死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

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第一話 市場の少年と禁断の光

 

 朝露が草葉に宿り、まだ白んだばかりの空の下、レンは屋根裏から飛び出した。

 

 荷物袋が肩に食い込む。ブーツの紐がほどけかけている。それでも彼の顔には、にやりとした笑みが浮かんでいた。

 

 「また寝坊した!」

 

 叫びながら坂道を駆け下りる。アルデン村の石畳は朝露で濡れており、曲がり角のたびに靴底が滑る。二度こけかけ、三度目はちゃんとこけた。膝を打って「いたたた」と呻いたが、立ち上がる頃にはもう走り出していた。

 

 レン・マグナス、十七歳。アルデン村の薬師の見習いで、村一番の朝寝坊としても名が通っている。身長はそこそこ、体つきは細めだが、長年の薬草採取で足腰だけはやたら鍛えられていた。茶色の癖毛は今日も爆発しており、ベルト一本忘れてきたズボンは今にも落ちそうだ。

 

 「レン! 今日の薬草はどこへやった!」

 

 背後から師匠のヤナ婆さんの怒声が飛んでくる。

 

 「昨日の夜のうちに袋に詰めておきましたよーっ!」

 

 「あんたの袋の詰め方じゃ中身がぐちゃぐちゃだろうが!」

 

 「それも含めて愛嬌ですーっ!」

 

 返事がわりに何かが飛んできた音がしたが、もうレンは坂を下りきっていた。

 

 

 

 アルデン村の朝市は、いつも活気があった。

 

 野菜売りの威勢のいい声。鍛冶師が叩く鉄の音。香辛料の屋台が漂わせる異国の匂い。そして、中央広場の噴水のそばでは、今日も旅人たちが地図を広げて何やら話し込んでいる。

 

 レンはその光景を横目で見ながら、薬草商のカルロおじさんのもとへと急いだ。

 

 「遅い! もう他の客が来てるぞ!」

 

 「すみません、また寝坊しました!」

 

 「毎週同じことを言ってる」

 

 「毎週心から反省してます!」

 

 カルロはため息をついたが、受け取った薬草の袋を開いて中身を確かめると、渋い顔をほぐした。「……まあ、品質はいい。ヤナ婆さんの仕込みは確かだな」

 

 代金の銀貨を三枚受け取り、レンはポケットに押し込んだ。その瞬間、隣の屋台から聞き慣れた声が飛んできた。

 

 「レン! ちょっとこっち来て!」

 

 幼馴染のサーシャだ。赤毛を三つ編みにして、魚屋の手伝いをしながら手を振っている。

 

 「なに、サーシャ」

 

 「見た? 今日の旅人たち、なんか様子がおかしくて」

 

 サーシャは声をひそめながら、広場の噴水のほうへ目を向けた。レンも視線を追う。

 

 朝から地図を広げている三人組だ。よく見ると全員が革鎧を着込んでおり、腰に剣を帯びている。ただの商人や旅芸人ではない。王国の紋章入りの外套こそないが、その佇まいには訓練された者特有の緊張感があった。

 

 「冒険者か?」

 

 「違う。あの外套の裏地、見える? 紫と金の縁取りがあるでしょ」

 

 レンは目を細めた。「……王立調査団?」

 

 「そう」とサーシャはうなずく。「こんな田舎村に何の用だろ。しかも三人とも、ずっとあの壁を見てるんだよね」

 

 レンが視線を向けた先は、広場の外れにある古い石壁だった。村ができたころからあるという壁で、誰も何も刻んでいないのに、雨が降るたびに文様のようなものが浮かび上がると言い伝えられている。村の子どもたちが昔から「おまじないの壁」と呼んでいるものだ。

 

 今日は雨など降っていない。

 

 それでも、三人の調査員たちは壁から目を離さなかった。

 

 

 

 問題は、昼過ぎに起きた。

 

 レンは薬草の整理を終え、一人で昼飯の黒パンをかじりながら広場を歩いていた。観察するつもりは特になかったが、調査員たちがまだ壁の前にいるのが気になって、自然と足がそちらへ向いた。

 

 「近づかないほうがいいぞ、坊主」

 

 振り返ると、調査員の一人、がっしりした体格の中年男が腕を組んでいた。眉間に深いしわが刻まれているが、目は思ったより穏やかだ。

 

 「調査の邪魔をするつもりはないんですけど」とレンは言った。「あの壁、何か見つかりましたか」

 

 男は少し眉を動かした。「なぜ見つかると思う」

 

 「だって、王立調査団がわざわざ来てるんだから」

 

 男はしばらくレンを見つめてから、「……賢い目をしてるな」と言った。「あの壁に刻まれた紋様は、普通の人間には見えない。でも昨日、我々の魔力探知機がここで反応した。それも、この百年で最大の反応を」

 

 「百年で最大?」

 

 「最後に同じ反応があったのは、百と三年前だ。そのとき何が起きたか、知っているか」

 

 レンは首を横に振った。

 

 男は静かに言った。「世界を変える英雄が生まれた」

 

 

 

 その夜、レンは自室の寝台に横になりながら、昼間の話を頭の中で何度も繰り返していた。

 

 英雄。百年に一度。禁断の紋様。

 

 どれも自分とは関係のない話だ、と思った。自分は村の薬師見習いで、朝寝坊で、ズボンを落としかけながら坂道を走る男だ。そういう人間に、英雄の話など関係するはずがない。

 

 だから、右手の甲がじんじんと熱を持ち始めたとき、レンはしばらくその感覚を蚊に刺されたものだと思いこもうとした。

 

 でも、手の甲に目を向けたとき、否定できなくなった。

 

 皮膚の下から、光が灯っていた。

 

 星の形に。七つの点が円を描くように連なり、まるで夜空の星座そのもののように、淡く青白く輝いていた。

 

 「……え」

 

 声が出たのか出なかったのか、自分でもわからなかった。

 

 ただ、窓の外の闇の中で、遠く遠く、何かが鳴いた気がした。まるで、長い眠りから覚めた獣のように。まるで、百年間ずっと待ち続けていたものが、ようやく目を開けたように。

 

 レンは右手を胸に抱きしめ、寝台の上で膝を抱えた。

 

 明日、あの調査員に会いに行くべきだろうか。

 

 それとも、何事もなかったふりをして、また朝寝坊をするべきだろうか。

 

 答えは、夜が明けるまでに出なかった。

 

 だが、その夜を境に、レン・マグナスの「普通の毎日」は、静かに、しかし確実に終わりを告げた。

 

 

 

 レンがこんなに早く起きたのは、七歳のとき以来だった。

 

 七歳のとき、なぜ早起きしたかというと、市場で売り切れる前にカリカリのベーコン入りパイを買いたかったからだ。今日はそういう話ではないが、あの朝と同じくらい、何かに突き動かされる感覚があった。

 

 右手の甲の光は、夜明けとともに消えていた。

 

 でも、熱は残っている。皮膚の奥、骨のそばに巣食うような、じんとした感覚。夢ではない。確かにあった。

 

 レンは起き上がり、ブーツの紐をちゃんと結んで——昨日の教訓だ——外へ出た。

 

 

 

 広場に出ると、調査員たちはすでにそこにいた。

 

 三人のうち昨日話した中年男が、木箱の上に腰かけて干し肉を食べている。もう二人は壁を前に何やら器具を取り出していた。革張りの小さな箱で、銀の針が中でゆれている。魔力探知機というやつだろうか、とレンは思った。

 

 「早いじゃないか」

 

 中年男がこちらを見て言った。目が、昨日より少し鋭い。

 

 「眠れなかったんです」とレンは言い、右手を突き出した。「これを見せたくて」

 

 男の手が止まった。干し肉が宙に浮いたまま、固まった。

 

 「……それを、自分で出したのか」

 

 「いや、勝手に光りました。夜中に」

 

 男はゆっくりと立ち上がった。レンの右手に顔を近づけ、まじまじと見る。今は光っていない。でも男の目が、ふつうの眉間のしわとは違う険しさを帯びた。

 

 「ギデオン!」と男が後ろへ向かって叫んだ。「例の探知機を持ってこい!」

 

 仲間の一人が走ってくる。銀の針の入った箱を開いて、レンの手のそばへかざした。次の瞬間、針が激しく振れた。箱を持った男がぎょっとして半歩引いた。

 

 「……団長」と彼は低い声で言った。「振り切れています」

 

 沈黙。

 

 中年男——団長は、深く息を吸い込んだ。

 

 「名前を聞いていなかったな」

 

 「レン・マグナスです」

 

 「俺はガルーダ・ベイン。王立魔導調査団、第三班の団長だ」とその男は言い、それからゆっくりと、すごく丁寧に言葉を選ぶように続けた。「レン、お前の右手にあるのは『星紋』だ。百三年前に一度だけ記録され、その後は完全に消えたと思われていた紋章だ」

 

 「百三年前の英雄の話、ですよね」

 

 「そうだ。当時の英雄の名はエルダン・ソール。彼は七つの星の欠片を集め、闇の神の器を封じた。……そして、星紋はその使命と一体だ」

 

 レンは首を傾けた。「使命?」

 

 「星紋の持ち主は必ず、七つの欠片に導かれる。それが現れた者の宿命だ」とガルーダは言った。「お前の意志に関係なく、紋章はすでに動き出している。でなければ、探知機がこんな反応をするはずがない」

 

 レンは右手を見下ろした。光は見えない。でも、確かに何かがそこに眠っている気がした。

 

 「……七つの欠片を集めると、何がどうなるんですか」

 

 「それを解明するのが、我々の役目だった」とガルーダは少し苦い顔をした。「だが、お前が現れた以上、役目の主役が変わった」

 

 

 

 「絶対についていく」

 

 サーシャが言ったのは、昼過ぎのことだった。

 

 レンが事の次第を話し終わる前に、すでにそう言っていた。目が輝いており、三つ編みの先っぽが興奮でぴんと立っているように見えた。

 

 「話、最後まで聞いた?」

 

 「聞いた。星紋でしょ。七つの欠片でしょ。英雄の使命でしょ。絶対おもしろいじゃん」

 

 「危ないかもしれないって言ったよね」

 

 「だから一人で行かせるの?」とサーシャはレンを見た。「私が魚屋の手伝いしかできないと思ってたら大間違いよ。弓の腕ならアルデン村で一番だって知ってるでしょ」

 

 レンはため息をついた。知っている。サーシャの弓は本当に恐ろしい。百歩先のリンゴを射抜いたのを一度見てから、彼女に怒られると本能的に体が縮む。

 

 「……ヤナ婆さんに言ってからじゃないと」

 

 「もう言ってきた」

 

 「はや」

 

 「なんか嬉しそうだったよ。『あの鈍臭い子が英雄の使命とは笑わせる、でも面白い、行ってやれ』って」

 

 「鈍臭い」とレンは繰り返した。「師匠にそこまで思われていたとは知らなかった」

 

 でも、口角が上がるのは止められなかった。

 

 

 

 出発は翌朝と決まった。

 

 ガルーダは「第一の欠片は北の山岳地帯にある可能性が高い」と言い、古い地図を広げた。アルデン村から五日ほどの道のりで、途中には街道沿いの宿場町がいくつかある。そこまでは調査団が同行してくれるという。

 

 「我々の本来の任務は、星紋の持ち主を王都に連れ帰ることだ」とガルーダは正直に言った。「だが俺の見立てでは、お前を王都に連れていっても、欠片は集まらない。星紋は持ち主が動かなければ光らない。そういう性質のものだ」

 

 「じゃあ、一緒に集めに行ってくれるってこと?」

 

 「団として動く余裕はない。だが」とガルーダは少し間を置いた。「俺個人としては、面白そうだと思っている」

 

 

 

 夜、荷物をまとめながら、レンは窓の外を見た。

 

 今日は星がよく見える。村はずれの古い石壁が、月明かりの中でぼんやりと浮かんでいる。昼間に見たときは何もなかったその壁に、今は、うっすらと文様が浮かんでいた。

 

 円を描く、七つの点。

 

 星紋と同じ形だ。

 

 「……わかってるよ」とレンは呟いた。誰に言うでもなく、でも確かに何かへ向けて。「行くって。行くから」

 

 右手の甲が、ふわりと光った。

 

 まるで、返事をするように。

 

 レン・マグナスは、荷物袋を肩にかけ直した。ブーツの紐は——今回はちゃんと、二重に結んだ。

 

 

 

 ガルーダが話してくれたのは、その夜のことだった。

 

 宿場もない村だ。調査団の三人はテントを張る気でいたが、カルロおじさんが「屋根の下で話せ」と倉庫を貸してくれた。薬草と干し魚の匂いが混じった、少し不思議な空間に、レンとサーシャとガルーダが車座になった。他の二人の調査員——ギデオンという若い男と、無口なイレナという女性——は外で番をしている。

 

 ランタンの灯りの中で、ガルーダは古い手帳を取り出した。革表紙が擦り切れ、ページの端が茶色くなっている。

 

 「これは俺の師匠の師匠が書いたものだ」と彼は言った。「百三年前の記録だ」

 

 「それ、本物なんですか」とサーシャが目を丸くする。

 

 「本物だ。王立図書館に原本がある。これは俺が手で写したものだが」

 

 レンは手帳を覗き込んだ。びっしりとした細かい文字。地図のようなものも挟まれている。

 

 「エルダン・ソールという男がいた」とガルーダは話し始めた。「百三年前、まだ今の王国が今より小さかった頃の話だ。彼は農村の出身で、十八歳のとき、ある夜突然、右手に光が宿った。そのときはまだ星紋という名前もなかったが、村人たちは彼を化け物と呼んで追い出した」

 

 「……追い出された」とレンは繰り返した。

 

 「怖いからな、人間は。わからないものには石を投げる」ガルーダは静かに言った。「だがエルダンは折れなかった。一人で歩き続けた。そのうちに気づいたんだ——光が、特定の方向に引っ張るような感覚があることに」

 

 「欠片に向かって?」

 

 「そう。彼は三年かけて、七つの欠片を集めた。一つ一つが、山の中に、廃墟に、湖の底に、眠っていた。それぞれに守り手がいて、試練があった。全部を集めたとき、欠片は一つの器になった」

 

 「闇の神の器を封じた器に?」とサーシャが聞く。

 

 「封じるための鍵、というほうが正確だ」とガルーダは訂正した。「闇の神そのものを滅ぼすことは誰にもできない。ただ、鍵があれば封じることができる。エルダンはその鍵を使い、神の器——つまり器として選ばれた人間の体——を解放した。闇の神は依り代を失い、霧散した」

 

 しばらく沈黙があった。

 

 「エルダンはその後、どうなったんですか」とレンが聞いた。

 

 ガルーダは少し間を置いた。「行方不明だ。封じた直後に姿を消した。英雄として称えようとしたら、もういなかった。記念碑だけが残っている」

 

 「なんで消えたんだろう」とサーシャが首を傾けた。

 

 「理由はわかっていない。ただ、一つだけ記録がある」ガルーダは手帳をめくり、あるページを開いてレンのほうへ向けた。「封じる直前に、エルダンが側近に言った言葉だ」

 

 レンは文字を目で追った。

 

 ——使命が終われば、紋章は次の者を探す。俺はもう用済みだ。それでいい。次の百年が、平和であるように。

 

 「次の百年が、平和であるように」とレンは声に出して読んだ。

 

 「その言葉通り、百年は保った」とガルーダは言った。「でも今、星紋が再び現れた。つまり——」

 

 「また何かが起きようとしている」

 

 「そういうことだ」

 

 レンは右手を見た。光はない。ただ、手のひらの奥に、かすかな鼓動のようなものがある気がした。自分の心臓とは違う、もう一つのリズム。

 

 「俺に、エルダンみたいなことができるかな」とレンは呟いた。

 

 ガルーダは少し考えてから言った。「お前とエルダンは違う。エルダンは一人で三年かけた。お前には最初から仲間がいる」

 

 「私がいるしね」とサーシャがすかさず言った。「エルダンより有利じゃん」

 

 「弓があれば百人力、ってこと?」

 

 「百人は盛りすぎだけど五十人くらいは」

 

 レンは笑った。少しだけ、肩が軽くなった。

 

 

 

 夜が更けてから、ガルーダが一つだけ付け加えた。

 

 「もう一つ、知っておいてほしいことがある」

 

 声のトーンが変わった。レンとサーシャは顔を上げた。

 

 「百年前、エルダンが欠片を集める邪魔をした組織がいた。闇の神の復活を望む者たちだ。エルダンは彼らとも戦った。そして俺たちの情報では——その組織は、今も存在している」

 

 静寂。

 

 ランタンの炎が、風もないのに揺れた。

 

 「つまり」とレンはゆっくり言った。「星紋が現れたということは、向こうにも伝わる」

 

 「早ければ、もう伝わっている」

 

 サーシャが腕を組んだ。「急いだほうがよさそうね」

 

 「明日の夜明けに出る」とガルーダは言った。「ゆっくり寝ておけ。次に柔らかい寝床で眠れるのは、宿場町に着いてからだ」

 

 レンは「わかりました」と答えながら、心の中でそっと思った。

 

 百年前の英雄は、一人だった。

 

 俺はまだ何もできない村の見習いだ。でも——サーシャがいる。ガルーダがいる。少なくとも今夜は、倉庫の薬草と干し魚の匂いの中で、一人じゃない。

 

 それだけで、少し、気が楽になるような気がした。

 

 

 

 サーシャが弓を射るところを、レンは何度も見てきた。

 

 でも何度見ても、慣れない。

 

 夜の村外れ、古い木の幹に木の葉一枚を貼り付けて、サーシャは三十歩離れたところに立っていた。月明かりだけが頼りの暗さだ。それでも彼女は迷わず弓を引き、放った。矢は音もなく飛び、葉の中心を貫いた。

 

 「……また真ん中」とレンは言った。

 

 「当たり前でしょ」とサーシャは次の矢を番えながら言った。「外したことない」

 

 「夜なのに」

 

 「昼より集中できるから」

 

 レンは草の上に腰を下ろし、膝を抱えた。サーシャが弓を射るたびに、空気がわずかに震える。それ以外は静かだった。虫の声と、遠くで犬が一匹鳴いているだけ。

 

 「なんで弓、始めたんだっけ」

 

 「お父さんが猟師だったから」とサーシャはあっさり言った。「七歳から教わった。ちょうどお父さんが死んだ年」

 

 「……ごめん、変なこと聞いた」

 

 「別に謝らなくていい。もう十年前の話だし」

 

 また矢が放たれた。また、中心を貫いた。

 

 「でもね」とサーシャは続けた。「お父さんが生きてたら、きっと私、村から出なかったと思う。魚屋の手伝いして、誰かと結婚して、ずっとここにいたと思う」

 

 「それの何が悪いの」

 

 「悪くない。でも」と彼女は弓を下ろして、レンのほうを見た。「物足りない気がしてた。ずっと。どこかに行きたい、何かしたい、でも理由がないって感じ。あなたが星紋を見せてきたとき、私、正直すごく嬉しかった」

 

 「それ、嬉しいって言っていい感情なのか」

 

 「よくないかもね」とサーシャは笑った。「でも本音だから」

 

 レンは草を一本引き抜いて、くるくると指に巻いた。

 

 「俺さ、正直に言うと、怖いんだよね」

 

 「え、そうなの」

 

 「英雄の使命とか言われても、俺ってただの薬師見習いじゃん。朝寝坊で、ドジで、ヤナ婆さんに怒鳴られてばっかりで。そんな奴が欠片集めて世界を救うとか、絵として成立しなくない?」

 

 サーシャはしばらく黙って、それから草の上に座り直した。レンの隣に、ぽんと。

 

 「エルダン・ソールも最初は農村の子だったんでしょ」と彼女は言った。

 

 「まあ、そうだけど」

 

 「じゃあ最初から英雄だった人なんていないじゃん。みんな最初はただの誰かだよ」

 

 「……そういうもんかな」

 

 「そういうもんだよ」

 

 断言するサーシャは、どこか昔から変わらない。小さい頃から、泣いているレンの隣でいつもそういう顔をしていた。考えるより先に結論が出ている顔。

 

 「一個だけ聞いていい?」とレンは言った。

 

 「なに」

 

 「危ないって、ガルーダさんが言ってた。百年前の組織が今もいるって。それを聞いてもついてくる?」

 

 サーシャは即答した。「うん」

 

 「……理由は?」

 

 「あなたが一人だったら絶対に死ぬから」

 

 「俺への信頼が低すぎる」

 

 「現実的な評価よ」とサーシャは笑った。「昨日だってズボン落としかけてたじゃない」

 

 「あれはベルトを忘れてただけで——」

 

 「とにかく」と彼女は遮った。「私が行く理由はそれだけで十分。あなたを死なせたくない。弓ならエルダンよりも役に立つ自信がある。それで十分でしょ」

 

 レンは少しの間、月を見上げた。

 

 アルデン村の夜は、いつもこういう夜だった。虫の声と、犬の声と、たまにサーシャの弓の音。特別なことは何もない、よく知った夜。

 

 でも明日の夜明けには、ここを出る。

 

 次にこの空気を吸えるのはいつだろう、とふと思った。答えはわからない。わからないけれど、不思議と悲しくはなかった。隣にサーシャがいて、倉庫にガルーダがいて、右手の奥に星紋が眠っている。

 

 「ありがとう」とレンは言った。

 

 「どういたしまして」とサーシャは言って、また弓を構えた。「もう一本だけ射ったら帰る」

 

 矢が夜に溶けていく。

 

 翌朝の出発まで、あと数時間だった。

 

 

 

 出発の朝、レンが一番最後にしたことは、師匠の家に寄ることだった。

 

 夜明け前の青い空気の中、荷物を背負ったまま裏口を叩くと、「開いてる」という声がした。鍵など最初からかかっていないのに、いつもそう言う。

 

 中に入ると、ヤナ婆さんはもう起きていた。いや、もしかすると眠らなかったのかもしれない。薬研で何かを挽きながら、ランタンの灯りの下で小さな背中を丸めていた。

 

 「来ると思ってた」と彼女は振り向かずに言った。

 

 「来ないわけないじゃないですか」

 

 「あんたはたまに非常識なことをするから」

 

 反論できなかった。

 

 レンは部屋の中を見回した。三年間、毎日のように通った場所だ。棚には薬草の束が天井まで吊るされ、窬の上には乾燥させた木の実が並び、床には薬書が積み上がっている。ヤナ婆さん本人も小さくて乾いていて、薬草の匂いがして、この部屋の一部みたいだ。

 

 「座れ」と言われて、レンはいつもの丸椅子に腰を下ろした。

 

 ヤナ婆さんはしばらく無言で薬研を動かし続けた。それから、薬研を置いて、棚の奥から小さな木箱を取り出した。レンが見たことのない箱だ。

 

 「これをやる」と彼女はテーブルに置いた。

 

 レンは蓋を開けた。中には、小瓶が十本と、折りたたんだ紙が何枚か入っていた。

 

 「小瓶は薬だ。解熱、止血、毒消し、睡眠薬、疲労回復——どれがどれかは紙に書いてある。用量を守れ。特に睡眠薬は半分以上飲んだら三日は起きないから気をつけろ」

 

 「……それはもはや毒じゃないですか」

 

 「用量を守れと言った」

 

 「はい」

 

 「紙のほうは薬草の見分け方だ。旅の途中でも自分で調合できるように、基本的なものだけまとめておいた。字が読めるな?」

 

 「三年間、先生の薬書を読み続けたので」

 

 「読んでたわりには覚えが悪かったがな」

 

 また反論できなかった。

 

 レンは木箱を両手で持ち直した。ずっしりとした重さがある。薬の重さだけじゃない気がした。

 

 「先生」とレンは言った。「俺、ちゃんと戻ってきます」

 

 「当たり前だ」とヤナ婆さんは鼻を鳴らした。「死んだら許さないよ」

 

 「……許さないって、どうやって」

 

 「あんたの墓石を毎日蹴りに行く」

 

 「それはやめてください」

 

 ヤナ婆さんは薬研を手に取り直した。また背中を向けて、挽き始める。でも、その手が一瞬止まった。

 

 「レン」

 

 「はい」

 

 「あんたは、薬師には向いていない」

 

 唐突な言葉に、レンは少し胸が痛くなった。三年間、そう思われていたとは知らなかった。いや、なんとなくはわかっていたけれど、面と向かって言われると思っていなかった。

 

 「……すみません」

 

 「謝るな。向いていないというのは、悪口じゃない」とヤナ婆さんは言った。「薬師に向いているのは、一つのことをじっくり深く続けられる人間だ。あんたはそういう人間じゃない。あんたはどこかへ行きたくて、何かをしたくて、それをずっと隠して薬草を摘んでいた」

 

 レンは答えられなかった。

 

 「でも」と彼女は続けた。「あんたには別の向き不向きがある。人を元気にする、というやつだ。カルロのところへ行くたびに、あの偏屈おやじが笑っている。サーシャがいつも隣にいる。今回だって、王立調査団の団長がわざわざ一緒に行くと言い出した。それはあんたが薬の腕がいいからじゃない」

 

 「……どうしてですか」

 

 ヤナ婆さんはしばらく黙った。それから、ぼそりと言った。

 

 「一緒にいると、なんとかなる気がするんだろう。あんたといると。私もそうだった」

 

 レンは、うまく返せなかった。

 

 言葉が出てくる前に、目が少し熱くなって、それが恥ずかしくて、天井を見上げた。薬草の束が、何列も吊るされている。三年間、見てきた天井だ。

 

 「泣くな」とヤナ婆さんは言った。背中を向けたままで。

 

 「泣いてないです」

 

 「鼻が赤い」

 

 「寒いので」

 

 「夏だ」

 

 レンは立ち上がり、木箱を荷物袋に丁寧にしまった。蓋がぴったり閉まる。手がかけた分だけ、ちゃんと閉まるように作ってある。

 

 裏口に向かいながら、振り返った。

 

 「先生、ただいまって言いに来ます」

 

 「ああ」とヤナ婆さんは言った。「そのときは餞別のぶんだけ働いてもらう」

 

 「働きます」

 

 「早起きしてもらう」

 

 「……それは条件が厳しい」

 

 「行け」

 

 レンは笑って、裏口を出た。

 

 外の空気は、夜明け前の青さを少しだけ失って、薄い橙色に変わり始めていた。

 

 広場のほうから、ガルーダの声が聞こえた。出発の準備が整ったようだ。レンは荷物を背負い直して、橙色の空に向かって歩き出した。

 

 

 

 アルデン村の朝市は、まだ始まっていなかった。

 

 夜明けの広場には人がいない。露店の布がかかったままで、噴水だけが変わらず水を流し続けている。石畳が朝露で濡れていて、レンたちの足音が一歩ごとに響いた。

 

 集合は広場の東端。ガルーダとギデオンとイレナが、すでに荷をまとめて待っていた。全員、旅装束だ。ガルーダはいつもより少し険しい顔をしているが、それが彼の「準備完了」の顔だとレンはもう知っている。

 

 「全員揃ったな」とガルーダが言った。

 

 「はい」「うん」とレンとサーシャが答えた。

 

 「では——」

 

 「待ってくれ」

 

 声がした。

 

 振り返ると、カルロおじさんが息を切らしてこちらへ走ってきた。大きな体で、白いエプロンをつけたまま、手に布の包みを持っている。

 

 「早起きしすぎだろ、あんたら」と彼は言いながら、包みをレンに押しつけた。「道中の食料だ。干し肉とチーズと硬パン。三日は持つ」

 

 「カルロさん……」

 

 「受け取れ。薬草代のつけがまだ残ってるから、帰ったら働いてもらう」

 

 レンは笑いながら受け取った。「ありがとうございます」

 

 「死ぬな」とカルロはぶっきらぼうに言って、それ以上は何も言わず、来た道を戻っていった。大きな背中が、だんだん小さくなっていく。

 

 「村の人って、みんな素直じゃないよね」とサーシャが小声で言った。

 

 「先生もそうだったよ」とレンは言った。

 

 「あなたもわりとそうよ」

 

 「俺は素直だと思う」

 

 「さっき目が赤かったくせに」

 

 「……寒かったので」

 

 「夏よ」

 

 

 

 一行は東の道へ向かった。

 

 アルデン村を出る道は一本しかない。村はずれまで続く石畳の道を、五人が縦に並んで歩く。レンは後ろを振り返った。

 

 村が、遠くなっていく。

 

 薬師の家の煙突。カルロの屋台の屋根。噴水の水音。三年間、毎朝走り下りた坂道。全部が、少しずつ小さくなっていく。

 

 そして、広場の外れの石壁。

 

 朝の光の中で、壁が柔らかく輝いていた。昨夜見た七つの星の文様が、今は光っていない。でも確かにそこにある。百年以上、ずっとそこにあり続けた壁。

 

 レンは右手の甲を見た。

 

 光はない。でも熱はある。静かで、小さな、たしかな熱。

 

 「行こう」とガルーダが前から言った。

 

 「はい」とレンは答えて、前を向いた。

 

 

 

 石畳が土の道に変わる地点で、レンは一度だけ立ち止まった。

 

 サーシャが隣に並んだ。「どうした?」

 

 「なんか、言おうとしたんだけど」

 

 「何を?」

 

 「わかんない。村に向かって何か言ったほうがいい気がして」

 

 サーシャは少し考えて、それから村のほうへ向き直り、大きく息を吸った。

 

 「いってきまーす!」

 

 声が、朝の空気に響いた。

 

 誰も聞いていない。聞いているとしたら、カルロおじさんか、ヤナ婆さんか、まだ眠っている村人たちか。でも声は確かに届いた気がした。

 

 レンも息を吸った。

 

 「いってきます」

 

 小声だったが、ちゃんと言えた。

 

 土の道に足を踏み出す。石畳の感触が消えて、柔らかい土の感覚になる。靴底から伝わる世界が、変わった。

 

 「北の山脈まで約十日」とガルーダが前を歩きながら言った。「最初の宿場町は三日後だ。今日は日が暮れるまで歩く」

 

 「休憩は?」とサーシャが聞いた。

 

 「昼に一度だけ」

 

 「少なくない?」

 

 「旅というのはそういうものだ」

 

 「厳しい先生だこと」とサーシャはレンに小声で言った。

 

 「ヤナ婆さんよりはマシだと思う」とレンは小声で返した。

 

 「そんなに厳しかったの?」

 

 「一回、寝坊したら水桶ぶつけられた」

 

 「あなたが悪い」

 

 「いや、まあそうなんだけど」

 

 後ろでギデオンが噴き出す声がした。真面目な顔をしているイレナも、口の端が少し上がっていた。

 

 ガルーダは前を向いたまま、何も言わなかったが、肩が微かに揺れていた。

 

 

 

 道は真っ直ぐ、北へ続いていた。

 

 左手には麦畑が広がり、右手には雑木林。朝の光が斜めに差し込んで、葉の一枚一枚をきらきらと照らしている。遠くに山の稜線が見えた。まだずっと遠い、青い山々。

 

 あの向こうに、最初の欠片がある。

 

 レンは歩きながら、右手をそっと握った。

 

 熱は、ある。

 

 小さく、でも確かに。まるで「まだここにいるぞ」と言っているみたいに。

 

 怖くないとは言えない。でも、一歩踏み出してしまえば、その一歩が次の一歩を引っ張る。今朝のレンは、もうそれを知っていた。

 

 百年前の英雄は一人で歩いた。

 

 今のレンは、隣にサーシャがいて、前にガルーダがいて、後ろにギデオンとイレナがいる。

 

 これ以上何が要るだろう、とレンは思った。

 

 なんとかなる気がする、というのは根拠のない気持ちだ。でも、根拠のない気持ちが人を動かすことを、今朝のレンはなんとなく信じていた。

 

 道が続く。山が近づく。

 

 アルデン村の朝市は、今頃ようやく始まった頃だろう。

 

 

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