死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

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第八話 幻影

 

 匂いがした。

 

 乾いた薬草と、煮詰めた樹液と、古い木の床の匂い。レンは目を開けた。

 

 天井が低かった。黒ずんだ梁が頭上を横切り、梁に干し草の束がぶら下がっている。壁際には棚が並び、棚の上に無数の瓶が整然と並んでいる。茶色い瓶、青い瓶、透明な瓶。それぞれに手書きのラベルが貼られていて、見慣れた文字で薬の名前が書いてある。

 

 ヤナ婆さんの調合室だ。

 

 レンは自分の手を見た。手が小さかった。子供の手だ。指が短くて、爪が丸くて、傷がない。右手の甲に星紋はなかった。

 

 「何をぼんやりしてるんだい」

 

 声がした。振り向くと、作業台の前に小さな老婆が座っていた。しわだらけの手で、すり鉢の中の薬草をすり潰している。乾いた薬草が、ごりごりと音を立てている。

 

 ヤナ婆さんだ。

 

 「師匠——」

 

 「返事は『はい』だ。何度言ったらわかるんだい」

 

 ヤナ婆さんはレンを見なかった。手を止めずに、すり鉢を回し続けている。

 

 「今日の分はまだ終わっていないよ。棚の三段目、左から四番目の瓶を取りな」

 

 レンの体が勝手に動いた。足が床を踏み、手が棚に伸びる。三段目、左から四番目。茶色い瓶。ラベルには「ニガヨモギ抽出液」と書いてある。この瓶を知っている。三年間で何百回と手に取った瓶だ。

 

 「持ってきました」

 

 「よしよし。じゃあ三滴、すり鉢に落としな。多すぎたら今日の分は全部やり直しだからね」

 

 瓶の蓋を開けて、慎重に傾ける。一滴。二滴。三滴。暗い液体がすり鉢に落ちて、薬草の粉末に染み込んでいく。

 

 「上出来だ」

 

 ヤナ婆さんの声が、いつもより柔らかかった。それで——おかしいと気づいた。ヤナ婆さんは、たった三滴で「上出来」とは言わない。「当たり前だ」と言う。三年間、一度も褒めてくれなかった。

 

 これは幻だ。

 

 「師匠」

 

 「何だい」

 

 「これ——本物じゃないですよね」

 

 ヤナ婆さんの手が止まった。すり鉢の音が消えて、調合室が静かになる。

 

 老婆がゆっくりとレンを見上げた。しわの奥にある小さな目が、レンを射抜くように見つめている。

 

 「なんでそう思うんだい」

 

 「師匠は、三滴ごときで褒めない」

 

 間があった。

 

 そしてヤナ婆さんは——笑った。歯の欠けた口で、しわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして。

 

 「はっ。三年で、それだけは覚えたかい」

 

 調合室が揺れた。壁が歪み、天井が溶け、棚の瓶が一つずつ透明になって消えていく。ヤナ婆さんの姿も薄くなった。最後に残ったのは、あの乾いた声だけだった。

 

 「死ぬんじゃないよ」

 

 それだけが、本物の師匠の言葉だった。

 

 

 

 次に目を開けたとき、石畳の上にいた。

 

 アルデン村の広場だ。中央の古い噴水が、午後の光を浴びて光っている。噴水の周りには子供たちが集まっていて、水を掬って掛け合っている。笑い声が響く。明るくて、温かくて、平和な午後。

 

 レンは広場の端に立っていた。自分の影が石畳に落ちている。影は——大人の大きさだった。子供ではない。今のレンだ。

 

 「よう、レン!」

 

 声がして振り向くと、カルロおじさんが店の前に立っていた。大きな体に革のエプロンをかけて、荷車の横で薬草の束を仕分けている。

 

 「ちょうどいいところだ。今日入った薬草、見てくれよ。お前の目利きが必要だ」

 

 カルロおじさんの笑顔は、あの頃のままだった。ぶっきらぼうだが、レンが来ると目尻が下がる。商人の顔と、近所のおじさんの顔が入り混じった、あの表情。

 

 「……おじさん」

 

 「何だよ、そんな顔して。帰ってきたんなら、まず腹ごしらえだろ。婆さんに言っとけ、今夜は鹿肉が入るから——」

 

 「おじさん。俺、今ここにいないんだ」

 

 カルロの手が止まった。薬草の束を持ったまま、レンを見た。

 

 「何言ってんだ」

 

 「ここは幻だよ。精霊が見せてる。本当の俺は——霧の森の中で、欠片を探してる」

 

 カルロの表情が変わった。笑顔が消えて、静かな顔になった。それは——レンが知っているカルロの顔だった。ぶっきらぼうで、でも情に厚くて、本当に大事なことを言うときだけ見せる顔。

 

 「そうか」

 

 カルロは薬草を荷車に置いた。

 

 「お前、ここに帰りたいか」

 

 「——帰りたいよ」

 

 声が震えた。自分でも驚くほどに。帰りたい。この広場に。この噴水の前に。カルロおじさんの荷車の横で薬草を仕分けて、ヤナ婆さんに怒られて、サーシャと夕日を見て。

 

 帰りたい。

 

 「でも——まだ帰れない」

 

 カルロは頷いた。

 

 「わかってるさ。お前は昔からそうだ。やると言ったら、最後までやる。ヤナ婆さんの弟子を三年続けたのも——」

 

 広場が揺れた。噴水の水が凍り、子供たちの笑い声が遠のく。カルロの姿が透けて、石畳の向こうに霧が見えた。

 

 「おじさん——」

 

 「帰ってこいよ、レン」

 

 カルロの声だけが残った。

 

 そして——広場が消えた。

 

 

 

 幻と幻の隙間があった。

 

 白い霧の中に、レンは一人で立っていた。次の場所へ移される前の、束の間の空白。体がある。足が地面についている。でも、何も見えない。

 

 師匠は「三滴ごときで褒めない」から偽物だと見抜けた。カルロおじさんは——本物だったのか、偽物だったのか。帰りたいと言ったら、帰ってこいと返してくれた。あれは精霊の言葉か、レン自身の願望か。

 

 区別がつかないことが——怖い。

 

 自分の中にあるものを見せている、と精霊は言った。つまり、これはすべてレンの中身だ。師匠への甘え。村への郷愁。それを精霊が鏡のように映している。

 

 次に何が来る。

 

 レンは両手を握った。右手の星紋が、霧の中で淡く光っている。その光だけが、自分が自分であることの証だった。

 

 「来い」

 

 声に出して言った。何が来ても受け止める。そう決めた——その瞬間。

 

 

 

 三度目の幻は、一番怖かった。

 

 何もない場所だった。

 

 白い空間。上も下もない。壁も床も天井もない。ただ白い光が四方を満たしている。そこにレンは立っていた——立っているのか浮いているのかもわからない。足元に地面の感触はない。

 

 目の前に、一人の少年が立っていた。

 

 レンと同じ顔をしていた。同じ茶色の癖毛、同じ背格好、同じ服。だが——右手が違った。その少年の右手には、星紋がなかった。

 

 「お前は」

 

 レンの声に、少年が答えた。同じ声で。

 

 「お前だよ」

 

 「俺の——」

 

 「星紋がなかったお前だ。使命を持たなかったお前。アルデン村で、薬師として暮らし続けた——もう一人のお前」

 

 少年は笑った。レンが笑うときと同じ、少し間の抜けた笑顔で。

 

 「楽だぜ。怖い目に遭わなくていいし、影士に追われなくていいし。毎朝ヤナ婆さんに起こされて、サーシャと昼飯食って、カルロおじさんの荷車を手伝って。夕方にはもう暇で、坂の上から夕日を見る。毎日それだけ」

 

 レンの胸が痛んだ。

 

 それは——欲しかったものだ。あの朝、星紋が光る前の自分が思い描いていた未来。穏やかで、退屈で、でもそれなりに幸せな日々。

 

 「それでいいだろ」少年が続けた。「英雄なんかにならなくていい。欠片なんか集めなくていい。闇の神なんか——誰かほかの奴が封じればいい」

 

 「誰かって——」

 

 「百年後にまた星紋が現れるんだろ。そいつに任せればいい。お前じゃなくていい。お前は——ただの薬師見習いだ」

 

 ただの薬師見習い。

 

 その言葉は、古竜の問いへのレンの答えでもあった。「なぜここに来た」と問われて、「死にたくないから」と答えた。大義はなかった。世界を救いたいなんて、思ったことがなかった。ただ、目の前のことに必死で、右手が光って、仲間ができて、ここまで来た。

 

 「お前は——精霊か」

 

 少年は答えなかった。ただ笑っている。

 

 「俺に何を見せたい」

 

 「見せてるだろ。お前の中にあるものだよ」少年は右手を——星紋のない右手を広げた。「これが、お前の本当の手だ。星紋は後から来た。お前が選んだんじゃない。勝手に宿った。なら——」

 

 「勝手に捨てていいって?」

 

 少年が黙った。

 

 レンの右手が光った。星紋が、この幻の中でも光っている。少年の手と、レンの手。同じ形で、違うもの。

 

 「確かに、選んだわけじゃない」

 

 レンは自分の右手を見つめた。

 

 「星紋は勝手に来た。欠片を探すのも、使命だと言われたからだ。最初は——わけもわからないまま走り出した」

 

 少年が一歩近づいた。

 

 「なら——」

 

 「でも、今は違う」

 

 レンの声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 

 「山で竜に会った。城で騎士に会った。サーシャが弓を引いてくれた。ギデオンが廊下で前に立ってくれた。ガルーダさんが地図を広げてくれた。イレナがスープを作ってくれた。俺は——ここまで来たんだ。自分で歩いて」

 

 少年の笑顔が消えた。

 

 「勝手に来た星紋だよ。でも——この旅は、自分のものだ。出会った人も、怖かったことも、嬉しかったことも。全部、俺の——」

 

 白い空間が揺れた。少年の輪郭がぼやけていく。

 

 「帰りたい場所がある。この旅が終わったら、帰る場所が。でもそれは——旅を途中で投げ出す理由じゃない。最後まで歩いて、終わらせて、それから帰る」

 

 少年は消えかけていた。最後に——泣いているように見えた。泣いているのか、笑っているのか。霧に溶けていく寸前の表情は、どちらとも取れた。

 

 ——それが、お前の答えか。

 

 精霊の声だった。少年の声ではない。あの、男でも女でもない、すべてが混じった声。

 

 「答えになってるかはわからない」

 

 ——なっている。

 

 白い空間が崩れた。色が戻ってくる。緑と茶色と灰色。苔の匂い。水の音。

 

 ——前の担い手——エルダン・ソールは、この問いに答えなかった。

 

 レンは息を吸った。湿った空気が肺を満たした。現実の空気だ。

 

 ——「使命が終わった後の自分」を、あの男は想像しなかった。使命がすべてだった。使命の外側に、自分がなかった。

 

 だから——

 

 ——だから、封印を果たした後、消えた。帰る場所を持たない者は、使命を終えた瞬間に迷子になる。

 

 レンは目を開けた。

 

 苔むした地面に仰向けに倒れていた。頭上に、銀色の葉をつけた白い木の枝が見える。枝の向こうに、霧がゆっくりと流れている。

 

 横で、ギデオンがレンの肩を揺すっていた。

 

 「レン。レン! 目を開けろ」

 

 「——開いてる」

 

 「二分だ。お前は二分間、目を開けたまま固まっていた。何が——」

 

 「精霊に——会ってた」

 

 レンは体を起こした。頭が重い。でも——胸の奥は軽かった。何かが、抜けたように。

 

 「大丈夫か。歩けるか」

 

 「歩ける」レンは立ち上がった。膝が少し震えていたが、足は動く。「ギデオン——ありがとう。起こしてくれて」

 

 「礼はいい」

 

 ギデオンはレンの顔を覗き込んだ。何かを確認するように。

 

 「泣いてるぞ」

 

 「え?」

 

 レンは頬に触れた。濡れていた。涙だ。いつ流したのか覚えがない。幻の中で——カルロおじさんに「帰りたい」と言ったとき。それとも、星紋のない自分が消えるのを見たとき。

 

 「……泣いてたのか、俺」

 

 「目を開けたまま、二分間。涙だけ流していた」

 

 ギデオンの声は淡々としていたが、目は違った。心配している目だ。レンが壊れていないかを確かめている。

 

 レンは袖で顔を拭った。ごしごしと。子供みたいに。

 

 「大丈夫だ。精霊に——いろいろ見せられた。師匠の顔とか、村の広場とか。懐かしくて——泣いたんだと思う」

 

 ギデオンは何も言わなかった。ただ水筒を差し出した。レンは受け取って、一口飲んだ。冷たい水が喉を通ると、現実の感覚が戻ってきた。足元の苔。湿った空気。霧の匂い。ここは幻ではない。

 

 「ギデオンは——何も見えなかったか」

 

 「俺には何もなかった。お前だけだ。急に動かなくなって、目が——どこか遠くを見ていた」

 

 「精霊は俺にだけ見せたのか」

 

 「星紋の担い手に、だろう。試練は——お前のものだ」

 

 その言葉に重みがあった。ギデオンは傍観者だった。二分間、何もできずにレンを見ていた。それが——どういう気持ちだったか。レンには想像がつく。何もできない辛さは、レン自身がよく知っている。

 

 「行こう」レンは歩き出した。「欠片は、もう近い気がする」

 

 ギデオンが黙って隣に並んだ。礼はいい——その背中が、そう言っていた。

 

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