死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

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第十五話 怨念の声

 

 扉の内側は広間だった。

 

 丸天井が高くて、松明の光が届かなかった。床は滑らかな石で、中央に大きな円形の台座が置かれていた。台座の表面には、無数の名前が刻まれていた。

 

 レンは近づいて見た。

 

 「人の名前ですか」

 

 「兵士たちの名だろう」とガルーダが言った。「戦場で死んだ者たちの」

 

 三万の名前。全部がここに刻まれているわけじゃないにしても、台座の表面はびっしりと埋まっていた。細かい字で、風化しかけた文字で、けれど一つ一つが確かに人の名前だった。

 

 こういう場所だったのか、とレンは思った。

 

 欠片が落ちた場所というのは、全部こういう場所だった。古竜が眠る洞窟、騎士たちが果てた廃城、精霊が宿る深い森。ただ強い魔力があるだけじゃなく、何かが深く根を張っている場所だった。

 

 「ここで試練が来るんですか」

 

 「おそらく」

 

 「守り手はどこに」

 

 「近い」

 

 ガルーダの声が緊張していた。普段と変わらない口調だったが、それだけにわかった。

 

 

 

 広間の奥に、もう一つの通路があった。

 

 通路に踏み込んだ瞬間、声が明確になった。

 

 言葉ではなかった。感情の塊が直接流れ込んでくるようなもので、レンは足を止めそうになった。怒りだけじゃなかった。悲しみも混じっていた。疲れも混じっていた。死にたくなかった、という感触がそこにあった。

 

 「レン」

 

 サーシャが腕をつかんだ。

 

 「大丈夫」

 

 「顔が真っ白だよ」

 

 「大丈夫です、ちょっと」

 

 何かが話しかけてきていた。言葉じゃなかったが、伝わってきた。

 

 *お前も来たのか。お前も俺たちを踏み台にしに来たのか。*

 

 「違います」とレンは呟いた。

 

 「何?」

 

 「……独り言です」

 

 *使命のために来たんだろう。世界を救うために。俺たちが死んだのと同じように、何かのために来たんだろう。*

 

 「そうじゃ——」

 

 *うるさい。使命を語る者の言葉は聞き飽きた。百年前の英雄も同じことを言った。俺たちの怒りを認める、と言った。でも英雄が去った後も俺たちはここにいる。*

 

 

 

 通路が広くなって、また広間に出た。

 

 レンは足を止めそうになった。

 

 体の芯から力が抜けていく感じがした。戦闘の疲れじゃなかった。優しかった。怒りなら跳ね返せる。怒りには輪郭がある。でも優しさには輪郭がなかった。じわじわと染み込んでくる。抵抗すればするほど、抵抗すること自体が疲れた。

 

 膝が折れかけた。

 

 「レン!」

 

 サーシャの声がした。

 

 「近づかないで」とギデオンが言った。「星紋の担い手への試練だ。他者が踏み込むと——」

 

 「わかってる。でも」

 

 「待て」

 

 ガルーダの声が割り込んだ。低く、短く、でも確かだった。

 

 「あいつはまだ立っている」

 

 その声が、遠くから届いた。

 

 立っている。そうだ、まだ立っていた。足を踏ん張った。膝に力が入らなかった。それでも動かなかった。

 

 こちらの広間は天井が低く、四方の壁に無数のくぼみがあった。くぼみの一つ一つに蝋燭のような光があった。でも蝋燭じゃなかった。光は揺れ動いていて、くぼみから溢れそうになっていた。

 

 「これが守り手か」

 

 ギデオンが静かに言った。

 

 光の一つが台座のほうへ流れた。その光がぶつかり合って、形になった。輪郭があって、でも顔がなかった。人の形というより、かつて人だったものの残像に近かった。それが台座の上に立って、レンを見た。

 

 「星紋の担い手」

 

 声ではなかった。でも言葉として伝わってきた。

 

 「来たか」

 

 「来ました」

 

 「なぜ来た」

 

 「欠片を集めるために」

 

 「使命か」

 

 「……そうです」

 

 「やはり同じだ」

 

 形が揺れた。四方の光が震えた。声が重なった。言葉ではなく感情が、何十も何百も同時に押し寄せてきた。

 

 レンは足を踏ん張った。

 

 

 

 声が重なると体が重くなった。

 

 疲れではなかった。外から圧がかかってくるような、それが体の内側まで入り込んでくるような感じだった。何かを諦めさせようとしていた。立っているのがしんどくなって、前に進む気力が削れていった。

 

 目を閉じた。

 

 瞼の裏に何かが見えた。戦場だった。炎だった。走っている人たちの後ろ姿だった。倒れている人たちだった。誰かが叫んでいた。何かに向かって叫んでいたが、その声は届いていなかった。届いたとしても何も変わらなかった。

 

 怒りじゃなかった。悲しくて、疲れていて、でも終わらなかった。ただそれだけだった。

 

 「レン」

 

 遠くでサーシャの声がした。

 

 「聞こえてるか」

 

 ギデオンだった。

 

 「……聞こえてます」

 

 聞こえていた。ただ届くのに時間がかかった。

 

 「レン!」

 

 サーシャの声がした。

 

 手を伸ばされた。つかめなかった。一歩動こうとしたが、足が重くて動かなかった。

 

 *諦めろ。お前もここに残れ。使命も英雄も関係ない。ただ休め。もう歩かなくていい。*

 

 眠くなってきた。怒りじゃなかった。優しかった。怒りより優しさのほうが怖かった。

 

 「違う」

 

 声が出た。自分でも驚いた。

 

 「俺が使命で来たのは本当です。欠片を集めなきゃいけない理由がある。でも——」

 

 足を上げた。重かった。それでも動いた。

 

 「俺が今ここにいるのは、自分で来ることを選んだからです。諦めさせようとしてもだめです。俺には帰りたい場所があるから」

 

 「帰りたい場所」と形が繰り返した。

 

 「あります」

 

 「使命が終わっても残るものか」

 

 「あります。絶対に」

 

 *お前は信じるのか。使命が終わっても自分の場所があると。*

 

 「信じます」

 

 形が揺れた。

 

 「なぜ信じられる」

 

 レンは考えた。ほんの一瞬だけ考えた。

 

 「仲間がいるから」

 

 形が静止した。

 

 光が揺れた。

 

 長い沈黙だった。レンには長く感じた。実際には数秒だったかもしれない。

 

 「仲間」と形が繰り返した。

 

 「そうです」

 

 「仲間がいれば、使命が終わった後も、帰れると信じられるのか」

 

 「信じます」

 

 「なぜ」

 

 レンは考えた。考えながら、一人ひとりの顔を思い浮かべた。サーシャが怒る顔。ギデオンが困った顔。イレナが無言で隣に座る姿。ガルーダが短く頷く瞬間。

 

 「この旅で一緒に来た人たちが、使命が終わっても俺の仲間であることは変わらないから」

 

 「使命が終われば縁が切れることもある」

 

 「切れないと思います。使命で繋がってるんじゃないから」

 

 「ではなぜ繋がっている」

 

 「一緒に怖い思いをしたから」

 

 形が揺れた。

 

 「それだけか」

 

 「それで十分だと思います」

 

 

 

 静かになった。

 

 波が引くように、圧力が薄れた。四方の光が揺れた。台座の形が揺れた。

 

 「お前は使命のために来た。しかし自分の生のために答えた」

 

 「そうです」

 

 「それが違いだ。百年前の英雄は——」

 

 形が止まった。

 

 「エルダンは何て言ったんですか」

 

 少し間があった。

 

 「彼は使命のために来た、と答えた。それは本当のことだった。彼は嘘をつかなかった。でも彼には、使命以外に帰りたい場所があったかどうかを、我々は知らない」

 

 「……そうですか」

 

 「お前には、ある」

 

 「あります」

 

 形がゆっくりと崩れた。光に戻った。光が台座に収まった。台座の中央に、赤い石が浮かんだ。

 

 炎みたいな赤だった。

 

 手に取ると、熱かった。熱くて、でも燃えなかった。戦場の焚き火の温かさに似ていた。

 

 第四の欠片だった。

 

 

 

 振り返ると、仲間たちが入り口近くにいた。

 

 サーシャが胸に手を当てて息を整えていた。ギデオンが壁に手をついていた。イレナは真っ直ぐ立っていたが、目が少し赤かった。ガルーダだけが変わらない顔をしていたが、こちらに歩いてくる足がいつもより速かった。

 

 レンは膝をついた。

 

 気がついたら床に片膝をついていた。立っていようとして体が動かなかった。欠片を手の中で確認した。赤い石。熱かった。でも燃えなかった。

 

 「レン!」

 

 三人の声が同時に来た。足音がして、サーシャが駆けてきた。肩に手をかけられた。

 

 「立てる?」

 

 「立てます」

 

 「嘘くさい」

 

 「ちょっと待てば」

 

 「待ちません」

 

 サーシャとギデオンが左右から腕を支えた。立たせてくれた。足がふらついた。

 

 イレナが近づいてきた。何も言わなかった。反対側に立って、肩を支えた。

 

 「ありがとうございます」

 

 イレナが頷いた。目が赤かった。泣いていたのか、と気づいた。

 

 「……大丈夫でしたか」

 

 「大丈夫じゃなかった」

 

 短い答えだった。でも確かな答えだった。

 

 「大丈夫か」

 

 ガルーダが聞いた。

 

 「大丈夫です」

 

 「欠片は」

 

 「あります」

 

 「試練、通りました」

 

 「見ていた」

 

 「どのくらいかかりましたか」

 

 「……数分」

 

 そんなものか、と思った。数分で自分の核心を問われた。数分で百年前の怒りに向き合った。

 

 「もう、ほんとに顔色が悪くて死ぬかと思った」

 

 サーシャが言った。

 

 「大げさだろ」

 

 「大げさじゃない」

 

 「ありがとう、サーシャ」

 

 彼女が手を離した。少し顔を逸らした。

 

 「……お礼を言われる筋合いはない」

 

 声が少し震えていた。

 

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