ある日——
ゼーリエが玉座の間で、
大陸魔法協会の執務に追われていた時だった。
高い天井。静まり返った空気。
規則正しく積み上げられた書類の山。
その中心で、ゼーリエは一人、
淡々とペンを走らせている。
……カリ、カリ、と。
乾いた音だけが響いていた。
(……終わらん)
内心で舌打ちする。
アイドル業。大陸魔法協会の統括。
どちらも中途半端にはできない立場だ。
当然、皺寄せは来る。
「……面倒だな」
小さく呟いた、その時だった。
扉が、控えめに叩かれる。
「ゼーリエ様、ご勤務中に申し訳ございません……」
「……なんの用だ」
顔も上げずに返す。
短く。冷たく。
それだけで、相手がどれだけ萎縮するか——
ゼーリエ自身が一番よく分かっていた。
もはや、苛立ちを隠すつもりなかった。
視線を上げると、
そこには若年の魔法使いの青年が立っていた。
背筋は伸びている。
だが、指先はわずかに震えている。
「わ、私は……」
言葉が詰まる。
喉が鳴る。
「ゼーリエ様の大ファンでして……」
やっとの思いで絞り出した声は、
か細く震えていた。
(……慣れていないな)
アイドルとして経験を積んだゼーリエには、
それが一目で分かった。
それでも、目だけは逸らさない。
逃げずに、ここまで来たのだろう。
「……ほう」
興味なさげに返しながらも、ほんの僅かにペンを止める。
「それで用件はなんだ」
再び書類に目を落としたまま、ぶっきらぼうに問う。
すると——
青年は、おずおずと一枚のTシャツを取り出した。
両手で、大事そうに。
「こ、これにサインをしていただけないでしょうか……」
差し出されるペンとTシャツ。
手が、震えている。
ゼーリエは一瞬だけそれを見つめ——
(……普段なら断るが)
業務中のファンサービスは原則禁止。
規律の問題もあるし、何よりキリがなくなる。
だが。
(……少し、気分転換も必要か)
積み上がった書類に視線をやり、
わずかに息を吐く。
「ふん、今日は特別だぞ」
手を伸ばし、Tシャツを受け取る。
「本来、仕事中は断っているんだがな——」
軽く布を広げる。
その瞬間——
ゼーリエの手が、止まった。
……。
思考が、止まる。
次の瞬間。
「な……なんだ、これは……!!」
空気が震えた。
見る見るうちに、
額に青筋が浮かび上がる。
そのTシャツにプリントされていたのは——
『うんこボカーン!!』
大きく、主張の強い文字。
そしてその背後には——
親指を立て、
妙に爽やかな笑顔を浮かべる“ゼーリエ自身”
どこのシーンから切り抜いたのか——
いや、そんなことはどうでもいい。
……考えられる限り、
最悪のデザインだった。
(あの件か……)
脳裏に蘇るのは、
アカウント乗っ取り事件。
意味不明な投稿の連投。
そして、その中でも特に悪目立ちしていたこの文言。
解決はした。
原因も突き止めた。
だが——
一度広まったものは、簡単には消えない。
未だにSNSでは擦られ続け、
ゼーリエ自身も幾度となく応戦する羽目になっていた。
「貴様、こんな物を作って……」
声が低くなる。
「私を馬鹿にしているのか……!!」
怒気が、空気を押し潰す。
すると——
「ひっ……」
青年が小さく悲鳴を漏らした。
顔面は蒼白。
肩は震え、今にも崩れ落ちそうだ。
「こ、これアークアルカナの公式サイトで買ったんです……」
必死に言葉を繋ぐ。
「な……なんだと……?」
ゼーリエの拳が、ぎしりと音を立てる。
怒りに震えながらも、話を促す。
「なんか、数量限定って書いてて一瞬で完売したんですけど……」
「偶然、公式サイトを徘徊してたら買えまして……」
一呼吸。
そして——
「大事な、宝物なんです……」
ぽつりと。
その言葉には、嘘がなかった。
恐怖の中でも消えない、確かな熱。
目には涙が浮かびながらも——
どこか誇らしげですらあった。
……。
ゼーリエは、額に手を当てる。
目を閉じる。
(……なるほどな)
この手のことをやりそうな人物は、
一人しかいない。
あの、悪びれもしない顔が脳裏に浮かぶ。
(ユーベルか……!!)
ほぼ、確信する。
すぐにペンを走らせ、
Tシャツにサインを書く。
乱暴に見えて、
線は一切ブレていない。
「持っていけ」
押し付けるように返すと、
「は、はい……!」
「ありがとう……ございました……!」
青年はそれを抱きしめるように受け取り、
丁寧にお辞儀をする。
そして。
逃げるように玉座の間を後にした。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
……しかし。
ゼーリエの中の怒りは、
むしろ増していた。
「くそ、ユーベルめ」
「ふざけた真似を……」
低く呟く。
次の瞬間、
スマホを手に取る。
迷いはない。
ユーベルの名前を呼び出し——
勢いのまま、メッセージを打ち込んだ。
◇
(個人チャット)
ゼーリエは玉座に座ったまま、
スマホを握りしめる。
指先に、わずかに力が入る。
画面をタップする音だけが、
やけに激しく響いた。
⸻
ゼーリエ
『ユーベル』
『貴様、どういうつもりだ』
——
一拍。
既読がつく。
⸻
ユーベル
『え、いきなりどうしたの?』
⸻
ゼーリエ
『Tシャツのことだ』
⸻
ユーベル
『ん?Tシャツ?』
⸻
(……コイツ、とぼける気か)
眉間に皺が寄る。
⸻
ゼーリエ
『“うんこボカーン”と
書いてあるTシャツのことだ……!!』
⸻
送信。
……数秒。
やけに長く感じる沈黙。
⸻
ユーベル
『あぁーちょっと前に出したやつね』
『気づいたんだ』
『あれ、可愛くない?』
⸻
その一文で。
何かが、ぷつりと切れた。
⸻
ゼーリエ
『ふざけるな!』
『可愛くない!!』
⸻
即座に返す。
もはやタイピングというより、
叩きつけている。
⸻
ユーベル
『だいぶ怒ってるじゃんwww』
⸻
ゼーリエのこめかみが、
ぴくりと動く。
⸻
ゼーリエ
『当たり前だ!』
『非公式ならばまだしも、
あれを公式が販売するのは違う……!!』
⸻
ユーベル
『そう言われると思って、
十枚しか作ってないんだけど』
⸻
(こ、コイツ……!!)
⸻
ゼーリエ
『数の問題ではない!』
⸻
ユーベル
『えー、じゃあもっと大量に作ってよかったの?』
⸻
……。
一瞬。
本気で殺意がよぎる。
⸻
ゼーリエ
『貴様』
『ころすぞ』
⸻
ユーベル
『もう、わがままだなー』
⸻
(わ、わがまま……だと……?)
⸻
ゼーリエ
『この、人でなしめ……』
⸻
ユーベル
『人でなしってwwww』
『まあ、少量だし良いじゃんか』
『幻のグッズってことでさー』
⸻
画面越しでも分かる。
まるで悪びれていない。
⸻
ゼーリエ
『貴様、覚えていろ』
⸻
ユーベル
『はーい』
◇
……。
スマホの電源を落とし、
暗くなった画面を睨みつける。
「やはり、ユーベルだったか……!!」
ゼーリエの拳が、
玉座の肘掛けに強く突き刺さる。
鈍い衝撃。
乾いた音が、
静まり返った広間に長く尾を引いた。
「……ふ、ふざけた真似を」
低い声。
怒りは、
まだ消えていない。
胸の奥で、確かに燃えている。
だが——
その炎の奥で、
別の何かが静かに形を取り始めていた。
冷たい。澄んだ。
そして、はっきりとした“意志”。
「ふ、ふふ……」
「そうだ、良いことを思いついたぞ……」
ぽつりと、零れる。
「我ながら、恐ろしいほどの妙案だ……!!」
独り言のはずなのに——
やけに、はっきりと響いた。
静かに。
あまりにも静かに。
だからこそ——
不気味だった。
口元だけが、ゆっくりと歪む。
ニタリ、と。
その笑みは、
先程までの怒りよりもよほど危険で。
まるで——
逃げ場を見失った獲物を、
じわじわと追い詰める捕食者のようだった。
その時——
「ゼーリエ様、失礼します……」
「この前の会議の件で——」
扉が開く。
足音が、数歩。
ゼンゼが玉座の間へと入ってくる。
そして。
一歩、踏み出したところで——
止まった。
視線の先。
玉座に座るゼーリエ。
その“表情”を見た瞬間。
背筋に、冷たいものが走る。
「——なんだ、ゼンゼ」
名前を呼ばれる。
それだけで、肩が跳ねた。
「あ、いや……その——」
言葉が、出てこない。
完全に——
タイミングを誤った。
本能が、警鐘を鳴らしている。
(今は——駄目だ)
だが、引き返すには遅すぎた。
「ふん……
だが、良いところに来た」
ゼーリエが、ゆっくりと笑う。
口元だけで。
目は、一切笑っていない。
ゼンゼの嫌な予感が、
確信へと変わる。
「な、なんでしょうか……」
恐る恐る、問い返す。
声が、わずかに震えていた。
「Tシャツを作る……」
「……へ?」
理解が、追いつかない。
だが——
次の一言で、全てが決まった。
「逆襲の始まりだ……」
低く、はっきりとした声。
「あの、人でなし女へのな……!!」
否応なしに、
巻き込まれる響きだった。
ゼンゼは、何も言えない。
そして、何も理解していない。
ただ、立ち尽くす。
「ゼンゼよ、
こんな感じのデザインのTシャツを作ろうと思う」
すらすらとペンが進む、
そこには迷いが一切なかった。
やがて、書き終わり紙が差し出される。
恐る恐る、受け取るゼンゼ。
ゆっくりと、
視線を落としていく。
そして。
「しょ、正気ですか……」
思わず、口に出ていた。
心の声が、そのまま漏れる。
ゼーリエが、小さく鼻を鳴らす。
「……ふん、私は常に正気だ」
一切の迷いなく、言い切る。
それが、余計に恐ろしい。
「生産数は——」
ゼーリエが、ゆっくりと手のひらを広げる。
一秒。
二秒。
無駄に長い“間”。
「5000枚でいく……!!」
断言。
躊躇は、ない。
「ぜ、ゼーリエ様……」
「その数はさすがに……」
ゼンゼの声は、弱い。
当然だ。
止めなければならない。
だが——
止められない。
ゼーリエのこめかみが、
ぴくりと動く。
強大な魔力が一気に溢れ出し、
ゼンゼの小さな体をあっという間に包み込む。
一瞬で——
空気が、変わる。
「ゼンゼよ」
「は、はい……」
反射的に返事をしてしまう。
逃げ場は、もうない。
「やれ」
短く。
冷たく。
それだけで、十分だった。
体が、強張る。
まさに——
蛇に睨まれた蛙。
「か、かしこまりました……」
逆らうという選択肢は、
最初から存在しなかった。
「デザインについては、
後で私が細かく指示する……」
「これは——」
一瞬、言葉を切る。
そして。
「大陸中が熱狂するに違いないぞ……!!」
確信に満ちた声。
その確信こそが、一番危険だった。
次の瞬間。
「……ふ、ふふふ……」
ゼーリエの抑えきれない笑いが漏れる。
やがてそれは、玉座の間に広がっていく。
不気味な笑い声が、壁に反響する。
逃げ場は——ない。
ゼンゼは、ただ立ち尽くすしかなかった。
やがて。
ゆっくりと、息を吐く。
胃の奥が、じくじくと痛む。
「……ま、またか……」
小さく呟く。
誰にも届かない、諦めの声。
……いや。
これは、“また”とかではない。
むしろ——
慣れている。
(この感覚……懐かしいなぁ……)
遠い目になる。
苦労人、ゼンゼ。
彼女の悩みは——
これから、さらに加速していく。
これは——
まだ、その序章に過ぎなかった。