死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

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第六話 ミドルウッドへの道

 

 カルネ廃城を後にして、三日が経った。

 

 廃城で受けた傷は、どれも浅かった。サーシャの左腕の擦り傷と、ギデオンの額の切り傷。レンは荷物袋から薬箱を取り出し、二人の傷を手当てした。ヤナ婆さんから譲り受けた薬箱の中身は、旅が進むにつれて減っている。瓶の一つは空になり、塗り薬は半分以下になった。それでもまだ足りる。足りなくなったら、道中の薬草で補えばいい。その判断ができるようになったのは、いつからだったか。

 

 「じっとしてて」

 

 レンはギデオンの額に薬を塗りながら言った。小さな切り傷だが、額は血が出やすい。乾いた血の痕を水で拭いてから、薬草の膏を薄く伸ばす。

 

 「すまない」

 

 「謝ることじゃないだろ。これが俺の仕事だし」

 

 「仕事か?」

 

 「薬師見習いの唯一の取り柄だよ。剣も魔法も使えないけど、傷は治せる」

 

 ギデオンは目を閉じて、レンの指が額を動くのに任せていた。信頼されている、とレンは思った。カルネ廃城で影士と戦ったとき、ギデオンは廊下でレンの前に立ってくれた。その人が今、目を閉じて傷の手当てを受けている。

 

 「終わり。明日にはもう塞がると思う」

 

 「ありがとう」

 

 ギデオンは額に触れようとして、レンに手を叩かれた。

 

 「触るな。薬が取れる」

 

 「……了解」

 

 少し離れたところで、サーシャがくすりと笑った。

 

 

 

 西への道は、平地から丘陵地帯に変わり始めていた。

 

 街道を外れて南西に向かうルートを、ガルーダが選んだ。カルネでの戦闘の後だ。虚影会が動いている以上、主要な街道は使えない。獣道に近い細い道を辿りながら、時おり地図と星紋の方角を照らし合わせて進む。

 

 レンの右手の星紋は、三つ目の光点を灯していた。二つの欠片を手に入れたことで、七つの星のうち二つがはっきりと光り、三つ目がぼんやりと明滅している。明滅の強さは方角によって変わった。西に手をかざすと、光が僅かに強まる。

 

 「こっちで合ってる」

 

 レンが手を前方に向けて確かめると、ガルーダが頷いた。

 

 「ミドルウッド——霧の森まで、あと二日というところだ。このまま道を外れて進む」

 

 「街道のほうが早いんじゃないですか」

 

 「早いが、目立つ」ガルーダは歩きながら言った。「カルネで影士を三人倒した。虚影会は次の手を打ってくる。ヴェラは我々の行き先を知っている」

 

 ヴェラ。その名前を聞くだけで、カルネ廃城の広間の空気が蘇った。穏やかな声。丁寧な口調。そして、レンが個人の理由を問うたときの——何もない顔。

 

 「考えてるわね」

 

 サーシャが横に並んだ。レンが黙っていると、表情だけで何を考えているか当てる。昔からそうだった。

 

 「ヴェラのことを」

 

 「うん」

 

 「気にしても仕方ないわ。次に会ったとき考えればいい」

 

 「そうなんだけど、あの人の——」

 

 言いかけて、やめた。何もなかった、という感覚をどう言葉にすればいいのかわからなかった。怒りでも憎しみでもない。そこに何もないことの怖さは、言葉にしようとすると指の間からすり抜ける。

 

 「レン」

 

 サーシャが足を止めた。レンも止まる。

 

 「今はこっちを見て」

 

 サーシャが指差した先に、丘の斜面を覆う草花があった。黄色と白の小さな花が、午後の日差しを受けて揺れている。風が通り抜けるたびに、花の波が丘を下ってくるように見えた。

 

 「きれいだな」

 

 「でしょう」サーシャは歩き出した。「怖い人のことは歩きながら考えなくていいの。きれいなものを見て」

 

 それはサーシャなりの優しさだった。押しつけがましくなく、ただ視線の先を変えてくれる。レンは花の丘を目に焼き付けて、歩き出した。

 

 

 

 三日目の夜営で、レンはイレナのスープに薬草を入れた。

 

 正確には、入れてもいいかと訊いた。荷物袋の底から見つけたタイムの束——セイラの宿場町で買ったもので、乾燥させてあったのが残っていた。料理にも使えるし、消化を助ける薬草でもある。

 

 「入れていい? 味が変わるかもしれないけど」

 

 イレナは鍋を覗き込んで、タイムの束を見て、レンを見た。少し間があった。

 

 「……量は」

 

 「ひとつまみ。多すぎると苦くなるから」

 

 イレナは頷いた。レンがタイムを指で砕いてスープに散らすと、焚き火の熱で香りが立ち上った。草原と日向の混じったような匂い。

 

 スープを配ると、ギデオンが一口飲んで目を見開いた。

 

 「うまいぞ、これ」

 

 「タイムだ。薬草だけど、料理にも使える。胃に優しい」

 

 「へえ」ギデオンは二口目を飲んだ。「レン、お前は薬師と料理人を兼ねたらいい」

 

 「料理はサーシャのほうがうまいよ」

 

 「私は焼くだけしかできないわよ」サーシャが椀を持ったまま否定した。「煮るのは苦手。いつも水加減を間違える」

 

 「だから俺が加減してんだよ、毎回」

 

 「知ってた」

 

 サーシャはスープを飲みながら、悪びれもせずに笑った。

 

 イレナは黙ってスープを飲んでいた。三杯目をよそったとき、ぽつりと言った。

 

 「……おいしい」

 

 レンはその一言を聞いて、妙に嬉しくなった。イレナの「おいしい」は、ヴェルト山脈で見た「きれい」と同じ重さがある。言葉を選ぶ人間が、選んで出した言葉だ。

 

 ガルーダは焚き火の向こうで黙々と食べていたが、椀を空にする速度がいつもより早かった。

 

 

 

 旅の三日目まで、レンは一つの変化に気づいていた。

 

 ギデオンが話しかけてくるようになった。

 

 カルネ以前のギデオンは、仕事に必要なことしか口にしない人間だった。道の状況、天候の変化、休憩のタイミング。それだけだ。だがカルネの戦闘を経て——何かが変わった。

 

 「その花、何だかわかるか」

 

 街道沿いに青い花が咲いていたとき、ギデオンが不意に訊いた。

 

 「ツユクサだよ。目薬に使える。朝露がついてるときに摘むのが一番いいんだけど、もう昼だからな」

 

 「朝露がつくと成分が変わるのか」

 

 「水分を吸ってるときのほうが、薬効が強いんだ。乾いてると苦味だけ残る」

 

 ギデオンは青い花を見つめて、何か考えている顔をした。

 

 「お前の話は面白いな」

 

 「薬草の話が?」

 

 「ああ。調査団では聞けない種類の知識だ」

 

 レンは照れくさくなって頭を掻いた。薬草の話を「面白い」と言ってくれる人間は、ヤナ婆さんとカルロおじさん以外にいなかった。

 

 イレナも変わっていた。相変わらず口数は少ないが、相槌を打つようになった。レンが何かを言うと、小さく頷いたり、首を傾げたりする。それだけの動作だが、以前はそれすらなかった。聞いている、という合図を出してくれるようになった。

 

 

 

 四日目の朝は、霧から始まった。

 

 夜明け前に目を覚ましたレンの顔に、冷たい水滴がついていた。空気が湿っている。昨夜までは乾いた風が吹いていたのに、一晩で世界が変わったようだった。

 

 「近いな」

 

 焚き火の残り火の前で地図を広げていたガルーダが、顔を上げずに言った。

 

 「ミドルウッド?」

 

 「霧の森と呼ばれるだけのことはある。まだ森に入っていないのに、この霧だ」

 

 レンは周囲を見回した。十歩先がぼやけている。木々の輪郭が滲んで、灰色の空気に溶けている。音も変わった。昨日まで聞こえていた鳥の声が遠い。代わりに、水滴が葉を打つ音だけが近くにある。

 

 「不気味ですね」

 

 「精霊の領域に近づいている証拠だ」ガルーダは地図を畳んだ。「記録によれば、ミドルウッドは精霊の集合意識が守り手を務めている。森そのものが意志を持っていると思ったほうがいい」

 

 「森そのものが……」

 

 「古竜は一体だった。亡霊騎士も一体。だが精霊の集合意識は、森全体に散らばっている。入った瞬間から試練が始まっていると考えるべきだ」

 

 ギデオンが荷物をまとめながら近づいてきた。

 

 「団長。サーシャが面白いものを見つけました」

 

 「面白いもの?」

 

 ギデオンが顎で示した先に、サーシャが立っていた。霧の中で、何かを見上げている。

 

 レンが駆け寄ると、サーシャは一本の木を指差した。広葉樹だ。周囲の木と同じ種類に見える。だが、幹に一筋の光る線が走っていた。薄い青緑の光だ。根元から上に向かって、血管のように枝分かれしながら幹を登っている。

 

 「これ、光ってるのよ」

 

 「魔力だ」ガルーダが追いついて言った。目が鋭くなっている。「木に魔力が流れている。精霊の力が森の樹木を通じて循環しているんだ」

 

 レンは右手を木に近づけた。星紋が反応して、淡く光った。

 

 「……引っ張られる」

 

 「欠片の方角と同じ方向か」

 

 「はい。この木の光が向かっている先と、欠片の感覚が重なってます」

 

 ガルーダは顎を引いた。

 

 「道標だ。精霊が——あるいは欠片そのものが、道を示している」

 

 イレナが無言で荷物を背負い、歩く態勢を作った。ガルーダを見て、一度だけ頷く。準備はできている、という合図だった。

 

 

 

 霧の森の入り口は、壁だった。

 

 比喩ではない。街道の脇に広がる普通の雑木林が、ある一線を境にして別の世界になっていた。足元の草の色が変わる。空気の温度が変わる。三歩手前はぬるい秋の風。三歩先は冷たく湿った静寂。

 

 五人は、その境界線の前に立っていた。

 

 「見えますか、この線」レンは地面を指した。

 

 草が途切れている場所があった。緑の草と、霧に濡れた苔の間に、幅一尺ほどの地面が剥き出しになっている。まるで何かで線を引いたように、きれいに一直線だった。

 

 「結界の類じゃないわよね」サーシャが靴の先で線をなぞった。

 

 「結界とは違う」ガルーダが屈んで地面に触れた。「魔力の境界線だ。この内側は精霊の領域。外の力が及ばない代わりに、中の力も外に漏れない」

 

 「つまり」ギデオンが確認するように言った。「入ったら、外との連絡手段がなくなる」

 

 「そうだ。調査団への定期報告もできなくなる。入ったら、出るまで自分たちだけだ」

 

 沈黙が落ちた。五人がそれぞれ、境界線の向こうの霧を見つめた。

 

 レンは右手を見た。星紋の三つ目の光点が、はっきりと明滅している。入れ、と言われている気がした。

 

 「行くか」

 

 ギデオンが言った。レンでもガルーダでもなく、ギデオンが。

 

 レンはギデオンを見た。ギデオンは境界線の向こうを見つめていた。表情は硬い。だが、足は前を向いている。

 

 「行こう」レンは頷いた。

 

 サーシャが弓を背負い直した。ガルーダが外套の前を合わせた。イレナは何も言わず、ただレンの横に並んだ。

 

 五人は、境界線を越えた。

 

 

 

 一歩踏み込んだ瞬間、音が消えた。

 

 それまで聞こえていた風の音、遠くの鳥の声、足元の草を踏む音——すべてが、薄い膜を一枚通したように遠くなった。代わりに、水滴の音だけが近い。葉から葉へ、枝から地面へ、水が落ちる小さな音が、あちこちから聞こえてくる。

 

 「全員、声を出せ」

 

 ガルーダの声が妙に近くに聞こえた。霧が音を吸収しているのか、遠くの音は消えるのに、近くの声だけが鮮明に届く。

 

 「レン、いる」

 

 「サーシャ、ここよ」

 

 「ギデオン」

 

 「イレナ」

 

 全員の声を確認して、ガルーダが先頭に立った。

 

 「離れるな。互いの姿が見える距離を保て」

 

 霧の密度は境界線の外とは比較にならなかった。五歩先の木がぼやけ、十歩先はもう見えない。視界の端で何かが動いた気がして振り向くと、霧が揺れているだけだった。

 

 レンは右手の星紋を頼りに歩いた。光が強まる方向、明滅が速くなる方向。足元は苔に覆われていて、靴が沈む感触がある。倒木を跨ぎ、低い枝をくぐり、蜘蛛の巣を手で払いながら進む。

 

 三十分ほど歩いただろうか。

 

 「団長」ギデオンが声を上げた。「この倒木——」

 

 ガルーダが足を止めた。ギデオンが指差したのは、道を塞ぐように横たわった大きな倒木だった。根元が苔に覆われ、幹にキノコが群生している。

 

 「さっきも跨いだぞ、これ」

 

 「ええ。同じ倒木です。キノコの生え方に見覚えがある」

 

 レンの背中が冷たくなった。戻っている。三十分歩いて、同じ場所に戻っている。

 

 「道が動いている」ガルーダが周囲を見回した。「精霊が道を変えている。歩いている間に、森の配置そのものが入れ替わっているんだ」

 

 「それじゃ、いくら歩いても——」

 

 「着かない。向こうが通してくれない限り」

 

 サーシャが弓の弦に手を触れた。戦う相手がいるなら引く。だが、相手は森だ。矢では射れない。

 

 「星紋はどうだ」ガルーダがレンを見た。

 

 レンは右手を前にかざした。光点は明滅している。方向は——変わっていない。道が変わっても、欠片の方角だけは動かない。

 

 「方向はわかります。でも、道が追いつかない」

 

 「なら、道を無視しろ」

 

 ガルーダの声が鋭かった。

 

 「藪を越えろ。倒木を越えろ。道ではなく、星紋が示す方角だけを信じて歩け。森が道を動かすなら、道を使わなければいい」

 

 レンは息を吸った。そして、道を外れた。

 

 苔の地面に足を踏み入れ、灌木の間を抜け、低い枝を押しのけて進む。星紋だけを頼りに。右手が示す方向だけを信じて。

 

 周囲の霧が、ざわりと揺れた。

 

 精霊が、見ている。

 

 

 

 それから一時間。

 

 レンを先頭に、五人は藪を掻き分けて進んだ。道はなかった。足元は苔と落ち葉と蔓草で、何度も足を取られた。イレナが蔓草に引っかかって転びかけたとき、ギデオンが無言で手を差し出した。イレナはその手を取り、立ち上がると、小さく頷いた。

 

 星紋の明滅は少しずつ強くなっていた。

 

 「近づいてる」レンは手を握った。「確実に、さっきよりも」

 

 「ああ。空気も変わってきた」ガルーダが鼻を動かした。「水の匂いがする。泉か、川か」

 

 サーシャが前方に目を凝らした。霧の向こうに、薄い光が見えた。木漏れ日だ。霧の中で初めて見る太陽の光が、前方のどこかで地面に降り注いでいる。

 

 「開けた場所がある」

 

 五人は光を目指して歩いた。灌木が途切れ、木々の間隔が広がり——

 

 霧が、晴れた。

 

 円形に開けた空間だった。直径三十歩ほど。中央に小さな泉があり、泉の周りに苔むした石が並んでいる。石の表面に、あの青緑の光る線が走っていた。森の入り口で見た、木の幹を流れていた光と同じだ。

 

 そして、音がした。

 

 風の音ではない。水の音でもない。何かが、ささやいている。言葉にならない声が、空間の四方八方から聞こえてくる。重なり合い、溶け合い、一つの大きなうねりになっている。

 

 「精霊の声だ」ガルーダが低く言った。「集合意識が——ここに集まっている」

 

 レンの右手が熱くなった。星紋が、これまでで一番強く光っている。

 

 ささやきが止んだ。

 

 代わりに、一つの声が聞こえた。どこからともなく。男でも女でもない、子供でもない、老人でもない。そのすべてが混じった声。

 

 ——来たか。

 

 五人は動けなかった。

 

 ——星紋の担い手。お前に、見せたいものがある。

 

 霧が動いた。泉の水面が波打つ。そして——五人の足元から、白い霧が立ち上り始めた。

 

 レンが振り向いたとき、サーシャの姿はもう見えなかった。

 

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