きっかけは——
些細なことだった。
アーク・アルカナで温泉旅館に行った時、生魚の美味しさに触れた。
それは……
悠久の時を生きてきたゼーリエにとって、かつてないほどの衝撃だった。
魚を火にかけずに食べるなど、常識外れだ。
腹を壊してしまう。
だが、そんな認識はいとも簡単にひっくり返った。
「ふん、生魚か。……なかなか悪くないな」
口では余裕ぶっていた。
王とは、常に余裕を保っているものだ。
……実際は、大いなる多幸感に包まれていた。
仲間に囲まれ、酒を煽り、食を堪能する——
武道館ライブや日々の仕事の疲れが吹き飛ぶようだった。
――だが、これがゼーリエにとって悲劇の始まりだった。
⸻
ある日の深夜。
――パチリ。
最近では、ゼーリエは深夜になるとパチリと目を覚ます癖がついていた。
協会の職員たちが床に就き、誰もいなくなったのを見計らう。
そして、食堂の冷蔵庫へ静かに向かっていく。
……
…………
「……なんだ、これは」
ゼーリエが怪訝そうに食材を手に持って見つめる。
裏返すと、食堂の職員が貼ったであろうラベルに食材名と消費期限が記載してあった。
「なになに……ほ、ホルモン?」
「ふむ、初めて見る食材だな」
「肉なのだろうが、あまりよくわからんな。」
「よし。………とりあえず、焼くか」
慣れた手つきで魔法の火を使い、フライパンを熱する。
肉の香ばしい匂いが、ゼーリエの鼻をつんざく。
……ゼーリエは、あれから色々な食事を試すようになっていた。
深夜に一人で、こっそりと。
⸻
ゼーリエが夜食を覚える前……
給仕係の職員が食事を運んできた時のことだった。
「……おい、貴様」
「はい、ゼーリエ様……なんでしょうか」
コイツとの付き合いも、今では長くなった。
最初の頃はビクビクしてばかりで初々しかったのに、今ではすっかりツンケンとしている。
人とは短い期間でこうも変わるものなのかと、改めて感心する。
「もうちょっと……食事のバリエーションを増やせないのか?」
「同じ物ばかりで、流石に飽きてきたんだが……」
ゼーリエが神妙な顔で物申す。
……うんざりするほど、毎回同じメニューだった。
だが、給仕係の女は真顔で返す。
「恐れながら――以前に、レパートリーがあった方が良いのではないかと進言させていただきましたが……」
「食事など、同じ物で構わない。胃の中に入れば何も変わらない。」
「お前は——黙って食事を持ってくれば良い。」
「――以前、ゼーリエ様がおっしゃっていた言葉です」
ぺこりと頭を下げると、何事もなかったかのように去っていく。
ゼーリエが目を丸くする。
(……しまった。そう言われた時、機嫌が悪くて辛く当たってしまったんだった)
(それにしても……なんて可愛くない奴だ。私が、ここの長だということを知っている人間とは決して思えん)
(チッ、まあいい……)
こうなったら、道は自分で切り開くしかないか。
……
給仕係にかまされたその後、夜食が食べたいとゼンゼをスマホで呼びつけた。
直前まで寝ていたであろう彼女は、眠そうな目を擦りながら苦言を呈する。
「……ゼーリエ様、私を頼っていただけるのは嬉しいのですが」
「お夜食ぐらいは、自分でなんとかしてもらわないと困ります……」
ゼーリエが、額にピキリと青筋を走らせる。
「では……私に飢えて死ねというのか?」
魔力を解放し、チラつかせる。
だが——
ゼンゼはものともしない。
「……ゼーリエ様、私はそうは言っておりません」
「聴いた話ですが……協会職員で、且つ役職に就いている者であれば食堂にある食材は自由に使用して良いということです……」
ゼンゼが「ふわぁ……」と大口を開けそうになるが、慌てて口元を手で覆い誤魔化す。
「ところでゼーリエ様……お料理はされたことがありますか?」
ゼンゼの質問に、ゼーリエが即答する。
「ふん、あるわけがないだろう。」
「……と言いたいところだが、かつて旅をしていた頃は自炊をしていた。……まあ、煮るか焼くかしかしてなかったが」
ゼーリエが腕を組み、頷きながら懐かしそうに語る。
「そうですか……」
ゼンゼが頷く。
「それで、十分です。」
「それでは……今から食堂に行きましょう」
……
…………
「ふん、食堂とは初めて入ったが……なかなか広いのだな」
キョロキョロと中を見渡すゼーリエ。
「ゼーリエ様、冷蔵庫はこちらです……」
ゼンゼに着いていくまま、食堂の奥へと進んでいく。
……
ゼンゼが小柄な上半身を大きな業務用冷蔵庫に突っ込んで食材を探す。
「うーん……あ、ゼーリエ様。こちらはいかがですか」
彼女が取り出したのは、やたらと厚みのあるステーキだった。
「うむ……肉か」
ゼーリエは顎に指を当てて唸る。
「今から脂っこいものはなぁ……なんかもうちょっとあっさりしてて、且つ腹に溜まるものが良いんだが」
ゼーリエの要望に、ゼンゼが一瞬だけ眉を顰める。
だが、それを誤魔化すように、再び冷蔵庫へ体を突っ込む。
「……あ、これなんかどうでしょう」
ゼンゼが冷蔵庫の奥から取り出したのは、一尾の魚だった。
「……魚か?」
「はい……。焼けば脂っこくもありませんし、身もそれなりにあります」
「……ふむ」
ゼーリエが魚をじっと見つめる。
「これなら良いかもしれんな」
「では、こちらを――」
「まあ待て、ゼンゼ」
「はい?」
「……せっかくだ。もう一品ぐらいあってもいいんじゃないか?」
ゼンゼがぴたりと動きを止める。
「もう一品……ですか?」
「ああ」
「……ゼーリエ様。先ほど『あっさりしていて腹に溜まるもの』と仰っていましたが」
「うむ、言ったな」
「魚一尾で十分なのでは?」
「…………」
ゼーリエが冷蔵庫を覗き込む。
「……野菜は?」
「ありますが」
「ふん、ならそれも使うぞ」
「はい」
「それと……」
「それと?」
「米はあるか?」
「…………あります」
「なら、炊こう」
ゼンゼが無言になる。
「……ゼーリエ様」
「なんだ」
「夜食ですよね?」
「そうだが?」
「……随分と本格的ですね」
「ふん、何を言っている」
ゼーリエは鼻を鳴らした。
「私は、腹を満たせればそれでいい」
「……ならば、品数など増やす必要はないのでは?」
「…………」
ゼーリエが黙り込む。
「……魚だけでは、少し寂しいだろう」
「…………」
「何だ、その顔は」
「いえ……」
ゼンゼは小さく息を吐いた。
「では、準備しましょうか」
「ああ」
こうして、その日の夜。
焼き魚。
野菜の煮物。
そして炊き立ての白米。
三品の夜食が完成した。
「……」
ゼーリエは卓上に並んだ料理を眺める。
「…………」
「どうされました?」
「いや」
箸を手に取る。
「……うむ、悪くないな」
一口。
魚を食べる。
もう一口。
白米を食べる。
そして、また魚。
「……ふむ」
ゼンゼが横から様子を見ている。
「どうですか?」
「…………」
「ゼーリエ様?」
「……美味いな」
ぽつりと呟いた。
その声には、普段のような尊大さがなかった。
ただ、純粋に食事を楽しんでいる人間の声だった。
「そうですか」
ゼンゼが少しだけ微笑む。
「それはよかったです」
「…………」
ゼーリエは黙々と箸を進める。
魚。
野菜。
米。
また魚。
そして――
「……ゼンゼ、おかわり」
「はい?」
「米だ」
「……まだ食べるんですか?」
「腹が減っているんだから仕方ないだろう」
「お夜食ですよ……?」
「ふん……だから何だ」
ゼーリエは少しだけ頬を膨らませる。
「……今日はよく働いたんだ」
「そうですか……」
「それに……食事というものは、こうして自分で作ると意外と悪くない」
(……ほぼ、私が作っていたんですが)
ゼンゼは黙って茶碗を受け取った。
「こちら、どうぞ……」
「うむ」
二杯目。
三杯目。
気がつけば、魚は骨だけになっていた。
――この日からだった。
ゼーリエが、夜食というものを覚えたのは。
最初は週に一度。
「……少し腹が減ったな」
そう言って、食堂へ向かった。
それが週に二度になり。三度になり。
やがて――毎晩になった。
魚を焼く。
肉を焼く。
野菜を煮る。
米を炊く。
時には昼間に見つけた珍しい食材を、わざわざ夜まで取っておくことさえあった。
「……よし、これは夜に食べよう」
そんなことを言いながら。
そして、ゼーリエはまだ気づいていなかった。
以前よりも明らかに、食事を楽しみにしている自分自身に。
そして――
ほんの少しずつ。
身体にも変化が現れ始めていることに。
⸻
「……失礼いたします。」
「ゼーリエ様、こちらの書類のご確認を――」
昼間。
ゼンゼが玉座の間に入り、そこまで言いかけた時。
彼女は、あることに気づいた。
……いや、気づいてしまった。
「ん?……なんだ、ゼンゼよ」
ゼーリエはハンバーガーを片手に仕事をしていた。
口の周りにケチャップをつけて、モグモグと。
……いや、違う。
そこじゃない。
いや、そこもだけど。
以前よりも、明らかに――
「…………」
ゼンゼは何も言わなかった。
ゼーリエが仕事をしながらハンバーガーを頬張る姿を、不自然なほど凝視してしまう。
「…………ゼーリエ様、こちらの書類にお目通しいただけますでしょうか」
言葉がやっと喉を過ぎていく。
ゼーリエが手を伸ばし、書類を受け取ろうとする。
……手も、以前よりもモチっとしている気がする。
「うむ……次のツアーライブの会場候補か」
「はい、協会スタッフと打ち合わせしましたので、問題がなければこちらの日程で押さえていこうかと……」
傅いて、なるべくゼーリエの姿を目に入れないようにする。
……ダメだ。
違和感を感じるな。
変に突っ込まれたら、何を言われるかわかったものじゃない。
ゼーリエが神妙な表情で書類を眺めている。
その時――
「ゼーリエ様、配達員からお届け物です」
男の声が扉の外から聞こえる。
「おお……やっときたか。ゲナウよ、入れ」
ゼーリエがそう言うと……
ゲナウがいつもの沈着な表情で、香ばしい匂いのする紙袋を両手にいくつか抱えて入ってくる。
……結構な量だ。
これ、全部ゼーリエ様が一人で食べるんだろうか。
「ゼーリエ様、いつも通りこちらに置いておきます」
玉座の横のスペースに、ゲナウがやけに手慣れた様子で袋を置いていく。
……あれ。
そういえば、見ない間に電子レンジやら炊飯器やら冷蔵庫まで設置されている。
玉座の間の仰々しさに、それらは明らかに違和感をもたらしていた。
ゼーリエは紙袋に一度も目をくれず、
「うむ、感謝する」
そのまま書類を読み進めていく。
紙袋を置き終わったゲナウが、そそくさと扉へ歩いていく。
「ではゼーリエ様……私はこれで」
一度振り向いて軽く会釈し、玉座の間を後にした。
「ぜ、ゼーリエ様……私もこれで失礼いたします」
ゼンゼが彼の後を追うように部屋から出ていく。
――ガチャリ。
扉が閉まった瞬間。
ゼンゼはゲナウの元へ駆け足で歩いていった。
「ねえ、ゲナウ。ゼーリエ様のあれ、なんなの……!?」
真っ青な顔で話し掛けるゼンゼに、ゲナウが無表情で答える。
「……知らん」
「し、知らないって……。だって……!」
ゼンゼの言葉に、ゲナウが一瞬だけ視線を移す。
「ゼンゼ……俺たちは、何も見ていない」
「……」
「俺たちは……何も、知らない」
「……」
「いいな?」
ゲナウは、頑なだった。
……だが、これが最善手なのかもしれない。
ゼンゼは小さく頷く。
「うん……私は、何も見ていないし、知らない」
「……それでいい」
ゲナウはそう言うと、そのまま自室へ入っていった。
…………今思えば。
この時点で——
無理矢理にでも、彼女を止めていた方が良かったのかもしれない。
だが――
崩壊は、もう始まっていた。
そしてそれは……誰にも止められないまま。
少しずつ、少しずつ。
ゼーリエの生活そのものを、蝕んでいった。
現状、好きな要素を教えてください。
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アーク・アルカナ
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カンラヴィ(姉妹グループ)
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どっちも