死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です 作:メリィ
街道の景色が変わり始めたのは、山を下りて二日目の午後だった。
北の針葉樹林が薄くなり、代わりに広葉樹が増えてきた。木漏れ日が地面にまだらな模様を落とし、街道の両脇には名前の知らない花が咲いている。黄色い花だ。小さくて、風が吹くたびに頼りなく揺れる。ヤナ婆さんなら一目で名前を言い当てるだろうが、レンにはわからなかった。三年間もあの人の下で修行して、花の名前すら覚えていない。
「薬師失格だな、俺」
「何の話?」
サーシャが横から顔を覗き込んできた。歩きながら器用に水筒の蓋を開け、一口飲んでからレンにも差し出す。
「いや、あの花。名前がわからなくて」
「知らなくていいでしょ、別に」
「薬草かもしれないだろ。師匠に怒られるやつだ」
「ヤナ婆さんはここにいないわよ」
それはそうだ。レンは水筒を受け取り、ぬるい水を喉に流し込んだ。山の澄んだ水とは違う、平地の柔らかい水だった。
西への道は、北への道とは別の意味で長かった。
ヴェルト山脈を目指したときは、登りの辛さが時間を圧縮してくれた。一歩ごとに息が上がり、景色が変わり、足元に集中していれば一日が過ぎた。だが平地の街道は違う。足は楽だが、同じような景色が延々と続く。遠くに見える丘が近づいたと思うと、その先にもう一つ丘がある。距離感が掴めない。
「カルネまで、あとどれくらいですか」
先頭を歩くガルーダに訊いた。
「ここから西へ五日。途中にエルテの街がある。そこで補給できる」
五日。レンは右手に目を落とした。星紋の七つの星のうち、一つだけが薄く光っている。引力は確かに西を指していた。欠片を手に入れてから、この感覚がはっきりしてきた。手を引かれているというより、体の一部が向こうにあるのを感じるような、そういう感覚だった。
「また右手を見てる」
サーシャの声に顔を上げた。
「気になるんだよ。西のほうから、ずっと何か呼んでるみたいで」
「呼ばれてるのは嫌な感じ?」
少し考えた。
「……いや。嫌じゃない。なんていうか、忘れ物を思い出した感じに近い」
サーシャは何も言わなかった。ただ少しだけ、歩く速度を上げた。西に向かって。
昼の休憩で、サーシャが弓の手入れを始めた。
街道脇の大きな石に腰を下ろし、膝の上に弓を載せて弦を外す。弦を布で拭き、弓本体の曲がりを確かめるように両端を見比べた。それからもう一度弦を張り、軽く引いて感触を確かめる。一連の動作に迷いがない。
レンはそれをぼんやりと眺めていた。サーシャの指は細いが、弦に触れる部分だけ硬くなっている。小さな頃からずっと弓を引いてきた手だ。
「何見てるの」
「いや。慣れてるなって」
「当たり前でしょ。毎日やってたんだから」サーシャは弦から手を離し、弓を立てた。「お父さんに教わったのは七歳まで。あとは全部、自分で」
それは知っている。サーシャの父親は猟師で、七歳のときに亡くなった。弓だけが残った。サーシャはいつも淡々と話すが、弓に触れるときの指先だけは別だった。丁寧で、静かで、少しだけ優しい。
「レン」
ギデオンが近づいてきた。手に干し肉の包みを持っている。
「昼飯。ガルーダさんが配れって」
「ありがと——って、ギデオン、それ自分の分も入ってるでしょ」
「ああ。まとめて持ってきた」
「律儀だな」
「性格だ」
ギデオンはサーシャの分も渡してから、レンの隣に腰を下ろした。干し肉を噛みながら、ちらりとサーシャの弓に目をやる。
「いい弓だな」
「でしょう」サーシャが少し胸を張った。「猟師の弓だから、軍用より小さいけど。取り回しはこっちのほうが上」
「狩りでは、動く獲物を?」
「鹿、兎、たまに鳥。鳥は難しいわよ。風を読まないと当たらない」
ギデオンは干し肉を噛み切りながら、何か考えている顔をした。そして言った。
「戦闘になったら——」
言いかけて、口を閉じた。レンを見て、サーシャを見て、それから干し肉に視線を落とした。
「何?」
「いや。今はいい」
その「今はいい」に含まれるものを、レンは聞き逃さなかった。ギデオンは調査団の人間だ。戦場を想定して考えている。そして、それをレンたちの前で言うのを躊躇った。
重い話だから。
午後の行軍は、風が強かった。
西から吹いてくる風だ。向かい風。フードが何度も外れて、サーシャが舌打ちしながら押さえていた。レンの癖毛はもはや収拾がつかない状態で、イレナがちらりとそちらを見て、すぐに目を逸らした。
「風が強い日は、匂いが流れる」
ガルーダが足を止めずに言った。
「匂い?」
「追跡者がいれば、向こうから気づかれにくい。逆に、こちらも前方の異変に気づきにくくなる」
「追跡者って……虚影会ですか」
ガルーダは答えなかった。ただ、歩く速度が一段上がった。
レンは荷物の中にある欠片の存在を意識した。布に包んで荷物袋の底に入れてある。小さな石だ。それだけのもの。しかし虚影会はこれを狙っている。セイラの宿場町で見た影。ガルーダが警戒していた気配。そのガルーダは何かを警戒している。山を下りてから、休憩のたびに必ず後方を確認している。
追われているのだ。
その実感が、午後の風と一緒に体を冷やした。
その夜の野営地は、街道を少し外れた窪地だった。
ガルーダの判断だ。「街道沿いは目立つ」と一言だけ言って、獣道を辿って見つけた場所。周囲を低い灌木が囲んでいて、火を焚いても光が漏れにくい。
火を小さくしたのも、ガルーダの指示だった。山での野営より明らかに炎が低い。イレナがスープを温めるのに最低限の火力。食事を終えると、ガルーダは即座に火を絞った。
レンは気づいていた。空気が変わっている。山を登っていたときの、あの穏やかな旅の空気ではない。ガルーダもギデオンも、何気ない顔をしているが、座る位置が違う。二人とも街道に面した側に座っている。
イレナは食器を片づけると、灌木の向こうに消えた。見張りだ。何も言われなくても動いている。
調査団の三人は、戦いに備えている。
レンとサーシャだけが、その輪の内側にいた。
「眠れない?」
サーシャの声は小さかった。ガルーダとギデオンは少し離れた場所で交代の段取りを話している。絞られた焚き火の残り火が、サーシャの横顔をぼんやりと照らしていた。
「うん。なんか……」
「うん」
それだけで通じた。サーシャも同じことを感じている。
「ギデオン、昼に何か言いかけたでしょ」
サーシャは膝を抱えたまま、残り火を見ていた。
「聞いてたのか」
「耳はいいの、私」
レンは地面の小石を拾って、手の中で転がした。
「戦闘になったら、って言おうとしたんだと思う」
「そうね。私もそう思った」
沈黙。虫の声が遠くで鳴っている。
「サーシャ」
「何」
「虚影会と戦うことになったら……弓で、人を狙える?」
訊いてしまってから、後悔した。こんなことを訊くべきじゃない。でも訊かずにはいられなかった。山の試練とは違う。竜は言葉で問いかけてきた。だが人間の敵は、剣を振る。
サーシャは膝から顔を上げなかった。
しばらく黙ったあと、静かに答えた。
「鹿を射ったことはある。兎も。鳥もある」
「うん」
「どれも、手が震えた。最初は。でも」
サーシャが顔を上げた。残り火の光の中で、その目はまっすぐだった。
「あなたを守るためなら、引ける」
レンは息を吸った。その言葉の重さが、胸に落ちてきた。
「俺のためとか、そういうの……」
「違う。そういうのじゃない」サーシャの声が少しだけ硬くなった。「私が、私のために引くの。あなたがいなくなったら嫌だから。それは私の理由であって、あなたの責任じゃない」
レンは何も言えなかった。
サーシャはそのまま膝に顔を埋めた。赤毛の三つ編みが背中で揺れた。耳が赤い。怒っているのか照れているのか、暗くてよくわからない。
「……ありがとう」
「お礼言われることじゃない」
「それでも」
サーシャは顔を埋めたまま、小さく息を吐いた。
「ばか」
虫の声だけが残った。レンは空を見上げた。星が出ている。村で見るのと同じ星だ。でも、村にいたときとは違うものが見える。
この旅は、自分だけのものじゃない。
右手の星紋が、微かに脈打った。西から欠片が呼んでいる。近い。昨日よりも確かに、近い。
翌朝、霧が出ていた。
白い霧だ。灌木の上から静かに垂れ込めて、街道が十歩先までしか見えない。ガルーダが早くに全員を起こし、荷物をまとめさせた。
「霧は好都合だ。こちらも見えないが、向こうからも見えない」
「楽観的ですね」とギデオンが言った。珍しく皮肉めいた響きがあった。
「慎重の裏返しだ」ガルーダは荷物を背負い直した。「カルネが近い。あと三日。エルテの街でもう一度情報を集める」
一行は霧の中を歩き出した。
サーシャが弓を肩にかけ直した。昨日までと持ち方が違う。すぐに構えられるように、弦を表側にしている。
レンはそれに気づいた。気づかないふりをした。
西からの引力が、また一段強くなった。
エルテの街が見えたのは、三日後の昼過ぎだった。
丘を越えた先に、灰色の屋根が連なっている。街道沿いの中規模の街。ラーンシェル王国の西方に位置し、カルネ廃城に最も近い人の住む場所だとガルーダが説明した。
だが、レンが最初に感じたのは、音の少なさだった。
セイラの宿場町は賑やかだった。街に入る前から人の声や荷馬車の音が聞こえてきた。だがエルテは違う。城門を抜けても、通りに人が少ない。店は開いているが、扉の前に人だかりがない。市場には野菜や果物が並んでいるのに、客の姿がまばらだった。
「静かですね」
レンの呟きに、ガルーダが小さく頷いた。
「こんなものじゃない。本来はもっと栄えている街だ」
通りを歩きながら、レンは周囲を見回した。石畳の道は手入れが行き届いている。建物も古いが頑丈な造りだ。通りに面した窓のいくつかに板が打ち付けてある。廃屋ではない。ただ、閉じている。
道の脇に老婆が座って編み物をしていた。レンが前を通ると、顔を上げた。その目がレンの右手を見た気がした。気のせいかもしれない。老婆はすぐに編み物に目を戻した。
「旅の方かね」
声は老婆のものだった。編み棒を動かしながら、こちらを見ずに言っている。
「はい。カルネの方角に用がありまして」
老婆の手が止まった。ほんの一瞬。だがレンにはわかった。
「やめときなさい」
それだけだった。老婆は再び編み棒を動かし始め、もう何も言わなかった。
宿を取ったのは、街の中心に近い二階建ての宿屋だった。
ガルーダが部屋を二つ押さえ、荷物を置いてすぐに全員を一階の食堂に集めた。他に客はいない。窓から午後の日差しが差し込んでいるのに、食堂の空気は薄暗かった。
「情報を集める。ギデオン、頼む」
「わかりました」
ギデオンが立ち上がった。ガルーダではなくギデオンが行く。調査団の中でも、聞き込みはギデオンの得意分野らしい。レンはそのことを今初めて知った。
「俺も行き——」
「待て」ガルーダが遮った。「星紋を持つ者が街中をうろつくのは避けたい。虚影会の目がある可能性がある」
右手を見た。手袋で覆っているが、光れば布越しにわかる。レンは口を閉じた。
「イレナ、ギデオンの補佐を」
イレナが無言で立ち上がり、ギデオンの後を追った。二人は食堂の裏口から通りに出て行った。
ギデオンたちが戻ったのは、二刻ほど後だった。
テーブルの上にパンと水差しが置かれている。ガルーダは腕を組んで壁に寄りかかり、サーシャは窓辺に座って通りを眺めていた。レンは薬箱の中身を確認していた。山の試練以来、一度も開けていなかった。昨夜のサーシャとの会話が、頭から離れなかった。戦闘になったら。そのとき、自分に何ができる。
ギデオンが椅子を引いて座った。イレナはその横に立ったまま、壁に背をつけた。
「三箇所で聞いた。酒場、市場、鍛冶屋」
ギデオンの話し方が変わっていた。普段の控えめな口調ではなく、短く、正確に。報告だ。
「まずカルネ廃城。街の西、ここから半日ほどの距離。五十年前の領主間の内戦で焼け落ちた城塞。以来、誰も住んでいない。亡霊が出るという噂は昔からあるが、最近になって悪化している」
「悪化?」とサーシャが振り向いた。
「一ヶ月ほど前から、城に入った者が戻らなくなった。薬草を採りに行った男が一人、肝試しに行った若者が二人。計三人が消えている」
「消えた、か」ガルーダの声が低い。
「酒場の男は『亡霊に食われた』と言っていた。だが」ギデオンが一度言葉を切った。「鍛冶屋の主人はもう一つ別のことを言っていた。二ヶ月前から、黒い外套の集団が何度かこの街を通過している。五人、六人の単位で。西に向かって」
黒い外套。レンはセイラの宿場町を思い出した。ガルーダが気づいた「フードの男」。あの夜の足音。
「虚影会」
ガルーダが呟いた。断定ではなく、確認するような響き。
「鍛冶屋の主人は外套のことを街の衛兵にも報告したそうだ。だが衛兵は動かなかった。『旅人が通るだけだろう』と」
「怖がっているのよ」サーシャが言った。「さっき通りを歩いたでしょ。窓に板を打ちつけている家があった。閉じこもってる」
「街全体が、何かを感じている。でも正体がわからないから、怯えるしかない」
ギデオンの言葉に、全員が黙った。
イレナが口を開いた。
「もう一つ」
全員の視線がイレナに集まった。イレナが自分から話し始めるのは珍しい。
「市場の裏手に、壊された荷車があった。車軸を外されている。一ヶ月以内」
「壊された? 事故じゃなく?」
「刃物の跡があった」
ガルーダの目が細くなった。
「移動手段を断っている。城の周辺に人が近づかないようにしているのか……いや、逆か。近づいた者が帰れないようにしている」
レンの背筋が冷えた。虚影会は城に先回りしている。それも、ただ通過したのではなく、この街ごと封じ込めるような動きをしている。
「ヴェラは泳がせると言った」ガルーダが腕を解いた。「だが、下の者が同じ方針とは限らない。影士が独自に動いている可能性がある」
セイラの宿場町での石板通信。ヴェラが「泳がせて欠片を集めさせる」と決めたことを、レンは知らない。だがガルーダの言う「下の者」の危険は理解できた。命令系統が一枚岩でない組織は、末端が暴走する。
「どうしますか」
レンの問いに、ガルーダはしばらく考え込んだ。窓の外を見た。午後の日差しが傾き始めている。
「明日の夜明け前に出る」
「夜明け前?」
「暗いうちに城に着く。日が昇る前なら、向こうも動きにくい。見張りの交代直前が、最も警戒が薄くなる時間帯だ」
それは調査団の経験から来る判断だった。レンには反論する材料がない。だが——。
「城に入ったら、戻れなくなるかもしれないんですよね」
「その可能性はある」
「なら、準備がいる」
レンは薬箱を開いた。
ヤナ婆さんから貰った木箱。出発のとき、あの人が「死んだら墓石を毎日蹴りに行く」と言って渡してくれた箱。中身を改めて確認する。傷薬、解毒薬、痛み止め。そして、底のほうに小さな瓶が三つ。
ラベルに、ヤナ婆さんの癖のある字で「ねむり」と書いてある。
「睡眠薬だ。揮発性のやつ。師匠が作った」
ガルーダが瓶を見た。
「どれくらいで効く」
「布に染み込ませて顔の近くに持っていけば、数息で。ただし、風通しのいい場所だと効きが悪い」
「閉所なら使える、ということか」
レンは頷いた。「城の中、廊下とか地下なら」
ギデオンがレンを見た。その目に、少しだけ驚きの色があった。
「薬師だな」
「見習いだけど」
「見習いで十分だ」
その言葉の温度が、少しだけ心を軽くした。
夜。宿屋の二階。
男三人の部屋で、レンは窓際に座っていた。ガルーダは最初の見張りで外に出ている。ギデオンはベッドの上で地図を広げていた。
「ギデオン」
「ん」
「聞き込み、すごかったな」
「何が」
「三箇所で、あれだけの情報を二刻で集めたんだろ。酒場で飲んでる男から話を聞き出すのって、簡単じゃないと思うんだけど」
ギデオンは地図から目を上げなかった。だが口元がわずかに動いた。
「コツがある。最初から訊きたいことを訊かない。相手の話を聞く。相手が気持ちよく話せる話題を見つけて、そこから少しずつ寄せていく」
「それ、調査団で習ったの?」
「いや」ギデオンは地図を畳んだ。「酒場で育ったから」
レンは目を丸くした。
「母親が酒場をやっていた。小さい頃から、客の話を聞いて育った。酔っ払いの扱いは得意だ」
言ってから、ギデオンは少し居心地悪そうに視線を逸らした。調査団員としてではなく、自分の出自を話してしまったことに気づいたのかもしれない。
「いいな、それ」
「何が」
「自分の得意なことが、ちゃんと役に立ってるってところ」
ギデオンは黙った。それから、ぽつりと言った。
「そう思えるようになったのは、最近だ」
窓の外で、風が鳴った。カルネのある方角から吹いてくる、乾いた風。
レンは右手を握った。星紋が引いている。明日、あの城に入る。虚影会が待ち構えているかもしれない場所に。
睡眠薬の瓶を確認した。三つ。数は少ない。一つも無駄にはできない。
眠れないだろうと思った。でも横になった瞬間、体が沈むように意識が落ちた。疲れていたのだ。五日分の緊張が、一気に押し寄せてきた。
最後に聞こえたのは、窓の外の風の音だった。
揺さぶられて目を開けた。
暗い。窓の外がまだ真っ暗だ。ガルーダの顔が、ランタンの弱い光の中にあった。
「時間だ」
声は低く、短い。レンは体を起こした。隣のベッドではギデオンがすでに荷物をまとめている。音を立てずに動く手つきが、やはり調査団の人間だった。
廊下で合流したサーシャは、すでに弓を背負っていた。目が覚めている。レンよりずっと前に起きていたのかもしれない。
「寝てた?」とサーシャが小声で訊いた。
「一応。そっちは」
「少しだけ」
イレナが階段の下で待っていた。宿の主人は起きてこない。ガルーダが前の晩に「早朝に発つ」と伝えてあったらしい。宿代は前払い。余計なやりとりは一つもなかった。
裏口から外に出ると、冷たい空気が肌を刺した。
星がまだ出ている。空の東の端だけが、ほんのわずかに白い。夜明けまで一刻もない。ガルーダがランタンの光を最小にし、足元だけを照らして歩き出した。
街は眠っている。石畳を踏む五人分の足音が、建物の壁に反響した。
街を出ると、道は細くなった。
街道から外れた西への小道。轍の跡が残っているが、最近通った形跡はない。草が伸び放題で、レンの膝にまで届く場所があった。
空が少しずつ白み始めていた。東の稜線に薄い紫がにじんでいる。だが西は——カルネのある方角は、まだ暗かった。暗いというより、濁っている。霧だ。地面から湧き上がるような低い霧が、行く手を覆い始めていた。
「この霧は自然のものか」ガルーダが立ち止まらずに言った。
独り言のように聞こえたが、ギデオンが答えた。
「魔力反応はない。ただの朝霧だと思う」
「ただの霧にしては、濃いな」
ガルーダはそれ以上言わなかった。だが歩調は落とさない。霧が膝を覆い、腰を隠し、やがて胸の高さまで上がってきた。前を歩くガルーダの背中が、白い幕の向こうに霞んでいく。
レンは右手に意識を集中した。星紋が引いている。方角は間違いない。真っ直ぐ西。霧の向こうに、欠片がある。
「見えた」
サーシャの声だった。
レンは顔を上げた。
霧の向こうに、影がある。
最初は丘かと思った。地面から盛り上がった黒い塊。だが目が慣れるにつれて、輪郭が見えてきた。直線。角。崩れかけた壁。
カルネ廃城だ。
近づくほどに、城の全貌が見えてきた。
大きい。アルデン村の何倍もある。かつては城壁に囲まれた城塞だったのだろう。だが今は壁の半分以上が崩れ、残った部分も黒く焦げている。五十年前の火だ。内戦で焼かれた跡が、半世紀を経てもなお残っている。
石の壁に蔦が絡みついている。崩れた城壁の隙間から木が生えている。人間が去った場所を、自然が取り戻そうとしている。だが完全には取り戻せていない。石の骨格が頑固に残って、緑を拒んでいるようだった。
「ここを治めていたのは?」レンは小声で訊いた。
「カルネ候。五十年前にラーンシェル王国に反旗を翻して敗れた。城は焼き払われ、一族は断絶した」ガルーダの声も低い。「それ以来、誰も住んでいない」
城門の跡に着いた。鉄の門扉は失われていたが、石の門柱だけが残っている。門柱の上には、かつて紋章が刻まれていたらしい。だが削り取られている。勝者が敗者の紋章を消したのだ。
レンはその削り跡を見上げた。右手の星紋がうずいた。紋章を消された一族のことを思った。この城を守っていた騎士は、この門をくぐって出陣したのだろうか。
「入る」
ガルーダが門をくぐった。全員が続いた。
城の内部は、外から見るよりも荒れていた。
中庭だったらしい広場に、瓦礫が散乱している。かつての建物の壁が断片的に残り、窓枠だけが空を切り取っている。朝の光が斜めに差し込んで、瓦礫の上に長い影を落としていた。
静かだ。風の音すらない。霧が城壁の内側に溜まり、白い水たまりのように足元を覆っている。
レンの足が何かを蹴った。小さな音がやけに大きく響いて、全員が足を止めた。
見下ろすと、壊れた陶器の破片だった。食器だろうか。焼けた跡がある。五十年前にここで食事をしていた誰かの。
「足元に気をつけろ」ガルーダが短く言った。
一行は中庭を横切り、正面の建物に向かった。城の主棟だ。壁は半分崩れているが、入口のアーチだけは残っている。アーチの石に手を触れると、煤の感触がした。
中に入った。
天井が半分ない。崩れた梁の間から空が見える。床は石畳だが、あちこちにひび割れが走り、隙間から雑草が伸びている。左右に部屋が並んでいたらしいが、扉はどれも失われている。暗い穴が壁に並んでいる。
ギデオンがしゃがんだ。
「足跡」
全員が足を止めた。ギデオンが指差した先、石畳の上の薄い泥に靴跡が残っていた。複数。大人の男のもの。方向は奥へ向かっている。
「新しい」イレナが言った。膝をつき、泥の表面に指を近づけた。触れはしない。「二日以内」
「数は?」
「三人。同じ靴底」
同じ靴底。統一された装備を使う集団。個人の旅人ではない。
レンの口の中が乾いた。虚影会。やはりここにいる。
ガルーダが振り返り、全員の顔を順に見た。確認するような視線。一人ひとりの目を見て、覚悟を読み取っている。
レンは頷いた。サーシャも。ギデオンとイレナは言葉なく、ガルーダに向き直った。
「進む。隊形はそのままだ。俺が先頭、ギデオンとイレナが両脇、レンとサーシャは中央。異変を感じたら声を出す前に手を上げろ。声は響く」
全員が頷いた。
足跡は城の奥へ続いていた。
主棟を抜けると、狭い廊下に入った。天井がある。壁が迫っている。空が見えなくなった途端、レンの呼吸が浅くなった。暗い。ガルーダのランタンだけが光源で、壁に揺れる影が歪んでいる。
廊下の壁に、松明を掛ける金具が残っていた。金具だけが光っている。松明はない。ただ、一つだけ金具に煤がついているものがあった。最近使われた証拠だ。
ガルーダの足が止まった。
廊下の突き当たりに、下りの石段があった。
地下だ。城塞の地下室。石段は急で狭く、曲がりながら下に伸びている。
レンは目を凝らした。
光が漏れている。
石段の下、曲がり角の向こうから、かすかな光が壁を染めていた。ランタンの光ではない。もっと安定した、揺れない光。魔法の灯りだろうか。
ガルーダが片手を上げた。全員が止まった。
ランタンの灯を消した。
闇が落ちてきた。目の前が真っ暗になる。レンは息を止めた。暗闇の中で、自分の心臓の音だけが聞こえる。
数秒で目が慣れ始めた。石段の下からの光がわずかに石壁を照らしている。ぼんやりとした輪郭だけが見える。ガルーダの背中。ギデオンの横顔。サーシャの三つ編みの先。
そして——音が聞こえた。
石段の下から。人の声だ。話し声。内容は聞き取れない。だが複数の声。少なくとも二人。
ガルーダが振り返った。暗闇の中で、その目だけが光を拾っていた。
レンに視線を向けた。
荷物袋の中の、睡眠薬の瓶。
レンは頷いた。暗闇の中で、自分の手が震えていることに気づいた。でも、頷けた。
ガルーダが石段に足をかけた。音を立てずに、一段。
五人は、闇の中に降りていった。