死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

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第十一話 焚き火と告白

 

 森を出たところに、ちょうどいい野営地があった。

 

 木々が円形に開けた小さな空間で、地面は乾いている。霧の森を出た途端、世界が一変していた。乾いた空気。夕暮れの光。虫の声。当たり前のものが、二日ぶりに戻ってきた。

 

 ギデオンが手際よく焚き火を起こした。霧の外の木は乾いている。薪を集めるのにも苦労しなかった。火が起きた瞬間、五人の顔がオレンジ色に照らされて——全員が、同時に息をついた。

 

 「火って——こんなにいいものだったっけ」レンが火に手をかざした。

 

 「二日ぶりだ」ガルーダが外套を脱いで、火のそばに広げた。「湿気を飛ばしておけ。明日以降に響く」

 

 イレナが荷物の中から鍋と食材を取り出した。干し肉と乾燥野菜。水を加えて火にかける。地味な食事だが、温かいものを食べられるだけで贅沢だった。

 

 スープが煮える音を聞きながら、レンは三つの欠片を並べた。膝の前に、布の上に。

 

 一つ目——青白い石。古竜の洞窟で手に入れた。冷たくて、硬い。

 二つ目——琥珀色の石。カルネ廃城の亡霊騎士から受け取った。人肌の温かさがある。

 三つ目——緑の石。精霊の森で、今日受け取った。風のような温もり。

 

 三つ並べると、微かに共鳴しているのがわかった。星紋越しに感じる振動。三つの石が、互いの存在を認識しているような。

 

 「あと四つか」サーシャが隣に座って、欠片を眺めた。

 

 「東って言ってた。古戦場の地下神殿跡」

 

 「また怖そうな名前」

 

 「怖そうだな」

 

 レンは欠片を布に包んで、荷物袋にしまった。四つ目の欠片は、また別の守り手がいる。精霊は「我々とは異なるものが待っている」と言った。それが何を意味するのかは——行けばわかる。

 

 イレナがスープを椀によそって、全員に配った。レンはイレナから椀を受け取るとき、小さく頭を下げた。

 

 「ありがとう、イレナ」

 

 イレナは頷いた。それだけだが——口の端が、ほんの僅かに上がった。

 

 

 

 スープは温かくて、塩気が体に染みた。

 

 五人は焚き火の周りに座って、黙ってスープを飲んだ。言葉はなかったが、沈黙は重くなかった。疲労と安堵が入り混じった、穏やかな静けさだった。

 

 椀を空にして、二杯目をよそってもらった頃——サーシャが口を開いた。

 

 「ねえ」

 

 全員がサーシャを見た。

 

 「私のほう——ガルーダさんたちと一緒にいたとき。精霊に——見せられたの。幻を」

 

 レンは背筋を伸ばした。森の中で、ガルーダがサーシャを見たときの表情。サーシャが目を逸らしたときの横顔。あれは——

 

 「話さなくていいぞ」ガルーダが静かに言った。

 

 「いい。話す」サーシャは焚き火を見つめていた。炎が揺れるたびに、三つ編みの赤毛がオレンジ色に光る。「レンに聞いてほしいから」

 

 レンは黙って待った。

 

 「お父さんが出てきた」

 

 サーシャの声は平坦だった。感情を抑えているのではなく——何度も自分の中で反芻した言葉のように聞こえた。

 

 「狩りに行く朝の格好をしていた。弓を持って、猟犬を連れて。私が七歳のときに見た最後の姿と同じ」

 

 火が爆ぜた。薪の一つが割れて、火の粉が舞い上がる。

 

 「最初に見えたのは背中だったの。お父さん、いつもそうだった。朝早く出るから、私が起きたときにはもう背中を向けて歩いてた。追いかけて、裾を掴んで、『行かないで』って——七歳のときも、そうした」

 

 サーシャの指が、膝の上で弓の弦を無意識になぞっていた。

 

 「幻の中でも、走ったわ。追いかけた。でも——追いついたのよ。現実じゃ追いつけなかったのに。霧の中で振り返ったお父さんの顔が——笑ってた。『大きくなったな』って」

 

 レンの胸が熱くなった。七歳の女の子が追いかけた背中。十年経って、ようやく追いついた。

 

 「お父さんが私の弓を見たの。自分が使ってたのと同じ弓だから、すぐにわかったみたいで。それで——『弓は使ったか』って訊いた」

 

 サーシャの声が、初めて揺れた。

 

 「怖かった。その質問が。だって——お父さんの弓は猟師の弓よ。鹿を獲って、兎を獲って、家族を養うための道具。それを私は——人に向けた」

 

 「——人に」

 

 「カルネで弓を引いたとき、私はあんたを守るためだって思ったわ。嘘じゃない。でも——矢が刺さった瞬間、影士が倒れた瞬間。手が震えたの。震えてるのに、次の矢を番えた。三本目を引いたとき——弦に触れてる指の感覚が、狩りのときと同じだった。獲物を仕留めるときの、あの静かさと同じだった」

 

 レンの背筋が冷たくなった。サーシャがカルネで見せた静かさ——「動かないで」と弓を引いたまま告げたあの声。あれは覚悟だと思っていた。でも、サーシャ自身はそれを——

 

 「人を射るのが、うまくできてしまったの。お父さんの弓で。お父さんに教わったやり方で」

 

 サーシャは焚き火から目を離さなかった。炎が映る瞳の奥に、霧の森で見たものが残っているように見えた。

 

 「だから——お父さんに正直に言った。『使った。あなたの弓で人を射った。狩りの弓を、戦いの弓にした。しかも——うまくやれてしまった』って」

 

 長い沈黙があった。焚き火が低く鳴っている。

 

 「お父さんは黙って聞いてた。怒るかと思った。悲しむかと思った。弓を返せって——言われるかと思った」

 

 サーシャの声が掠れた。一瞬だけ。すぐに戻した。

 

 「でも——笑ったの」

 

 レンは息を止めた。

 

 「『よくやった』って。そのあと、こう言ったわ。『お前は弓を汚したんじゃない。弓の使い方を、一つ増やしたんだ』って」

 

 沈黙が落ちた。焚き火の音だけが続いている。

 

 「それだけ言って、猟犬を呼んで、また背中を向けて歩いていった。追いかけなかった。今度は——追いかけなくてよかった」

 

 サーシャの目が、光っていた。涙ではない。焚き火の光を反射しているだけだ。でも——その光は、焚き火だけでは説明がつかなかった。

 

 「嬉しかったのよ。怒られると思ったのに。弓を返せって——言われると思ったのに」

 

 「サーシャ」レンが呼んだ。

 

 「何」

 

 「お父さんは——猟師だったんだろ。弓で命を守ることを、知ってた人だ。サーシャが弓で仲間を守ったことを——怒るわけないよ」

 

 サーシャは何も言わなかった。ただ、膝を抱える腕に力が入った。

 

 「ありがとう」

 

 小さな声だった。レンにしか聞こえない大きさの。

 

 ギデオンが黙って薪を焚き火に足した。火勢が上がって、サーシャの顔をさらに明るく照らした。涙の痕はなかった。サーシャは泣いていない。泣くまい、と決めているのかもしれない。あるいは——泣く必要がないほど、答えをもらったのかもしれない。

 

 「サーシャ」ガルーダが静かに言った。「あのとき——森の中で、お前が弓を握りしめたまま動かなくなったとき。俺は何もできなかった」

 

 サーシャが顔を上げた。

 

 「ガルーダさん——」

 

 「精霊の幻はお前だけのものだ。他人が手を出せるものじゃない。だが——」

 

 ガルーダは言葉を切った。それから、不器用に続けた。

 

 「お前の父親が笑ったのは——正しいと思う。娘が仲間を守ったんだ。猟師なら、誇りに思う」

 

 サーシャは目を丸くした。ガルーダの口からそんな言葉が出るとは思わなかったのだろう。レンも驚いていた。ガルーダは感情を言葉にしない人だ。行動で示す人だ。それが——今夜は、言葉にした。

 

 「……ありがとうございます」

 

 サーシャの声は、さっきよりも大きかった。全員に聞こえる声で。

 

 

 

 夜が深くなった。焚き火に薪を足して、炎を維持する。空は晴れていて、星が見えた。二日間の霧の後では、星空がやけにきれいに見えた。

 

 「なあ」

 

 ギデオンが口を開いた。全員が顔を上げる。

 

 「全部終わった後——どうするつもりだ。七つの欠片を集めて、鍵を作って、闇の神を封じて。その後」

 

 重い問いだった。でも、今夜はその問いを受け止められる気がした。

 

 レンが最初に答えた。

 

 「村に帰る。ヤナ婆さんのところで薬師を続ける。カルロおじさんの手伝いもする。サーシャと——坂の上から夕日を見る」

 

 「それだけ?」サーシャが横目でレンを見た。

 

 「それだけだよ。それで十分だ」

 

 サーシャは少し笑った。それから、自分も答えた。

 

 「私は——もう少し遠くに行きたいかもしれない。村に帰るけど、ずっとはいない。たぶん。この旅で——知らない場所を見るのが、好きだってわかった」

 

 「弓を持って?」

 

 「弓を持って。お父さんの弓で、もっと遠くまで。猟師として——」

 

 言いかけて、サーシャは首を振った。

 

 「ううん。猟師じゃなくて。まだわからない。でも——弓は持っていく」

 

 「母の酒場に帰る」

 

 ギデオンだった。ギデオンは焚き火の向こうで干し肉の最後のひとかけを咥えながら、独り言のように言った。レンとサーシャの会話を受けてではなく、自分のタイミングで。

 

 「調査団は——続けるかもしれないし、辞めるかもしれない。でも、酒場のカウンターに立つ時間を作りたい」

 

 「お前が酒を注いでるの、見てみたいな」レンが笑った。

 

 「うるさいな」

 

 レンはガルーダを見た。

 

 「ガルーダさんは?」

 

 ガルーダは焚き火の炎を見つめたまま、答えなかった。長い沈黙が流れた。火が低く鳴っている。

 

 「……俺のことはいい」

 

 それだけだった。レンは追わなかった。ガルーダは自分の言葉を選ぶ人だ。今夜答える気がないなら、それにも理由がある。

 

 イレナも答えなかった。全員がイレナを見たが、イレナは焚き火を見つめたまま、口を開かなかった。代わりに——足元の地面に、木の枝で何かを描き始めた。

 

 レンは首を傾げた。サーシャが隣から身を乗り出して覗き込む。

 

 土の上に、細い線が走っていた。枝の先で丁寧に引かれた線。幹があった。枝があった。枝の先に、細かい葉が描かれている。

 

 木だ。あの白い幹の、銀色の葉をつけた木。ミドルウッドの精霊の木。

 

 イレナは黙って描いていた。焚き火の光で足元だけが照らされて、枝のペン先が土の上を走る音だけがしている。描き終えると、イレナは枝を置いて、自分の絵を見下ろした。

 

 「……きれいだった」

 

 それだけだった。でも、レンにはわかった。イレナの「その後」は、この一本の木の中にある。言葉にはしない。描くのだ。この人は——見たものを、手で残す人なのだ。

 

 「イレナ。描くの、上手いな」レンは素直に言った。

 

 イレナがレンを見た。少し驚いた顔。

 

 「ヤナ婆さんの調合室に、古い薬草図鑑があるんだ。絵がぼろぼろで、もう何の薬草かわからないのもある。新しく描いてくれる人がいたら——」

 

 「……考えておく」

 

 イレナの口元が、ほんの僅かに緩んだ。それはイレナにとっての笑顔だった。

 

 

 

 焚き火が爆ぜた。火の粉が、星空に向かって舞い上がった。

 

 レンは四人の顔を順に見た。サーシャ。ギデオン。イレナ。ガルーダ。焚き火に照らされた四つの顔。答えた者も、黙っている者も——それぞれの「その後」を胸に抱えている。

 

 星紋がなければ、この焚き火はなかった。五人がここにいることもなかった。使命は借り物でも——この夜は、自分たちのものだ。

 

 「いい夜だな」

 

 誰ともなく漏れた声に、誰も答えなかった。答える必要がなかった。

 

 

 

 夜が更けて、一人ずつ眠りに落ちていった。

 

 最初にイレナが目を閉じた。座ったまま、壁のように微動だにしない眠り方だった。次にギデオン。荷物を枕にして横になり、三十秒で寝息を立て始めた。霧の中で碌に眠れなかった疲れが一気に出たのだろう。

 

 ガルーダは見張りに立った。焚き火の向こう側で、外套を肩に掛けて座っている。背中が壁のように動かない。

 

 レンとサーシャだけが、まだ起きていた。

 

 「眠れないの?」サーシャが小声で訊いた。

 

 「いや。もう少しだけ——起きてたい」

 

 「私も」

 

 二人は並んで座っていた。焚き火の光が二つの影を地面に落としている。影は長くて、木々の幹まで伸びていた。

 

 「レン」

 

 「うん」

 

 「さっきの——『坂の上から夕日を見る』って言ったの、覚えてる?」

 

 「言ったよ。覚えてる」

 

 「あれ——二人で、って意味?」

 

 レンの頬が、焚き火とは別の理由で熱くなった。

 

 「えっと——」

 

 「いいわよ、答えなくて」サーシャがくすりと笑った。「今は」

 

 「ずるいだろ、それ」

 

 「ずるくない。私だって、さっきの『もう少し遠くに行きたい』は——まだ途中の話だもの」

 

 レンはサーシャの横顔を見た。焚き火の光に照らされた三つ編みの赤毛。鼻の頭にある小さなそばかす。まっすぐ前を見ている目。

 

 この顔を、ずっと知っている。

 

 「サーシャ」

 

 「何」

 

 「無事でよかった」

 

 サーシャは一瞬だけ目を見開いて——それから、ふっと息を吐いた。

 

 「あんたもね」

 

 二人は黙って、焚き火を見つめた。火の粉が舞い上がって、星空に溶けていく。遠くで虫が鳴いている。風がない、穏やかな夜だった。

 

 やがてサーシャが目を閉じた。レンの肩に、ほんの少しだけ、重みがかかった。

 

 レンは動かなかった。

 

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