死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

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第十話 精霊の円

 

 森の深部に入ると、木々が変わった。

 

 銀色の葉をつけた白い木が、規則的に並んでいる。人が植えたように等間隔で、幹の太さも揃っている。枝は高い位置で絡み合い、天蓋を作っていた。天蓋の隙間から薄い光が差し込んで、地面の苔を照らしている。

 

 そして——光が、動いていた。

 

 木の幹を走る青緑の光が、すべて同じ方向に流れている。根元から上ではなく、横へ。隣の木へ、その隣の木へ。光の川が、森の中を一方向に流れている。

 

 「導かれている」レンは立ち止まった。

 

 「ああ。抵抗する意味はないだろう」ギデオンが光の流れを目で追った。「行くか」

 

 二人は光の流れに沿って歩いた。

 

 百歩。二百歩。木々の間隔が広くなっていく。苔が深くなり、足が沈む。空気が——温かくなった。冷たい霧が、ここだけ温んでいる。呼吸が楽になる。

 

 三百歩目で、木々が途切れた。

 

 

 

 円形の空間だった。

 

 最初に辿り着いた泉の広場よりも、ずっと広い。直径百歩はある。地面は苔ではなく、平らな石が敷き詰められている。石の継ぎ目に青緑の光が走り、石全体が淡く発光していた。

 

 中央に——何もなかった。石の円の中心に、何も置かれていない。ただ、空気だけが違う。中心に近づくほど、空気の密度が上がる。息を吸うと、胸の奥まで染み渡るような感覚がある。

 

 「ここだ」

 

 レンの右手が、激しく明滅した。星紋の七つの星のうち三つ目が、はっきりと脈打っている。

 

 「レン、あそこ——」

 

 ギデオンが指した先。円の向こう側に、三つの影が見えた。

 

 サーシャ。ガルーダ。イレナ。

 

 三人が、反対側の木々の間から現れたところだった。

 

 

 

 「レン!」

 

 サーシャの声が石の円に反響した。走ってきた。弓を背負ったまま、三つ編みを揺らして。

 

 レンも走った。円の中央で、二人は合流した。

 

 「無事だったのね——ギデオンも」

 

 「ああ。そっちは」

 

 「大丈夫。ガルーダさんとイレナが一緒だったから」

 

 ガルーダとイレナが追いついた。ガルーダの表情は平静だったが、レンとギデオンの顔を見て、わずかに肩の力が抜けたのがわかった。

 

 「無事か」

 

 「はい。星紋を頼りにここまで」

 

 「こちらもだ。イレナが方向を——」

 

 「水の音を追った」イレナが短く言った。「地下水の流れがこの場所に集まっている。音が導いてくれた」

 

 レンはイレナを見た。無表情だが、目元がいつもと違う。少しだけ——柔らかい。この森は、イレナにとって居心地の悪い場所ではなかったのかもしれない。

 

 サーシャがレンの顔を覗き込んだ。じっと見て、眉をひそめた。

 

 「泣いた?」

 

 「え——いや、それは——」

 

 「目が赤い。泣いたでしょう」

 

 レンは顔を背けた。袖で目元を拭う。もう乾いているはずだが、痕跡は残っていたらしい。サーシャの目は誤魔化せない。

 

 「精霊に——いろいろ見せられたんだ。村の広場とか。ヤナ婆さんとか」

 

 サーシャの表情が、一瞬だけ揺れた。レンが泣くほどの幻——それが何を意味するか、サーシャにはわかったのだろう。帰りたかったのだ。帰りたくて、泣いたのだ。

 

 「そう」

 

 それだけ言って、サーシャは何も聞かなかった。代わりに、レンの外套の襟元に着いた苔を指で払った。

 

 「そっちはどうだった。何かあったか」ギデオンがガルーダに訊いた。

 

 ガルーダは一瞬、サーシャを見た。サーシャは——目を逸らした。

 

 「……あったと言えば、あった」ガルーダが短く答えた。「詳しくは後だ。まず、ここの試練を終わらせる」

 

 「サーシャも——見せられたのか。精霊に」

 

 サーシャは答えなかった。弓の紐を握る手に、少しだけ力が入っていた。それだけでレンにはわかった。何かを見た。見て——揺さぶられた。でも今は話せない。

 

 「わかった。後でいい」

 

 レンがそう言うと、サーシャの肩が僅かに下がった。安堵だった。レンはサーシャの横顔を見た。何かがあったのだ。精霊は、サーシャにも何かを見せた。でも今は聞かない。サーシャの目が「今は聞くな」と言っていた。

 

 

 

 五人が円の中央に集まると、空気が変わった。

 

 精霊の声が、再び聞こえてきた。四方八方から。石の隙間から。木々の枝から。地面の下から。

 

 ——揃ったか。

 

 あの声だ。男でも女でもない、すべてが混じった声。

 

 ——星紋の担い手。お前はすでに見た。お前の中にあるものを。

 

 レンは一歩前に出た。

 

 「見た。師匠を。村を。星紋のない自分を」

 

 ——そして、答えた。

 

 「答えた」

 

 ——では——最後の問いだ。

 

 空気が震えた。五人の髪が、風もないのになびいた。

 

 サーシャが弓に手をかけた。本能的な動きだ。だが——敵意はない。ここにあるのは力だけだ。純粋な、森そのものの力。サーシャもそれを感じ取ったのか、手を離した。

 

 ガルーダが半歩前に出た。レンの横に並ぶ。

 

 「団長——」

 

 「行け。お前の試練だ」ガルーダは前を見たまま言った。「俺たちはここにいる」

 

 ギデオンが頷いた。イレナも。サーシャが、レンの背中を軽く押した。

 

 ——来い。

 

 石の円が光った。青緑の光が石の継ぎ目から噴き上がり、五人の足元を照らした。光が中央に集まっていく。何もなかった中心に、光が凝縮して——形を作った。

 

 小さな石だった。

 

 翡翠のように緑で、ガラスのように透明で、掌に乗るほどの大きさ。石の内側で、風のように何かが渦巻いている。

 

 第三の欠片。

 

 ——七つの欠片を集め終えたとき、お前の手に鍵ができる。鍵は——闇の神を封じる力を持つ。

 

 レンは欠片を見つめた。手を伸ばせば届く距離に、浮かんでいる。

 

 ——だが、鍵を使えば——お前の星紋は消える。

 

 心臓が跳ねた。

 

 ——エルダン・ソールは、それを知って鍵を使った。星紋と引き換えに、封印を完成させた。お前も同じ道を歩くのか。

 

 レンは手を見た。右手の甲に刻まれた七つの星。この紋章が消える。旅が終わる。使命が終わる。そして——ただの薬師見習いに戻る。

 

 「問いの答えを——聞いてもいいですか」

 

 ——言え。

 

 「星紋が消えるのは——構いません」

 

 声が出た。震えていなかった。

 

 「でも、旅の記憶は消えないでしょう。山で竜に会ったことも、城で騎士に会ったことも、この森で精霊に見てもらったことも。仲間と歩いたことも」

 

 レンは四人を振り返った。サーシャが立っている。ガルーダが立っている。ギデオンが立っている。イレナが立っている。

 

 「星紋は——借り物です。百年に一度、誰かに宿って、使命が終わったら去っていく。でも——この旅は借り物じゃない。俺のものです」

 

 精霊の声が沈黙した。

 

 長い沈黙。石の円の光が、ゆっくりと脈打っている。

 

 ——百三年前、エルダン・ソールは——この問いにこう答えた。「使命を果たすために来た」と。

 

 レンは待った。

 

 ——お前は——使命の外側に立っている。使命を背負いながら、使命に飲まれていない。

 

 欠片が光った。緑の光が強くなり、石の内側で渦巻いていた風が——レンに向かって吹いた。温かい風だった。春の野原を渡る風のような、柔らかくて、優しくて、少しだけ寂しい風。

 

 ——受け取れ。

 

 レンは手を伸ばした。右手で欠片に触れた。

 

 温かかった。石なのに。手に触れた瞬間、森全体がざわめいた。木々の葉が一斉に揺れ、精霊のささやきが——拍手のように聞こえた。

 

 欠片は、レンの掌に収まった。

 

 星紋の三つ目の星が、はっきりと光を灯した。

 

 

 

 レンは掌の上の石を見つめた。

 

 緑で、透明で、中に風が閉じ込められている。一つ目の欠片は青白くて冷たかった。二つ目は琥珀色で人肌の温もりがあった。三つ目は——風だ。掌に乗せているだけで、手のひらの上を小さな風が渦巻くのを感じる。

 

 三つとも違う。色も温度も手触りも。だが——掌の上に載せると、同じ重さだった。同じ大きさの欠片が、それぞれ異なる記憶を宿している。竜の意志。騎士の信念。精霊の風。

 

 「見せてくれ」

 

 ギデオンがそばに来た。レンが掌を差し出すと、ギデオンは欠片を覗き込んだ。

 

 「きれいだな。透き通っている」

 

 「触ってみるか?」

 

 ギデオンが指を伸ばした。欠片に触れる寸前で——指が弾かれた。見えない壁に押し返されたように。

 

 「……やはり、担い手にしか反応しないか」

 

 「らしいな」レンは欠片を荷物袋にしまった。布に包んで、他の二つの横に並べる。三つの石が布越しに触れ合うと、微かに振動した。共鳴だ。三つが——互いを認識している。

 

 ガルーダが近づいてきた。

 

 「レン。精霊が言ったこと——星紋が消えるという話。本当か」

 

 レンは頷いた。

 

 「鍵を使えば、星紋は消えると。エルダンもそうだったって」

 

 ガルーダの表情は変わらなかった。だが——目の奥に、何かが揺れた。

 

 「……それでも、行くか」

 

 「行きますよ。さっき答えた通りです」

 

 ガルーダは何も言わず、レンの肩に手を置いた。重い手だった。職務の手ではなく——人の手だった。

 

 石の円の光が薄れていく。

 

 精霊の声が、最後に一つだけ告げた。

 

 ——次の欠片は、東にある。古戦場の地下神殿跡。そこには——我々とは異なるものが待っている。気をつけろ。

 

 声が消えた。

 

 霧が——動き始めた。五人を包んでいた濃い霧が、ゆっくりと後退していく。視界が開けていく。十歩先が見え、二十歩先が見え、やがて——空が見えた。

 

 夕暮れの空だった。

 

 オレンジ色と紫色が混じった空が、木々の梢の向こうに広がっている。二日ぶりに見る空だ。レンは空を見上げて、深く息を吸った。霧でない空気が、肺を満たした。

 

 「終わったのか」ギデオンが周囲を見回した。

 

 霧が退いていく速度は、思ったよりも速かった。森の奥から外縁に向かって、まるで潮が引くように白い壁が後退していく。取り残されるように、五人だけが石の円の上に立っていた。

 

 「終わった」ガルーダが頷いた。「霧が退いている。精霊が——道を開けてくれたんだ」

 

 木々の向こうに、景色が見えた。森の外だ。丘と、草原と、遠くの山の稜線。二日間、何も見えなかった目に、世界が一気に流れ込んでくる。

 

 レンは膝から力が抜けそうになった。踏ん張った。まだ立っていられる。

 

 イレナが石の円の縁を歩いていた。石に刻まれた光の模様を、指でなぞっている。光はもう消えかけていた。精霊の力が退いていくのに合わせて、石もただの石に戻りつつある。

 

 「イレナ?」

 

 「記録している」イレナは石の模様を見つめたまま呟いた。「この紋様——人工物ではない。魔力が石を削って作った自然の造形だ。二度と同じものは見られない」

 

 レンはイレナの目を見た。いつもの無表情とは違う。何かに惹きつけられている目だった。美しいものを見る目。ヴェルト山脈で、雪を被った稜線を見たときの——あの目だ。

 

 「きれい、か?」

 

 イレナは少し間を置いて、頷いた。

 

 「……きれい」

 

 その一言が出るまでの間に、何かが詰まっていた。イレナにとって「きれい」は、簡単に口にできる言葉ではない。だからこそ、その一言には重みがある。

 

 ガルーダが空を見上げた。

 

 「日没まであと一刻もない。森を出て、外で野営する。ここにはもう——用はない」

 

 石の円を出ると、足元が苔に変わった。霧は完全に消えて、森の中に夕暮れの光が差し込んでいる。木々の影が長く伸びて、地面に縞模様を作っていた。二日前に入ったときとは別の森のようだった。同じ木、同じ苔、同じ空気——だが、霧がないだけで、これほど違う。

 

 「急ごう。暗くなる前に外に出る」

 

 ガルーダが先頭に立ち、五人は森を歩いた。今度は道に迷わなかった。精霊が道を開けてくれている。まっすぐに、森の外縁に向かって。

 

 サーシャがレンの隣に並んだ。レンの右手を見た。甲に光る星紋を。

 

 「三つ目」

 

 「うん。三つ目」

 

 「あと四つ」

 

 「——ああ。あと四つ」

 

 サーシャは何も言わなかった。ただ、レンの肩に軽く拳をぶつけた。レンが少し揺れた。

 

 「何それ」

 

 「何でもない。ただ——お疲れ」

 

 レンは笑った。疲れていた。体の芯が抜けたように重い。でも——悪い重さじゃなかった。

 

 森の出口が見えた。木々が途切れて、夕焼けの空が広がっている。五人は足を速めた。

 

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