死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

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第五話 亡霊騎士の問い

 

 台座に手を触れた瞬間、空気が変わった。

 

 魔法灯の白い光が揺らいだ。揺れるはずのない光が、一度だけ明滅した。柱の影が伸び、天井に届き、広間全体を一瞬だけ暗闇に沈めた。

 

 そして——光が戻ったとき、台座の向こうに誰かが立っていた。

 

 甲冑の男だった。

 

 古い鎧。五十年前の様式だ。胸当てに紋章が彫り込まれている。城門で削り取られていたあの紋章、カルネ候の家紋が、ここにはまだ残っていた。鎧の肩に焦げ跡がある。兜はない。露出した顔は。

 

 顔がなかった。

 

 いや、ある。だが霞んでいる。輪郭だけがぼんやりと見え、目の位置に青白い光が灯っている。人間の顔の記憶だけが、形を保とうとして保ちきれていない。

 

 亡霊だ。

 

 「——また、来たか」

 

 声は重かった。低く、疲弊した声。五十年間同じ場所に縛りつけられた者の声。怒りはない。期待もない。ただ確認しているだけだった。

 

 ガルーダが剣に手をかけた。だがレンは首を振った。

 

 「守り手だ」

 

 竜と同じだ。欠片の守り手。ただし竜は山に封じられた太古の存在だった。この騎士は人間だ。かつて生きて、戦い、この城を守り、この城と共に焼け落ちた人間。

 

 「星紋の担い手か」亡霊の目が光った。レンの右手を見ている。「百年前にも一人来た。あの男は答えなかった」

 

 エルダン。レンの前の担い手。竜の試練では正直に答えたが、世界を救えたのに自分を救えなかった英雄。

 

 「答えなかった?」

 

 「問いを聞いて、黙って通り過ぎた。欠片を取り、去った。星紋の力で」

 

 亡霊の声に、かすかな感情が混じった。悔しさか。寂しさか。

 

 「答えてもらえなかったのだ。五十年。あの男の後、誰も来なかった。そして、また来た。今度は」

 

 青白い目がレンを見据えた。

 

 「お前は、答えてくれるか」

 

 

 

 「問いとは」

 

 レンは訊いた。声は震えていなかった。不思議だった。ヴェラと向き合ったときより、体が落ち着いている。この亡霊が怖くないわけではない。だがこの人は、誰かに聞いてほしいのだ。五十年間、ずっと。

 

 それだけは、わかった。

 

 亡霊は一度目を閉じた。瞼はないはずだが、青い光が消えて、一拍の沈黙が落ちた。それから、光が戻った。

 

 「俺はカルネ城の騎士団長だった」

 

 声が変わっていた。報告ではない。語りだ。自分自身について語る、重い声。

 

 「五十年前、カルネ候がラーンシェル王国に反旗を翻した。理由はあった。王国の税制は不公正で、西方の領民は飢えていた。候は民のために立ち上がった。そう俺は信じた」

 

 広間の空気が冷えていく。レンの吐く息が白くなった。

 

 「俺は騎士団を率いて戦った。信念があった。この地の民を守る。不当な支配から解放する。それが正しいことだと信じていた」

 

 亡霊の鎧が軋んだ。金属の擦れる音。五十年前の音。

 

 「負けた」

 

 一言だった。

 

 「城は焼かれた。候は死んだ。一族は断絶した。騎士団は全滅した。俺は最後まで門を守り、焼け落ちる城と共に死んだ」

 

 レンの脳裏に、城門の削り取られた紋章が浮かんだ。あの跡。勝者が敗者の証を消した跡。

 

 「問いはこれだ」

 

 亡霊の光が強くなった。

 

 「——信念に、価値はあったか」

 

 

 

 沈黙が落ちた。

 

 広間の誰もが動かなかった。ガルーダも、ギデオンも、イレナも。サーシャは弓を下ろしたまま、亡霊を見つめていた。

 

 信念に、価値はあったか。

 

 レンは亡霊の言葉を反芻した。

 

 この人は、民を守るために戦った。正しいと信じて立ち上がった。そして負けた。城は焼かれ、一族は滅び、紋章は削られた。五十年経って、この人の信念を覚えている者はいない。エルテの街の人間はカルネ候を「反乱を起こした領主」としか知らない。

 

 記録は勝者が書く。

 

 ヴェラの言葉が、頭の中でこだました。

 

 ヴェラはあの言葉を闇の神について言った。だが、この騎士にも当てはまる。敗者の信念は記録されない。正しかったかどうかさえ、検証されない。ただ消される。

 

 だとしたら、信念に価値はあったのか。結果が敗北と消滅なら、最初から信じなかったほうがよかったのか。

 

 レンは目を閉じた。

 

 竜の問いを思い出した。「なぜ来た」。あのとき、レンは正直に答えた。死にたくないから。先が知りたいから。小さな理由。大義ではない理由。

 

 この騎士の理由は、大義だったのか。

 

 違う。

 

 レンは目を開けた。

 

 「一つ、訊いてもいいですか」

 

 亡霊の光がわずかに揺れた。

 

 「訊け」

 

 「あなたは、民のために戦った、と言いました。でも本当にそれだけですか。候に言われたから戦ったんですか。それとも」

 

 亡霊が黙った。

 

 長い沈黙だった。石の柱が立ち並ぶ広間に、呼吸の音だけが流れた。

 

 「——違う」

 

 亡霊の声が、かすれた。

 

 「候に従ったのは事実だ。だが——俺が剣を取ったのは、候の命令だけではない。俺自身が、この街の子供が飢えるのを見ていられなかった。俺自身が、不公正を許せなかった。候がいなくても——いずれ、何かをしていたかもしれない」

 

 レンは頷いた。

 

 「なら、それは大義じゃないです」

 

 亡霊の光が揺れた。

 

 「あなたが自分で見て、自分で感じて、自分で選んだことです。子供が飢えるのが嫌だった。それはあなたの、小さな理由です」

 

 小さな理由。竜が認めた理由。大義ではなく、自分自身の心から出た理由。

 

 レンは一歩前に出た。

 

 「自分で考えて選んだことは、消えないと思います」

 

 亡霊が動かない。

 

 「結果は——負けました。城は焼かれて、紋章も削られて、五十年経って誰も覚えていない。でも、あなたが選んだということ自体は消えていない。今ここで、あなたがその問いを持ち続けていること自体が、消えていない証拠だと思います」

 

 声が震えた。だが言い切った。

 

 「大事なものだったから、手放せないんじゃないですか。五十年経っても。それが信念の価値なんじゃないですか」

 

 

 

 亡霊が笑った。

 

 顔のない顔が、笑みの形を取った。青白い光が温かく広がった。五十年間、一度も見せなかっただろう表情。

 

 「そうか」

 

 声は静かだった。

 

 「——そうか」

 

 鎧の軋みが止んだ。亡霊の輪郭がゆるやかにほどけ始めた。足元から光の粒子になり、上昇していく。天井に向かって、いや、天井を越えて、もっと上へ。

 

 「五十年、待った甲斐があった」

 

 亡霊は広間の中央に立っていた。もう鎧の重さはない。軽い。光で編まれた人の形が、風もないのに揺らいでいた。

 

 「向き合ってくれる者を、ずっと待っていた。百年前の英雄は、強かった。だが、向き合ってはくれなかった。答えを持っていたのかもしれない。だが俺の問いを聞いて、考えてくれたのは、お前が初めてだ」

 

 レンの目の前で、亡霊の胸のあたりが輝いた。鎧の紋章があった場所。光が凝縮し、形を成す。

 

 琥珀色の石だった。

 

 小さな石。第一の欠片とは色が違う。あれは青白かった。これは琥珀色。暖かい色だ。炎の色。人の温度に近い色。

 

 石が亡霊の胸から離れ、宙に浮いた。ゆっくりと、レンの手のひらに向かって降りてきた。

 

 指先が触れた。温かい。第一の欠片は冷たかった。でもこの石は、温かい。人の体温のような。

 

 「第二の欠片だ」亡霊の声は遠くなっていた。「これは俺の信念が守った。お前に渡す。ただし」

 

 光が薄くなっていく。声も薄くなる。消え際の言葉。

 

 「——自分で考えて、自分で選べ。誰かに言われたからではなく。何が正しいかわからなくても。お前の理由で、お前の足で進め」

 

 光が弾けた。

 

 小さな粒子になって天井に昇り、石の隙間に吸い込まれていった。

 

 広間に残ったのは、静寂と、レンの手の中の琥珀色の石だけだった。

 

 

 

 誰も声を出さなかった。

 

 レンは欠片を手の中で握った。温かい。じんわりと、手のひらから腕へ、胸へ、温度が広がっていく。

 

 右手の星紋が光った。

 

 七つの星のうち、二つ目が灯った。一つ目の青白い光と、二つ目の琥珀色の光が、並んで輝いている。

 

 「二つ目だ」

 

 サーシャの声だった。小さな声。でも確かな声。

 

 「うん。二つ目」

 

 レンは顔を上げた。広間を見回した。柱。壁。天井。かつて人が集い、語り、祈った場所。そしてその人々の信念が、五十年間この石の下で待ち続けた場所。

 

 ガルーダが近づいてきた。レンの手の中の欠片を見て、小さく頷いた。

 

 「行くぞ。ここにいる理由はなくなった」

 

 「はい」

 

 レンは欠片を布に包み、第一の欠片と並べて荷物袋に入れた。二つの石が布越しに触れ合い、かすかな温度を放った。

 

 

 

 地下の廊下を戻った。縛られた影士に簡易の手当てを施し、城を出た。

 

 外に出た瞬間、陽光が目を刺した。夜明け前に入った城から出ると、霧は晴れ、雲一つない空がカルネ廃城の上に広がっていた。

 

 レンは城を振り返った。黒く焦げた壁。蔦に覆われた塔。削られた紋章の門柱。

 

 あの騎士は、もうここにはいない。

 

 「ありがとうございました」

 

 山を下りたときと同じ言葉。でも今回は、誰に向けているかわかっていた。

 

 

 

 街道に戻ると、レンの右手の引力が変わっていた。西ではない。

 

 「西です。ここから、西」

 

 「西……霧の森か。ミドルウッドと呼ばれる深い森だ」ガルーダが地図を確認した。「四日ほどかかる」

 

 「でも、次は三つ目だ」レンは歩き出した。「七つのうち、もう三つ目」

 

 五人の隊列が、街道の上に戻った。

 

 ——自分で考えて、自分で選べ。

 

 騎士の最後の言葉が、耳の奥で響いている。何が正しいかは、まだわからない。ヴェラの言葉が嘘だとも、本当だとも言い切れない。

 

 でも、一つだけ。自分で考え続けることは、やめない。それだけは、あの騎士から受け取った。

 

 七つの星のうち、二つが灯った。残りは五つ。

 

 旅は続く。

 

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