死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です 作:メリィ
扉の内側は広間だった。
丸天井が高くて、松明の光が届かなかった。床は滑らかな石で、中央に大きな円形の台座が置かれていた。台座の表面には、無数の名前が刻まれていた。
レンは近づいて見た。
「人の名前ですか」
「兵士たちの名だろう」とガルーダが言った。「戦場で死んだ者たちの」
三万の名前。全部がここに刻まれているわけじゃないにしても、台座の表面はびっしりと埋まっていた。細かい字で、風化しかけた文字で、けれど一つ一つが確かに人の名前だった。
こういう場所だったのか、とレンは思った。
欠片が落ちた場所というのは、全部こういう場所だった。古竜が眠る洞窟、騎士たちが果てた廃城、精霊が宿る深い森。ただ強い魔力があるだけじゃなく、何かが深く根を張っている場所だった。
「ここで試練が来るんですか」
「おそらく」
「守り手はどこに」
「近い」
ガルーダの声が緊張していた。普段と変わらない口調だったが、それだけにわかった。
広間の奥に、もう一つの通路があった。
通路に踏み込んだ瞬間、声が明確になった。
言葉ではなかった。感情の塊が直接流れ込んでくるようなもので、レンは足を止めそうになった。怒りだけじゃなかった。悲しみも混じっていた。疲れも混じっていた。死にたくなかった、という感触がそこにあった。
「レン」
サーシャが腕をつかんだ。
「大丈夫」
「顔が真っ白だよ」
「大丈夫です、ちょっと」
何かが話しかけてきていた。言葉じゃなかったが、伝わってきた。
*お前も来たのか。お前も俺たちを踏み台にしに来たのか。*
「違います」とレンは呟いた。
「何?」
「……独り言です」
*使命のために来たんだろう。世界を救うために。俺たちが死んだのと同じように、何かのために来たんだろう。*
「そうじゃ——」
*うるさい。使命を語る者の言葉は聞き飽きた。百年前の英雄も同じことを言った。俺たちの怒りを認める、と言った。でも英雄が去った後も俺たちはここにいる。*
通路が広くなって、また広間に出た。
レンは足を止めそうになった。
体の芯から力が抜けていく感じがした。戦闘の疲れじゃなかった。優しかった。怒りなら跳ね返せる。怒りには輪郭がある。でも優しさには輪郭がなかった。じわじわと染み込んでくる。抵抗すればするほど、抵抗すること自体が疲れた。
膝が折れかけた。
「レン!」
サーシャの声がした。
「近づかないで」とギデオンが言った。「星紋の担い手への試練だ。他者が踏み込むと——」
「わかってる。でも」
「待て」
ガルーダの声が割り込んだ。低く、短く、でも確かだった。
「あいつはまだ立っている」
その声が、遠くから届いた。
立っている。そうだ、まだ立っていた。足を踏ん張った。膝に力が入らなかった。それでも動かなかった。
こちらの広間は天井が低く、四方の壁に無数のくぼみがあった。くぼみの一つ一つに蝋燭のような光があった。でも蝋燭じゃなかった。光は揺れ動いていて、くぼみから溢れそうになっていた。
「これが守り手か」
ギデオンが静かに言った。
光の一つが台座のほうへ流れた。その光がぶつかり合って、形になった。輪郭があって、でも顔がなかった。人の形というより、かつて人だったものの残像に近かった。それが台座の上に立って、レンを見た。
「星紋の担い手」
声ではなかった。でも言葉として伝わってきた。
「来たか」
「来ました」
「なぜ来た」
「欠片を集めるために」
「使命か」
「……そうです」
「やはり同じだ」
形が揺れた。四方の光が震えた。声が重なった。言葉ではなく感情が、何十も何百も同時に押し寄せてきた。
レンは足を踏ん張った。
声が重なると体が重くなった。
疲れではなかった。外から圧がかかってくるような、それが体の内側まで入り込んでくるような感じだった。何かを諦めさせようとしていた。立っているのがしんどくなって、前に進む気力が削れていった。
目を閉じた。
瞼の裏に何かが見えた。戦場だった。炎だった。走っている人たちの後ろ姿だった。倒れている人たちだった。誰かが叫んでいた。何かに向かって叫んでいたが、その声は届いていなかった。届いたとしても何も変わらなかった。
怒りじゃなかった。悲しくて、疲れていて、でも終わらなかった。ただそれだけだった。
「レン」
遠くでサーシャの声がした。
「聞こえてるか」
ギデオンだった。
「……聞こえてます」
聞こえていた。ただ届くのに時間がかかった。
「レン!」
サーシャの声がした。
手を伸ばされた。つかめなかった。一歩動こうとしたが、足が重くて動かなかった。
*諦めろ。お前もここに残れ。使命も英雄も関係ない。ただ休め。もう歩かなくていい。*
眠くなってきた。怒りじゃなかった。優しかった。怒りより優しさのほうが怖かった。
「違う」
声が出た。自分でも驚いた。
「俺が使命で来たのは本当です。欠片を集めなきゃいけない理由がある。でも——」
足を上げた。重かった。それでも動いた。
「俺が今ここにいるのは、自分で来ることを選んだからです。諦めさせようとしてもだめです。俺には帰りたい場所があるから」
「帰りたい場所」と形が繰り返した。
「あります」
「使命が終わっても残るものか」
「あります。絶対に」
*お前は信じるのか。使命が終わっても自分の場所があると。*
「信じます」
形が揺れた。
「なぜ信じられる」
レンは考えた。ほんの一瞬だけ考えた。
「仲間がいるから」
形が静止した。
光が揺れた。
長い沈黙だった。レンには長く感じた。実際には数秒だったかもしれない。
「仲間」と形が繰り返した。
「そうです」
「仲間がいれば、使命が終わった後も、帰れると信じられるのか」
「信じます」
「なぜ」
レンは考えた。考えながら、一人ひとりの顔を思い浮かべた。サーシャが怒る顔。ギデオンが困った顔。イレナが無言で隣に座る姿。ガルーダが短く頷く瞬間。
「この旅で一緒に来た人たちが、使命が終わっても俺の仲間であることは変わらないから」
「使命が終われば縁が切れることもある」
「切れないと思います。使命で繋がってるんじゃないから」
「ではなぜ繋がっている」
「一緒に怖い思いをしたから」
形が揺れた。
「それだけか」
「それで十分だと思います」
静かになった。
波が引くように、圧力が薄れた。四方の光が揺れた。台座の形が揺れた。
「お前は使命のために来た。しかし自分の生のために答えた」
「そうです」
「それが違いだ。百年前の英雄は——」
形が止まった。
「エルダンは何て言ったんですか」
少し間があった。
「彼は使命のために来た、と答えた。それは本当のことだった。彼は嘘をつかなかった。でも彼には、使命以外に帰りたい場所があったかどうかを、我々は知らない」
「……そうですか」
「お前には、ある」
「あります」
形がゆっくりと崩れた。光に戻った。光が台座に収まった。台座の中央に、赤い石が浮かんだ。
炎みたいな赤だった。
手に取ると、熱かった。熱くて、でも燃えなかった。戦場の焚き火の温かさに似ていた。
第四の欠片だった。
振り返ると、仲間たちが入り口近くにいた。
サーシャが胸に手を当てて息を整えていた。ギデオンが壁に手をついていた。イレナは真っ直ぐ立っていたが、目が少し赤かった。ガルーダだけが変わらない顔をしていたが、こちらに歩いてくる足がいつもより速かった。
レンは膝をついた。
気がついたら床に片膝をついていた。立っていようとして体が動かなかった。欠片を手の中で確認した。赤い石。熱かった。でも燃えなかった。
「レン!」
三人の声が同時に来た。足音がして、サーシャが駆けてきた。肩に手をかけられた。
「立てる?」
「立てます」
「嘘くさい」
「ちょっと待てば」
「待ちません」
サーシャとギデオンが左右から腕を支えた。立たせてくれた。足がふらついた。
イレナが近づいてきた。何も言わなかった。反対側に立って、肩を支えた。
「ありがとうございます」
イレナが頷いた。目が赤かった。泣いていたのか、と気づいた。
「……大丈夫でしたか」
「大丈夫じゃなかった」
短い答えだった。でも確かな答えだった。
「大丈夫か」
ガルーダが聞いた。
「大丈夫です」
「欠片は」
「あります」
「試練、通りました」
「見ていた」
「どのくらいかかりましたか」
「……数分」
そんなものか、と思った。数分で自分の核心を問われた。数分で百年前の怒りに向き合った。
「もう、ほんとに顔色が悪くて死ぬかと思った」
サーシャが言った。
「大げさだろ」
「大げさじゃない」
「ありがとう、サーシャ」
彼女が手を離した。少し顔を逸らした。
「……お礼を言われる筋合いはない」
声が少し震えていた。