死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です 作:メリィ
歩き始めて半日で、レンの足はもう悲鳴を上げていた。
薬草採取で足腰は鍛えているつもりだった。山道を何往復もして、重い籠を背負って帰る日々だった。だから、街道を歩くくらいどうってことない——と思っていた。
甘かった。
平坦な道というのは、山道とはまったく別の筋肉を使う。同じ動きを延々と繰り返す単調さが、じわじわと膝の裏と足首を削っていく。しかもガルーダの歩調は、見た目以上に速い。あの大きな体で大股に進むから、レンは三歩で追いつくところを四歩踏まなければならなかった。
「ちょっと、速くない?」
サーシャが声を上げた。レンの隣を歩いている。三つ編みの赤毛が、歩くたびに背中で揺れていた。
「普通の速さだ」とガルーダは振り返りもしない。
「普通の基準がおかしいのよ」
「調査団の基準で言えば、これでも遅い」
「私たちは調査団じゃないんだけど」
ガルーダの肩が微かに動いた。笑っているのか呆れているのか、背中だけでは判断できない。
レンはちらりと後ろを振り返った。
ギデオンが五歩ほど離れて歩いている。真面目な顔つきで、周囲に目を配りながら。調査団の若手らしく、足運びに無駄がない。レンたちの会話が聞こえているはずだが、表情を変えずに前を見ている。
その半歩後ろにイレナ。こちらはもっと読めない。フードを深く被り、目元だけがわずかに覗いている。出発してからまだ一言も聞いていない。存在感が薄いのではなく、自分から薄くしているような——そういう気配だった。
五人の隊列は、自然とそうなった。先頭がガルーダ。続いてレンとサーシャ。離れてギデオンとイレナ。前の三人と後ろの二人の間に、目に見えない線が引かれている。
昼の休憩で、その線は少しだけ揺らいだ。
街道沿いの大きな樫の木の根元に腰を下ろしたとき、ガルーダがカルロからもらった干し肉の包みを開いた。五人分に割り、黙って配る。レンとサーシャは「ありがとうございます」と受け取り、ギデオンは軽く頭を下げた。
イレナは、差し出された干し肉を見て、ほんの一拍止まった。それから何も言わずに受け取った。
「イレナは肉が嫌いだったか」とガルーダが訊いた。
「いえ」
一言。それ以上は続かなかった。
レンは干し肉をかじりながら、水筒の水を飲んだ。カルロおじさんの干し肉は塩加減が絶妙で、歩いた後の体に染みる。
「うま」
思わず声が出た。サーシャが「行儀悪い」と笑う。
「でもほんとにうまいんだよ。カルロさんの干し肉は村でも評判で——」
レンはそこまで言いかけて、ふと口をつぐんだ。村の話をすると、急に喉の奥が詰まる感じがした。まだ半日しか経っていないのに。
「……まあ、とにかくうまいです」
誤魔化すように水筒を傾けた。サーシャが横目でこちらを見たが、何も言わなかった。こういうとき、幼馴染というのは便利だ。言わなくてもわかってくれるし、わかった上で放っておいてくれる。
ギデオンがおもむろに口を開いた。「塩の入れ方が上手い。干し方にも癖がある。その村の人、元は料理人か?」
「え? いや、薬草商ですけど」
「薬草商で、この塩梅か」ギデオンは感心したように干し肉を噛んだ。「筋がいい」
レンは目を瞬いた。ギデオンが自分から話しかけてきたのは初めてだ。しかも干し肉の話で。
「ギデオンさんは料理わかるんですか」
「ギデオンでいい。さん付けは慣れない」
「じゃあ、ギデオン。料理好き?」
「好きというか——」ギデオンは一拍置いた。「調査団にいると自炊が基本だから、自然と覚える」
「なるほど」
会話はそこで途切れた。でも、途切れ方が少し柔らかくなった気がした。沈黙が「壁」ではなく「間」になった、という感じだ。
イレナは黙って干し肉を食べていた。小さく、丁寧に噛んでいる。誰にも話しかけないし、話しかけられるのを待っている様子もない。ただそこにいる。
五人の間にある見えない線は、昼休みの間に少しだけ薄くなった——かもしれない。レンにはそう思えた。
午後はさらに歩いた。
道は緩やかな丘陵地帯に入り、上り下りが出てくる。レンの足はもう感覚が怪しくなっていたが、不思議と止まろうという気にはならなかった。前を行くガルーダの背中が、ただ淡々と進み続けている。止まらない人の後ろを歩いていると、自分も止まれなくなる。
サーシャは平気な顔をしていた。弓を担いだまま、時折道端の花を見たり、鳥の声に耳を傾けたりしている。あの子は昔から体力があった。村の子どもたちと駆けっこして、男子を含めて負けたことがない。
「サーシャ、疲れてないの」
「全然」
「嘘でしょ」
「本当よ。弓を引くには足腰が基本だから、走り込みは毎朝やってたの」
「知らなかった」
「レンは毎朝寝てたからね」
返す言葉がなかった。
日が西に傾き始める頃、ガルーダが足を止めた。街道から少し外れた場所に、小さな草地が広がっている。焚き火の跡があり、石が輪になって並んでいた。旅人が使う野営地だろう。
「今日はここだ」
レンは荷物を下ろした瞬間、膝から崩れそうになった。
「だいぶ堪えたな」ガルーダがちらりとこちらを見た。
「いえ、まだ全然——」
「嘘が下手だな」
サーシャが横で笑いを噛み殺している。
テントを張る作業で、レンの不器用さが存分に発揮された。
ガルーダが荷物から取り出したのは、丸めた帆布と細い支柱の束だった。組み立て方を一度だけ実演する。支柱を十字に組み、帆布を被せ、四隅を杭で留める。手順自体は単純だ。
サーシャが一発で完成させた。
支柱の角度も帆布の張り具合も、ガルーダの見本とほぼ同じだ。四隅の杭を石で打ち込む手際まで様になっている。
「上出来だ」とガルーダがうなずいた。
「弓の整備で手先は慣れてるから」とサーシャは涼しい顔で返した。
レンは一回目、支柱の組み方を間違えた。十字ではなく平行に組んでしまい、帆布が真ん中で垂れ下がった。
「逆だ」とガルーダが短く言った。
二回目。十字にはなったが、杭の打ち方が甘く、帆布を被せた瞬間に全体が傾いた。風でもないのに、ゆっくりと崩壊していく。
「……あ」
サーシャが額を押さえている。
三回目。今度は杭を深く打ち込んだ。帆布を慎重に被せる。支柱が少し斜めだったが、なんとか自立した。完璧ではないが、寝られないことはない。
「まあ、及第点だ」とガルーダが言った。
「三回目で及第点って、どうなんですか」
「一回で諦めなかったのは偉い」
褒めているのか慰めているのか微妙なところだったが、ガルーダの目が少しだけ柔らかかったので、たぶん褒めているのだろうとレンは思うことにした。
ギデオンが近づいてきた。レンのテントを見て、支柱の根元を軽く蹴る。ぐらつかない。
「悪くない」
「ほんとに?」
「最初から完璧に張れるやつのほうが珍しい。俺も最初は五回やり直した」
「五回」
「団長には内緒だ」
ギデオンの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。笑顔というほどではない。でも、初めて見る表情だった。
夕食の準備は、意外な人物が仕切った。
イレナが荷物から小さな鍋と革袋を取り出したとき、レンは最初、何をするのかわからなかった。彼女は水場から水を汲み、鍋に入れ、焚き火にかけた。革袋から乾燥した豆と根菜、干し肉の切れ端を取り出して、手際よく刻んでいく。
誰にも何も言わない。ただ、手が動いている。
レンは焚き火の薪を足しながら、その手つきを横目で見ていた。慣れている。包丁さばきに迷いがなく、具材を鍋に入れる順番にも理由がある。
「イレナ、手伝おうか」
声をかけたが、首を横に振られた。
「一人のほうがやりやすい」
一言。でもそれは拒絶ではなかった。ただの事実として言っている。レンはうなずいて、おとなしく焚き火の番に戻った。
しばらくして、鍋から湯気が立ち始めた。豆と根菜と干し肉が煮えた匂いが、夕暮れの草地に広がる。
レンの腹が鳴った。かなり大きく。
サーシャが「恥ずかしくないの」という顔をしたが、レンだって止められるものなら止めたい。
イレナが鍋から木碗にスープをよそい、五人に配った。レンは受け取って、一口飲んだ。
口の中に、じんわりとした温かさが広がった。
塩加減が、ちょうどいい。豆はほっくりと煮えていて、根菜は歯応えを残している。干し肉の旨味がスープ全体に溶け込んでいて、一口ごとに歩き疲れた体が内側から緩んでいく。
「……おいしい」
思わず出た。本心だった。
イレナの手が、一瞬だけ止まった。
自分の碗を口元に運ぼうとしていた動きが、ほんの一拍凍る。それから何事もなかったように碗を傾けたが、耳の先が赤い。フードの隙間から覗く耳が、焚き火の明かりの中で、はっきりと色づいていた。
「俺も同感だ。うまい」ギデオンが短く言った。
「よく仕込んであるな」ガルーダも碗を傾けながらうなずいた。
サーシャは何も言わず、二口目を飲んで、小さく笑った。
イレナは黙ってスープを飲み続けていた。耳の赤さは、しばらく消えなかった。
食後、ガルーダが今後の行程を説明した。
「このまま北へ一日半。昼過ぎに宿場町のセイラに着く。そこで一泊して物資を補給する」
「宿があるんですか」
「小さい町だが、宿屋は二軒ある。風呂にも入れる」
「風呂」
レンとサーシャが同時に反応した。たった一日歩いただけで、風呂という言葉がこれほど輝いて聞こえるとは思わなかった。
「浮かれるな。セイラから先は山道だ。宿場町はない」
「わかってます。わかった上で楽しみにしてます」
ガルーダは鼻を鳴らしたが、否定はしなかった。
ギデオンとイレナがテントに引き上げた後も、レンはしばらく焚き火のそばに座っていた。サーシャは先に寝た。「明日に備える」と言い残して、自分のテントに潜り込んでいった。あの子は切り替えが早い。
火の向こう側で、ガルーダが見張りの姿勢を取っている。腕を組み、背中を木に預けて、目だけが暗闇を見ている。
「ガルーダさん、寝なくていいんですか」
「後半はギデオンと交代する。お前は寝ろ」
「もう少しだけ」
レンは空を見上げた。
村とは比べものにならないほど、星が近かった。街道沿いには灯りがない。闇が深いぶん、星の一つ一つが鮮烈に輝いている。天の川が空を横切って、白い帯のように流れていた。
こんな空を見るのは初めてだ、とレンは思った。村にいた頃は、屋根裏の小窓から見える星が全部だった。今は空の端から端まで、遮るものが何もない。
右手が、かすかに温かかった。
星紋だ。光っているわけではない。でも、空の星に呼応するように、皮膚の奥でじんと熱を持っている。
レンは右手を開いて、星空にかざした。手のひらの向こうに星が見える。七つの点が描く円と、空に散らばる無数の星。どこかに繋がりがあるような、ないような。
百年前の英雄も、こうやって星を見たのだろうか。
旅の初日の夜に、自分の手を眺めて、先のことを考えただろうか。
「考えすぎると眠れなくなるぞ」
ガルーダの声が、炎越しに届いた。目は暗闇のほうを向いたままだ。
「考えてるっていうか——」
レンは手を下ろした。
「なんか、変な感じだなって。昨日まで薬草を摘んでた人間が、今日はこんなところにいて」
「そういうものだ。人生の転がり方は、事前には見えない」
「ガルーダさんもそうだったんですか」
「調査団に入ったのは二十歳のときだ。それまでは漁師の息子で、魚の捌き方しか知らなかった」
「漁師」
意外だった。あの厳めしい顔と体格は生まれつきのものだと思っていたが、元は海の男だったのか。
「人は変わる。場所が変われば、自分も変わる」ガルーダは焚き火に枝を一本くべた。「だから、今のお前が何者かは気にするな。旅が終わる頃には、別の答えが出ている」
レンは少し黙った。
それから、「はい」と答えた。
焚き火が爆ぜた。小さな火の粉が舞い上がって、星空に向かって消えていく。
テントに戻る前に、レンはもう一度だけ右手を見た。
温かい。
ほんの少しだけ、昨日より確かに。
セイラの町が見えたとき、レンは思わず足を止めた。
丘を越えた先に、赤茶けた屋根が並んでいる。二十軒、三十軒——いや、もっとあるかもしれない。アルデン村の三倍はありそうな町並みが、夕陽に照らされて琥珀色に輝いていた。
街道の両脇に石造りの建物が並び、荷馬車が行き交い、人の声が聞こえる。煙突から夕飯の煙が上がっている。遠くに鐘楼のようなものが見えた。
「でかい……」
「これで小さい町だ」とガルーダが素っ気なく言った。
「嘘でしょ」
「王都はこの十倍ある」
レンは口を開けたまま、しばらく閉じられなかった。アルデン村の広場が世界の中心だと思っていた自分が、急に小さく見える。
サーシャも目を丸くしていたが、すぐに「行こう」と歩き出した。好奇心が足を動かすタイプだ。レンも慌ててついていく。
町に入ると、さらに圧倒された。
石畳が広い。道幅がアルデン村の倍はある。商店の軒先には色とりどりの布が掛けられ、香辛料の匂いと焼きたてのパンの匂いが混ざり合っている。鍛冶屋の打つ槌音、子どもの笑い声、酒場から漏れる歌。全部がいっぺんに耳に入ってくる。
「きょろきょろするな」ガルーダが前を歩きながら言った。「田舎者だと思われる」
「田舎者なんですけど」
「だから言っている」
ギデオンが後ろで小さく笑った気配がした。
宿は「赤屋根亭」という名前だった。
名前の通り、屋根が鮮やかな赤い瓦で葺かれている。二階建ての木造で、入口の上に錆びた鉄の看板が揺れていた。赤い屋根の絵と、ジョッキを掲げた人物の絵。どちらもだいぶ色褪せている。
ガルーダが扉を開けると、中は食堂を兼ねた広い一階だった。木のテーブルが八つほど並び、半分ほどが埋まっている。商人風の男たち、旅装の女二人組、隅で一人で飲んでいる老人。天井の梁からランタンが吊るされ、油の匂いと料理の湯気が低く漂っていた。
「部屋は三つ取る」とガルーダがカウンターの女将に言った。「男二部屋、女一部屋だ」
レンとギデオン。ガルーダが一人。サーシャとイレナ。そういう割り振りらしい。
「先に飯だ。荷物を置いたら降りてこい」
食堂のテーブルに五人で着いたとき、レンの目の前に運ばれてきた料理を見て、声が出た。
厚切りの焼き肉に、山盛りの茹で芋。パンは白い。白いパンだ。アルデン村で食べていた黒パンとは別の食べ物みたいに柔らかくて、ちぎった瞬間に湯気が立った。
「白パン……」
「そんなに珍しいか」ガルーダが自分の皿に手を伸ばしながら訊いた。
「村じゃ祭りの日しか出ないやつです」
「街道沿いの宿なら普通だ」
レンは一口食べて、目を閉じた。うまい。小麦の甘さが口の中に広がる。疲れた体に染みるのは昨日のスープと同じだが、方向が違う。昨夜が「体を癒す温かさ」なら、今夜は「知らない世界の味」だった。
サーシャは焼き肉に夢中だった。「この肉、何の肉?」と女将に訊いて、「鹿肉だよ」と返されて目を輝かせている。猟師の娘の血が騒ぐのかもしれない。
イレナは静かに食べていた。ただ、白パンをちぎる手つきが丁寧で、一切れごとに口に運ぶ間が長い。味わっている、とレンは思った。
ギデオンは黙々と食べ進めていたが、茹で芋に塩を振る手が止まった。視線がレンのほうを向く。
「この芋、調味がいい。ここの女将、腕がある」
「ギデオン、ほんと食べ物の話になると饒舌だね」
「そうか?」
「昨日の干し肉もそうだったし」
「……気づかなかった」
ギデオンは少し居心地悪そうに芋を口に入れた。レンは笑いそうになったが、堪えた。からかうつもりはない。ただ、こういう一面が見えるのが嬉しかった。
食事が半分ほど進んだ頃だった。
ガルーダの手が、ふと止まった。
パンをちぎる動作の途中で、指が空中で固まる。一瞬だけ。それからゆっくりとパンを口に運んだが、目の色が変わっていた。穏やかだった瞳に、鋭い光が差している。
レンはその変化に気づいた。隣のサーシャも気づいたらしく、肉を噛む動きが止まっている。
ガルーダは何も言わなかった。ただ、視線が食堂の奥——入口に近いテーブルの方向を、ほんの一瞬だけ横切った。
レンはそちらを見ようとした。
「見るな」
低い声だった。食事を続けたまま、口をほとんど動かさずにガルーダが言った。
「……え」
「自然にしていろ。食べ続けろ」
レンは言われた通り、白パンをちぎった。手が少し震えていたが、パンを口に入れることで誤魔化した。味がしなかった。
サーシャが何事もなかったように鹿肉を切りながら、小声で訊いた。「何が見えたの」
「入口寄りの席。フードを被った男が一人。こちらを見ていた」
「偶然では?」
「飯を頼んでいない。酒も飲んでいない。座っているだけだ。それで人を見ている」
サーシャの手が一瞬止まり、すぐにナイフを動かし始めた。
ギデオンは表情を変えずに芋を食べ続けていた。だが、右手の位置がさりげなく腰の短剣の近くに移動している。イレナも同様に、目だけが鋭くなっていた。調査団の二人は、ガルーダの声色だけで状況を察したらしい。
「どうしますか」レンは小声で訊いた。
「今夜は動かない」ガルーダはパンの最後の一切れを口に入れた。「向こうも動く気はないだろう。見ているだけだ」
「見ている、って——」
「監視だ。俺たちが何人で、どこへ向かうのかを確認している」
レンの喉が詰まった。監視。誰が。何のために。
「虚影会、ですか」
ガルーダは答えなかった。でも、否定もしなかった。
「明日は早く出る。夜明け前だ」
それだけ言って、ガルーダは席を立った。女将に部屋の鍵をもらい、階段へ向かう。その背中はいつもと変わらない。大きく、真っ直ぐで、揺るがない。
でも、あの目の色は確かに変わっていた。
レンは残りの白パンを見下ろした。さっきまであんなにおいしかったのに、今は味がわからない。
「食べなさい」とサーシャが隣で言った。声は普段通りだ。「明日に響くわよ」
レンはうなずいて、パンを口に押し込んだ。
部屋は二階の奥だった。
木の寝台が二つ、小さな窓が一つ。それだけの部屋だ。ギデオンは先に横になり、「おやすみ」と短く言って目を閉じた。寝つきの早い人間だ。
レンは寝台に横になったが、眠れなかった。
天井の木目を眺めている。宿の壁は薄く、隣の部屋から誰かの寝返りの音が聞こえる。階下の食堂からは、まだ酒を飲んでいる客の笑い声がくぐもって届いてくる。
フードの男。
あの男は、まだ下にいるのだろうか。それとも、もう出て行ったのか。ガルーダが「動かない」と判断したということは、今夜は安全だということだろう。たぶん。おそらく。
でも、「監視」という言葉が頭から離れなかった。
昨日まで、旅は——楽しかった。足は痛かったし、テントは三回やり直したし、自分の不甲斐なさに何度もため息をついた。でも、イレナのスープはおいしかったし、ギデオンが笑ってくれたし、星空は綺麗だった。
それが今夜、急に色が変わった。
誰かに見られている。自分たちの行き先を、知らない誰かが追っている。
右手が、温かい。でもそれは昨夜のように心地よい温かさではなく、じりじりとした、落ち着かない熱だった。星紋も何かを感じているのだろうか。
廊下を、足音が通り過ぎた。
レンは息を止めた。
規則的な足音。革靴の底が木の床を踏む、硬い音。宿の客だろうか。でも、この時間に廊下を歩く理由は何だ。
足音は、レンたちの部屋の前で——止まらなかった。
そのまま通り過ぎて、階段を降りていく。遠ざかる。消える。
レンは止めていた息を吐いた。
何でもなかったのかもしれない。ただの宿泊客かもしれない。でも、心臓はまだ速く打っていて、掌が汗ばんでいた。
隣の寝台で、ギデオンが静かに寝息を立てている。
本当に眠っているのだろうか、とレンはふと思った。調査団の人間は、こういう夜に本当に眠れるものなのか。それとも、眠っているふりをして、耳だけは起きているのか。
わからなかった。
レンは毛布を引き上げて、目を閉じた。
明日は夜明け前に出る。ガルーダがそう言った。だから眠らなければならない。でも、まぶたの裏には食堂の光景がちらつく。フードの奥の、見えなかった顔。
いつの間にか、階下の笑い声が止んでいた。
宿全体が静まり返っている。窓の外で、風が一度だけ鳴った。
明日の夜明けが、遠かった。
赤屋根亭の裏通りに、人影があった。
クレインは壁に背を預け、フードの奥から宿の二階を見上げていた。窓の灯りが一つ、また一つと消えていく。最後に残った明かりが、奥から二番目の部屋——標的の部屋だった。
しばらくして、その灯りも消えた。
クレインはフードの内側から薄い石板を取り出した。掌に収まるほどの黒い石。表面に銀の線で紋様が刻まれている。指先で紋様の中央に触れると、石板がかすかに熱を帯びた。
報告は簡潔に行う。それが影士の作法だ。
「セイラ。赤屋根亭。対象を確認。五名。内訳、星紋の担い手と思われる少年一、弓使いの少女一、王立魔導調査団員三。調査団側の指揮は第三班団長ガルーダ・ベイン」
石板の紋様が青白く脈動した。受信の合図だ。
「団長が食堂で私に気づいた。接触はなし。明朝、早発ちの可能性が高い。北へ向かうと推測。指示を」
石板が沈黙した。
一呼吸。二呼吸。クレインは壁に寄りかかったまま、待った。裏通りには酔客の笑い声が遠く聞こえるだけで、人通りはない。
石板が震えた。
紋様の光が変わった。青白から、淡い紫へ。深影からの直接応答を示す色だ。
声は聞こえない。石板は文字を浮かべる。銀の線が組み替わり、紋様の中に文字列が現れた。
『ご苦労さま。よく見つけましたね』
丁寧な言い回し。深影ヴェラの特徴だった。命令や叱責のほうがまだ楽だ、とクレインは思わないようにした。感想は仕事の妨げになる。
『星紋の担い手が本物なら、欠片に導かれるはずです。放っておいても、欠片のある場所へ向かうでしょう』
文字が消え、新しい文字が浮かぶ。
『消しますか、と訊きたいのでしょうね。答えは、いいえ。泳がせなさい』
クレインの指が石板の縁に触れた。報告の続きを送る。
「泳がせる理由を伺っても」
間が空いた。ヴェラが考えているのか、あるいは最初から答えを用意していて、間を置いているだけなのか。クレインには区別がつかなかった。
『欠片は守り手に護られています。守り手を排し、封印を解き、欠片を取り出す——それには膨大な力が要ります。あるいは、星紋の担い手が試練を受ける必要がある。私たちには星紋がありません』
文字が消える。
『つまり、欠片を集められるのは、あの少年だけ。集め終えたところで頂戴すれば、手間が省けますね』
クレインは石板を見つめた。合理的だった。虚影会に星紋はない。守り手の試練を突破する手段もない。担い手に集めさせて、最後に奪う。
「了解しました。追跡を継続します」
『お願いします。ただし、気づかれないように。調査団の団長は勘が鋭い。距離を取りなさい』
「承知しました」
『それと、クレイン』
文字が一拍遅れて浮かんだ。
『あの少年が欠片を一つでも手にしたら、すぐに知らせてください。そのとき、私が動きます』
石板の光が消えた。
通信終了。クレインは石板をフードの内側にしまい、壁から背を離した。
宿の二階は暗い。全員が眠ったか、眠ろうとしているのだろう。明朝の早発ちに備えて。
クレインは裏通りを歩き出した。足音は立てない。影士の足運びは、訓練の最初の一年で叩き込まれる。石畳の上でも土の上でも、音を殺して歩く技術。
北。ヴェルト山脈。
おそらく最初の欠片はあの山脈のどこかにある。星紋が導く先に、守り手がいる。
クレインの仕事は、見届けることだ。少年が欠片を手にするまで、影のように。
感情は要らない。判断も要らない。観察し、報告し、指示を待つ。
セイラの夜は静かだった。月が雲に隠れ、裏通りは闇に沈んでいる。クレインの姿は、その闇に溶けるように消えた。
翌朝。
レンが目を開けたとき、窓の外はまだ暗かった。
隣の寝台はすでに空で、ギデオンの姿がない。毛布がきちんと畳まれている。いつ起きたのか、まったく気づかなかった。
廊下でガルーダの声がした。「出るぞ」
レンは寝台から飛び起きた。荷物をまとめ、ブーツを履き、部屋を出る。廊下にはもう全員が揃っていた。ガルーダ、ギデオン、イレナ。そしてサーシャ。
「おはよう」とサーシャが小声で言った。目の下に薄い隈がある。彼女も眠れなかったのかもしれない。
「おはよう」
一階に降りると、女将が起きていて、布に包んだパンと干し肉を渡してくれた。「朝飯代わりだよ。気をつけてお行き」
ガルーダが代金を置き、礼を言った。
外に出ると、空はまだ紺色だった。星が残っている。通りには誰もいない。昨日の賑わいが嘘のように、セイラの町は眠っていた。
レンはふと、昨夜のフードの男のことを思い出した。あの男は今、どこにいるのだろう。
ガルーダが北を向いて歩き出した。何も言わない。振り返りもしない。
レンはその背中を追った。
町を出る石畳が途切れ、土の道に変わった。昨日と同じ感触。柔らかくて、少し湿った、朝の土。
セイラの赤い屋根が、背後で小さくなっていく。
誰も振り返らなかった。
セイラを出て二日目の午後、道が変わった。
石畳はとうに消えていた。セイラの北門を出た時点で土の道になり、それが徐々に細くなって、やがて道と呼べるかどうかも怪しくなった。地面に草が増え、足元に石が転がり始める。傾斜が出てきた。
「街道はここまでだ」とガルーダが立ち止まって言った。「ここから先は登山道になる。足元に注意しろ」
レンは前を見上げた。
木々の間から、岩肌が覗いている。ここまでは丘と森だった景色が、急に険しくなっている。道というより獣道に近い。
「登山道って言うか、これ道ですか」
「調査団の基準では道だ」
「その基準がおかしいとセイラの前にも言った気がする」とサーシャが半眼で言った。
ガルーダは返事をしなかったが、背中が揺れた。
登り始めてすぐ、レンは後悔した。
足が痛い。平地を歩くのとはまるで違う。一歩ごとに太腿の筋肉が悲鳴を上げ、膝が笑い、息が上がる。薬草採取で山道は慣れているはずだった。でも、アルデン村の裏山とヴェルト山脈では格が違う。裏山が階段なら、こちらは壁だ。
「レン、大丈夫?」
サーシャが後ろから声をかけてきた。彼女は息一つ乱れていない。
「大丈夫……全然大丈夫……」
「全然大丈夫じゃなさそうだけど」
ギデオンが追い抜きざまに、さりげなくレンの荷物の紐を直した。位置を少し上にずらしただけだが、肩への食い込みが嘘のように楽になった。
「荷物は高い位置で背負え。重心が下がると疲れる」
「……ありがとう」
「礼はいい。遅れるな」
ギデオンは前へ行った。足取りに迷いがない。山道に慣れた人間の歩き方だった。
樹林帯を抜けた。
それまで両脇を覆っていた木々が途切れ、視界が一気に開けた。岩場の上に出たのだ。足元は灰色の岩。頭上は青い空。そして——
正面に、山脈があった。
レンは立ち止まった。
白い。頂は雪で覆われている。それが午後の陽を受けて、金色に光っていた。稜線が左右に連なり、空を切り裂くように伸びている。一つの山ではなく、山が幾重にも重なり合って壁を作っている。その壁が、世界の端から端まで続いているように見えた。
風が吹いた。山から下りてくる冷たい風だ。土と岩と雪の匂いが混じっている。レンの癖毛が激しく揺れた。
全員が、立ち止まっていた。
ガルーダも。ギデオンも。サーシャも。
そして——
「きれい」
イレナが言った。
レンは振り返った。イレナはフードを下ろしていた。初めて見る、フードなしの顔だ。風に髪がなびいている。黒い髪。その目が、山脈の白と金を映して、まっすぐに前を見ていた。
声は小さかった。独り言のように聞こえた。でも、確かに自分から発した言葉だった。誰かに促されたのでも、質問に答えたのでもない。ただ、目の前の光景を見て、口をついて出た一言。
旅が始まって四日目。イレナの口から自発的に出た、最初の言葉だった。
サーシャがレンの隣で、ほんの一瞬だけ微笑んだ。何も言わなかった。言わなくていいことは、言わないほうがいい。レンもそう思った。
「休憩だ」とガルーダが岩に腰を下ろした。「水を飲め。ここからが本番だ」
麓の野営地に着いたのは、日が山の向こうに沈みかけた頃だった。
岩場の窪みに平らな場所がある。風よけの岩壁が背後にあり、前方は開けて山脈が見渡せる。焚き火の跡はないが、地面が踏み固められている。以前にも誰かがここで夜を明かしたのだろう。
テントを張る作業は、初日よりずっと手早くなっていた。レンは二回目で成功した。支柱の角度を覚えたのだ。サーシャに「成長したね」と言われたが、嫌味なのか本気なのか判断がつかなかった。たぶん両方だ。
焚き火を囲んで夕食を取った後、ガルーダが口を開いた。
「明日から山に入る。いくつか伝えておく」
全員の目がガルーダに集まった。炎の光が、その厳めしい顔に陰影を刻んでいる。
「ヴェルト山脈は普通の山ではない。百年前、エルダン・ソールが最初の欠片を手にした場所だ。それ以来、山の奥には残留魔力が漂っている。動物が近づかない区域がある。方角がわからなくなる場所もある」
「方角がわからなくなるって、迷うってことですか」
「磁石が効かなくなる。感覚も狂う。だから星紋を頼りにする」ガルーダはレンの右手を顎で示した。「欠片が近づけば、星紋が反応するはずだ。お前の右手が道標になる」
レンは右手を見た。今は何も感じない。温かさも、光も。
「反応しなかったら?」
「そのときは俺の勘と、調査団の記録を頼る。だが——」ガルーダは火を見つめた。「たぶん反応する。ここまで来て、何も起きないはずがない」
ギデオンが補足した。「山に入ったら、単独行動は禁止です。常に全員が見える距離にいてください。特に霧が出たときは動かないこと」
「霧?」
「ヴェルト山脈の中腹から上は、突然霧が出る。視界が五歩先まで落ちることもある。そのとき慌てて動くと崖から落ちる」
レンはうなずいた。冗談で言っている口調ではなかった。
イレナが火に薪をくべた。火の粉が舞い上がる。その向こうに、山脈の稜線が夜空に黒く浮かんでいた。星を遮る、巨大な影。
「怖いか」とガルーダがレンに訊いた。
「正直に言うと、はい」
「正直でいい。怖がらない奴は山で死ぬ」
「それは励ましですか」
「忠告だ」
サーシャが鼻で笑った。「ガルーダさんの励ましは毎回怖いのよね」
「励ましたつもりはない」
「だから余計に怖いの」
その夜、レンは焚き火の番を買って出た。
ガルーダは「お前には早い」と言ったが、ギデオンが「前半だけなら」と取りなしてくれた。前半をレン、後半をギデオンとガルーダで分ける。イレナとサーシャは先に休んだ。
火に薪をくべながら、レンは山を見ていた。
闇の中に、山脈がある。姿は見えない。でも、そこにあることはわかる。空気の冷たさが違う。風の匂いが違う。空を覆い隠す巨大な存在が、すぐそこで息をしている。
右手に、違和感があった。
温かさではない。もっとはっきりした感覚。皮膚の下で何かが動いている。脈打っている。心臓の鼓動とは別のリズムで、ゆっくりと、しかし確実に。
レンは右手を裏返した。
光っていた。
淡い。蛍の光よりも弱い。でも確かに、皮膚の下から青白い光が滲んでいる。七つの点のうち、一つだけ。北を指す星のように、山脈の方角に向かって、ぼんやりと輝いていた。
「レン」
サーシャの声だった。
振り返ると、テントの入口からサーシャが顔を出していた。眠れなかったのか、目がはっきりしている。
「その手……光ってない?」
レンは右手を掲げた。二人の間で、青白い光が揺れている。
「……光ってる」
サーシャがテントから出てきた。レンの隣に座り、その手をじっと見た。
「山の方を向いてる」
「うん。なんか——引っ張られてる感じがする。こっちに来い、って」
「欠片?」
「たぶん」
二人は黙って、光る手を見つめた。
炎の赤い光と、星紋の青い光。二つの色が、レンの掌の上で混ざり合っている。
山が、呼んでいる。
レンにはそう感じられた。あの巨大な闇の向こうに、百年間誰にも触れられなかった何かがあって、それが今、自分の右手に向かって手を伸ばしている。
「明日だね」とサーシャが言った。
「うん」
「怖い?」
レンは考えた。正直に。
「怖い。でも——行きたい」
サーシャは何も言わず、ただうなずいた。
山の風が吹いた。炎が揺れた。星紋の光は消えなかった。
山に入った。
それだけの言葉で表すには、あまりにも過酷な一日だった。
道はない。正確に言えば、ガルーダが「道だ」と言い張る岩と岩の隙間がある。人一人がやっと通れる幅で、左右は切り立った岩壁。足元には苔むした石がごろごろ転がっていて、一歩踏み外せば膝を割る。
会話はほとんどなかった。全員が足元に集中していた。息が荒い。空気が薄くなっているのか、それとも登りがきついだけなのか。たぶん両方だ。
レンは何度か滑った。三度目に、岩に足を取られて前のめりになったとき、横から腕が伸びた。
ギデオンだった。
レンの腕を掴み、引き戻す。力が強い。軽々とレンを岩の上に立たせて、何事もなかったように前を向いた。
「……ありがとう」
「足を見ろ。手は後だ」
そう言ったギデオンが、次の瞬間、自分の足を滑らせた。
ずるっ、と革靴の底が苔の上を走り、ギデオンの体が横にぶれた。レンが咄嗟に腕を掴んだ。二人で岩壁にもたれかかり、数秒間、そのまま固まった。
「……足を見ろ、って言ったよね」
「黙れ」
ギデオンの耳が赤い。後ろでイレナが口元を手で隠したのが見えた。笑っている。たぶん。
サーシャが後方から叫んだ。「何してるのよ、二人とも!」
「いや、ちょっと——」
「ちょっとじゃないでしょ、こっちは渋滞してるんだけど!」
先頭のガルーダが振り返りもせずに言った。「遊ぶな」
「遊んでません!」
レンとギデオンの声が揃った。顔を見合わせて、どちらからともなく笑いがこぼれた。こんな山の途中で、息も切れ切れで、笑うような場面ではない。でも、笑いは止まらなかった。
一日目の夕方、岩陰に身を寄せて野営した。
テントは張れなかった。地面が岩だらけで杭が刺さらない。外套を岩壁に掛けて簡易の屋根にし、身を寄せ合って眠る。風が冷たい。麓とはまるで空気が違う。
夕食はイレナの乾燥スープと、残りの硬パンだった。火を熾すのに手間取ったが、ギデオンが手際よく火打ち石を使い、枯れ枝に火を移した。
誰もあまり喋らなかった。疲労が全身に染みていて、口を動かす余力がない。
レンは右手を見た。光は昨夜より強くなっている。七つの点のうち二つが明るく、残りもうっすらと輪郭を浮かべている。方角は変わらず、北の上方——山の奥を指している。
「近いのか」ガルーダが訊いた。
「わからないです。でも、昨日より引っ張られてる感じが強い」
「明日は、お前が先頭だ」
レンは顔を上げた。「俺が?」
「星紋が道を知っている。俺の記録より、そっちのほうが確かだ」
考えてみれば当然のことだ。でも、これまでずっとガルーダの背中を追って歩いてきたから、自分が先頭に立つという発想がなかった。
「大丈夫です。やります」
ガルーダはうなずいた。それだけだった。余計な言葉は要らない。
二日目。
レンが先頭に立った。
右手の星紋を頼りに歩く。不思議な感覚だった。目の前に道はない。岩と灌木と霧。でも、右手が「こっちだ」と告げている。言葉ではなく、熱として。温かさが増す方向に進めば、正しい。離れれば、手が冷える。
体内に磁石を埋め込まれたようなものだ、とレンは思った。自分の意志とは関係なく、何かが引っ張っている。
「右です。この岩を回り込んで、上に」
レンが指し示す方向を、ガルーダが確認する。地図と記録を照合し、短くうなずく。
「合っている。調査団の古い記録と一致する」
それを聞いて、レンは安堵した。星紋を信じてはいたが、自分の感覚だけで五人の命を預かるのは心許なかった。ガルーダの記録という裏付けがある。それだけで足取りが軽くなる。
午前中は霧が出た。ギデオンが言っていた通り、視界が一気に狭まる。五歩先が白い壁になった。全員が立ち止まり、互いの姿を確認した。
「動くな」ガルーダの声が霧の中に響く。
レンは右手を握った。熱は消えていない。方角もぶれていない。でも、見えない。前も後ろも上も下も、白い霧に呑まれている。
サーシャがレンの袖を掴んだ。無言だった。手が冷たい。
「大丈夫」とレンは言った。自分に言い聞かせるように。「こっちだってわかる。星紋が消えてない」
霧は昼前に晴れた。嘘のように。
視界が戻った瞬間、全員がほっと息を吐いた。イレナまでもが、ふう、と小さく息をついていた。
午後。
星紋の熱が急に強くなった。
それまでじわじわと温かかった右手が、明確に脈打ち始めた。心臓のように。どくん、どくん、と一定の間隔で。
「近い」レンは立ち止まった。「すごく近い。この上——」
岩壁を見上げた。垂直に近い斜面が人の背丈の倍ほどそびえている。だが、その上に何かがある。岩の隙間から、冷たい風が吹き下ろしてくる。風の中に、何かの匂いが混じっていた。鉱石のような、金属のような、古い匂い。
ガルーダが岩壁に手をかけた。足場を確認し、登り始める。ギデオンが続く。二人の手を借りて、サーシャ、レン、イレナの順で登った。レンは三回足を滑らせたが、もう誰も笑わなかった。
岩壁の上に立ったとき、レンの目の前に、それはあった。
洞窟だ。
岩の割れ目が広がって、ぽっかりと口を開けている。人が三人並んで通れるほどの幅。奥は暗く、何も見えない。だが、風はそこから吹いてくる。山の内臓から漏れ出す息のように、冷たく、重い風。
そして、洞窟の入口の上に。
紋様が刻まれていた。
レンは息を呑んだ。
七つの星。円を描くように並んだ七つの点が、岩に深く刻み込まれている。百年の風雨に晒されて角は丸くなっていたが、線ははっきりと残っている。刻んだ者の、強い意志を感じる彫り方だった。
右手の星紋が、応えた。
淡い光が強くなり、七つの点すべてが一斉に輝いた。岩に刻まれた紋様と、レンの手の甲の紋章。同じ形。同じ数。同じ配置。
「エルダンが刻んだものだ」ガルーダが低く言った。「記録にある。百年前、彼は最初の欠片を手にした洞窟の入口に、後の担い手のために道標を残した」
レンは岩の紋様に手を伸ばした。触れる寸前で止めた。指先と岩の間で、空気が震えている。
「……百年前の人が、俺のために」
「お前のため、とは限らない」ガルーダが静かに言った。「いつか来る誰かのために、だ。それがたまたまお前だった」
レンはうなずいた。指を引いた。
洞窟の口が、暗く開いている。風が吹いている。星紋が脈打っている。
「入るぞ」
ガルーダが先に立った。ランタンに火を入れ、闇の中へ一歩を踏み出す。
中は広かった。
入口の狭さが嘘のように、洞窟の内部は天井が高い。ランタンの光が届かないほど上まで岩壁がそびえている。足元は平らな岩盤で、水が薄く張っている。一歩踏み出すたびに、ぱしゃ、と音が反響した。
空気が違う。外の風とはまったく異質な、重く、冷たい空気だ。呼吸するたびに肺の奥まで冷やされる。
「全員、固まって歩け。壁から離れるな」
ガルーダの声が反響した。岩壁に跳ね返り、何重にも重なって消えていく。
レンは右手を前に掲げた。星紋が光っている。ランタンより淡い光だが、暗闇の中ではそれが道標になった。光は奥へ、さらに奥へと導いている。
どれくらい歩いただろう。十分か、三十分か。時間の感覚が曖昧になる。水の音と足音だけが繰り返される。
サーシャが隣で息を詰めた。
「何かある」
彼女の目が暗闇の先を凝視している。弓に手をかけていた。猟師の娘の目は、暗がりでも利く。
レンはランタンを掲げた。光が届く範囲が広がり、そして——
白いものが見えた。
最初は岩だと思った。だが、岩にしては形が滑らかすぎる。曲線を描いている。長く、太く、天井近くまで伸びている。
骨だった。
「竜の……」ギデオンが呟いた。
肋骨だ。何本もの白い骨が、洞窟の壁のように左右に並んでいる。一本の太さがレンの胴回りほどある。その内側を、一行は歩いていたのだ。
さらに奥へ進むと、全容が見えた。
頭骨。
巨大な竜の頭骨が、洞窟の最奥に横たわっていた。下顎だけでレンの身長の倍はある。牙が残っている。長い年月で石化しかけた牙が、上下から噛み合うように並んでいる。
そして——その奥に、眼窩があった。
二つの空洞が、暗闇の中でこちらを見ていた。
レンは足を止めた。全身の毛が逆立っている。空の眼窩だ。何もない。何もないはずだ。
赤い光が灯った。
眼窩の奥、頭骨の深いところから、じわりと赤い光が滲み出してきた。蝋燭の炎のように揺れている。ゆっくりと、二つの眼窩が同時に赤く染まっていく。
死んだはずの竜が、目を開けた。
空気が変わった。洞窟全体が震えている。水面が波打ち、天井から小さな石が落ちてくる。圧迫感。呼吸が重くなる。足が動かない。
ガルーダが剣の柄に手をかけた。ギデオンとイレナも武器を構える。サーシャが矢をつがえた。
レンだけが、動けなかった。
動けないのではない。動く必要がなかった。右手の星紋が、静かに光っている。脈打ちが止まっている。穏やかな、凪のような光。
恐れなくていい、と星紋が言っている気がした。
竜の眼窩の赤い光が、レンの青い光を見つめていた。
竜の赤い目が、レンを見ていた。
時間が止まったわけではない。水の音は聞こえる。仲間たちの呼吸も聞こえる。でも、誰も動けなかった。動かないのではなく、動けない。空気そのものが固まったような圧迫感が、洞窟全体を満たしていた。
ガルーダが声を絞り出した。「……残留意識だ」
喉が詰まっているような、かすれた声だった。あのガルーダが。
「記録にある。古竜は死後もなお、意識の欠片を遺す。それが守り手となって、欠片を護り続ける」
「護る、って——」サーシャの声が震えている。弓を構えたまま、弦を引けずにいた。「あれと戦うの?」
「違う」ガルーダは首を振った。「試練だ。守り手は、担い手にふさわしいかどうかを問う。戦いではない」
赤い光が揺れた。
眼窩の奥で、炎のような光が脈動している。ゆっくりと。古い時計のように。百年間、ずっとこの速さで打ち続けてきたのかもしれない。
レンの右手が、光っていた。
青白い光が、竜の赤い光に向かって伸びている。呼び合っている。引かれ合っている。
そして、レンは気づいた。
圧迫感は全員に等しくかかっているわけではない。自分だけ——自分だけが、前に進める。足が動く。体が動く。他の四人は金縛りにあったように硬直しているのに、レンだけが自由だった。
「レン」ガルーダの声が背中に届いた。「行け。お前にしかできない」
「でも——」
「行け」
レンは振り返った。四人の顔が見える。ガルーダの厳めしい顔。ギデオンの緊張した目。イレナの静かな瞳。
サーシャが、うなずいた。唇を引き結んで、目だけで「行きなさい」と言っていた。
レンは前を向いた。
竜の頭骨へ向かって、一歩を踏み出した。
近づくにつれて、重さが増した。
物理的な重さではない。体にのしかかるのは、空気ではなく、気配だ。巨大な存在の気配。かつてこの骨を纏って空を飛んだもの、山を揺るがせたもの、何百年と生きたものの残り香。
レンの膝が笑った。足が震えている。歯の根が合わない。右手だけが温かく、それだけが今の自分を支えていた。
竜の頭骨の前に立った。
近い。下顎の牙がレンの頭上にある。見上げると、眼窩の赤い光が真上から注いでいる。まるで、巨大な目に見下ろされているような——いや、実際にそうだ。これは竜の目だ。死んだ竜の、最後の意識が宿った目。
声が聞こえた。
声、と呼んでいいのかわからない。音ではなかった。空気の振動ではなかった。頭の中に直接、言葉が届く。低く、重く、途方もなく古い響き。
——なぜ来た。
三語。それだけで、レンの全身が強張った。
言葉に意味がある以上に、存在に重みがある。声を出しているのは死者だ。生きていた頃は山と同じ大きさだったかもしれない存在が、最後の力でこの問いを守り続けている。
レンは口を開いた。声が出ない。喉が詰まっている。乾いている。
二度、三度、息を吸った。右手を握った。温かさを確かめた。
「——星紋が、ここに来いって言ったから」
沈黙。
赤い光が揺れた。微かに。
——それだけか。
「それだけ、です」
——星紋に導かれたから来た。自分の意志ではないと。
レンは首を横に振った。違う。そうじゃない。
「導かれたのは本当です。でも、来たのは自分の足です」
——では聞こう。なぜ、その足を動かした。
問いが深くなった。レンは考えた。なぜ自分はここにいるのか。星紋が現れて、ガルーダに話を聞いて、村を出て、山に登って、洞窟に入った。その一つ一つで足を動かしたのは、なぜだ。
英雄になりたかったからか。世界を救いたかったからか。使命を果たしたかったからか。
どれも、嘘になる。
レンは正直に言った。
「死にたくないからです」
赤い光が、一瞬だけ強く脈打った。
「星紋が現れたとき、ガルーダさんに言われました。闇の脅威が来る、って。放っておけば、村も、サーシャも、先生も危ない。それが怖かった。だから——死にたくないし、死なせたくないから、来ました」
沈黙が長かった。洞窟の水音だけが、遠くで反響している。
——それだけか。
同じ問いが繰り返された。でも、声の色が変わっていた。さっきは試すような冷たさがあった。今は——待っている。もう一つ、何かを。
レンは考えた。死にたくない。死なせたくない。それは本当だ。でも、それだけじゃない。
もう一つ、正直に言っていないことがある。
「……欠片の先が、知りたいんです」
——先。
「七つの欠片を集めたら何が起きるのか。百年前の英雄は何を見たのか。星紋がどこへ連れていくのか。全部知らない。知らないけど——知りたい」
レンは右手を見た。星紋が青白く光っている。
「怖いです。正直に言うと、今もすごく怖い。でも、知らないまま村で薬草を摘み続けるのと、怖くても先に進むのと、どっちがいいかって訊かれたら——」
レンは顔を上げた。竜の眼窩を、真っ直ぐに見た。
「先に進みたい。それが俺の意志です」
長い沈黙があった。
洞窟の空気が変わった。圧迫感が——消えてはいない。でも、質が変わった。押しつぶすような重さから、包み込むような深さに。
竜の赤い光が、ゆっくりと明滅した。
——大義を語る者は信用できない。
レンは息を呑んだ。
——世界を救う、民を守る、正義を成す。大きな言葉は、大きいだけで中身がない。風が吹けば形を変え、都合が悪くなれば捨てられる。
赤い光が穏やかに揺れている。怒りではない。諦めでもない。百年の時を経て磨かれた、静かな確信のような光。
——だが、死にたくない。知りたい。怖いが、進みたい。小さい理由だ。だが、小さいものは嘘がつけない。小さいものは長続きする。
レンの目が熱くなった。泣きそうだ、と思った。怖さからではなく、何かが胸の奥で緩んだからだ。認められた、という感覚。自分の正直さが、この途方もなく古い存在に、受け入れられたという感覚。
——百年前にも、一人の若者がここに立った。
エルダン・ソール。
——あの者は言った。「世界を救いたい」と。立派な答えだった。実際に、あの者は世界を救った。だが——
赤い光が、ほんの一瞬、哀しげに揺れた。
——あの者は、自分自身を救えなかった。大義は果たした。だが、自分がなぜ生きるのかという問いには、最後まで答えられなかった。
レンは黙って聞いていた。
——お前は違う。お前の理由は小さい。だが、お前のものだ。誰かに与えられたものではなく、お前の中から出たものだ。それがある限り、お前は道を見失わない。
竜の眼窩の赤い光が、ゆっくりと——ゆっくりと——色を変えていった。
赤から、橙に。橙から、白に。白から——青に。
レンの星紋と同じ色に。
——行け、若い担い手。
声が遠くなっていく。
——欠片を持っていけ。お前にならば、託せる。
光が弾けた。
眼窩から放たれた青い光が、洞窟を満たした。一瞬だけ。一瞬だけ、洞窟全体が青白く照らされ、竜の骨が、壁が、天井が、水面が、すべてが星の色に染まった。
そして、光が収束した。
竜の頭骨の前——下顎と上顎の間に、何かが浮かんでいた。
小さな光の粒。掌に乗るほどの大きさ。青白く、透き通っている。
欠片だ。
レンは手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、光が掌に吸い込まれた。
熱くはなかった。冷たくもなかった。ただ、何かが手の中に収まった。生まれたときからそこにあったかのように、自然に。
レンは掌を開いた。
青く透き通った石が、そこにあった。
親指の先ほどの大きさ。形は涙に似ている。光を通すと、中に小さな星が閉じ込められているように見えた。ランタンの灯りではなく、石そのものが淡い青白い光を放っている。
これが、欠片。
七つのうちの、一つ目。
右手の星紋が変わっていた。七つの点のうち一つが、他より明るく輝いている。欠片と同じ色で、同じ強さで。星紋と欠片が呼応している。
竜の頭骨の眼窩は、もう光っていなかった。空洞に戻っている。ただの骨だ。百年分の役目を終えた、古い竜の骨。
レンの膝が折れた。
立っていられなかった。洞窟の床に座り込む。水が冷たい。でも立てない。全身の力が、糸を切られたように抜けていた。
「レン!」
サーシャの声が洞窟に反響した。走ってくる足音。圧迫感が消えたのだ。四人が動けるようになっている。
サーシャが真っ先に駆け寄ってきた。レンの肩を掴み、顔を覗き込む。「大丈夫? 怪我は? 何があったの?」
「大丈夫……たぶん大丈夫」
「たぶんって何よ」
「足の力が入らないだけ。あと、ちょっと手が震えてる」
サーシャはレンの手を見た。掌の上の青い石を見た。目が大きくなった。
「これが……」
「欠片。第一の欠片」
ガルーダが追いついた。膝をつき、レンの掌の石を見つめる。あの厳めしい顔に、初めて見る表情が浮かんでいた。驚きと、畏敬と、それから——安堵。
「触っていいか」
レンはうなずいた。ガルーダが指を伸ばし、欠片に触れた。
何も起きなかった。
光は変わらない。欠片はガルーダの指に反応しない。ただの石のように、そこにある。
「……やはりな」ガルーダは指を引いた。「記録通りだ。欠片は星紋の担い手にしか反応しない。俺が触っても、ただの石だ」
ギデオンも試した。同じだった。イレナは試さなかった。ただ、レンの掌の中の青い光を、じっと見つめていた。
「きれい」
二度目の自発的な言葉だった。山脈を見たときと同じ一言。でも、声色が違う。さっきは感嘆。今は——祈りに近い響きだった。
洞窟を出ると、空が広かった。
午後の光が目に刺さった。暗闇に慣れた目が、しばらく何も見えない。まぶしさに目を細めながら、レンは岩壁の上に座り込んだ。
風が吹いている。山の風だ。冷たくて、乾いていて、遠くの雪の匂いがする。
レンはその場にへたり込んだまま、しばらく動けなかった。
サーシャが隣に座った。何も言わなかった。ただ、隣にいた。
ギデオンが水筒を差し出した。レンは受け取り、一口飲んだ。冷たい水が喉を通る。生きている、と体が思い出す。
「中で、何があった」
ガルーダが訊いた。立ったまま、腕を組んで。
レンは考えた。何と言えばいいのか。竜の声を、どう説明すればいいのか。
「……問われました。なぜここに来たのか、って」
「答えたのか」
「はい。死にたくないから。あと、先が知りたいから」
ガルーダは黙った。しばらくして、口の端が動いた。笑ったのかもしれない。
「いい答えだ」
「そうですか? もっと格好いいこと言うべきだったかなって」
「格好いいことを言う奴は信用できない。それは俺の持論だが、どうやら竜も同じ考えだったらしい」
レンは笑った。疲れ切っていたが、笑えた。
欠片を荷物袋にしまおうとしたとき、レンは気づいた。
右手が、引っ張られている。
山の奥へ向かう感覚ではない。方向が変わっていた。これまでは北の上方——山の頂を指していた星紋の引力が、今は別の方角を示している。
西だ。
山を下りた先の、西。
「次の欠片……」
レンは掌の石を見た。第一の欠片は温かく光っている。そして右手の星紋は、西へ向かえと告げている。
「方角がわかるか」ガルーダの声が鋭くなった。
「西です。山を下りて、西」
ガルーダは地図を取り出した。広げて、指で西の方角をなぞる。
「西……カルネの方角だな」
「カルネ?」
「古い城がある。百年以上前に内戦で滅びた城塞都市だ。今は廃墟になっている。亡霊が出るという噂もある」
「亡霊」
「噂だ」とガルーダは地図を畳んだ。「だが、欠片がそこにあるなら、噂にも理由があるだろう」
サーシャが立ち上がった。「じゃあ、次はそこね」
「早いな」
「だって、七つ集めなきゃいけないんでしょ。一つ手に入れたなら、次に行くだけよ」
あの子の切り替えの早さには、いつも助けられる。レンも立ち上がろうとした。膝が笑ったが、ギデオンが手を貸してくれた。
「立てるか」
「うん。ありがとう」
「礼は——」
「言うな。『礼はいい』でしょ」
ギデオンが口元をわずかに緩めた。「覚えたな」
下山は、登りより楽だった。
道を知っているからだ。星紋が示した道を逆に辿ればいい。レンの足はまだ震えていたが、サーシャとギデオンが両脇から支えてくれた。イレナは後方で周囲を警戒していた。無言だが、頼もしい。
ガルーダが先頭を歩いている。時折振り返って、レンの顔色を確認する。何も言わないが、歩調が登りのときより遅い。気を遣ってくれているのだ、とレンは思った。
麓の野営地に着いたのは、夕方だった。
二日前にテントを張った場所だ。岩壁の風よけと、踏み固められた地面。見覚えのある景色が、妙に懐かしかった。たった二日前なのに。
テントを張り直し、火を起こし、夕食を取った。イレナのスープだ。今日の具材は昨日と同じだったが、レンには何倍もおいしく感じられた。生きて戻ってきたから。温かいものを飲めるから。
食後、レンは欠片を取り出して眺めた。
火の明かりの中で、青い石がゆらゆらと光を放っている。小さい。こんなに小さなもののために、あの竜は百年間待ち続けたのか。
「もう一本の指みたい」
呟いた言葉に、ガルーダが反応した。
「何だ、それは」
「いや、エルダンの話を聞いたとき、ガルーダさんが言ったじゃないですか。星紋は七つの欠片と一体だって。なんか——欠片が手に入ったら、自分の体の一部が戻ってきたみたいな感じがして」
ガルーダは黙ってうなずいた。
サーシャが火の向こうから訊いた。「あと六つ?」
「あと六つ」
「遠いわね」
「遠い。でも、一個目が手に入った」
「そうね」サーシャは膝を抱えた。「一個目が一番大変なのよ、何事も」
それは真理だな、とレンは思った。
翌朝、山を下りた。
二日かけて登った道を、一日で下る。下りは膝にくる、とガルーダが言っていたが、その通りだった。太腿の前側が悲鳴を上げている。でも、登りのときのような不安はなかった。欠片が手の中にある。次の行き先がわかっている。それだけで足は前に出る。
樹林帯を抜け、岩場を下り、登山道の入口まで戻ってきた。街道が見えた瞬間、サーシャが「平らな道!」と叫んだ。その気持ちはよくわかった。
レンは立ち止まって、振り返った。
ヴェルト山脈が、そびえている。
白い頂。金色の稜線。空を切り裂く岩の壁。四日前に初めて見たときと同じ光景だ。でも、今は違って見える。あの山の奥に、自分は入った。竜と向き合い、問いに答え、欠片を手にした。
あの山は、自分を通してくれた。
レンは深く息を吸った。山の空気を肺に入れた。冷たくて、澄んでいて、少し寂しい空気。
「ありがとうございました」
小さな声で言った。誰に向けてかは、自分でもよくわからない。竜に。山に。百年前にここを歩いたエルダンに。あるいは、道標を残してくれた誰かに。
風が吹いた。山から下りてくる、冷たい風。
返事は聞こえなかった。でも、右手の星紋がほんの一瞬だけ温かくなった気がした。
「レン! 行くわよ!」
サーシャの声が、街道のほうから飛んできた。
レンは山に背を向けて、歩き出した。
西へ。カルネ廃城へ。第二の欠片を求めて。
七つの星のうち、一つが灯った。残りは六つ。旅は、まだ始まったばかりだ。