死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

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第三話 影を追う者たち

 

 街道の景色が変わり始めたのは、山を下りて二日目の午後だった。

 

 北の針葉樹林が薄くなり、代わりに広葉樹が増えてきた。木漏れ日が地面にまだらな模様を落とし、街道の両脇には名前の知らない花が咲いている。黄色い花だ。小さくて、風が吹くたびに頼りなく揺れる。ヤナ婆さんなら一目で名前を言い当てるだろうが、レンにはわからなかった。三年間もあの人の下で修行して、花の名前すら覚えていない。

 

 「薬師失格だな、俺」

 

 「何の話?」

 

 サーシャが横から顔を覗き込んできた。歩きながら器用に水筒の蓋を開け、一口飲んでからレンにも差し出す。

 

 「いや、あの花。名前がわからなくて」

 

 「知らなくていいでしょ、別に」

 

 「薬草かもしれないだろ。師匠に怒られるやつだ」

 

 「ヤナ婆さんはここにいないわよ」

 

 それはそうだ。レンは水筒を受け取り、ぬるい水を喉に流し込んだ。山の澄んだ水とは違う、平地の柔らかい水だった。

 

 

 

 西への道は、北への道とは別の意味で長かった。

 

 ヴェルト山脈を目指したときは、登りの辛さが時間を圧縮してくれた。一歩ごとに息が上がり、景色が変わり、足元に集中していれば一日が過ぎた。だが平地の街道は違う。足は楽だが、同じような景色が延々と続く。遠くに見える丘が近づいたと思うと、その先にもう一つ丘がある。距離感が掴めない。

 

 「カルネまで、あとどれくらいですか」

 

 先頭を歩くガルーダに訊いた。

 

 「ここから西へ五日。途中にエルテの街がある。そこで補給できる」

 

 五日。レンは右手に目を落とした。星紋の七つの星のうち、一つだけが薄く光っている。引力は確かに西を指していた。欠片を手に入れてから、この感覚がはっきりしてきた。手を引かれているというより、体の一部が向こうにあるのを感じるような、そういう感覚だった。

 

 「また右手を見てる」

 

 サーシャの声に顔を上げた。

 

 「気になるんだよ。西のほうから、ずっと何か呼んでるみたいで」

 

 「呼ばれてるのは嫌な感じ?」

 

 少し考えた。

 

 「……いや。嫌じゃない。なんていうか、忘れ物を思い出した感じに近い」

 

 サーシャは何も言わなかった。ただ少しだけ、歩く速度を上げた。西に向かって。

 

 

 

 昼の休憩で、サーシャが弓の手入れを始めた。

 

 街道脇の大きな石に腰を下ろし、膝の上に弓を載せて弦を外す。弦を布で拭き、弓本体の曲がりを確かめるように両端を見比べた。それからもう一度弦を張り、軽く引いて感触を確かめる。一連の動作に迷いがない。

 

 レンはそれをぼんやりと眺めていた。サーシャの指は細いが、弦に触れる部分だけ硬くなっている。小さな頃からずっと弓を引いてきた手だ。

 

 「何見てるの」

 

 「いや。慣れてるなって」

 

 「当たり前でしょ。毎日やってたんだから」サーシャは弦から手を離し、弓を立てた。「お父さんに教わったのは七歳まで。あとは全部、自分で」

 

 それは知っている。サーシャの父親は猟師で、七歳のときに亡くなった。弓だけが残った。サーシャはいつも淡々と話すが、弓に触れるときの指先だけは別だった。丁寧で、静かで、少しだけ優しい。

 

 「レン」

 

 ギデオンが近づいてきた。手に干し肉の包みを持っている。

 

 「昼飯。ガルーダさんが配れって」

 

 「ありがと——って、ギデオン、それ自分の分も入ってるでしょ」

 

 「ああ。まとめて持ってきた」

 

 「律儀だな」

 

 「性格だ」

 

 ギデオンはサーシャの分も渡してから、レンの隣に腰を下ろした。干し肉を噛みながら、ちらりとサーシャの弓に目をやる。

 

 「いい弓だな」

 

 「でしょう」サーシャが少し胸を張った。「猟師の弓だから、軍用より小さいけど。取り回しはこっちのほうが上」

 

 「狩りでは、動く獲物を?」

 

 「鹿、兎、たまに鳥。鳥は難しいわよ。風を読まないと当たらない」

 

 ギデオンは干し肉を噛み切りながら、何か考えている顔をした。そして言った。

 

 「戦闘になったら——」

 

 言いかけて、口を閉じた。レンを見て、サーシャを見て、それから干し肉に視線を落とした。

 

 「何?」

 

 「いや。今はいい」

 

 その「今はいい」に含まれるものを、レンは聞き逃さなかった。ギデオンは調査団の人間だ。戦場を想定して考えている。そして、それをレンたちの前で言うのを躊躇った。

 

 重い話だから。

 

 

 

 午後の行軍は、風が強かった。

 

 西から吹いてくる風だ。向かい風。フードが何度も外れて、サーシャが舌打ちしながら押さえていた。レンの癖毛はもはや収拾がつかない状態で、イレナがちらりとそちらを見て、すぐに目を逸らした。

 

 「風が強い日は、匂いが流れる」

 

 ガルーダが足を止めずに言った。

 

 「匂い?」

 

 「追跡者がいれば、向こうから気づかれにくい。逆に、こちらも前方の異変に気づきにくくなる」

 

 「追跡者って……虚影会ですか」

 

 ガルーダは答えなかった。ただ、歩く速度が一段上がった。

 

 レンは荷物の中にある欠片の存在を意識した。布に包んで荷物袋の底に入れてある。小さな石だ。それだけのもの。しかし虚影会はこれを狙っている。セイラの宿場町で見た影。ガルーダが警戒していた気配。そのガルーダは何かを警戒している。山を下りてから、休憩のたびに必ず後方を確認している。

 

 追われているのだ。

 

 その実感が、午後の風と一緒に体を冷やした。

 

 

 

 その夜の野営地は、街道を少し外れた窪地だった。

 

 ガルーダの判断だ。「街道沿いは目立つ」と一言だけ言って、獣道を辿って見つけた場所。周囲を低い灌木が囲んでいて、火を焚いても光が漏れにくい。

 

 火を小さくしたのも、ガルーダの指示だった。山での野営より明らかに炎が低い。イレナがスープを温めるのに最低限の火力。食事を終えると、ガルーダは即座に火を絞った。

 

 レンは気づいていた。空気が変わっている。山を登っていたときの、あの穏やかな旅の空気ではない。ガルーダもギデオンも、何気ない顔をしているが、座る位置が違う。二人とも街道に面した側に座っている。

 

 イレナは食器を片づけると、灌木の向こうに消えた。見張りだ。何も言われなくても動いている。

 

 調査団の三人は、戦いに備えている。

 

 レンとサーシャだけが、その輪の内側にいた。

 

 

 

 「眠れない?」

 

 サーシャの声は小さかった。ガルーダとギデオンは少し離れた場所で交代の段取りを話している。絞られた焚き火の残り火が、サーシャの横顔をぼんやりと照らしていた。

 

 「うん。なんか……」

 

 「うん」

 

 それだけで通じた。サーシャも同じことを感じている。

 

 「ギデオン、昼に何か言いかけたでしょ」

 

 サーシャは膝を抱えたまま、残り火を見ていた。

 

 「聞いてたのか」

 

 「耳はいいの、私」

 

 レンは地面の小石を拾って、手の中で転がした。

 

 「戦闘になったら、って言おうとしたんだと思う」

 

 「そうね。私もそう思った」

 

 沈黙。虫の声が遠くで鳴っている。

 

 「サーシャ」

 

 「何」

 

 「虚影会と戦うことになったら……弓で、人を狙える?」

 

 訊いてしまってから、後悔した。こんなことを訊くべきじゃない。でも訊かずにはいられなかった。山の試練とは違う。竜は言葉で問いかけてきた。だが人間の敵は、剣を振る。

 

 サーシャは膝から顔を上げなかった。

 

 しばらく黙ったあと、静かに答えた。

 

 「鹿を射ったことはある。兎も。鳥もある」

 

 「うん」

 

 「どれも、手が震えた。最初は。でも」

 

 サーシャが顔を上げた。残り火の光の中で、その目はまっすぐだった。

 

 「あなたを守るためなら、引ける」

 

 レンは息を吸った。その言葉の重さが、胸に落ちてきた。

 

 「俺のためとか、そういうの……」

 

 「違う。そういうのじゃない」サーシャの声が少しだけ硬くなった。「私が、私のために引くの。あなたがいなくなったら嫌だから。それは私の理由であって、あなたの責任じゃない」

 

 レンは何も言えなかった。

 

 サーシャはそのまま膝に顔を埋めた。赤毛の三つ編みが背中で揺れた。耳が赤い。怒っているのか照れているのか、暗くてよくわからない。

 

 「……ありがとう」

 

 「お礼言われることじゃない」

 

 「それでも」

 

 サーシャは顔を埋めたまま、小さく息を吐いた。

 

 「ばか」

 

 虫の声だけが残った。レンは空を見上げた。星が出ている。村で見るのと同じ星だ。でも、村にいたときとは違うものが見える。

 

 この旅は、自分だけのものじゃない。

 

 右手の星紋が、微かに脈打った。西から欠片が呼んでいる。近い。昨日よりも確かに、近い。

 

 

 

 翌朝、霧が出ていた。

 

 白い霧だ。灌木の上から静かに垂れ込めて、街道が十歩先までしか見えない。ガルーダが早くに全員を起こし、荷物をまとめさせた。

 

 「霧は好都合だ。こちらも見えないが、向こうからも見えない」

 

 「楽観的ですね」とギデオンが言った。珍しく皮肉めいた響きがあった。

 

 「慎重の裏返しだ」ガルーダは荷物を背負い直した。「カルネが近い。あと三日。エルテの街でもう一度情報を集める」

 

 一行は霧の中を歩き出した。

 

 サーシャが弓を肩にかけ直した。昨日までと持ち方が違う。すぐに構えられるように、弦を表側にしている。

 

 レンはそれに気づいた。気づかないふりをした。

 

 西からの引力が、また一段強くなった。

 

 

エルテの街が見えたのは、三日後の昼過ぎだった。

 

 丘を越えた先に、灰色の屋根が連なっている。街道沿いの中規模の街。ラーンシェル王国の西方に位置し、カルネ廃城に最も近い人の住む場所だとガルーダが説明した。

 

 だが、レンが最初に感じたのは、音の少なさだった。

 

 セイラの宿場町は賑やかだった。街に入る前から人の声や荷馬車の音が聞こえてきた。だがエルテは違う。城門を抜けても、通りに人が少ない。店は開いているが、扉の前に人だかりがない。市場には野菜や果物が並んでいるのに、客の姿がまばらだった。

 

 「静かですね」

 

 レンの呟きに、ガルーダが小さく頷いた。

 

 「こんなものじゃない。本来はもっと栄えている街だ」

 

 通りを歩きながら、レンは周囲を見回した。石畳の道は手入れが行き届いている。建物も古いが頑丈な造りだ。通りに面した窓のいくつかに板が打ち付けてある。廃屋ではない。ただ、閉じている。

 

 道の脇に老婆が座って編み物をしていた。レンが前を通ると、顔を上げた。その目がレンの右手を見た気がした。気のせいかもしれない。老婆はすぐに編み物に目を戻した。

 

 「旅の方かね」

 

 声は老婆のものだった。編み棒を動かしながら、こちらを見ずに言っている。

 

 「はい。カルネの方角に用がありまして」

 

 老婆の手が止まった。ほんの一瞬。だがレンにはわかった。

 

 「やめときなさい」

 

 それだけだった。老婆は再び編み棒を動かし始め、もう何も言わなかった。

 

 

 

 宿を取ったのは、街の中心に近い二階建ての宿屋だった。

 

 ガルーダが部屋を二つ押さえ、荷物を置いてすぐに全員を一階の食堂に集めた。他に客はいない。窓から午後の日差しが差し込んでいるのに、食堂の空気は薄暗かった。

 

 「情報を集める。ギデオン、頼む」

 

 「わかりました」

 

 ギデオンが立ち上がった。ガルーダではなくギデオンが行く。調査団の中でも、聞き込みはギデオンの得意分野らしい。レンはそのことを今初めて知った。

 

 「俺も行き——」

 

 「待て」ガルーダが遮った。「星紋を持つ者が街中をうろつくのは避けたい。虚影会の目がある可能性がある」

 

 右手を見た。手袋で覆っているが、光れば布越しにわかる。レンは口を閉じた。

 

 「イレナ、ギデオンの補佐を」

 

 イレナが無言で立ち上がり、ギデオンの後を追った。二人は食堂の裏口から通りに出て行った。

 

 

 

 ギデオンたちが戻ったのは、二刻ほど後だった。

 

 テーブルの上にパンと水差しが置かれている。ガルーダは腕を組んで壁に寄りかかり、サーシャは窓辺に座って通りを眺めていた。レンは薬箱の中身を確認していた。山の試練以来、一度も開けていなかった。昨夜のサーシャとの会話が、頭から離れなかった。戦闘になったら。そのとき、自分に何ができる。

 

 ギデオンが椅子を引いて座った。イレナはその横に立ったまま、壁に背をつけた。

 

 「三箇所で聞いた。酒場、市場、鍛冶屋」

 

 ギデオンの話し方が変わっていた。普段の控えめな口調ではなく、短く、正確に。報告だ。

 

 「まずカルネ廃城。街の西、ここから半日ほどの距離。五十年前の領主間の内戦で焼け落ちた城塞。以来、誰も住んでいない。亡霊が出るという噂は昔からあるが、最近になって悪化している」

 

 「悪化?」とサーシャが振り向いた。

 

 「一ヶ月ほど前から、城に入った者が戻らなくなった。薬草を採りに行った男が一人、肝試しに行った若者が二人。計三人が消えている」

 

 「消えた、か」ガルーダの声が低い。

 

 「酒場の男は『亡霊に食われた』と言っていた。だが」ギデオンが一度言葉を切った。「鍛冶屋の主人はもう一つ別のことを言っていた。二ヶ月前から、黒い外套の集団が何度かこの街を通過している。五人、六人の単位で。西に向かって」

 

 黒い外套。レンはセイラの宿場町を思い出した。ガルーダが気づいた「フードの男」。あの夜の足音。

 

 「虚影会」

 

 ガルーダが呟いた。断定ではなく、確認するような響き。

 

 「鍛冶屋の主人は外套のことを街の衛兵にも報告したそうだ。だが衛兵は動かなかった。『旅人が通るだけだろう』と」

 

 「怖がっているのよ」サーシャが言った。「さっき通りを歩いたでしょ。窓に板を打ちつけている家があった。閉じこもってる」

 

 「街全体が、何かを感じている。でも正体がわからないから、怯えるしかない」

 

 ギデオンの言葉に、全員が黙った。

 

 

 

 イレナが口を開いた。

 

 「もう一つ」

 

 全員の視線がイレナに集まった。イレナが自分から話し始めるのは珍しい。

 

 「市場の裏手に、壊された荷車があった。車軸を外されている。一ヶ月以内」

 

 「壊された? 事故じゃなく?」

 

 「刃物の跡があった」

 

 ガルーダの目が細くなった。

 

 「移動手段を断っている。城の周辺に人が近づかないようにしているのか……いや、逆か。近づいた者が帰れないようにしている」

 

 レンの背筋が冷えた。虚影会は城に先回りしている。それも、ただ通過したのではなく、この街ごと封じ込めるような動きをしている。

 

 「ヴェラは泳がせると言った」ガルーダが腕を解いた。「だが、下の者が同じ方針とは限らない。影士が独自に動いている可能性がある」

 

 セイラの宿場町での石板通信。ヴェラが「泳がせて欠片を集めさせる」と決めたことを、レンは知らない。だがガルーダの言う「下の者」の危険は理解できた。命令系統が一枚岩でない組織は、末端が暴走する。

 

 「どうしますか」

 

 レンの問いに、ガルーダはしばらく考え込んだ。窓の外を見た。午後の日差しが傾き始めている。

 

 「明日の夜明け前に出る」

 

 「夜明け前?」

 

 「暗いうちに城に着く。日が昇る前なら、向こうも動きにくい。見張りの交代直前が、最も警戒が薄くなる時間帯だ」

 

 それは調査団の経験から来る判断だった。レンには反論する材料がない。だが——。

 

 「城に入ったら、戻れなくなるかもしれないんですよね」

 

 「その可能性はある」

 

 「なら、準備がいる」

 

 レンは薬箱を開いた。

 

 ヤナ婆さんから貰った木箱。出発のとき、あの人が「死んだら墓石を毎日蹴りに行く」と言って渡してくれた箱。中身を改めて確認する。傷薬、解毒薬、痛み止め。そして、底のほうに小さな瓶が三つ。

 

 ラベルに、ヤナ婆さんの癖のある字で「ねむり」と書いてある。

 

 「睡眠薬だ。揮発性のやつ。師匠が作った」

 

 ガルーダが瓶を見た。

 

 「どれくらいで効く」

 

 「布に染み込ませて顔の近くに持っていけば、数息で。ただし、風通しのいい場所だと効きが悪い」

 

 「閉所なら使える、ということか」

 

 レンは頷いた。「城の中、廊下とか地下なら」

 

 ギデオンがレンを見た。その目に、少しだけ驚きの色があった。

 

 「薬師だな」

 

 「見習いだけど」

 

 「見習いで十分だ」

 

 その言葉の温度が、少しだけ心を軽くした。

 

 

 

 夜。宿屋の二階。

 

 男三人の部屋で、レンは窓際に座っていた。ガルーダは最初の見張りで外に出ている。ギデオンはベッドの上で地図を広げていた。

 

 「ギデオン」

 

 「ん」

 

 「聞き込み、すごかったな」

 

 「何が」

 

 「三箇所で、あれだけの情報を二刻で集めたんだろ。酒場で飲んでる男から話を聞き出すのって、簡単じゃないと思うんだけど」

 

 ギデオンは地図から目を上げなかった。だが口元がわずかに動いた。

 

 「コツがある。最初から訊きたいことを訊かない。相手の話を聞く。相手が気持ちよく話せる話題を見つけて、そこから少しずつ寄せていく」

 

 「それ、調査団で習ったの?」

 

 「いや」ギデオンは地図を畳んだ。「酒場で育ったから」

 

 レンは目を丸くした。

 

 「母親が酒場をやっていた。小さい頃から、客の話を聞いて育った。酔っ払いの扱いは得意だ」

 

 言ってから、ギデオンは少し居心地悪そうに視線を逸らした。調査団員としてではなく、自分の出自を話してしまったことに気づいたのかもしれない。

 

 「いいな、それ」

 

 「何が」

 

 「自分の得意なことが、ちゃんと役に立ってるってところ」

 

 ギデオンは黙った。それから、ぽつりと言った。

 

 「そう思えるようになったのは、最近だ」

 

 窓の外で、風が鳴った。カルネのある方角から吹いてくる、乾いた風。

 

 レンは右手を握った。星紋が引いている。明日、あの城に入る。虚影会が待ち構えているかもしれない場所に。

 

 睡眠薬の瓶を確認した。三つ。数は少ない。一つも無駄にはできない。

 

 眠れないだろうと思った。でも横になった瞬間、体が沈むように意識が落ちた。疲れていたのだ。五日分の緊張が、一気に押し寄せてきた。

 

 最後に聞こえたのは、窓の外の風の音だった。

 

 

 

 

 

 揺さぶられて目を開けた。

 

 暗い。窓の外がまだ真っ暗だ。ガルーダの顔が、ランタンの弱い光の中にあった。

 

 「時間だ」

 

 声は低く、短い。レンは体を起こした。隣のベッドではギデオンがすでに荷物をまとめている。音を立てずに動く手つきが、やはり調査団の人間だった。

 

 廊下で合流したサーシャは、すでに弓を背負っていた。目が覚めている。レンよりずっと前に起きていたのかもしれない。

 

 「寝てた?」とサーシャが小声で訊いた。

 

 「一応。そっちは」

 

 「少しだけ」

 

 イレナが階段の下で待っていた。宿の主人は起きてこない。ガルーダが前の晩に「早朝に発つ」と伝えてあったらしい。宿代は前払い。余計なやりとりは一つもなかった。

 

 裏口から外に出ると、冷たい空気が肌を刺した。

 

 星がまだ出ている。空の東の端だけが、ほんのわずかに白い。夜明けまで一刻もない。ガルーダがランタンの光を最小にし、足元だけを照らして歩き出した。

 

 街は眠っている。石畳を踏む五人分の足音が、建物の壁に反響した。

 

 

 

 街を出ると、道は細くなった。

 

 街道から外れた西への小道。轍の跡が残っているが、最近通った形跡はない。草が伸び放題で、レンの膝にまで届く場所があった。

 

 空が少しずつ白み始めていた。東の稜線に薄い紫がにじんでいる。だが西は——カルネのある方角は、まだ暗かった。暗いというより、濁っている。霧だ。地面から湧き上がるような低い霧が、行く手を覆い始めていた。

 

 「この霧は自然のものか」ガルーダが立ち止まらずに言った。

 

 独り言のように聞こえたが、ギデオンが答えた。

 

 「魔力反応はない。ただの朝霧だと思う」

 

 「ただの霧にしては、濃いな」

 

 ガルーダはそれ以上言わなかった。だが歩調は落とさない。霧が膝を覆い、腰を隠し、やがて胸の高さまで上がってきた。前を歩くガルーダの背中が、白い幕の向こうに霞んでいく。

 

 レンは右手に意識を集中した。星紋が引いている。方角は間違いない。真っ直ぐ西。霧の向こうに、欠片がある。

 

 「見えた」

 

 サーシャの声だった。

 

 レンは顔を上げた。

 

 霧の向こうに、影がある。

 

 最初は丘かと思った。地面から盛り上がった黒い塊。だが目が慣れるにつれて、輪郭が見えてきた。直線。角。崩れかけた壁。

 

 カルネ廃城だ。

 

 

 

 近づくほどに、城の全貌が見えてきた。

 

 大きい。アルデン村の何倍もある。かつては城壁に囲まれた城塞だったのだろう。だが今は壁の半分以上が崩れ、残った部分も黒く焦げている。五十年前の火だ。内戦で焼かれた跡が、半世紀を経てもなお残っている。

 

 石の壁に蔦が絡みついている。崩れた城壁の隙間から木が生えている。人間が去った場所を、自然が取り戻そうとしている。だが完全には取り戻せていない。石の骨格が頑固に残って、緑を拒んでいるようだった。

 

 「ここを治めていたのは?」レンは小声で訊いた。

 

 「カルネ候。五十年前にラーンシェル王国に反旗を翻して敗れた。城は焼き払われ、一族は断絶した」ガルーダの声も低い。「それ以来、誰も住んでいない」

 

 城門の跡に着いた。鉄の門扉は失われていたが、石の門柱だけが残っている。門柱の上には、かつて紋章が刻まれていたらしい。だが削り取られている。勝者が敗者の紋章を消したのだ。

 

 レンはその削り跡を見上げた。右手の星紋がうずいた。紋章を消された一族のことを思った。この城を守っていた騎士は、この門をくぐって出陣したのだろうか。

 

 「入る」

 

 ガルーダが門をくぐった。全員が続いた。

 

 

 

 城の内部は、外から見るよりも荒れていた。

 

 中庭だったらしい広場に、瓦礫が散乱している。かつての建物の壁が断片的に残り、窓枠だけが空を切り取っている。朝の光が斜めに差し込んで、瓦礫の上に長い影を落としていた。

 

 静かだ。風の音すらない。霧が城壁の内側に溜まり、白い水たまりのように足元を覆っている。

 

 レンの足が何かを蹴った。小さな音がやけに大きく響いて、全員が足を止めた。

 

 見下ろすと、壊れた陶器の破片だった。食器だろうか。焼けた跡がある。五十年前にここで食事をしていた誰かの。

 

 「足元に気をつけろ」ガルーダが短く言った。

 

 一行は中庭を横切り、正面の建物に向かった。城の主棟だ。壁は半分崩れているが、入口のアーチだけは残っている。アーチの石に手を触れると、煤の感触がした。

 

 中に入った。

 

 天井が半分ない。崩れた梁の間から空が見える。床は石畳だが、あちこちにひび割れが走り、隙間から雑草が伸びている。左右に部屋が並んでいたらしいが、扉はどれも失われている。暗い穴が壁に並んでいる。

 

 ギデオンがしゃがんだ。

 

 「足跡」

 

 全員が足を止めた。ギデオンが指差した先、石畳の上の薄い泥に靴跡が残っていた。複数。大人の男のもの。方向は奥へ向かっている。

 

 「新しい」イレナが言った。膝をつき、泥の表面に指を近づけた。触れはしない。「二日以内」

 

 「数は?」

 

 「三人。同じ靴底」

 

 同じ靴底。統一された装備を使う集団。個人の旅人ではない。

 

 レンの口の中が乾いた。虚影会。やはりここにいる。

 

 ガルーダが振り返り、全員の顔を順に見た。確認するような視線。一人ひとりの目を見て、覚悟を読み取っている。

 

 レンは頷いた。サーシャも。ギデオンとイレナは言葉なく、ガルーダに向き直った。

 

 「進む。隊形はそのままだ。俺が先頭、ギデオンとイレナが両脇、レンとサーシャは中央。異変を感じたら声を出す前に手を上げろ。声は響く」

 

 全員が頷いた。

 

 

 

 足跡は城の奥へ続いていた。

 

 主棟を抜けると、狭い廊下に入った。天井がある。壁が迫っている。空が見えなくなった途端、レンの呼吸が浅くなった。暗い。ガルーダのランタンだけが光源で、壁に揺れる影が歪んでいる。

 

 廊下の壁に、松明を掛ける金具が残っていた。金具だけが光っている。松明はない。ただ、一つだけ金具に煤がついているものがあった。最近使われた証拠だ。

 

 ガルーダの足が止まった。

 

 廊下の突き当たりに、下りの石段があった。

 

 地下だ。城塞の地下室。石段は急で狭く、曲がりながら下に伸びている。

 

 レンは目を凝らした。

 

 光が漏れている。

 

 石段の下、曲がり角の向こうから、かすかな光が壁を染めていた。ランタンの光ではない。もっと安定した、揺れない光。魔法の灯りだろうか。

 

 ガルーダが片手を上げた。全員が止まった。

 

 ランタンの灯を消した。

 

 闇が落ちてきた。目の前が真っ暗になる。レンは息を止めた。暗闇の中で、自分の心臓の音だけが聞こえる。

 

 数秒で目が慣れ始めた。石段の下からの光がわずかに石壁を照らしている。ぼんやりとした輪郭だけが見える。ガルーダの背中。ギデオンの横顔。サーシャの三つ編みの先。

 

 そして——音が聞こえた。

 

 石段の下から。人の声だ。話し声。内容は聞き取れない。だが複数の声。少なくとも二人。

 

 ガルーダが振り返った。暗闇の中で、その目だけが光を拾っていた。

 

 レンに視線を向けた。

 

 荷物袋の中の、睡眠薬の瓶。

 

 レンは頷いた。暗闇の中で、自分の手が震えていることに気づいた。でも、頷けた。

 

 ガルーダが石段に足をかけた。音を立てずに、一段。

 

 五人は、闇の中に降りていった。

 

 

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