死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です 作:メリィ
匂いがした。
乾いた薬草と、煮詰めた樹液と、古い木の床の匂い。レンは目を開けた。
天井が低かった。黒ずんだ梁が頭上を横切り、梁に干し草の束がぶら下がっている。壁際には棚が並び、棚の上に無数の瓶が整然と並んでいる。茶色い瓶、青い瓶、透明な瓶。それぞれに手書きのラベルが貼られていて、見慣れた文字で薬の名前が書いてある。
ヤナ婆さんの調合室だ。
レンは自分の手を見た。手が小さかった。子供の手だ。指が短くて、爪が丸くて、傷がない。右手の甲に星紋はなかった。
「何をぼんやりしてるんだい」
声がした。振り向くと、作業台の前に小さな老婆が座っていた。しわだらけの手で、すり鉢の中の薬草をすり潰している。乾いた薬草が、ごりごりと音を立てている。
ヤナ婆さんだ。
「師匠——」
「返事は『はい』だ。何度言ったらわかるんだい」
ヤナ婆さんはレンを見なかった。手を止めずに、すり鉢を回し続けている。
「今日の分はまだ終わっていないよ。棚の三段目、左から四番目の瓶を取りな」
レンの体が勝手に動いた。足が床を踏み、手が棚に伸びる。三段目、左から四番目。茶色い瓶。ラベルには「ニガヨモギ抽出液」と書いてある。この瓶を知っている。三年間で何百回と手に取った瓶だ。
「持ってきました」
「よしよし。じゃあ三滴、すり鉢に落としな。多すぎたら今日の分は全部やり直しだからね」
瓶の蓋を開けて、慎重に傾ける。一滴。二滴。三滴。暗い液体がすり鉢に落ちて、薬草の粉末に染み込んでいく。
「上出来だ」
ヤナ婆さんの声が、いつもより柔らかかった。それで——おかしいと気づいた。ヤナ婆さんは、たった三滴で「上出来」とは言わない。「当たり前だ」と言う。三年間、一度も褒めてくれなかった。
これは幻だ。
「師匠」
「何だい」
「これ——本物じゃないですよね」
ヤナ婆さんの手が止まった。すり鉢の音が消えて、調合室が静かになる。
老婆がゆっくりとレンを見上げた。しわの奥にある小さな目が、レンを射抜くように見つめている。
「なんでそう思うんだい」
「師匠は、三滴ごときで褒めない」
間があった。
そしてヤナ婆さんは——笑った。歯の欠けた口で、しわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして。
「はっ。三年で、それだけは覚えたかい」
調合室が揺れた。壁が歪み、天井が溶け、棚の瓶が一つずつ透明になって消えていく。ヤナ婆さんの姿も薄くなった。最後に残ったのは、あの乾いた声だけだった。
「死ぬんじゃないよ」
それだけが、本物の師匠の言葉だった。
次に目を開けたとき、石畳の上にいた。
アルデン村の広場だ。中央の古い噴水が、午後の光を浴びて光っている。噴水の周りには子供たちが集まっていて、水を掬って掛け合っている。笑い声が響く。明るくて、温かくて、平和な午後。
レンは広場の端に立っていた。自分の影が石畳に落ちている。影は——大人の大きさだった。子供ではない。今のレンだ。
「よう、レン!」
声がして振り向くと、カルロおじさんが店の前に立っていた。大きな体に革のエプロンをかけて、荷車の横で薬草の束を仕分けている。
「ちょうどいいところだ。今日入った薬草、見てくれよ。お前の目利きが必要だ」
カルロおじさんの笑顔は、あの頃のままだった。ぶっきらぼうだが、レンが来ると目尻が下がる。商人の顔と、近所のおじさんの顔が入り混じった、あの表情。
「……おじさん」
「何だよ、そんな顔して。帰ってきたんなら、まず腹ごしらえだろ。婆さんに言っとけ、今夜は鹿肉が入るから——」
「おじさん。俺、今ここにいないんだ」
カルロの手が止まった。薬草の束を持ったまま、レンを見た。
「何言ってんだ」
「ここは幻だよ。精霊が見せてる。本当の俺は——霧の森の中で、欠片を探してる」
カルロの表情が変わった。笑顔が消えて、静かな顔になった。それは——レンが知っているカルロの顔だった。ぶっきらぼうで、でも情に厚くて、本当に大事なことを言うときだけ見せる顔。
「そうか」
カルロは薬草を荷車に置いた。
「お前、ここに帰りたいか」
「——帰りたいよ」
声が震えた。自分でも驚くほどに。帰りたい。この広場に。この噴水の前に。カルロおじさんの荷車の横で薬草を仕分けて、ヤナ婆さんに怒られて、サーシャと夕日を見て。
帰りたい。
「でも——まだ帰れない」
カルロは頷いた。
「わかってるさ。お前は昔からそうだ。やると言ったら、最後までやる。ヤナ婆さんの弟子を三年続けたのも——」
広場が揺れた。噴水の水が凍り、子供たちの笑い声が遠のく。カルロの姿が透けて、石畳の向こうに霧が見えた。
「おじさん——」
「帰ってこいよ、レン」
カルロの声だけが残った。
そして——広場が消えた。
幻と幻の隙間があった。
白い霧の中に、レンは一人で立っていた。次の場所へ移される前の、束の間の空白。体がある。足が地面についている。でも、何も見えない。
師匠は「三滴ごときで褒めない」から偽物だと見抜けた。カルロおじさんは——本物だったのか、偽物だったのか。帰りたいと言ったら、帰ってこいと返してくれた。あれは精霊の言葉か、レン自身の願望か。
区別がつかないことが——怖い。
自分の中にあるものを見せている、と精霊は言った。つまり、これはすべてレンの中身だ。師匠への甘え。村への郷愁。それを精霊が鏡のように映している。
次に何が来る。
レンは両手を握った。右手の星紋が、霧の中で淡く光っている。その光だけが、自分が自分であることの証だった。
「来い」
声に出して言った。何が来ても受け止める。そう決めた——その瞬間。
三度目の幻は、一番怖かった。
何もない場所だった。
白い空間。上も下もない。壁も床も天井もない。ただ白い光が四方を満たしている。そこにレンは立っていた——立っているのか浮いているのかもわからない。足元に地面の感触はない。
目の前に、一人の少年が立っていた。
レンと同じ顔をしていた。同じ茶色の癖毛、同じ背格好、同じ服。だが——右手が違った。その少年の右手には、星紋がなかった。
「お前は」
レンの声に、少年が答えた。同じ声で。
「お前だよ」
「俺の——」
「星紋がなかったお前だ。使命を持たなかったお前。アルデン村で、薬師として暮らし続けた——もう一人のお前」
少年は笑った。レンが笑うときと同じ、少し間の抜けた笑顔で。
「楽だぜ。怖い目に遭わなくていいし、影士に追われなくていいし。毎朝ヤナ婆さんに起こされて、サーシャと昼飯食って、カルロおじさんの荷車を手伝って。夕方にはもう暇で、坂の上から夕日を見る。毎日それだけ」
レンの胸が痛んだ。
それは——欲しかったものだ。あの朝、星紋が光る前の自分が思い描いていた未来。穏やかで、退屈で、でもそれなりに幸せな日々。
「それでいいだろ」少年が続けた。「英雄なんかにならなくていい。欠片なんか集めなくていい。闇の神なんか——誰かほかの奴が封じればいい」
「誰かって——」
「百年後にまた星紋が現れるんだろ。そいつに任せればいい。お前じゃなくていい。お前は——ただの薬師見習いだ」
ただの薬師見習い。
その言葉は、古竜の問いへのレンの答えでもあった。「なぜここに来た」と問われて、「死にたくないから」と答えた。大義はなかった。世界を救いたいなんて、思ったことがなかった。ただ、目の前のことに必死で、右手が光って、仲間ができて、ここまで来た。
「お前は——精霊か」
少年は答えなかった。ただ笑っている。
「俺に何を見せたい」
「見せてるだろ。お前の中にあるものだよ」少年は右手を——星紋のない右手を広げた。「これが、お前の本当の手だ。星紋は後から来た。お前が選んだんじゃない。勝手に宿った。なら——」
「勝手に捨てていいって?」
少年が黙った。
レンの右手が光った。星紋が、この幻の中でも光っている。少年の手と、レンの手。同じ形で、違うもの。
「確かに、選んだわけじゃない」
レンは自分の右手を見つめた。
「星紋は勝手に来た。欠片を探すのも、使命だと言われたからだ。最初は——わけもわからないまま走り出した」
少年が一歩近づいた。
「なら——」
「でも、今は違う」
レンの声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
「山で竜に会った。城で騎士に会った。サーシャが弓を引いてくれた。ギデオンが廊下で前に立ってくれた。ガルーダさんが地図を広げてくれた。イレナがスープを作ってくれた。俺は——ここまで来たんだ。自分で歩いて」
少年の笑顔が消えた。
「勝手に来た星紋だよ。でも——この旅は、自分のものだ。出会った人も、怖かったことも、嬉しかったことも。全部、俺の——」
白い空間が揺れた。少年の輪郭がぼやけていく。
「帰りたい場所がある。この旅が終わったら、帰る場所が。でもそれは——旅を途中で投げ出す理由じゃない。最後まで歩いて、終わらせて、それから帰る」
少年は消えかけていた。最後に——泣いているように見えた。泣いているのか、笑っているのか。霧に溶けていく寸前の表情は、どちらとも取れた。
——それが、お前の答えか。
精霊の声だった。少年の声ではない。あの、男でも女でもない、すべてが混じった声。
「答えになってるかはわからない」
——なっている。
白い空間が崩れた。色が戻ってくる。緑と茶色と灰色。苔の匂い。水の音。
——前の担い手——エルダン・ソールは、この問いに答えなかった。
レンは息を吸った。湿った空気が肺を満たした。現実の空気だ。
——「使命が終わった後の自分」を、あの男は想像しなかった。使命がすべてだった。使命の外側に、自分がなかった。
だから——
——だから、封印を果たした後、消えた。帰る場所を持たない者は、使命を終えた瞬間に迷子になる。
レンは目を開けた。
苔むした地面に仰向けに倒れていた。頭上に、銀色の葉をつけた白い木の枝が見える。枝の向こうに、霧がゆっくりと流れている。
横で、ギデオンがレンの肩を揺すっていた。
「レン。レン! 目を開けろ」
「——開いてる」
「二分だ。お前は二分間、目を開けたまま固まっていた。何が——」
「精霊に——会ってた」
レンは体を起こした。頭が重い。でも——胸の奥は軽かった。何かが、抜けたように。
「大丈夫か。歩けるか」
「歩ける」レンは立ち上がった。膝が少し震えていたが、足は動く。「ギデオン——ありがとう。起こしてくれて」
「礼はいい」
ギデオンはレンの顔を覗き込んだ。何かを確認するように。
「泣いてるぞ」
「え?」
レンは頬に触れた。濡れていた。涙だ。いつ流したのか覚えがない。幻の中で——カルロおじさんに「帰りたい」と言ったとき。それとも、星紋のない自分が消えるのを見たとき。
「……泣いてたのか、俺」
「目を開けたまま、二分間。涙だけ流していた」
ギデオンの声は淡々としていたが、目は違った。心配している目だ。レンが壊れていないかを確かめている。
レンは袖で顔を拭った。ごしごしと。子供みたいに。
「大丈夫だ。精霊に——いろいろ見せられた。師匠の顔とか、村の広場とか。懐かしくて——泣いたんだと思う」
ギデオンは何も言わなかった。ただ水筒を差し出した。レンは受け取って、一口飲んだ。冷たい水が喉を通ると、現実の感覚が戻ってきた。足元の苔。湿った空気。霧の匂い。ここは幻ではない。
「ギデオンは——何も見えなかったか」
「俺には何もなかった。お前だけだ。急に動かなくなって、目が——どこか遠くを見ていた」
「精霊は俺にだけ見せたのか」
「星紋の担い手に、だろう。試練は——お前のものだ」
その言葉に重みがあった。ギデオンは傍観者だった。二分間、何もできずにレンを見ていた。それが——どういう気持ちだったか。レンには想像がつく。何もできない辛さは、レン自身がよく知っている。
「行こう」レンは歩き出した。「欠片は、もう近い気がする」
ギデオンが黙って隣に並んだ。礼はいい——その背中が、そう言っていた。