰か、このエルフを黙らせろ……」
ユーベルが畳の上でごろりと寝転びながら言う。
「お酒が楽しみだね〜」
フリーレンもすぐに乗ってきた。
「お、いいね〜」
「1000年生きた魔法使いが暴れちゃうよ〜」
フェルンが即座に釘を刺す。
「暴れないでください。」
メトーデが思い出したように口を開いた。
「女将さんから聞きましたが、
美味しい地酒を出してくださるそうですよ」
ユーベルがぱっと顔を上げる。
「おー良いねぇ〜」
フリーレンも嬉しそうに頷く。
「それは、期待できそうだね」
ゼーリエが腕を組んで鼻を鳴らす。
「ふん、お手並み拝見だな……」
そう言いつつ、
少しだけ口元が緩んでいる。
明らかにワクワクしていた。
ゼンゼが静かに相槌を打つ。
「……そうですね」
だが、心の中では少しだけ考えていた。
(酒かぁ……)
(普段あまり飲まないんだよな……)
そんなことを思いながら、
湯上がりの空気の中で食事を待つのだった。
——そして。
この後、誰も予想していなかった。
一番静かな人物が、
一番とんでもないことになるとは。
【次回】
ゼンゼ、暴れる。