死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

12 / 15
第十二話 東へ

 

 朝日が木々の隙間から差し込んで、レンの顔を温めた。

 

 目を開けると、焚き火は灰になっていた。白い灰の中に、赤い小さな火がまだ生きている。ガルーダが一晩中、火の番をしていたのだろう。

 

 サーシャはレンの隣で丸くなって眠っていた。三つ編みが半分ほどけて、赤い髪が顔にかかっている。肩に掛けてあった外套は——レンのものだ。いつの間に掛けたのか、自分でも覚えていない。

 

 レンはゆっくりと体を起こした。体の節々が軋む。地面で寝た疲れと、二日間の霧の森の消耗が、一晩では抜けきらない。

 

 「起きたか」

 

 ガルーダの声がした。焚き火の向こう側で、地図を広げている。外套を肩に掛けたまま、背筋を伸ばして座っている。徹夜しているはずなのに、疲れた顔をしていない。

 

 「ガルーダさん、寝てないでしょう」

 

 「慣れている」

 

 「体に悪いですよ」

 

 「薬師の意見として聞いておく」

 

 レンは荷物袋から水筒を取り出して、一口飲んだ。冷たい水が喉を通ると、頭がはっきりしてくる。

 

 「次の欠片の場所——精霊が言ってましたね。東の古戦場」

 

 「ああ。地図で確認した」ガルーダが地図を指した。「ミドルウッドから東に戻る形になる。古戦場は——大陸の中央東寄り、かつてのラーンシェル王国と東方の国が衝突した場所だ。現在は廃墟と荒れ地が残るだけで、人は住んでいない」

 

 「どれくらいかかりますか」

 

 「このルートなら——七日。途中に大きな街はないが、小さな村が二つある。そこで補給できる」

 

 七日。レンは右手を見た。星紋の三つの光が、安定して輝いている。四つ目の光点は——まだ見えない。東に手をかざすと、遠くから微かな引力を感じた。

 

 

 

 全員が起き出した頃には、太陽は木々の梢を越えていた。

 

 朝食は簡素だった。残りの干し肉と、ガルーダが持っていた携帯食。それにイレナが汲んできた沢の水。霧の森を出た安堵感があって、味はどうでもよかった。

 

 食事の後、レンは薬箱の整理をした。中身を全部出して、布の上に並べる。残量を確認し、足りないものをリストアップする。

 

 「塗り薬があと三回分。解毒薬は一瓶。熱冷ましが半分。睡眠薬はゼロ」

 

 「睡眠薬は——次の戦闘で使えるか」ギデオンがそばに来て訊いた。

 

 「材料があれば作れる。でも——この辺りには見つからないかもしれない。眠り茸は湿った環境を好むから」

 

 「霧の森の中なら——」

 

 「戻りたくないな、正直」

 

 ギデオンが小さく笑った。

 

 「同感だ」

 

 レンは薬箱に中身を戻しながら、道中で使える薬草を頭の中でリストアップした。東へ向かう途中の地形は——平野から丘陵地帯。乾燥した場所が多い。止血草は見つかるだろう。解熱に使えるヤナギの皮も。

 

 「レン」

 

 サーシャが弓の手入れをしながら呼んだ。

 

 「何」

 

 「私が見つけるわ、薬草。この旅で——覚えたもの、いくつかあるから」

 

 「覚えた?」

 

 「あんたが毎回『これは何々、これは何々』って独り言で言ってるの、聞いてたの。止血草は茎が赤くて葉が三枚。解熱のヤナギは川沿いに生える。合ってる?」

 

 レンは目を丸くした。

 

 「合ってる。完璧に合ってる」

 

 「当たり前でしょ。私の耳は良いのよ」

 

 サーシャは弓の弦を指で弾いた。軽い音が朝の空気に響いた。

 

 

 

 出発の支度が整った。

 

 五人は荷物を背負い、火の跡に土を被せ、野営地を片づけた。来たときよりもきれいに。ガルーダの習慣だった。痕跡を残さない。追跡者に情報を与えない。

 

 レンは荷物を背負い直しながら、霧の森を振り返った。森はもう霧に覆われていなかった。普通の深い森だ。広葉樹と針葉樹が混じり合い、鳥が鳴いている。二日間の体験が嘘のように、穏やかな朝の森だった。

 

 でも——あの森の中に、精霊はまだいる。銀色の葉の白い木は、まだ光っているのかもしれない。レンには見えないだけで。

 

 「行きたくなさそうな顔してるわね」

 

 サーシャが横に立った。

 

 「いや。振り返ってただけだ」

 

 「前を見なさいよ。振り返る暇があったら」

 

 「サーシャ、お前はいつも前向きだな」

 

 「後ろ向きが好きなあんたの代わりにね」

 

 レンは苦笑した。サーシャの毒舌は変わらない。霧の森を経ても、精霊の幻を見ても。この子は変わらない。それが——安心する。

 

 ガルーダが全員を見回した。

 

 「東へ向かう。次の欠片は古戦場の地下神殿跡だ」

 

 地図を広げて、ルートを指でなぞった。

 

 「精霊の領域を出たことで、調査団との連絡が回復する。途中の村で伝令を出す。王都にも現状を報告しておくべきだ」

 

 「虚影会のことも?」ギデオンが訊いた。

 

 「ああ。カルネでの交戦と、ヴェラの出現。調査団が知るべき情報だ。だが——」

 

 ガルーダは少し考えた。

 

 「伝令が虚影会に捕まる可能性がある。内容は最小限にする。欠片の所在地は伝えない」

 

 ガルーダは地図を畳みながら、独り言のように続けた。

 

 「伝令とは別に——この旅の記録を、俺自身の手で残すつもりだ」

 

 レンは顔を上げた。

 

 「記録?」

 

 「ああ。星紋の担い手が何を見て、何を感じ、どんな試練を越えたか。全部だ。百年後に、次の担い手が現れたとき——役に立つように」

 

 百年後。次の担い手。レンは言葉を失った。ガルーダは——百年先のことを考えている。自分がいなくなった後の世界で、次の誰かが迷わないように。

 

 「エルダンの記録は、断片しか残っていなかった」ガルーダの声は静かだった。「だから、レン、お前は何も知らない状態から始めなければならなかった。次の担い手には——もう少し楽をさせてやりたい」

 

 昨夜の焚き火で、ガルーダだけが「その後」を語らなかった。黙って炎を見つめていた。あのとき、この人はもう決めていたのだ。言葉にする前に——自分の中で、とっくに。

 

 「ガルーダさん」レンが声を絞り出した。「それ——最高の仕事じゃないですか」

 

 ガルーダの目尻が下がった。笑ってはいない。だが——緩んでいた。

 

 「仕事だ。俺の仕事だ。最初から——最後まで」

 

 ガルーダは懐から小さな手帳を取り出して、何かを書き留めた。記録はもう始まっているのだ。そして手帳をしまい、足を止めた。

 

 全員が、ガルーダの視線の先を追った。

 

 森の出口——昨日通ってきた方角に、何かがあった。木の幹に、紙が一枚、刺さっていた。短剣で木に留めてある。紙は白くて、文字が書いてある。

 

 昨夜はなかった。見張りをしていたガルーダが、見落とすはずがない。つまり——夜明け前に、誰かが来た。ガルーダの目を盗んで。

 

 ギデオンが無言で短剣を抜き、紙を取った。広げて、目を走らせた。表情が——固くなった。

 

 「何が書いてある」ガルーダの声が鋭い。

 

 ギデオンは紙をガルーダに渡した。ガルーダが読み、目を細めた。そしてレンを見た。

 

 「読め」

 

 レンは紙を受け取った。

 

 整った筆跡だった。丁寧で、一画一画に神経が行き届いている。この字を書いた人間の性格が、文字に滲んでいる。几帳面で、穏やかで——冷たい。

 

 

 

 紙にはこう書かれていた。

 

 「星紋の担い手様へ。

 

 三つ目の欠片を手にされたとのこと、おめでとうございます。順調なご旅行に敬意を表します。

 

 さて、少々お耳に入れたいことがございます。

 

 古戦場の地下神殿跡には、すでに私どもの者が向かっております。欠片を先にいただくつもりはございません——星紋の担い手にしか欠片は反応しないことは、承知しております。

 

 ただ、道中でお会いすることがあるかもしれません。そのときは、どうぞ穏やかにお話しさせてくださいませ。

 

 お体にはくれぐれもお気をつけて。

 

 敬具 ヴェラ」

 

 

 

 紙を持つレンの手が、僅かに震えていた。

 

 ヴェラ。カルネ廃城で対面した虚影会の幹部。丁寧な口調で、穏やかに脅す女。レンが個人の理由を問うたとき、笑みが消えた——あの人。

 

 「追われている——じゃない」レンは紙を見つめたまま呟いた。「先に、待ってる」

 

 「脅しだ」ギデオンの声が硬い。「わざと手紙を残して、動揺させる気だ」

 

 「脅しだけじゃない」ガルーダが腕を組んだ。「情報だ。虚影会はすでに古戦場に向かっている。ヴェラは我々の次の目的地を知っている——欠片の方角を、何らかの手段で把握しているということだ」

 

 サーシャが弓に手をかけた。

 

 「待ち伏せってこと?」

 

 「可能性はある。だが——」ガルーダは紙を折り畳んで、懐にしまった。「ヴェラの性格から考えると、罠とは少し違う。あの女は——正面から来る」

 

 「正面から来るほうが怖いですよ、あの人は」レンの声が自分でも意外なほど落ち着いていた。

 

 ガルーダが、レンを見た。長い一瞬、目が合った。

 

 「怖いか」

 

 「怖いです。でも——行くしかない」

 

 ガルーダは頷いた。それだけだった。問いと答え。それで十分だった。

 

 イレナが手紙の短剣を拾い上げて調べていた。刃を光に透かし、柄の装飾を確認する。

 

 「虚影会の制式短剣ではない。市場で買える汎用品。痕跡を残す気がない」

 

 「わざと残したのは手紙だけ、ってことか」ギデオンが腕を組んだ。「ヴェラは——自分の手で刺したんじゃない。部下にやらせた。あの女はこういう雑事を自分ではやらない」

 

 「つまり、この近くにまだ影士がいる可能性があるってこと?」サーシャの手が弓に伸びた。

 

 「いや」ガルーダが首を振った。「手紙を残す任務だけで引き上げたはずだ。ヴェラの目的は戦闘じゃない。こちらの心理を揺さぶることだ」

 

 レンは手紙の文面を思い返した。「穏やかにお話しさせてくださいませ」。ヴェラは話がしたいと言っている。何の話を。カルネで「欠片を集め終えたら渡せ」と要求したとき、レンが「あなた個人の理由は何か」と問い返した。あのとき——ヴェラの笑みが消えた。

 

 何かが、あの人の中で壊れかけている。あるいは——最初から壊れている。

 

 「ガルーダさん」

 

 「何だ」

 

 「ヴェラは——何がしたいんだと思いますか」

 

 ガルーダは長い間、東の空を見つめていた。

 

 「わからない。虚影会の幹部として動いている。闇の神の復活が目的のはずだ。だが——カルネでのあの女の態度は、信仰者のそれとは違った」

 

 「信仰者じゃない?」

 

 「闇の神を崇拝しているなら、もっと熱がある。ヴェラには——熱がなかった。冷えていた。任務をこなしているだけだ。自分の意志がどこにあるのかが——見えない」

 

 レンは頷いた。それが、カルネで感じた「空洞」の正体だ。ヴェラには個人の理由がない。あるいは、あったものを失った。

 

 「次に会ったとき——訊いてみたい」

 

 「ヴェラに?」

 

 「ああ。あの人が何を失ったのか」

 

 ガルーダはレンを見た。目に、何か——複雑なものが浮かんでいた。心配と、感心と、それから——ほんの少しの恐れ。

 

 「……お前は、敵の懐に飛び込むのが怖くないのか」

 

 「怖いですよ。めちゃくちゃ」

 

 「だが行く」

 

 「行きます。だって——訊かないとわからないでしょう」

 

 ガルーダはため息をついた。深い、重いため息だった。

 

 「……報告書に書いておく。『星紋の担い手は、敵の深影に個人面談を希望している』と」

 

 「それ書かないでください」

 

 サーシャが噴き出した。ギデオンが口元を手で隠した。イレナだけが、いつもの無表情のまま——でも目の奥がわずかに揺れていた。

 

 

 

 五人は東へ向かって歩き出した。

 

 霧の森を背にして、朝日の方角へ。レンが右手を前にかざすと、星紋の四つ目の光点が——まだ淡いが、初めて反応した。東の方角に、何かがある。

 

 「感じるか」ガルーダが訊いた。

 

 「微かに。まだ遠い。でも——ある」

 

 「七日だ。七日で着く」

 

 街道ではなく、丘陵地帯を縫うような細い道を選んだ。ガルーダの判断だ。ヴェラの手紙は、虚影会がこちらの動きを把握していることを意味する。主要な道は避ける。人目につかないルートで、東を目指す。

 

 歩きながら、レンは周囲の草木に目を配っていた。薬師の習慣だ。道端の草を見て、使えるものがないか確かめる。丘の斜面に、赤い茎の草が群生しているのを見つけた。

 

 「サーシャ。あれ、わかるか」

 

 「止血草でしょ。茎が赤くて、葉が三枚」

 

 「正解。摘んでおく」

 

 レンは道を外れて、止血草を数本摘んだ。根元から折って、葉を落として茎だけにする。この茎を乾燥させて粉末にすれば、傷口に振りかけるだけで血が止まる。ヤナ婆さんが最初に教えてくれた薬草だ。

 

 「お前がそうやって薬草を摘んでるのを見ると——安心する」

 

 ギデオンが後ろから言った。

 

 「安心?」

 

 「日常の動作だ。旅がどれだけ過酷になっても、お前は薬草を摘む。それが——普通のことのように見える」

 

 レンは止血草を荷物袋に入れながら、少し考えた。

 

 「普通のことだよ。薬師見習いが薬草を摘むのは」

 

 「ああ。その普通が——いい」

 

 ギデオンの言い方は不器用だったが、レンには伝わった。欠片を集めて、闇の神を封じて、虚影会と戦って。その合間に、道端の草を摘む。それが——レンがレンであることの証拠だ。星紋の担い手である前に、薬師見習い。それを忘れない限り、大丈夫だと。

 

 

 

 午後になると、風が出てきた。

 

 東からの風だ。乾いていて、少し砂の匂いがする。古戦場に近づいている証拠なのかもしれない。あるいは、単に丘陵地帯の風なのかもしれない。どちらにせよ、風はレンの髪を乱して、サーシャの三つ編みを揺らして、通り過ぎていった。

 

 レンは歩きながら、右手を見た。

 

 星紋の三つの星がはっきりと光り、四つ目がぼんやりと明滅している。東を指して。次の欠片を指して。

 

 荷物袋の中で、三つの欠片が微かに振動していた。共鳴だ。四つ目が近づくにつれて、三つの石の振動が強くなっていく。鍵の破片が——集まりたがっている。

 

 ヴェラの手紙が、レンの頭の中でちらついた。「穏やかにお話しさせてくださいませ」。あの丁寧な字。あの冷たい笑み。

 

 穏やかに話す気など、ないだろう。

 

 でも——こちらも、黙って聞くだけのつもりはない。カルネであの人に問いかけたとき、何かが揺れた。ヴェラの笑みが消えた、あの瞬間。あそこに——何かがある。

 

 レンはまだ知らない。ヴェラが何を抱えているのか。虚影会が本当に求めているものが何なのか。でも——知りたいとは思っている。怖いけれど。怖いまま歩くのには、もう慣れた。

 

 「レン」

 

 サーシャが横から呼んだ。

 

 「あそこ。丘の上」

 

 サーシャが指差した先に、丘の頂上があった。草原の向こう側に、広い平地が見える。その平地の遥か遠く——地平線に近いあたりに、色が違う場所があった。草原の緑が途切れて、灰色と茶色の荒れ地が広がっている。

 

 「あれが……」

 

 「古戦場だ」ガルーダが追いついて言った。「まだ遠い。だが——見えた」

 

 レンは東の地平線を見つめた。あの荒れ地の下に、四つ目の欠片が眠っている。そして——ヴェラの部下が、すでにそこに向かっている。

 

 七日。七日で、あの場所に着く。

 

 サーシャが隣にいる。ギデオンが後ろにいる。イレナがその隣を歩いている。ガルーダが最後尾を守っている。

 

 五人だ。ここまで五人で来た。ここから先も——五人で行く。

 

 朝の光は午後の光に変わり、五人の影は短くなっていた。だが影の向きは変わらない。東を指している。五つの影が、一つの道の上を進んでいく。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。