BrokenWorld~黒鉄の装着者~ 作:半笑いの妖精
町の外れへ向かうにつれ、周囲の建物はまばらになっていった。
住宅街の窮屈さが薄れ、代わりに倉庫や工場、事務所ビルのような無機質な建物が目立ち始める。
その中に、目的のビルはあった。
月明かりの下に浮かぶ、四階建ての中型ビル。
正面には色褪せた社名の跡が残る看板。門扉は半ば開き、フェンスの一部は内側から歪んでいる。敷地の端には雑草が伸び放題で、アスファルトの割れ目からまで草が顔を出していた。
「……ここか」
去年倒産した中小企業のビル。
記憶の中では、もう少しまともな外観をしていたはずだ。だが今こうして見ると、想像していた以上に寂れている。
正面玄関のガラスは割れ、エントランスの自動ドアは中途半端に開いたまま停止していた。
壁面にはあちこちヒビが走り、外階段の手すりは一部がねじ曲がっている。地震の影響もあるのだろうが、それだけじゃない。外壁には何かに叩き付けられたような痕や、黒ずんだ汚れがいくつも残っていた。
モンスターに荒らされたのか、あるいは逃げ込んだ人間たちが立て籠もろうとして壊したのか。
どちらにせよ、無傷とは程遠い。
門を潜り、慎重に敷地内へ足を踏み入れる。
バイザー越しに周囲を確認するが、今のところ大きな動体反応はない。
それでも、夜の空気には嫌な淀みがある。静かすぎるのだ。何もいない静けさではない。何かが潜み、息を殺しているような、そんな不気味な静寂だった。
短剣を生成し、左手にはいつでもエネルギー弾を撃てるよう意識を向ける。
玄関の割れたガラスを踏まないよう足を運び、そのままエントランスへ入った。
中は、もっとひどかった。
「……おいおい」
思わず呟きが漏れる。
受付カウンターは横倒しになり、その奥の棚は中身をぶち撒けたまま崩れていた。
天井のパネルは何枚も落ち、床にはガラス片、書類、割れた蛍光灯の破片、見覚えのない黒ずんだ染みが散乱している。
壁際に並んでいたはずの待合用ソファも、片方は脚が折れ、もう片方は引き裂かれたように中のクッション材が飛び出していた。
視線をさらに奥へ向ける。
通路の先にある事務スペースも惨憺たるものだった。
机はひっくり返り、パソコンは床に叩き落とされ、キャビネットは口を開いたまま倒れている。書類は雪のように散り、そこかしこに靴跡とも爪痕ともつかない汚れが残っていた。
予想以上に荒れている。
いや、荒れているなんて言葉じゃ足りない。
これはもう、廃墟だ。
もちろん、ボロアパートよりは壁も床も頑丈そうだ。
躯体そのものはまだ生きているように見えるし、モンスター一体が軽くぶつかった程度で即座に崩れることもないだろう。
だが、生活拠点として見た場合は話が別だ。
まず、寝る場所を確保しなければならない。
床には危険物が多すぎるし、ガラス片や破材を片付ける必要がある。
出入口の封鎖も必要だ。割れた玄関のままでは、何でもどうぞと招き入れているようなものだし、窓だって無事な場所の方が少ない。
水回りも死んでいる可能性が高い。
トイレが使える保証もなければ、電気も通っていない。
倉庫スペースがあったとしても、今のままでは物資を積み上げる以前の問題だ。
「……かなり、手が掛かりそうだな」
低く呟きながら、崩れた受付の横を抜けて奥へ進む。
一階だけでもこの有様なら、上階も似たようなものだろう。
仮に内部のモンスターを全部排除できたとしても、生活できる空間へ整えるには相当な作業が必要になる。
瓦礫の撤去。
危険物の片付け。
侵入口の封鎖。
休息場所の整備。
物資の搬入と保管。
場合によっては、階層ごとに役割を分ける必要もある。
頭の中で必要な工程を並べていくほど、気が遠くなりそうになった。
拠点は欲しい。
いや、必要だ。絶対に必要だ。
だが、今の俺一人でこのビルをまともな生活拠点に変えるとなると、どれだけ時間が掛かるか分からない。
ポイントで何か補助できる機能でもあれば──
そこまで考えたところで、ふと足が止まる。
「……待てよ」
俺にはスーツがある。
これまでも、戦闘に必要なものから索敵、暗視、解析まで、思った以上に多彩な機能が並んでいた。
なら、こういう時に使える機能だってあるんじゃないか?
一縷の望みを掛けて、バイザー上に機能増設画面を呼び出す。
青白いウィンドウが視界の中へ展開し、取得済み機能の一覧と未取得機能のリストが表示されていく。
戦闘系、防御系、索敵系、補助系──相変わらず馬鹿みたいに項目が多い。
指先でスクロールする感覚で項目を流し、片っ端から目を通していく。
近接武器の派生。
エネルギー出力の強化。
装甲の改良。
視界補助の上位機能。
自己修復じみた文字列。
生活に使えそうで使えなさそうな、絶妙に痒いところへ届かない項目ばかりが並ぶ。
「違う……そうじゃなくて……」
今欲しいのは、もっと直接的に物資運搬や拠点整理に繋がる機能だ。
そうしてリストを下へ、下へと送っていった時。
「……あった」
思わず声が漏れた。
【収納機能:2500P】
・スーツに収納機能が追加される。最大収納容量は1t。ポイントを消費することで収納容量を拡張する事が可能。
収納機能。
文字通りなら、物を仕舞えるということだ。
しかも最大収納容量は1トン。冗談みたいな数字だが、このスーツならやりかねない。
バッグがどうとか、両手が塞がるとか、そんな次元の話じゃない。
これがあれば、デパートから持ち帰った物資はもちろん、このビルの中に転がっている使えそうな備品や、邪魔な瓦礫の一部までどうにかできるかもしれない。
生活拠点にするにはかなり作業が必要。
その問題そのものが消えるわけじゃない。
だが、作業効率は劇的に変わる。
何より、荷物運搬の制約が消えるのは大きい。
今までは両手と背中で持てる分しか運べなかった。けれど、この機能があれば一度にまとめて回収し、まとめて運び、まとめて備蓄できる。
これがあれば拠点作りの現実味が一気に増す。
「2500Pか……」
オーガを一体倒して1000。単純に考えてあれを二体倒す必要がある。
少しばかり逡巡し、覚悟を決める。
ランクC-なら倒せるという事は身を持って知ったのだ。
今後も同じオーガ級、あるいはそれに近いモンスターを倒せば届く。
あるいはD級モンスターを狩って積み上げてもいい。時間は掛かるだろうが、目標としては十分に具体的だ。
そして、一度取ってしまえば恩恵は計り知れない。
物資収集、拠点整備、備蓄、もしかしたら将来的には武器や資材の持ち運びまで、全部に関わってくる。
「これは絶対に必要だな…」
小さく呟き、改めて荒れたエントランスを見回す。
倒れた机。
散乱した書類。
砕けた棚。
割れたガラス。
使えそうなロッカーや金属棚。
そして、この空間そのもの。
今はただの廃墟にしか見えない。
けれど収納機能さえあれば、この廃墟は拠点に早変わりだ。
そう考えた瞬間、胸の内が少しだけ軽くなる。
面倒だし、時間も手間も掛かるが…これは必要経費だ。
既に腹は据えた。
まずはこのビルの安全を確保する。
それからポイントを稼ぎ、そして収納機能の取得。
道筋は決まった。
バイザーのウィンドウを閉じ、短剣を握り直す。
静まり返ったビルの奥から、微かな物音が聞こえた。金属を引っ掻くような、不快な音。
……まずは大掃除の前に害獣駆除だな。
月光の届かない暗い通路へ視線を向け、俺はゆっくりと足を踏み出した。
靴裏が砕けたガラスを踏み潰し、ジャリ、と乾いた音を立てる。
静まり返っていた空間に、その音だけがやけに大きく響く。
……不味ったか?
そう思うより早く、暗い通路の奥から、ずるりと何かを引き摺るような音が返ってきた。
ひとつではない。ふたつ、みっつ。湿った何かが床を擦る不快な音が、壁や天井に反響しながら近付いてくる。
バイザーの暗視越しに通路の先を凝視する。
やがて先から現れたのは、人型の影だった。
だが人間ではない。全身はぬらりと湿った黒褐色の皮膚に覆われ、骨ばった手足は異様に長い。顔と呼べる部分には目らしいものがなく、代わりに横に裂けた口だけが耳元まで広がっていた。
その首や腕が、ぐるりと妙な角度でこちらへ向く。
ウィンドウが浮かび上がる。
▼
モンスター名:ヒルクライム
ランク:D
詳細:暗い場所を好む人型の蛭。目は退化しており視力は無いが、代わりに聴覚が発達しており音を頼りに獲物を捕食する。
討伐P:4
▲
「……なるほど。音か」
小さく漏らした声にすら反応したのか、三体のヒルクライムが一斉に口を開き、不快な吸気音と共に這うような速度で迫ってきた。
その動きは人型のくせに四肢を不規則に使った、蜘蛛じみた軌道だった。
腕を使って跳ね、脚で滑り、壁際を掠めるようにして一直線に距離を詰めてくる。視力がない分、音源に対する迷いが一切ない。
なら、迎え撃つだけだ。
右手に短剣を生成。
左手に最小出力のエネルギーを充填する。
先頭の一体が口を裂けるほどに開きながら飛び掛かってきた瞬間、左掌から光弾を撃ち込んだ。
パシュッ、と鋭い射出音。
青白い弾丸は真正面からヒルクライムの上半身を穿ち、湿った肉を弾け飛ばす。
だが、吹き飛びながらも後続は止まらない。
二体目が横合いから腕を伸ばし、指先とは思えない吸盤じみた器官で絡み付こうとしてくる。
それを身を捻って避け、そのまま踏み込み、短剣を喉元へ突き立てた。
刃がぬめりのある肉を裂き、抵抗を感じながら奥まで沈む。
そのまま横へ薙ぐと、首の半ばまで裂けた傷口から黒ずんだ液体が噴き出した。
最後の一体が、仲間の残骸すら無視して足元へ滑り込んでくる。
視認した時にはすでに低い位置まで潜り込まれていたが、スーツの補助で跳躍。噛み付きのように突き出された頭を躱し、空中から踵を叩き落とす。
ゴシャッ、と嫌な感触。
床とスーツの重量に挟まれた頭部が潰れ、ヒルクライムは痙攣しながら光の粒子へと変わっていった。
『討伐ポイントを入手しました』
無機質な音声が続けて三度鳴る。
残ったのは黒い飛沫と破壊痕だけ。
だが、騒ぎを聞きつけたのか、今度は別の方向――事務スペースの奥からガタガタと棚が揺れる音がした。
「次か」
短く吐き捨て、奥へ進む。
ひっくり返った机と椅子を踏み越えながら進んだ先、崩れたパーテーションの陰から飛び出してきた影がある。
低い。速い。
そして何より、輪郭そのものが危険だった。
中型犬ほどの大きさをした鼠。
だが、その背には無数の刃が逆立つように生えており、走るたびにギラギラと鈍い光を返す。尻尾まで鞭のようにしなり、体表の各所から突き出た刃が、ただ触れるだけでも切り裂いてきそうな圧を放っていた。
ウィンドウが表示される。
▼
モンスター名:エッジ・ラット
ランク:D
詳細:背中に無数の刃を生やした中型犬程の鼠。敏捷性が高く、その機動力を生かして敵を切り刻む。
討伐P:5
▲
「見た目通り、厄介そうだな……!」
一体だけじゃない。
暗がりの中で赤い小さな光が三つ、四つと灯る。全部で五体。どれも物陰を利用しながら床を這い、壁を蹴り、縦横無尽に位置を変えている。
来る。
そう思った瞬間、最前の一体が弾丸のように突っ込んできた。
横薙ぎに振られた背の刃が、空気そのものを裂いたみたいな鋭い音を立てる。
短剣で受けるのは悪手だと直感が告げる。
半歩引いて回避。すれ違いざま、膝蹴りの要領で横腹を蹴り飛ばす。
軽い。だが、その分だけ体勢を立て直すのも早い。
吹き飛んだ一体は空中でひねり、床に着くより先にまた踏み込んできた。
右。左。正面。
三方向から刃の塊が迫る。
両腕を交差して装甲で受け、真正面の一体だけを前蹴りで弾く。
ギギィン、と嫌な金属音がスーツ越しに響き、前腕装甲の表面に細い傷が走る。
思ったより切れる。
だが、通らない。
なら話は早い。
左手を開き、接近してきた二体目の腹へ零距離でエネルギー弾を叩き込む。
青白い閃光と共にエッジ・ラットの胴体がくの字に折れ、そのまま棚へ激突して沈黙した。
だが、その隙を狙って残りが散開する。
一対一ではなく、数で刻みに来るつもりか。
「上等だ……!」
自分から前へ出る。
足元の書類を蹴り散らしながら踏み込み、短剣を投擲。
逃げる途中だった一体の背へ黒い刃が深々と突き刺さる。それに意識を奪われたもう一体へ、生成し直した短剣を逆手で握って突進。
低く潜り込み、下から顎をかち上げるように刺し貫く。
血飛沫がバイザーへ散り、暗視越しの視界に一瞬ノイズが走った。
残る二体が左右から跳ぶ。
片方を左腕で受け流し、もう片方には肩から体当たり。
スーツの強化が乗った一撃は鼠の軽い体を壁へ叩き付け、そのまま陳列棚ごと押し潰した。
最後の一体は、仲間がやられたことでようやく本能的な危機を覚えたのか、天井近くの配線を伝って逃げようとする。
逃がすか。
掌を向け、少しだけ出力を上げた光弾を放つ。
炸裂。火花。断末魔。
エッジ・ラットの体は天井から落ちる前に光の粒子となって霧散した。
『討伐ポイントを入手しました』
連続して鳴る音声を背に、ひとつ深呼吸する。
思った通り、ビルの中は空き家なんてもんじゃない。
完全にモンスターの棲み処になりかけている。
このまま一階を確保したら、二階、三階、四階も順に潰していくしかない。
その判断が正しかったと証明するように、今度は頭上から甲高い羽音が降ってきた。
咄嗟に身を屈める。
直後、鼻先を掠めるように何かが通過し、背後の壁に細く深い裂傷が走った。
蝙蝠。
だが、普通の蝙蝠じゃない。
翼そのものが鋭利な刃へ変質しており、羽ばたくたびに月光を反射して冷たく光る。胴体は小さいが、その分だけ速度がある。首筋を狙うように旋回しながら、群れで獲物を切り裂くつもりらしい。
ウィンドウが展開する。
▼
モンスター名:レイザーバット
ランク:D
詳細:翼が鋭利な刃になっている蝙蝠。獲物の首を切り裂き、吹き出した血を啜る。
討伐P:3
▲
「……首狙いね」
見上げた瞬間、六体ほどのレイザーバットが一斉に降下してきた。
速い。
ヒルクライムやエッジ・ラットとはまた違う、視線で追い切るのがギリギリの速度。
最初の一体は短剣で叩き落とす。
だが二体目、三体目が斜め後方から入り込み、翼の刃で首筋や肩口を切り裂こうとしてくる。
スーツの装甲が火花を散らし、ギィン、と甲高い衝突音が連続する。
バイザーに耐久値の微減が表示された。
数に任せた空中戦。
近接だけで付き合うのは面倒だ。
なら、まとめて落とす。
左腕を掲げ、旋回する群れの中央へ向けてエネルギー弾を二連射する。
夜の室内で青白い閃光が弾け、衝撃と共にレイザーバットたちの編隊が乱れた。
落ちる。
そこを逃さず、床を蹴って跳躍。
スーツが補助した跳躍力で一気に高度を取り、空中で短剣を振り抜く。
一体。二体。三体。
翼の刃ごと断ち切られた蝙蝠たちが、断末魔を上げる暇もなく霧散していく。
残った二体が天井付近で逃げようと反転する。
だが、もう遅い。
着地と同時に掌を向け、散弾じみた感覚で最小出力を連射。
光弾が二つの小さな胴体を穿ち、黒い影はそのまま空中で四散した。
静かになる。
耳を澄ませる。
一階は──今のところ、もう動く気配はない。
「……よし」
短剣を消し、代わりに掌へ意識を向けたままエントランス中央へ戻る。
ここを基点に周囲を確認し、死角を潰し、残った物音がないかを一つずつ拾っていく。
一階の奥には倉庫らしきスペースがあり、そこにもヒルクライムが二体、棚の裏に潜んでいた。
搬入口側のシャッター付近にはエッジ・ラットが三体。
天井の高い会議室跡にはレイザーバットの群れが巣のようにぶら下がっていた。
どれも、見つけ次第潰した。
ヒルクライムは音に釣られる習性を逆手に取り、わざと物を投げて誘導してからエネルギー弾でまとめて撃ち抜く。
エッジ・ラットは足場の悪い床へ誘い込み、機動力を殺してから各個撃破。
レイザーバットは視界の開けた場所に出てきたところを狙い、上空を制圧するように落としていく。
戦うほどに、スーツとの噛み合いが増していった。
どう動けば補助が最大限乗るのか。どの程度の出力なら無駄が少ないのか。
そうした感覚が少しずつ、自分の中へ馴染んでいく。
気づけば一階の制圧を終えた頃には、恐怖よりも作業の意識が勝っていた。
二階も似たようなものだった。
割れた窓から吹き込む夜風。
散乱する事務機器。
ところどころに残る血痕。
その中に潜むヒルクライム、エッジ・ラット、レイザーバットを一体ずつ、確実に排除していく。
二階の廊下では、死角の曲がり角から飛び出したエッジ・ラットに肩を裂かれかけた。
だが装甲強化が効いていたおかげで浅い傷で済み、逆に掴み取って壁へ叩き付け、何度も踏み潰して仕留めた。
給湯室跡では、配管の陰に潜んでいたヒルクライムが二体同時に絡み付いてきた。
蛭らしく吸い付こうとした口が装甲を滑るのを見て、そのままゼロ距離の光弾で上半身ごと吹き飛ばす。
コピー室の暗がりからはレイザーバットの群れが飛び出し、狭い室内で刃の雨を降らせてきた。
そこは敢えて前進し、スーツの装甲で数発受けながら中央へ踏み込み、至近距離の範囲攻撃みたいにエネルギー弾を乱射して制圧した。
そして三階。
ここまで来る頃には、流石に疲労が濃くなっていた。
エネルギーは戦闘の合間に少しずつ回復しているとはいえ、連戦で消耗している。
肉体の方も、スーツが補助してくれているだけで中身まで無尽蔵なわけじゃない。オーガ戦から続く緊張と戦闘の連続で、脳の芯がじわじわと重くなっていた。
だが、その三階は一階や二階に比べて妙に静かだった。
廊下の荒れ具合も比較的マシで、壁の損傷も少ない。
どうやらここは事務所というより、管理職か来客用の区画だったらしい。床の絨毯は埃だらけだが破損は少なく、扉の数も多い。
一室ずつ慎重に開けていく。
会議室。空。
資料室。棚が倒れているだけ。
応接室。割れたガラス机とソファ。
休憩室。荒れてはいるが使えなくはなさそう。
そして廊下の突き当たり。
プレートの文字は半ば剥がれていたが、その部屋の中を見た瞬間、思わず足を止めた。
「……仮眠室?」
中には簡易ベッドが三つ並んでいた。
元は従業員用か、夜間対応のための休憩スペースだったのだろう。
部屋の荒れ具合は比較的軽い。
窓にはヒビが入っているが、完全には割れていない。扉も壊れておらず、内側から施錠できそうだ。ベッドの一つは壊れているものの、残り二つは使えそうな形を保っている。
何より、ここまででモンスターの気配がない。
バイザーで再確認する。
三階周辺に反応なし。少なくともこのフロアに生き残りはいないらしい。
「……休むか」
ようやく見つけた、安全そうな場所だった。
室内へ入り、まずは扉を閉める。
簡単なロッカーと棚を引きずってきて、音を立てないよう慎重に扉の前へ寄せる。完璧なバリケードには程遠いが、何かが入ってきたらすぐ分かる程度の防壁にはなる。
次に窓際を確認。
ひび割れてはいるが、今すぐ崩れる感じはない。外の様子も見えるし、逃げ道としては悪くない。三階だがこのスーツの前ではただの段差も同然だろう。
ベッドへ目を向ける。
マットレスは薄いし、埃っぽい。
シーツも黄ばんでいるし、正直そのまま素肌で触れたくはない。だが、今の状況で贅沢は言えない。
何より、横になれる場所があるだけで十分だった。
部屋の中央で立ち止まり、ようやくひと息つく。
ビル内部のモンスター掃除。
一階、二階、三階の制圧。
安全な仮眠場所の確保。
最低限だが、今夜を越える条件は揃った。
その事実に気が緩んだのか、一気に疲労が押し寄せてくる。
指先の感覚が少し鈍い。頭の回転も落ちてきた。あと四階だけだが…ここで無理して動き続けるよりも寝て回復してから続きを行った方がいいだろう。
ベッドへ腰を下ろす。
金属質な見た目のわりに、スーツ越しの体はそこまで窮屈じゃない。
通気性も悪くないし、多少硬さはあるものの、疲れ切った今なら気にならない範囲だった。
短剣生成だけは即応できるよう意識の置き方を調整し、エネルギー残量と耐久値を最後にチェックする。
どちらも60%を割っており心許ないが、ゼロじゃない。十分だ。
壁にもたれ、ゆっくりとベッドへ体を横たえる。
薄暗い天井。
ひび割れた壁。
窓の向こうに差す月明かり。
昨日までなら、こんな廃ビルの仮眠室で眠るなんて考えもしなかっただろう。
だが今は、不思議とそこまで悪い気はしなかった。
少なくとも、今夜の寝床はある。
壊されてもいない。血塗れの怪物も、今この部屋にはいない。
それだけで十分だ。
瞼が重い。
意識がゆっくり沈んでいく。
眠りに落ちる寸前、最後に頭を過ったのは、あの【収納機能:2500P】の文字だった。
あれを取れれば、このビルはもっとまともな拠点になる。
物資も運べる。片付けも進む。生き残るための土台が、一段階上へ進む。
そこまで考えたところで、意識は限界を迎えた。
青いラインを微かに明滅させる強化外装に包まれたまま、俺は荒れたビルの三階、仮眠室の簡易ベッドの上で深い眠りへ落ちていった。
今話獲得機能:無し