死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

4 / 15
第四話 影士たちの罠

 

 石段は二十段あった。

 

 レンは数えていた。数えることで、手の震えを紛らわせようとした。十五、十六、十七。一段ごとに空気が重くなる。地上の朝の気配が遠ざかり、代わりに石と埃と、かすかに油の匂いが上がってきた。

 

 十八、十九、二十。

 

 石段が終わった。

 

 地下の廊下だった。幅は大人三人が並べるほど。天井は低く、レンが手を伸ばせば届く。壁は粗い石積みで、ところどころに松明を掛ける金具がある。金具には何も刺さっていない。

 

 光源は別にあった。

 

 廊下の先、二十歩ほど向こうの壁に白い光が嵌め込まれている。魔法の灯りだ。小さな石が壁に埋め込まれ、淡く発光していた。虚影会が設置したものだろう。彼らはここを拠点にしている。

 

 声は止んでいた。さっきまで聞こえていた話し声が、石段を下りた途端に消えた。

 

 気づかれたか。

 

 ガルーダの背中が止まった。右手を上げる。全員停止の合図。

 

 沈黙。

 

 レンは壁に背をつけた。石が冷たい。自分の呼吸が耳の中で鳴っている。目は暗闇に慣れてきた。白い魔法灯の光で、廊下の輪郭はぼんやりと見える。

 

 ガルーダが耳を澄ませている。十秒。二十秒。何も聞こえない。

 

 静かすぎる。

 

 ガルーダが振り返り、口の形だけで言った。

 

 ——罠だ。

 

 その瞬間、廊下の両端で同時に足音が鳴った。

 

 

 

 前方と後方。

 

 挟まれた。石段を下りた時点で、退路を塞がれていた。声はおとりだ。こちらを地下に誘い込むための。

 

 前方から二つの影が近づいてくる。黒い外套。フードの下の顔は見えない。一人が短剣を構え、もう一人は素手……いや、掌に黒い光が揺らめいている。暗魔法だ。

 

 後方からは一人。石段の上に立ち、下りの道を塞いでいる。こちらも短剣。

 

 三対五。数だけなら不利ではない。だが廊下が狭い。五人が横に展開できない。

 

 ガルーダが動いた。

 

 速い。レンの目では追いきれなかった。ガルーダは一歩で前に出て、先頭の影士との間合いを詰めた。腰の長剣を鞘から抜かず、柄頭で影士の手首を打つ。短剣が落ちた。続けて体を回し、二人目の暗魔法を左腕で受け流した。腕に巻いた革帯が黒い光を弾く。

 

 「ギデオン! 後ろ!」

 

 ガルーダの声が狭い廊下に反響した。

 

 ギデオンが振り返った。石段の上の影士が下りてくる。短剣の切っ先がギデオンの喉元を狙っている。ギデオンは剣で受けた。金属がぶつかる甲高い音。火花が散った。

 

 「レン、サーシャ、壁際に寄れ!」

 

 ギデオンの声。レンはサーシャの腕を掴み、廊下の壁に張りついた。戦える二人、ガルーダとギデオンが前後を受け持ち、イレナがその間で身構えている。

 

 レンとサーシャは、その真ん中にいた。守られている。

 

 

 

 ガルーダの戦い方は、圧倒的だった。

 

 前方の影士二人を相手にしながら、一歩も退かない。短剣の影士は手首を打たれてなお左手で突いてくるが、ガルーダはそれを体の向きを変えるだけでかわした。長剣を抜いたのは一度だけ。暗魔法の影士が掌を突き出した瞬間に、鞘ごと叩き上げて腕を弾いた。

 

 だが、決め手がない。

 

 廊下が狭すぎるのだ。ガルーダの体格と長剣は、広い場所なら圧倒的な力になる。だがこの幅では振り回せない。突きと柄打ちだけで相手をしている。

 

 影士のほうも同じだった。三人がかりの利点を活かせない。狭い廊下では一度に二人しか向かえず、後方の一人はギデオンに抑えられている。

 

 拮抗。

 

 レンは壁に背をつけたまま、戦況を見ていた。心臓が喉まで上がっている。足が震えている。指先が冷たい。何もできない。剣もない。魔法もない。壁に張りついて見ているだけだ。

 

 ガルーダの長剣が影士の短剣を弾いた。金属音。また。また。いつまで続く。

 

 このまま続ければどうなる。体力勝負になる。ガルーダたちは五日間の旅の疲労がある。影士は城に潜んで待ち受けていた側だ。

 

 時間は敵の味方だ。

 

 何かしなきゃ。何か。何を。

 

 レンの目が廊下を走り回った。前方の戦闘。後方のギデオン。そして、来ない増援。

 

 増援が来ない。

 

 三人の影士。エルテの街でギデオンが聞いた足跡は三人分だった。だが虚影会は「五、六人の単位」で通過していたはずだ。残りはどこにいる。なぜ来ない。

 

 来る必要がない。誰かがこの状況を見ていて、泳がせている。

 

 ヴェラ。

 

 その名前が頭をよぎった瞬間、背中の荷物の重みを感じた。薬箱。ヤナ婆さんの薬箱が背中にある。

 

 

 

 手が震えながら、背中の荷物から木箱を引っ張り出した。壁に張りついたまま、手探りで蓋を開ける。指がうまく動かない。瓶を一つ掴み損ねて、箱の中で転がる音がした。心臓が跳ねた。

 

 三つ。小さなガラス瓶。睡眠薬。揮発性。布に染み込ませて顔の近くに持っていけば、数息で効く。

 

 だが、どうやって。

 

 相手は三人。レンが近づけるわけがない。瓶を投げる? この狭い廊下では味方にも影響する。自分が嗅いだら終わりだ。

 

 考えろ。考えろ。時間がない。

 

 前方でガルーダの足が滑った。体勢を立て直したが、影士の短剣が外套の裾を裂いた。あと少しで腕に届いていた。

 

 だめだ。長くは保たない。

 

 レンの目が必死に廊下を這った。天井。壁。石積みの隙間。松明の金具。そして、壁の窪み。

 

 扉のない小部屋のような窪み。物置だったのだろう。奥行きは二歩ほど。天井は本廊下より低い。密閉に近い。

 

 密閉。

 

 思考が繋がった。この窪みに影士を一人でも引き込めれば、密閉に近い空間で睡眠薬が効く。

 

 だが引き込むには、餌がいる。

 

 レンは自分の右手を見た。星紋。欠片は担い手にしか触れられない。虚影会の目的は欠片の回収。なら、担い手のレンが囮になれば。

 

 馬鹿な考えだ。でも、他に何がある。

 

 「サーシャ」

 

 隣のサーシャに、唇だけで囁いた。

 

 「聞いてる」

 

 サーシャの目がレンを見た。暗い廊下の中で、その目は澄んでいた。怖がっていないわけではない。指先が弓を握りしめている。でも、目は逃げていない。

 

 「作戦がある。俺が囮になる」

 

 「は?」

 

 「睡眠薬で一人落とす。でも近づかないと使えない。だから」

 

 「ばかなこと言わないで」

 

 「聞いて。あの窪み、見える? あそこに一人引き込む。俺が荷物を落として、拾おうとしたふりで窪みに入れば」

 

 サーシャの目が窪みを見た。見て、廊下の幅を見て、影士の位置を見た。

 

 「……あなたが窪みに入って、影士が追ってきたところで薬を使う。そういうこと?」

 

 「うん」

 

 「馬鹿じゃないの」

 

 「他に方法がない」

 

 サーシャは唇を噛んだ。三つ編みの先を握っている。考えている。それから——。

 

 「わかった。でも条件がある」

 

 「何」

 

 「私が援護する。あなたが薬を使う前に影士が剣を振ったら、私が射る。だから絶対に、影士より先に窪みの奥に入って。背中を向けないで」

 

 レンは頷いた。手がまだ震えている。でも、瓶を握る力は入った。

 

 ガルーダの前方で、金属がぶつかる音が続いている。ギデオンが後方で防いでいる。拮抗は続いている。だが、いつまでも続かない。

 

 今しかない。

 

 レンは薬箱から瓶を一つ取り出し、蓋を外した。布を一枚引き抜いて、瓶の口に被せた。逆さまにする。布が液を吸う。鼻の奥にツンとした匂い。すぐに口で息をした。自分が嗅いではいけない。

 

 準備は、できた。

 

 

 

 レンは荷物袋を肩から外した。

 

 わざとだ。戦闘の混乱の中で荷物を落とした。そう見えるように、袋を廊下の中央に滑らせた。袋が石畳に当たり、中身が鳴った。

 

 前方の影士の一人が反応した。暗魔法の使い手ではないほう、手首を打たれて短剣を落とし、左手に持ち替えていた影士。その目が、荷物袋に向いた。

 

 星紋の担い手の荷物。欠片が入っているかもしれない。

 

 レンは袋を追うように、壁の窪みに向かって走った。二歩。窪みに飛び込み、振り返った。背中を壁につける。奥行き二歩の小さな空間。天井が低い。

 

 影士が来た。

 

 ガルーダが暗魔法の影士を押し込んだ隙に、もう一人がすり抜けた。廊下を走り、レンの荷物袋を飛び越え、窪みの入口に立った。

 

 近い。

 

 フードの下の顔が見えた。若い男だ。二十代前半。冷たい目。だがその目に、一瞬だけ迷いが走った。レンを殺すのか。捕らえるのか。ヴェラの指示は「泳がせろ」だ。だが目の前に担い手がいる。欠片が手の届くところにある。

 

 その一瞬。

 

 レンは右手を突き出した。ほとんど反射だった。考えるより先に腕が動いた。薬液を染み込ませた布を、影士の顔の前に。

 

 影士の目が布を見た。何だ、と。

 

 遅い。頼む、効いてくれ。

 

 揮発性の薬液が狭い窪みの空気を満たした。ヤナ婆さんの睡眠薬。密閉に近い空間。顔の至近距離。数息で効くと言った。

 

 一息。影士の目が揺れた。

 

 二息。膝が折れた。

 

 三息。影士は石の床に崩れ落ちた。短剣が手から離れ、乾いた音を立てた。

 

 レンは口で息をしていた。薬の匂いが鼻に入らないように。指が痺れている。布を持つ手が震えていた。でも、倒した。一人、倒した。

 

 窪みから身を乗り出して叫んだ。

 

 「一人落ちた!」

 

 

 

 ガルーダの前方で、状況が動いた。

 

 暗魔法の影士が、仲間が倒れたことに気づいた。一瞬、視線が逸れた。

 

 ガルーダはその一瞬を逃さなかった。

 

 長剣の鞘で影士の肘を打ち上げ、体勢を崩した相手の胸に肩をぶつけた。影士が後ろに弾き飛ばされる。廊下を転がり、壁にぶつかった。

 

 そして、ここで地形が変わった。

 

 影士が転がった先は、廊下の突き当たりだった。突き当たりの右手に、広い空間が開けている。石の柱が並ぶ地下広間。かつての城の地下倉庫か、集会場か。天井が高い。幅が広い。

 

 狭い廊下から、開けた空間へ。

 

 暗魔法の影士がよろめきながら立ち上がった。広間の入口に立っている。掌に再び黒い光を集めようとしている。

 

 後方ではギデオンが石段の上の影士を押し返していた。ギデオンの剣が影士の短剣を弾き、影士が二歩後退した。石段の上へ。

 

 前方が開けた。後方が緩んだ。一瞬だけ、廊下の中央に空間ができた。

 

 サーシャが動いた。

 

 

 

 壁に張りついていたサーシャが、廊下の中央に踏み出した。

 

 弓を構えるのは一瞬だった。矢筒から矢を抜き、弦にかけ、引く。その動作に、ためらいは一切なかった。

 

 レンは見ていた。窪みの中から、息を止めて。

 

 サーシャの体が回転した。腰をひねり、前方の広間の入口に立つ影士に向けて、放った。

 

 矢が飛んだ。廊下の空気を裂いて、真っ直ぐに。影士の右肩に刺さった。暗魔法の光が消えた。影士がうめき声を上げ、壁にもたれかかった。

 

 サーシャは止まらなかった。

 

 一本目を放った姿勢のまま、二本目を抜いた。弦にかける。今度は体を反転させた。後方、石段の影士に向けて。ギデオンが身を沈めた。その頭の上を、矢が飛んだ。

 

 影士の左脚に命中。膝が折れた。石段の上で体勢を崩し、短剣を杖がわりに突いて倒れまいとしている。

 

 三本目。

 

 サーシャは三本目の矢を弦にかけていた。だが、引かなかった。

 

 狙いは前方の影士に戻っている。右肩を射抜かれた影士が、なおも左手で何かをしようとしていた。掌に黒い光が集まりかけていた。

 

 サーシャが弦を引いた。

 

 「動かないで」

 

 声は低かった。サーシャの声には怒りも恐怖もなかった。ただ、静かだった。弓を引く者の声だった。

 

 影士の左手が止まった。黒い光が消えた。矢尻が自分の胸を向いていることを理解したのだ。

 

 サーシャの指が弦の上で微動だにしない。三つ編みが背中で揺れている。目は影士から逸れない。

 

 レンは窪みの中で、息をすることを忘れていた。

 

 これがサーシャの弓だ。

 

 

 

 石段の上で、三人目の影士が動いた。

 

 膝を射抜かれていない。左脚を射られたが、右脚で立てる。壁に手をつき、石段を一段上がった。もう一段。逃げようとしている。

 

 ギデオンが剣を構えたまま、追おうとした。

 

 「待て」

 

 イレナの声だった。

 

 ギデオンが振り返った。イレナは廊下の壁に寄りかかったまま、石段の上の影士を見ていた。追う素振りはない。

 

 「逃がすのか」

 

 「報告に帰るだけ」

 

 その一言に、ギデオンは剣を下ろした。

 

 イレナの判断だった。負傷した影士が一人逃げたところで、脅威にはならない。むしろ虚影会に「星紋の担い手は戦える」と報告させることに意味がある。威嚇だ。追って深追いするほうが危険が大きい。

 

 影士の足音が石段の上に消えていった。

 

 

 

 静かになった。

 

 恐ろしいほど静かだった。さっきまで金属がぶつかり、足音が響き、息が荒くなっていた廊下が、今は静まり返っている。

 

 レンは窪みから出た。

 

 足が動かなかった。膝が笑っている。壁に手をついて、一歩。もう一歩。廊下の中央に出た。

 

 前方の影士がうずくまっている。右肩の矢を押さえて、壁にもたれている。意識はあるが動けない。ガルーダがその前に立ち、長剣を抜いて見下ろしていた。

 

 窪みの中では、睡眠薬で倒した影士が床に転がっている。呼吸は安定している。眠っているだけだ。

 

 レンは自分の手を見た。震えている。布を握りしめた右手が、ガタガタと揺れている。

 

 止まらない。

 

 「レン」

 

 サーシャの声が聞こえた。弓を下ろしたサーシャが、レンの前に立っていた。

 

 「終わったわよ」

 

 「うん。うん、わかってる」

 

 声も震えていた。みっともない。サーシャは三本の矢を放って二人を止めたのに、自分は睡眠薬を一つ使っただけだ。なのに、この震えは何だ。

 

 サーシャがレンの右手を取った。震える手を、両手で包んだ。

 

 「すごかったわよ」

 

 「何が——」

 

 「あの作戦。一人で考えて、一人で動いた。薬師だから、できたの。あなただから」

 

 サーシャの手は温かかった。弦を引いた直後の指で、まだ硬くなっている。

 

 震えが、少しずつ治まっていった。

 

 

 

 ギデオンが戻ってきた。

 

 「石段の上を確認した。影士は城の外に出た。追っ手はいない」

 

 「ご苦労」ガルーダが影士の前から離れた。「イレナ、この二人を縛れ。意識のあるほうから訊くことがある」

 

 イレナが無言で動いた。腰の紐を使い、手際よく二人を縛り上げた。

 

 ガルーダが肩を射抜かれた影士の前にしゃがんだ。

 

 「訊きたいことがある。この城に、お前たち以外の者は」

 

 影士は答えなかった。フードの下の目が、ガルーダを見上げている。若い目だ。恐怖はない。だが諦めもない。

 

 「答える義務はない」

 

 影士の声は平坦だった。痛みを堪えているはずなのに、感情が乗らない。

 

 「義務の話はしていない。損得の話だ」ガルーダの声も静かだった。「協力すれば傷の手当てをする。しなければ、このまま地下に置いていく。亡霊の噂がある城の地下に」

 

 影士の目が、初めて揺れた。

 

 「——深影が来る」

 

 「ヴェラか」

 

 影士は答えなかった。だがその沈黙が、肯定だった。

 

 ガルーダが立ち上がった。レンを見た。

 

 「先に進む。欠片を手に入れるなら、ヴェラが来る前だ」

 

 レンは短く息を吐いて、立ち上がった。まだ膝が重い。だが、足は動いた。

 

 廊下の先に、広間が待っている。そしてその奥に第二の欠片がある。

 

 星紋が、強く引いた。

 

 

 

 広間に入った。

 

 石の柱が六本、等間隔に並んでいる。天井は廊下の三倍ほど高い。壁には燭台の金具が残っていたが、火は灯っていない。光源は、柱に埋め込まれた魔法灯だけだ。白い、揺れない光。影が鋭く伸びている。

 

 広間の奥に、祭壇のような石の台座があった。何かが載っていた形跡はあるが、今は空だ。台座の前の床に文様が刻まれている。円形の模様。古い。城が建てられたときから、あるいはそれ以前から、ここにあったのかもしれない。

 

 星紋が熱い。

 

 レンの右手が脈打っていた。欠片が近い。この広間のどこかに。台座か、床の文様の下か。

 

 「ここだ」

 

 レンが一歩踏み出した——そのとき。

 

 「お待ちください」

 

 声は、広間の奥から来た。

 

 柱の影から——否、影そのものから、人が現れた。

 

 女だった。黒い外套を纏っているが、フードは被っていない。整った顔に、感情の読めない薄い笑みが張りついている。三十代後半か、それ以上か。年齢が読めない。目が——目だけが、笑みに参加していなかった。

 

 武器を持っていない。両手を体の前で軽く組み、まるで客間で客を迎えるような姿勢で立っている。

 

 ガルーダの長剣が鞘から半分抜かれた。ギデオンとイレナが左右に展開する。サーシャが弓に手をかけた。

 

 女は動かなかった。

 

 「お騒がせして申し訳ありません」

 

 声は穏やかだった。柔らかく、澄んでいて、地下の広間に似つかわしくないほど落ち着いている。

 

 「名乗りましょう。ヴェラと申します。虚影会の深影を預かる者です」

 

 深影。影士の上。虚影会の上位幹部。

 

 ガルーダの剣が完全に抜かれた。

 

 「ヴェラ。セイラで俺たちを追わせたのは、お前か」

 

 「追わせた、という表現は正確ではありません」ヴェラは微笑んだ。「見ていただけです。見守っていた、と言ってもよろしいかもしれません」

 

 見守る。その言葉の選び方が、背筋を粟立たせた。

 

 

 

 ヴェラは動かなかった。

 

 ガルーダが剣を構え、ギデオンとイレナが両脇を固め、サーシャが矢をつがえているのに、まったく動じない。壁際に立ったまま、穏やかな視線で五人を見渡している。

 

 怖い、とレンは思った。

 

 影士たちとは質が違う。さっきの三人は、短剣を構え、暗魔法を使い、戦おうとした。恐ろしかったが、理解できた。敵が襲ってくるのは理解できる。

 

 だがヴェラは何もしていない。武器もない。構えもない。ただ立って、話しているだけだ。なのに、この圧力は何だ。部屋の空気そのものが重くなったような感覚がある。

 

 「先ほどの影士たちについては、お詫びします」

 

 ヴェラが言った。

 

 「彼らには見張りを命じていました。手を出すなと。しかし、星紋の担い手が目の前に現れれば、功を焦る者もおります。未熟な部下をお許しください」

 

 詫びている。敵が、味方を倒したことに詫びている。その丁寧さが、かえって不気味だった。

 

 「何が目的だ」ガルーダの声は低く、硬い。

 

 「目的は一つです。欠片を頂きたい。七つすべて」

 

 「それは無理だ」

 

 「ええ、今はそうでしょう」ヴェラはうなずいた。「欠片は星紋の担い手にしか触れることができません。これは百年前から変わらない制約です。ですから」

 

 ヴェラがレンを見た。

 

 まっすぐに。柱の影の奥から、レンだけを見た。

 

 「集めていただけませんか」

 

 レンは言葉を失った。

 

 「七つすべてを。担い手であるあなたに。私たちには触れることさえできないのです。ですから、お集めください。そして集め終えたところで、お渡しいただければ」

 

 泳がせる。

 

 ガルーダが言っていた言葉だ。これがその意味だった。虚影会は邪魔をしない。殺しもしない。レンに欠片を集めさせて、最後にすべてを奪う。そのために、見守っている。

 

 「……ふざけるな」

 

 声が出た。自分でも驚くほど、低い声だった。

 

 「ふざけてなどいません」ヴェラの笑みは変わらない。「これは提案です。もちろん、お断りになることもできます。ですが」

 

 ヴェラが一歩だけ前に出た。たった一歩。だがその一歩で、空気が変わった。

 

 「お断りになった場合、私たちは別の方法を考えなければなりません。担い手を捕らえ、欠片に触らせる方法を。それはお互いにとって、不幸なことではないでしょうか」

 

 脅しだ。穏やかな声で、丁寧な言葉で、しかし確実に脅している。

 

 ガルーダが一歩前に出た。レンとヴェラの間に体を入れた。

 

 「近づくな」

 

 「近づいてはおりません」ヴェラは微笑んだまま、一歩下がった。「お話をしているだけです」

 

 

 

 「一つ訊いていいですか」

 

 レンの口が勝手に動いた。

 

 ガルーダが振り返った。止めろという目だ。だがレンはヴェラを見ていた。

 

 「闇の神を復活させて、何がしたいんですか」

 

 ヴェラの笑みが——初めて、わずかに形を変えた。消えたのではない。深くなった。

 

 「復活、という言葉は少し違います」

 

 「違う?」

 

 「封印されたのは闇の神ですが、封印したのは誰でしょう。百年前の英雄、エルダン・ソール。人々は彼を英雄と呼び、闇の神を悪と呼んだ。ですが」

 

 ヴェラの声は講義のように淡々としていた。

 

 「記録は勝者が書くものです。英雄譚とは、勝った者が自分を正しかったと語る物語にすぎません。闇の神は——本当に悪だったのでしょうか。それとも、別の秩序を望んだだけだったのでしょうか」

 

 レンの中で、何かが軋んだ。

 

 嘘だ。そう思いたかった。闇の神は大古の時代から人間を苦しめた。ガルーダからそう聞いた。世界を支配し、恐怖で縛った。

 

 だがレンはそれを自分の目で見たわけではない。百年以上前の話だ。記録と伝承でしか知らない。

 

 ヴェラの言葉は、その隙間に滑り込んでくる。

 

 「私たちが目指しているのは復活ではありません。解放です。不当に封じられた存在を、本来の場所に還す。それだけのことです」

 

 「……本来の場所に還したら、何が起きるんですか」

 

 「それは私にもわかりません」ヴェラは両手を広げた。「ですが、百年前と同じことが繰り返されるとは限りません。世界は変わります。人も変わります。封印したまま忘れてしまうことが、本当に正しい選択でしょうか」

 

 ガルーダが口を開いた。

 

 「詭弁だ。闇の神が何をしたかは記録に残っている。調査団が百年間守り続けた記録だ。勝者の記録だけじゃない」

 

 「記録を守る者もまた、勝者の系譜にある方ではありませんか」

 

 ガルーダが黙った。反論が見つからないのではない。ヴェラの土俵で議論する意味がないと判断したのだ。レンにはそれがわかった。

 

 

 

 レンはヴェラを見ていた。

 

 穏やかな笑み。丁寧な言葉。理路整然とした論理。だが、何かが足りない。

 

 「もう一つだけ」

 

 「どうぞ」

 

 「虚影会の目的はわかりました。闇の神の解放。でも」

 

 レンは一歩前に出た。ガルーダが腕で遮ろうとしたが、レンはその腕の横をすり抜けた。

 

 「あなたは、なぜですか。あなた個人は、なぜ闇の神を解放したいんですか」

 

 ヴェラの笑みが——消えた。

 

 一瞬だけだ。ほんの一瞬、ヴェラの顔から表情が剥落した。薄い笑みの下にあったものが、一枚の紙を剥がすように露出した。

 

 何もなかった。

 

 そこには何も——怒りも、悲しみも、情熱も、信念すらも——なかった。

 

 空洞だ。

 

 レンはぞっとした。山の竜は恐ろしかった。影士たちの剣は怖かった。だが、この瞬間のヴェラの顔は、それらとはまるで質が違った。中身がない。器だけがある。

 

 笑みが戻った。滑らかに、自然に。まるで今の一瞬がなかったかのように。

 

 「よい質問ですね」

 

 ヴェラは微笑んだ。

 

 「ですが、今日はここまでにしましょう。欠片をお取りになるのでしたら、どうぞ。私たちは邪魔をしません」

 

 「待て」ガルーダが声を上げた。

 

 だがヴェラの体は、すでに薄れ始めていた。影に溶けるように。柱の闇に紛れるように。輪郭が曖昧になり、声だけが残った。

 

 「また会えるのを楽しみにしております。次は——もう少し欠片が集まったころに」

 

 声が消えた。

 

 気配も消えた。

 

 広間には五人だけが残された。柱に埋め込まれた魔法灯の光が、白く、静かに、誰もいない空間を照らしていた。

 

 

 

 しばらく、誰も動けなかった。

 

 最初に動いたのはガルーダだった。剣を鞘に収め、広間の四隅を確認して回った。ギデオンとイレナが続いた。ヴェラの気配が完全に消えたことを確かめるように。

 

 「いない。消えた」ギデオンが戻ってきた。顔が白い。「暗魔法の一種だと思う。転移か、隠匿か……」

 

 「深影の力だ」ガルーダの声にも、かすかな震えがあった。レンが聞いた中で、初めてのことだった。「調査団の記録にある。上位の虚影会構成員は、影を操る術を持つ」

 

 サーシャが弓を下ろした。矢をつがえたままだったことに、今気づいたのだろう。弦から指を離すとき、指先が白くなっていた。ずっと引き絞っていたのだ。

 

 レンは自分の手を見た。震えは止まっていた。

 

 代わりに、冷たかった。手だけじゃない。体の芯が冷えていた。ヴェラの、あの一瞬の空洞。あの目。

 

 「レン」

 

 ガルーダの声で顔を上げた。

 

 「欠片を取れ。ここに長居する理由はない」

 

 声は出なかった。その代わりに、レンは台座に向かって足を踏み出した。

 

 足が重い。だが進む。

 

 ヴェラの言葉が頭に残っている。記録は勝者が書く。英雄譚は勝者の物語。

 

 でも。

 

 竜の言葉も覚えている。「大義を語る者は信用できない」。ヴェラは大義を語った。解放、本来の場所、不当な封印。全部、大義だ。

 

 そしてレンが個人の理由を訊いたとき、あの顔をした。何もない顔。

 

 あの人には、小さな理由がない。

 

 レンは台座の前に立った。星紋が燃えるように熱い。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。