死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

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第七話 分断

 

 白い霧が目を塞いだ。

 

 「サーシャ!」

 

 叫んだ。声が霧に吸い込まれて、反響しない。腕を伸ばしても、指先に触れるものがない。足元の地面だけが確かで、それ以外のすべてが消えていた。

 

 「ガルーダさん! ギデオン! イレナ!」

 

 返事がない。

 

 レンは星紋を見た。右手は光っている。欠片の方角を示す明滅は変わっていない。自分がどこにいるかはわからないが、欠片がどこにあるかだけはわかる。その事実がかろうじて、パニックを押し留めていた。

 

 「落ち着け」

 

 自分に言い聞かせた。息を吸って、吐いた。ヤナ婆さんの声が頭の中で響く。慌てるな、まず息を整えろ、それから考えろ。三年間、薬の調合を失敗するたびに言われた言葉だ。

 

 呼吸が落ち着くと、少しだけ見えるようになった。足元の苔。二歩先の石。三歩先の木の幹。それ以上は白い壁だが、真っ暗ではない。光は通している。

 

 「誰か——」

 

 「——ここだ」

 

 声がした。右側、三歩ほど先。レンは声に向かって手を伸ばした。霧の中から、手が出てきた。レンの腕を掴んだその手は硬くて、指が長くて——ギデオンだった。

 

 「無事か」

 

 「ギデオン——ああ、無事だ。お前は」

 

 「問題ない。だが——」

 

 ギデオンの表情が見えた。霧の中で、二人の間だけが晴れている。互いの顔が見える距離。ギデオンは周囲を見回してから、低い声で言った。

 

 「俺たち二人だけだ。他の三人の声が聞こえない」

 

 レンの胸に冷たいものが落ちた。五人がばらばらにされた。精霊が——

 

 「意図的だ」ギデオンが言った。レンが考えていたことを、先に口にした。「精霊が組み合わせを選んでいる。俺とお前を組ませた。残りの三人は——おそらく別の場所にまとめられている」

 

 「なんで俺たちが二人なんだ」

 

 「わからない。だが精霊に理由がないとは思えない」

 

 レンは霧の向こうを見つめた。サーシャ。ガルーダ。イレナ。三人がどこにいるのか、見当もつかない。

 

 「サーシャは大丈夫だろうか」

 

 「大丈夫だ」ギデオンが即答した。「ガルーダ団長とイレナがいる。あの二人がいて無事じゃないなら、俺たちはもっと無事じゃない」

 

 それは正論だった。ガルーダは調査団の団長で、イレナは実戦経験がある。サーシャも弓がある。あの三人なら——大丈夫だ。大丈夫だと思うことにした。

 

 「行くしかないな」

 

 レンは右手を前に出した。星紋の明滅を確かめる。方向は変わっていない。欠片はまだ先にある。

 

 「欠片のある場所に向かえば、多分合流できる」

 

 「精霊が三人もそこに導くと?」

 

 「試練の場所に行かないと始まらないだろ。俺たちも、あっちも」

 

 ギデオンは少し考えてから、頷いた。

 

 「理屈は通る。行こう」

 

 

 

 二人で歩き始めた。

 

 霧の中の森は、さっきまでとは別の場所だった。木の種類が変わっている。さっきは広葉樹ばかりだったのに、今は針のように細い葉をつけた暗い木が多い。幹が太く、枝が低い位置で絡み合って、天蓋のように頭上を覆っている。

 

 光が少ない。霧は白いのに、木々の隙間から差す光がほとんどなくて、薄暗い。足元の苔は湿っていて、一歩ごとに靴が沈む。

 

 「歩きにくいな」

 

 「ああ」

 

 ギデオンが先を歩き、レンが星紋の方角を伝える。自然とそういう役割分担になった。ギデオンは足場を選ぶのが上手い。石の配置、根の張り方を見て、安全な場所を踏んでいく。レンが同じ場所を踏めば転ばずに済む。

 

 しばらく無言で歩いた。

 

 霧の中を二人きりで歩くのは不思議な感覚だった。世界に自分たち以外の人間がいないような錯覚。音は水滴の音だけ。時おり木の枝が軋む音がして、振り向くと何もない。

 

 「レン」

 

 ギデオンが口を開いた。前を向いたまま。

 

 「何だ?」

 

 「お前は——怖くないのか。こういう場所」

 

 「怖いよ。めちゃくちゃ怖い」

 

 嘘は言わなかった。山の洞窟の古竜も怖かった。カルネの影士も怖かった。そして今、霧の森で仲間と離された状況も怖い。レンは怖がりだ。それは旅を始める前から変わっていない。

 

 「でも、怖いのは慣れた」

 

 「慣れた?」

 

 「怖いまま歩くのに慣れた、っていうのかな。最初は足が動かなかったけど、何回か怖い思いをしたら、怖くても足が動くようになった。不思議なもんだよ」

 

 ギデオンは前を向いたまま黙っていた。レンには見えなかったが、ギデオンの口元がわずかに緩んでいた。

 

 

 

 一時間ほど歩くと、小さな沢に出た。

 

 幅は一歩分。深さは足首まで。澄んだ水が苔の間を流れている。二人は沢のそばに座り、水を補給した。ギデオンが水筒を沢に浸して、水を汲み上げる。

 

 「飲めるか?」

 

 レンは水を掌に受けて、匂いを嗅いだ。色は澄んでいる。匂いはない。少しだけ口に含んで、舌の上で転がした。

 

 「大丈夫だ。きれいな水だよ。鉄の味もしない」

 

 「薬師の判断か」

 

 「水質の見分けは基本中の基本。ヤナ婆さんに百回はやらされた」

 

 ギデオンが水筒に水を汲みながら、ぽつりと言った。

 

 「いい師匠だな」

 

 「口は悪いけどな。死んだら墓石を毎日蹴りに行くって言われたし」

 

 「……それは、いい師匠の発言なのか?」

 

 「あの人にとっては最大級の愛情表現だよ」

 

 レンは笑った。ギデオンも少しだけ笑った。薄暗い霧の中で、笑い声だけがやけに人間らしく響いた。

 

 水を飲み、顔を洗って、二人は沢の石に腰を下ろしたまま少し休んだ。

 

 レンは薬箱を開けて中身を確認した。旅の始めから比べると、だいぶ減っている。塗り薬はあと三回分。解毒薬は一瓶。熱冷ましはまだ半分ある。そして——睡眠薬は空だ。カルネで全部使った。

 

 「睡眠薬、作り直さないとな」

 

 「材料はあるのか?」

 

 「この森なら見つかると思う。湿った場所に生えるヒカリゴケの下に、眠り茸っていうキノコがある。あれと、ヤナギの樹液を混ぜれば——」

 

 言いかけて、レンは口を閉じた。ギデオンが真剣な顔で聞いている。

 

 「……なに?」

 

 「いや。お前の話を聞いていると、薬師というのは面白い仕事だと思って」

 

 「面白い? 地味だぞ。草を摘んで、すり潰して、煮詰めて。朝から晩まで同じことの繰り返しで——」

 

 「それが面白いんだろう」ギデオンが遮った。「地味な繰り返しの中に専門知識が詰まっている。カルネで睡眠薬を使ったとき、あれは即興だったか」

 

 「……まあ、即興っちゃ即興だけど」

 

 「あの場で、手持ちの薬の中から睡眠薬を選び、敵の隙を作る方法を考え、タイミングを見計らって実行した。それは訓練で身につく能力じゃない。三年間の蓄積が、あの瞬間に出た」

 

 レンは黙った。そんなふうに言われたことがなかった。カルネの戦闘では必死だっただけだ。影士に追い詰められて、手元にあるもので何とかするしかなかった。でもギデオンの言葉は嘘じゃない。睡眠薬の効き目、持続時間、投与量——あの判断ができたのは、ヤナ婆さんの下で三年間やってきたからだ。

 

 「ありがとう」

 

 「何がだ」

 

 「今の。なんか——そう言ってもらえると、薬師やっててよかったって思える」

 

 ギデオンは目を逸らした。耳の先が、わずかに赤い。

 

 「大したことは言っていない」

 

 

 

 沢を離れて、再び霧の中を歩き始めた。

 

 星紋の明滅が強くなってきた。欠片が近い。だが霧も濃くなっている。三歩先が限界だった。ギデオンの背中だけを頼りに、レンは足を運んだ。

 

 「なあ、ギデオン」

 

 「何だ」

 

 「聞いていいか。お前はどうして調査団に入ったんだ」

 

 足音が一瞬止まった。すぐに再開したが、レンはその間を聞き逃さなかった。

 

 「前にも聞いたか?」

 

 「いや。聞いたことない。でも——カルネで、お前が走ってるの見てたら、気になった」

 

 ギデオンの背中が少し丸くなった気がした。でもそれは霧の加減かもしれない。

 

 「長い話になるが」

 

 「時間はあるだろ。この霧の中、やることないし」

 

 ギデオンは小さく息をついた。そして、前を向いたまま話し始めた。

 

 「俺は——魔法の素質がない」

 

 

 

 それは、レンにとって意外ではなかった。

 

 旅の間、ギデオンが魔法を使ったことは一度もない。ガルーダは探知魔法を使う。イレナは風の魔法を使う。だがギデオンは、常に体術と剣技で戦っている。それはつまり——

 

 「調査団は、魔法使いの組織だ」ギデオンは前を歩きながら続けた。「団員の九割以上が魔導士登録を持っている。残りの一割は、事務方だ。俺は——そのどちらでもない」

 

 「どっちでもない?」

 

 「魔導士じゃないが、事務方でもない。実動部隊の団員だ。魔法が使えない、実動部隊の団員」

 

 ギデオンの声は平坦だった。感情を押し殺しているのではなく、何度も話して擦り切れた言葉のように聞こえた。

 

 「入団試験を三回受けた。一回目は落ちた。二回目も落ちた。三回目——団長が、引き上げてくれた」

 

 「ガルーダさんが?」

 

 「ああ。俺の戦闘評価と状況判断を見て、『魔法がなくても使える』と上に言ってくれた。それで——入れた」

 

 レンは黙って聞いていた。ギデオンの足取りは変わらない。同じ速度で、同じ歩幅で、苔の地面を踏んでいく。

 

 「感謝している。だが、感謝だけじゃ——足りない時がある」

 

 

 

 「足りない?」ギデオンの言葉の意味を、レンは測りかねた。

 

 「探知魔法が使えれば、敵の位置がわかる。攻撃魔法が使えれば、遠距離から制圧できる。回復魔法が使えれば、お前に頼らなくても——いや、そういう話じゃない」

 

 ギデオンが足を止めた。振り向かずに。

 

 「俺が魔法を使えたら、カルネであと三十秒早く動けた。あの三十秒で、お前を囮にしなくて済んだかもしれない」

 

 レンは息を吸った。

 

 「ギデオン。それは——」

 

 「わかっている。結果的にうまくいった。サーシャの弓があった。お前の睡眠薬があった。全員無事だった。それでも、俺は——考えてしまうんだ。もし次があったとき、俺に魔法があれば」

 

 霧の中で、二人は立ち止まっていた。水滴が葉を打つ音だけが続いている。

 

 レンは一歩、ギデオンに近づいた。

 

 「俺もだよ」

 

 ギデオンが振り向いた。

 

 「俺も魔法が使えない。星紋はあるけど、これは欠片を探す力であって、戦う力じゃない。カルネで影士と戦ったとき、俺にできたのは囮になって睡眠薬を投げることだけだった」

 

 「だが、それが——」

 

 「うん。それが俺にできることだった。魔法じゃなくて、薬。お前にとっての剣と体術みたいに。俺にとっての薬」

 

 レンは右手を広げてみせた。星紋が淡く光っている。

 

 「これだって、欲しくて手に入れたわけじゃない。勝手に宿った。でも今は——これが自分のものだって、少しだけ思える。たぶん、お前の剣も同じだろ」

 

 ギデオンの目が、わずかに見開かれた。

 

 そして——笑った。レンが旅を始めてから、ギデオンが見せた中で一番はっきりした笑顔だった。

 

 「お前は——不思議だな、レン」

 

 「何が?」

 

 「怖がりで、朝に弱くて、花の名前も知らない薬師見習いが、どうして的確なことを言うんだ」

 

 「的確って——俺はただ、思ったことを——」

 

 「それが的確なんだ」

 

 ギデオンは前を向いた。歩き出す。今度は、さっきより少しだけ背筋が伸びていた。

 

 「レン。俺は——三年かかった。入団試験を受け続けた三年間、何度もやめようと思った。魔法が使えないのに調査団を目指すのは、馬鹿げていると何度も言われた」

 

 「でも、やめなかった」

 

 「ああ。やめなかった。理由は——」

 

 ギデオンは少し間を置いた。

 

 「酒場で育ったからだ」

 

 「酒場?」

 

 「俺の実家は——酒場だ。ラーンの下町の、小さな酒場。母が一人でやっていた。父はいない。俺は小さい頃から、酒場で客の相手をして育った」

 

 レンはカルネでのギデオンを思い出した。エルテの街での聞き込み。酒場での情報収集。あの手際は訓練ではなく——

 

 「客の中に、調査団の人間がいたんだ。常連でな。いつも静かに飲んでいた。ある日、酔った客が暴れて、母が怪我をしそうになったとき——その人が、静かに立ち上がって止めてくれた。魔法なんか使わなかった。ただ立って、一言言っただけだ」

 

 「何て?」

 

 「『やめろ』と。それだけだ。でも、暴れていた男は止まった。その人の目を見て」

 

 ギデオンの声が、少しだけ変わった。平坦だった声に温度が戻っていた。

 

 「それがガルーダ団長だったんですか」

 

 「いや。団長じゃない。別の人だ。もう——退役した。でも、あの一瞬で俺は決めた。ああいう人間になりたいと」

 

 「魔法を使わずに人を守れる人間に」

 

 「……ああ」

 

 レンは笑った。嬉しかったのだ。ギデオンがその話をしてくれたことが。

 

 「いい話だな」

 

 「笑うなよ」

 

 「笑ってない。——笑ってるけど、馬鹿にしてない。すごくいい話だと思って笑ってるんだ」

 

 ギデオンはため息をついた。でも、その背中に苛立ちはなかった。

 

 

 

 霧の中の時間は、外とは違う速さで流れている気がした。

 

 どれくらい歩いたのか。一時間か、二時間か。足元の地形が少しずつ変わっていた。苔の地面から、根が張り出した固い地面に。木の種類も変わっている。幹が白くて、葉が銀色の木が増えてきた。

 

 「この木、見たことがない」レンが幹に触れた。

 

 「白樺に似ているが、違うな。葉の形が——」ギデオンも目を細めた。「精霊の森にしか生えない種類かもしれない」

 

 白い幹に、あの青緑の光が走っている。入り口で見た光と同じだ。しかし、ここではもっと鮮やかで、もっと速く脈動している。心臓の鼓動のように、リズムがある。

 

 レンは足を止めた。

 

 「聞こえるか」

 

 ギデオンも止まった。耳を澄ませている。

 

 水滴の音の奥に、かすかな音がある。何かがささやいている。言葉にならない声。でもさっき——泉の広場で聞いた声とは違う。あの声は一つだった。今聞こえているのは、無数の小さな声だ。木の葉の間から、根の下から、苔の隙間から。

 

 ——お前は、何者だ。

 

 声がした。頭の中に直接。レンは耳ではなく、胸の奥で聞いていた。

 

 ——ただの薬師見習い、か。

 

 「レン?」ギデオンの声が遠くなった。目の前にいるはずなのに、霧が二人の間に入り込んでくるように。

 

 「聞こえてる。精霊が——俺に話しかけてる」

 

 ——見せてやろう。お前の中にあるものを。

 

 霧が、巻き上がった。

 

 レンの視界が白く染まった。

 

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