死にたくないし帰りたい。それが俺の勇者としての動機です   作:メリィ

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第九話 焚き火のない夜

 

 幻から戻った後も、二人は歩き続けた。

 

 レンの足取りは覚束なかった。幻で消耗したのか、体が重い。だが星紋の明滅は着実に強くなっている。近づいている。確実に。

 

 ギデオンはレンの歩調に合わせていた。何も言わず、ただ速度を落として。レンがつまずくと、無言で腕を掴んで支えた。

 

 「悪い」

 

 「気にするな。それより、さっきの——精霊に何を見せられた」

 

 レンは歩きながら、短く話した。ヤナ婆さんの調合室。アルデン村の広場。そして、星紋のない自分。全部は話さなかった。胸の奥に残った感覚は、言葉にすると零れ落ちるものがある。でも、核心だけは伝えた。

 

 「使命が終わった後のことを聞かれた。お前はどこへ行くのかって」

 

 ギデオンは黙って聞いていた。

 

 「エルダンは——答えられなかったらしい。使命がすべてだったから。使命が終わったら、自分がなくなった」

 

 「それで?」

 

 「俺は——帰りたい場所があるって言った。この旅が終わったら、村に帰る。それだけ」

 

 ギデオンは長い間黙っていた。二十歩ほど歩いてから、ぽつりと言った。

 

 「それは——大事なことだな」

 

 「大事?」

 

 「目的地だけを見て走る人間は、到着した瞬間に立ち止まる。帰る場所がある人間は、到着した後も歩ける」

 

 レンは目を丸くした。

 

 「お前、たまにすごいこと言うな」

 

 「俺は——」ギデオンが口ごもった。「母に言われた言葉だ。酒場を出るとき」

 

 「出た? 酒場を」

 

 「調査団に入るために、ラーンの中央に移った。母は反対しなかった。ただ『帰る場所はなくならないから、好きなだけ走ってこい』と」

 

 レンは、ギデオンの母親の姿を想像した。酒場で一人で息子を育てた女性。反対せずに送り出した強さ。それは——ヤナ婆さんがレンを送り出したときと、どこか似ている。

 

 「いい母さんだな」

 

 「ああ。口は悪いが」

 

 「うちの師匠と同じだ」

 

 二人は顔を見合わせて、同時に笑った。霧の中で、笑い声だけが妙に鮮やかだった。

 

 

 

 日が傾いてきた。

 

 霧の中でも明暗の変化はわかる。白かった霧が、わずかにオレンジ色を帯びてきた。木々の隙間から射す光が低くなり、影が長くなる。

 

 「今日はここで休もう」ギデオンが足を止めた。

 

 大きな木の根元に、苔に覆われた窪みがあった。二人が座れるほどの広さ。頭上を木の根が覆っていて、雨が降っても凌げる。

 

 「火は——起こせないだろうな」

 

 「この霧で薪が湿っている。無理だ」レンは周囲を見回した。乾いたものは何もない。苔と水滴と、湿った落ち葉だけだ。

 

 「冷えるぞ」

 

 「我慢するしかない」

 

 二人は窪みに腰を下ろした。荷物を枕にして、外套を体に巻きつける。ギデオンが干し肉と固いパンを出して、半分に割った。

 

 「食え」

 

 「ありがと」

 

 暗い霧の中で、二人は黙って食事をした。干し肉は塩気が強くて、固いパンは喉を通りにくかった。水で流し込みながら、レンは空を見上げた。霧の向こうに星は見えない。

 

 「サーシャたち、大丈夫かな」

 

 「大丈夫だ」

 

 「根拠は」

 

 「ガルーダ団長がいる。あの人は——どんな状況でも冷静だ。それに、イレナがいる」

 

 「イレナ?」

 

 「あいつは——気配に敏感だ。敵意のある魔力なら百歩先から察知する。精霊の悪意がないことを、一番最初に判断できるのはイレナだろう」

 

 レンは頷いた。確かに、イレナは森に入ったとき、唯一落ち着いていた。準備ができている、と頷いただけだった。あの無表情の下に、レンにはわからない感覚が働いている。

 

 「お前たち三人——調査団で長いのか」

 

 「俺が入ったのは二年前。イレナは俺より半年早い。団長は——十年以上だ」

 

 「十年」

 

 「団長には家族がいない。独身で、調査団の宿舎に住んでいる。仕事が生活のすべてだ。でも——」

 

 ギデオンは言葉を切った。

 

 「でも?」

 

 「この旅で——少し変わった気がする。俺の勘だが」

 

 「どう変わった」

 

 「笑う回数が増えた。いや、団長はもともと笑わない人間じゃない。だが——レンとサーシャが入ってから、笑い方が変わった」

 

 レンは首を傾げた。ガルーダの笑顔を思い出そうとした。あまり浮かばない。だが——カルネを出たとき、サーシャが冗談を言って、ガルーダの目尻がわずかに下がったのは覚えている。

 

 「任務の笑いじゃなくなったということか」

 

 「うまく言えないが——そういうことだ」

 

 ギデオンは干し肉の最後のひとかけを口に放り込んだ。

 

 

 

 夜が深くなった。

 

 気温が下がってきた。霧が冷気を含んで、肌に張り付くように冷たい。レンは外套の襟を引き上げて、顎を埋めた。歯の根が合わない。

 

 「寒い」

 

 「ああ」

 

 ギデオンもレンの隣で膝を抱えていた。二人の間に半歩の隙間があったが、ギデオンが少しだけ詰めた。体温が伝わってくる。

 

 「ギデオン」

 

 「何だ」

 

 「さっきの話の続き。お前が調査団を目指した理由——酒場の話」

 

 「ああ」

 

 「あの調査団の人。酔った客を止めた人。その人は——今もう退役したって言ってたけど、お前にとって何だったんだ」

 

 ギデオンは少し考えた。

 

 「名前も知らないんだ。常連だったが、名乗らなかった。調査団の人間だとわかったのは、外套の紋章を見たからだ。母に聞いても『あの人は名前を言わない人だから』と」

 

 「名前も知らないのに、その人みたいになりたいと思った」

 

 「おかしいか」

 

 「いや。全然おかしくない」

 

 レンは星紋を見た。暗闇の中で、淡い光だけが二人の顔を照らしている。

 

 「俺も——ガルーダさんに会ったとき、名前も素性もわからなかった。あの人がアルデン村に来て、星紋のことを説明してくれて、『一緒に来い』と言ったとき——理屈じゃなくて、この人についていこうって思ったんだ」

 

 「それは——理屈じゃないのか」

 

 「うん。全然理屈じゃない。ただ——あの人の目が、嘘をつかない目だった。それだけ」

 

 ギデオンは黙った。暗い霧の中で、二人の息だけが白く見えた。

 

 「……似ているな」

 

 「何が」

 

 「俺とお前の——始まり方が」

 

 レンは笑いかけて、やめた。笑う代わりに、ギデオンの肩に拳を軽くぶつけた。ギデオンが少しだけ揺れた。

 

 「なんだそれは」

 

 「何でもない。ただ——嬉しかった。お前と似てるって、嬉しい」

 

 ギデオンは何も言わなかった。だが——暗がりの中で、口元がわずかに動いたのをレンは見逃さなかった。笑っている。小さく、静かに。

 

 

 

 眠れない夜だった。

 

 寒さのせいだけではない。霧の向こうから、精霊のささやきが断続的に聞こえてくる。言葉にならない声。敵意はないが、安心もできない。観察されている。試されている。その感覚が、眠りを浅くした。

 

 うとうとしては目が覚め、目が覚めては星紋を確認する。欠片の方角は変わっていない。変わっていないことだけが、心の支えだった。

 

 「レン」

 

 ギデオンの声が、暗闇の中から聞こえた。眠っていなかったのか。

 

 「起きてたのか」

 

 「交代で眠るつもりだった。だが——お前が目を閉じないから、切り替えられない」

 

 「悪い」

 

 「いや。俺も——眠れないだけだ」

 

 沈黙があった。

 

 「なあ、ギデオン」

 

 「何だ」

 

 「これが終わったら——お前はどうする?」

 

 ギデオンは答えなかった。長い沈黙が霧の中に沈んだ。

 

 「……考えたことがなかった」

 

 「嘘つけ。考えてるだろ、今」

 

 「……まあ」

 

 「教えろよ」

 

 ギデオンはため息をついた。でもそのため息は、重くなかった。

 

 「母の酒場に——帰るかもしれない。手伝いに。調査団をやめるわけじゃないが、時々帰って、カウンターの中に立つのも——悪くないと思い始めている」

 

 「お前が酒場で接客してるの、想像できるな」

 

 「なぜだ」

 

 「お前、聞き上手だから。エルテの酒場で情報集めてたとき——あれ、完全に酒場の子供の動きだったろ」

 

 ギデオンが固まった。

 

 「……気づいていたのか」

 

 「あのときは気づかなかったけど、今思えばそうだ。客に合わせて話を聞いて、頷いて、ちょうどいいところで酒を勧める。あれは訓練じゃなくて——身についた動きだ」

 

 「……母に似たのかもしれない」

 

 「似てるんだろうな。いいことだよ」

 

 ギデオンは何かを言おうとして、口を閉じた。そしてもう一度開いた。

 

 「レン」

 

 「うん」

 

 「お前のことは——これまで『レン殿』と呼んでいたな」

 

 「ああ。最初はそうだった」

 

 「いつから呼び捨てにしていた」

 

 レンは考えた。いつだっただろう。カルネの廊下でギデオンが走ってきたとき。あのとき、ギデオンは——

 

 「カルネだ。廊下で『レン、伏せろ!』って叫んだとき。あのときから」

 

 「——そうか」

 

 「お前は気にしてたのか?」

 

 「気にしていたというか——確認したかった。呼び捨てにする関係を、お前が受け入れているかどうか」

 

 レンは暗闇の中で笑った。

 

 「受け入れてるよ。てか、最初からタメ口でよかったのに」

 

 「調査団の人間が、護衛対象にタメ口を使うのは——」

 

 「護衛対象って。俺たちもう仲間だろ」

 

 ギデオンの沈黙が、今度は短かった。

 

 「……ああ。仲間だ」

 

 その声は、暗闇の中で聞いた音の中で、一番温かかった。

 

 

 

 朝が来た。

 

 霧が薄くオレンジ色に染まっている。夜明けの光が、霧を通して柔らかく広がっていた。寒さは厳しかったが、二人とも生きている。それだけで十分だった。

 

 レンは体を起こして、固くなった首を回した。隣でギデオンも同じことをしていた。

 

 「眠れたか」

 

 「二時間くらい。お前は」

 

 「同じくらいだ」

 

 二人は残りの干し肉とパンで朝食を済ませた。水は昨日の沢で汲んだ分がまだある。

 

 レンは右手をかざした。星紋の明滅が——昨日より、ずっと強い。

 

 「近い。今日中に着く」

 

 「行こう」ギデオンが立ち上がった。

 

 レンも立ち上がった。膝が軋んだが、足は動く。

 

 二人は並んで歩き出した。昨日までとは、何かが違っていた。歩幅が揃っている。呼吸が揃っている。言葉がなくても、隣に誰がいるかを知っている。

 

 霧は相変わらず深かったが、怖くはなかった。

 

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