水面のきみに恋をした   作:H117147

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幼なじみは特別枠に入りますか?

 

 四月の朝の空気は、まだ少しだけ冷たい。

 俺──天堂勇人は、いつものように家の前で待っていた。前の道路を通り抜ける車に注意をしつつ、スマホの画面をぼんやり眺める。画面に映っているのは昨日測った400メートル個人メドレーのタイム表。悪くはないタイムだ。でも、まだ足りない。

 ──1.1秒。

 あと1.1縮めれば、中央大会の真ん中のレーンが取れる。バタフライの入水角度をもう少し鋭くすれば……いや、むしろフリーの最後五十メートルのペース配分を──

 住宅街の向こうに、朝靄をかぶった山の稜線が見える。この街──長野県の南東に位置する葉山市は、三方を山に囲まれた盆地の街だ。冬は底冷えがするが、春の朝はこうして山の輪郭がぼんやり霞んで、水彩画みたいに柔らかい。空気が澄んでいる分、朝はまだ肌寒い。学ランの襟に首を縮めながら、俺はアイツが来るのを待っていた。

 

「ゆーーーーうとっ!」

 

 思考を破壊する声が、住宅街に響いた。

 顔を上げると、ポニーテールを揺らしながら全力疾走してくる少女が一人。白いセーラー服の胸元のリボンが、朝日を受けてひらめいている。

 笹倉瑞希。

 俺の幼なじみにして、十年来の腐れ縁。

 

「遅いぞ」

「ごめんごめんごめん! アラーム止めてから二度寝した!」

 

 目の前で膝に手をついて、はあはあと息を切らせている。ポニーテールから後れ毛が数本こぼれて、白い首筋に貼りついていた。

 

「なんで二度寝すんだよ」

「いやあ、朝が寒いのが悪いかな!わたし的には毎回ちゃんと反省してるんだけど」

「反省が活かされてないから毎朝同じことになるんだろ」

「ぐっ……正論パンチやめて? 朝から心にダメージがっ」

 

 瑞希はうう、と唸りながら、乱れた前髪を指で整えた。後ろ髪を結び直す仕草で、細い腕が持ち上がる。制服の袖口から覗く手首は、昔に比べればずいぶん細くなったような気がする。

 

 ──あいつ、中学までは俺より逞しいくらいだったのにな。

 

 ジュニアオリンピックに出場するほどの水泳の才能。小学校の頃、同じスイミングスクールに通っていた俺は、いつも瑞希の背中を追いかけていた。バタフライのフォームが教科書みたいに綺麗で、コーチにも"天才"と呼ばれていた──あの笹倉瑞希が。

 高校に入って、美術部に入った。

 理由を聞いても「んー、描きたいもの見つけたから?」としか言わない。俺には、それ以上踏み込む権利があるのかどうか、いまだにわからない。

 

「……ほら、行くぞ。このペースだとギリギリだ」

「はーい」

 

 並んで歩き出す。いつもの通学路。

 住宅街を抜けると、用水路沿いの一本道に出る。田んぼはまだ水を張る前で、乾いた土が朝日を浴びて淡い茶色に光っていた。遠くの山裾にはまだ雪が残っていて、青い空との境目がくっきりと白い。桜はもう散りかけていて、花びらが用水路の水面にぱらぱらと落ちて流れていく。

 瑞希が半歩後ろを歩く。その距離が、ここ数年ずっと変わらない。中学くらいからだろうか。小学校の頃は、あいつのほうがずんずん前を歩いて、俺が後ろをついていったのに。いつの間にか背が逆転して、歩幅が変わって、この半歩が固定された。

 ──もう少し、近づきたいと思っているのは、俺だけなんだろうか。

 

「ねえ勇人、今日の放課後って練習?」

「ああ。地方大会が近いからな。しばらく毎日だ」

「そっか……じゃあ、お昼一緒に食べれる?」

「昼は大丈夫だけど」

「やった! 購買のメロンパン争奪戦、今日こそ勝つから待っててね!」

 

 拳を突き上げる瑞希の横顔を、つい見てしまう。朝日に透ける茶色い瞳。高い鼻梁。笑うと左頬だけにできるえくぼ。

 

「……なに見てるの?」

「いや、別に」

「えー、なんかあったでしょ。顔になんかついてる?」

「目と耳と鼻がついてる」

「うわぁ……陳腐な例えー」

「……前向いて歩け。転ぶぞ」

「あ、話そらしたー!」

 

 こうやって軽口を叩きながら歩くのが、俺たちの日常だ。十年間ずっと変わらない。変わらないことが嬉しくて、でも同時に、もどかしい。

 用水路沿いの道を抜けて、商店街の脇を通る。朝七時半のこの時間帯、精肉店のシャッターはまだ下りていて、隣の書房だけ早くから明かりがついている。瑞希はここの常連で、入荷日には朝から走って流行りの漫画の新刊を買いに来るらしい。今日は横目でちらりとショーウインドウを確認しただけだった。発売日じゃなかったようだ。

 

 校門が見えてきた。

 県立青葉台高校。偏差値は中の上。公立にしては部活動が盛んで、特に運動部の実績が強い──というのが世間的な評価だ。家からも近く屋内プールがある事から志望する動機としては充分だった。

 

 そして一つ、特色がある。

 それは男女比がおよそ三対七であることだ。全校生徒約八百人のうち、男子は二百四十人程度。一クラス四十人中、男子はだいたい十二人しかいない。これはうちの学校に限った話じゃない。ここ二十年で急速に進んだ出生率の偏りにより、日本全国で男女比が崩れている。原因は諸説あるが、とにかく"男子が少ない"のが今の世界の現実だ。

 

 結果として何が起こるかというと──正直男子は、めちゃくちゃモテる。

 ただしこれは個人の魅力とはまた別の話で、希少価値というか、需要と供給の原理というか。ぶっちゃけると、俺には少し居心地が悪い。

 

「おはようございます天堂くん!」

「勇人くん、おはよー! 今日も朝練? お疲れ様!」

「天堂先輩、これ……よかったら食べてください! 手作りなんです!」

 

 校門をくぐった瞬間、四方から声が飛んでくる。

 一年の女子が頬を赤らめながら紙袋を差し出し、同じクラスの女子が手を振り、すれ違いざまに三年の先輩がウインクを飛ばしてくる。

 俺は「おはよう」「ありがとう」と最低限の返事を返しながら歩く。無愛想だと自覚はしているが、これが精一杯だ。一人一人に丁寧に対応していたら、教室に辿り着く前にホームルームが終わる。

 それに下手にやさしくすると、余計に期待させてしまう。それは相手にも自分にも良くない。だから最低限の礼儀は守りつつ、一定の距離を保つ。冷たいと思われてるかもしれないが、これが俺なりの誠意だ。

 

 ……なのに。

 

「……相変わらずモテモテですこと」

 

 隣を歩く瑞希がさっきまでの元気を消して、半眼でこちらを見ている。

 

「好きで集まってもらってるわけじゃない」

「そうは見えませーん。手作りクッキー受け取っちゃってるしー」

「断るほうが失礼だろ」

「はいはい、紳士ですね天堂勇人くんは」

 

 ぷい、と顔を背けた瑞希が、なぜか不機嫌そうだ。朝からテンション高かったのに、急にどうしたんだ。……モテる男子が嫌い、みたいなことを前にも言ってたし、調子に乗ってると思われてるのかもしれない。

 周りの女子に囲まれるのが苦手なのは、こうした理由がある。瑞希に嫌われるのは、嫌だから。

 

 

◆◇

 

 教室に入ると、いつもの光景が広がっていた。

 四十人のクラスに男子十二人。席の配置を見渡すと、男子の机の周りにはだいたい女子が群がっている。朝のお喋りタイムだが、男子一人に対して女子二、三人が話しかけているのがデフォルトだ。

 窓からは校庭の向こうに連なる山並みが見える。教室の後ろのロッカーの上に、誰かが置いた小さなサボテンの鉢植えが朝日を浴びている。のどかだ。この教室の空気は好きだ──女子の密度が高いことを除けば。

 俺が席に着くと、案の定、前の席の藤原さんが振り向いた。

 

「天堂くん、昨日のドラマ見た? 最終回すごかったんだけど!」

「見てない」

「えーっ、もったいない! あのね、主人公がね──」

「おはよう天堂くーん!」と今度は左隣の鈴木さん。

「今日の英語の予習やった? わたしノート忘れちゃって……」

「……貸すから写せ」

「きゃー、ありがとう! やさしー!」

 

 ……勘弁してくれと思う。朝から疲れる。

 

 向かいの窓際で友人の桐谷翔太が肘をつきながらニヤニヤ笑っている。こいつはこいつで三人の女子に囲まれているが、軽妙なトークで全員をあしらいつつ楽しんでいる。さすが自称・博愛主義者だな。

 

「いやいや、俺は皆さんに平等にやさしくするのがモットーなんで。えこひいきとかしないタイプなんで。はい、美咲ちゃんの質問にも答えますよー」

 

 この男は、男子が少ない環境を完全に謳歌している。もっとも、翔太いわく「別にモテたくてやってるんじゃなくて、女子と話すのが単純に楽しい」らしい。嘘くさいが、翔太の場合は本当にそうなのかもしれない。

 

 ちなみにクラスの男子十二人の中にも、この状況への向き合い方は様々だ。翔太みたいに楽しんでいる奴もいれば、女子の視線がプレッシャーで胃を痛めている奴もいる。俺はどちらかというと後者寄りだ。

 

 瑞希は自分の席で、美術部の友達の園田と何やら話し込んでいた。園田がちらちらこっちを見ながら瑞希に何か囁いて、瑞希が顔を赤くして園田の肩をぺちぺち叩いている。何の話をしてるんだろう。美術部の課題の話か、それとも昨日のアニメの話か。瑞希はああ見えてオタク気質だから、好きなキャラの話になると顔が真っ赤になるのだ。たぶんそれだろう。

 

 その挙動がいちいち気になるのだから、俺は重症だ。

 ホームルームが始まり、担任の橋本先生が教壇に立った。三十代の女性教師で、いつもパンツスーツをびしっと着こなしている。

 

「えー、連絡事項です。来月の春季体育祭について──」

 

 ざわっ、と教室が揺れた。体育祭というワードに反応したのは、主に女子だ。

 

「体育祭では例年通り、フォークダンスの時間があります。今年は──」

「先生! フォークダンスってことは、男女ペアですよね!?」と誰かが食い気味に質問する。

「ペアの決め方は実行委員会で検討中ですが、男女比の関係で男子が複数の女子と組む形式になるかと──」

「やったー!」

「勇人くんと組みたい!」

「えー、くじ引きにしてよ、不公平!」

 

 教室が一気に騒がしくなる。俺は机に突っ伏したくなるのを我慢して、窓の外を見た。

 ──面倒くさい。

 恒例のフォークダンス。男子が少ないから、一人の男子が複数の女子と踊る。去年の一年次にも経験したが、男子の争奪戦がヒートアップしすぎて、一時間の予定が二時間に延びた。今年も同じことになるんだろうな。

 

 瑞希のほうをちらっと見ると、頬杖をついて窓の外を見ていた。体育祭の話題に興味がなさそうな顔。まあ、瑞希は運動系のイベントにはあんまり乗り気じゃないもんな。運動神経の塊のような奴だが、あれで今は美術部だし。

 

 

◇◆

 

 午前の授業が終わり、昼休みのチャイムが鳴った瞬間、瑞希が席から弾丸のように飛び出した。

 

「勇人! 購買行ってくる! 屋上で待ってて!」

「おう」

 

 教室を出ていくポニーテールを見送ってから、弁当箱を手に立ち上がると、翔太が横に来た。

 

「屋上デートか。いいご身分だな」

「デートじゃない。昼飯食うだけだ」

「二人きりで? 屋上で? それをデートって言うんだよ、この唐変木が」

「……うるさい」

「まあいいけどさ」

 

 翔太が声を落として、ちょっと真面目な顔になる。

 

「今朝、昇降口で白石先輩と話してたろ。最近よく話してないか、あの人と」

「体育祭の実行委員の件だよ。水泳部に用があるだけだ」

「ふーん、そうかねえ。まあ、俺がとやかく言うことじゃねえけど」

 

 翔太はそれだけ言って、にやっと笑った。

 

「笹倉を待たせんなよ、デート相手を」

「だからデートじゃねえって」

 

 翔太はひらひらと手を振って、自分の取り巻きの女子グループに戻っていった。

 ……あいつ、含みのある言い方しやがって。白石先輩がどうとか、瑞希がどうとか、何が言いたいんだ。深読みしすぎだろ。

 

 翔太のにやけ面が、魚の小骨みたいに引っかかって取れない。なんだよ、あの含み笑い。

 苛立ちとも言えない微妙なもやもやを抱えたまま、俺は屋上へと辿りつく。

 屋上は本来立ち入り禁止だが、昼休みだけ解放され、生徒たちに人気の場所となっている。俺たちも昼はよくここで食べている。瑞希と二人で食べるのが、ここ入学してからの習慣だ。

 柵にもたれて空を見上げる。雲ひとつない、四月の青空。屋上からは校舎の向こうに連なる山並みが一望できて、空が広い。風に乗って、校庭の桜の花びらがここまで舞い上がってくることがある。今日は風が穏やかで、遠くの山頂に残る雪が太陽を反射して光っていた。

 この景色が、俺がこの学校を気に入っている理由のひとつでもある。冷たい風が、水泳その他色々と疲れた頭をリセットできる。

 

 五分ほどして、屋上のドアがバタンと開いた。

 

「メロンパンげっとおおおお!」

 

 瑞希が戦利品を高々と掲げている。もう片手にはパックのカフェオレ。制服のリボンが曲がっていて、購買の戦場がいかに激しかったかを物語っている。

 

「はぁはぁ……今日も熾烈な戦いだった……」

「毎回そんなに体力使うなら弁当にしたら?」

「朝起きれないのに弁当なんて無理に決まってるでしょ!」

 

 そう言い返して瑞希はどかっと俺の隣に座った。コンクリートの床に直接座るので、スカートの裾が汚れるぞと言ったことがあるが、「気にしなーい」の一言で却下された。

 瑞希の家はおじさんが単身赴任していて、おばさんも看護師で夜勤をしていることもあり忙しく、瑞希は昔から鍵っ子だった。弁当の下りについて、失言だったかと少し自戒する。

 

「いただきまーす!」

 

 そんな俺の勝手な反省を気にする素振りも見せず、メロンパンにかぶりつく瑞希。クリームが唇について、それをぺろりと舐め取る。

 

 ──おい、やめろ。そういうのは反則だろ。

 俺は視線を弁当に落として、卵焼きを口に運んだ。母さんの卵焼きは甘めの味付けで、昔からこの味だ。

 

「勇人のお母さんの卵焼き、わたしも食べたいなあ」

「食うか?」

「いいの? やった!」

 

 箸で一切れ取って、瑞希の口元に差し出す。何も考えずにやったのだが、瑞希がぱちりと目を見開いた。

 

「……え」

「?」

「そ、それ……」

「卵焼きだろ」

「いやそうだけど! はしっ……箸で直接……」

 

「……ん?」

 

 ああ、間接キスってことか……。

 遅れて理解し、俺は卵焼きを乗せた箸を手に固まった。瑞希も顔を真っ赤にして固まっている。四月の風が屋上を吹き抜けて、俺たちの間の沈黙を運んでいく。

 

「……っ、べ、別にいいけど! 幼なじみだし! 今更そんなの気にしないし!」

「あ、ああ……そうだな」

「うん! 気にしないっ!」

 

 力強く宣言してから、瑞希はぱくりと卵焼きを口に含んだ。もぐもぐと咀嚼しながら、視線は明後日の方向を向いている。耳の先まで赤い。

 

 ──そりゃそうだよな。いくら幼なじみでも、年頃の女子に箸で直接は無神経だった。反省。

 俺も少し動揺してる。別に瑞希が相手だからじゃない。いや、瑞希だから余計に──いやいや、違う。誰だってこういう状況になったら気まずいだろ。普通のことだ。

 

「……おいしい」

 

 小さな声がそう呟いたのが聞こえてくる。

 この空間に、珍しく俺たち以外は誰もいない。風が音を立て吹き去り、瑞希の横顔を撫でていく。遠くで部活のかけ声がかすかに響いて、それ以外は静かだった。今なら、言えるんじゃないか。ずっと言えなかった、あの一言を──

 

「あ、そうだ勇人!」

「……なんだ」

「今度の週末、美術部の課題でスケッチに行くんだけど、どっか描きたい場所あるかなって」

 

 一瞬だけ開きかけた扉が、ぱたんと閉じた。

 

「俺に聞くのか」

「だって勇人、朝練で学校周り走ってるでしょ。いい景色知ってるかなーって」

 

 と、言われても……余り絵心も無いのだがと逡巡する。

 

「……河川敷の桜並木、まだ散りきってないんじゃないか。朝は結構きれいだった」

「おお、いいかも! わたしも昔そこで泳いでた──あ、泳いでたっていうか、川じゃないよ? 中央公園の。覚えてる?」

 

 覚えている。覚えているに決まっている。

 俺がスイミングスクールに入ったのは、この街で一番大きい中央公園の敷地内にある複合スポーツ施設のところだった。七歳のとき、母さんに連れられて体験教室に行った。水が怖くて不安で腰が引けていた俺の手を引いて、「大丈夫、一緒に泳ごう」と笑った女の子がいた。

 ──それが、瑞希だった。

 同い年なのに、俺よりずっと速くて、ずっと綺麗に泳ぐ。バタフライが特にすごくて、コーチが目を丸くしていたのを覚えている。小学校の大会では負けなし。中学に上がってからも県大会を総なめにして、ジュニアオリンピックにまで出場した。

 憧れ、尊敬し、まるで心を鷲掴みにされた気分だった。水の中の瑞希は、陸の上とは全然違う顔をしていた。笑わない。ふざけない。ただひたすらに真剣で、水と一体になっていた。あの姿に追いつきたくて、隣で泳ぎたくて──俺はここまで来た。

 結局、中学卒業まで、俺が彼女のタイムに追いついたことは一度もなかったが。

 

「覚えてるよ」

「えへへ、懐かしいよね。勇人、最初全然泳げなくて。水に顔つけるだけで大騒ぎしてた」

「うるさい。あれは水が冷たかっただけだ」

「嘘つけー! わたしが手を引いてあげたのに、大泣きしてたくせに!」

「……黒歴史を掘り返すのよくねえぞ」

「あはは!」

 

 瑞希が声を上げて笑う。つられて、俺の口元も少し緩む。

 屋上の向こうに見える山並みが、昼の光を浴びて青く澄んでいた。あの山の麓に中央公園がある。スイミングスクールの帰り、母さんと瑞希の三人で公園のベンチに座ってアイスを食べたことを思い出した。

 

 不意に、聞きたいことが口をついて出た。

 

「なあ、瑞希。水泳、辞めたこと──後悔はないのか?」

 

 一瞬、瑞希の笑顔が止まった。

 

「……後悔?」

「JOまで行ったのに。お前なら、高校インハイどころか国体、その先だって──」

「やめたのはわたしの選択だよ」

 

 穏やかだが、はっきりした声だった。瑞希は空を見上げて、メロンパンの最後のひとかけらを口に放り込んだ。

 

「やめた理由は……ごめん、あんまり話したい内容じゃないんだ」

「…………」

「でもね、泳ぐこと自体が嫌いになった訳じゃないよ。ただ、今は別の形で──」

 

 そこで言葉を切って、瑞希はにっと笑った。

 

「ま、秘密! そのうち教えてあげる」

 

 ──別の形。

 それが美術に関係しているのは、なんとなくわかる。だが、それ以上のことは、瑞希が話してくれるまで待つしかない。

 

「……わかった。待ってる」

「うん」

 

 再度、一陣の風が吹きつける。

 三寒四温を思わせるような、冷気を孕んだ風だった。山のほうから吹いてくる風には、まだ冬の名残が混じっている。瑞希が寒そうに身を縮めた。その仕草が、やけに小さく見えた。

 

 

◆◇

 

 

 放課後。約束通り、プール棟の部室前で白石先輩と会った。

 白石凛先輩。三年生にして生徒会副会長。学年成績トップ。容姿端麗、文武両道──校内人気投票では一位の常連という、絵に描いたような才色兼備の人だ。長い黒髪をハーフアップにまとめて、背筋がぴんと伸びている。

 

「ごめんなさい、忙しいところ。手短にすませるわね」

「いえ、大丈夫です」

 

 白石先輩は体育祭の実行委員の資料を取り出した。さすが生徒会副会長、書類は完璧に整理されている。

 

「部活別対抗リレーについて、水泳部のメンバーは決まった?」

「部長には話通してあります。ただ、男子ばっかり出すわけにもいかないんで、そこの調整が要りますね」

「そうね。そこは柔軟に組んでもらえると助かるわ。──あと、もう一つ」

 

 白石先輩がまっすぐ俺を見た。切れ長の目に、普段の副会長とは少し違う色が浮かんでいる。

 

「体育祭実行委員の打ち上げ、──天堂くんは、来てくれる?」

 

 参加可否の回答がまだよね、と付け加える。

 俺も2年の実行委員なので参加する資格がある。色々と準備や土台作りに精を出したし、委員会の皆と親交を深めたい気持ちはあるのだが、正直、水泳に集中したい気持ちがあるのもまた本心だ。

 

「そうですね……参加できそうであれば、是非」

 

 優柔不断な回答になることに心苦しさを覚えつつ、一旦保留にさせてもらう。

 

「そう。天堂くんは早めに押さえておかないと争奪戦になるから」

 

 冗談めかした口調だが、目がこちらをまっすぐ捉えて離さない。

 

「候補に入れておいてくれると嬉しいな。──私、天堂くんとはもう少しゆっくり話してみたいの」

 

 その言い方が、体育祭の実行委員としてなのか、それとも別の意味なのか──俺にはよくわからなかった。ただ、白石先輩の声がいつもより少しだけ柔らかかった気がする。

 

「……考えておきます」

「ありがとう。じゃあ、練習頑張ってね」

 

 学校指定のローファーを小気味よくコンコンと鳴らし、先輩が遠ざかっていく。

 白石先輩という人は、誠実で真っ直ぐだ。それは素直にすごいと思う。

 だが、俺の胸に残ったのは、あの言葉の真意への戸惑いだけだった。考えすぎか。翔太に「最近よく話してないか」と言われたのが引っかかっているだけかもしれない。

 

 ふと、プール棟の角の向こうに、ポニーテールの影が見えた気がした。目を凝らすが、もう誰もいない。風が落ち葉を転がしていくだけだ。

 

 ……あれは……いや、気のせいか……?

 頭を切り替えて、俺は部室に入った。

 

 

◇◆

 

 

「よーし、今日はメドレーのタイム計測やるぞー!」

 

 顧問の松田先生の声がプールに響く。水泳部員は男女合わせて四十人ほど。このご時世にしては男子部員が多いほうで、八人いる。前々回のオリンピックで1人のアメリカの男子選手がメドレー、バッタ、フリーで世界記録金メダルを出し、社会現象が起きた。それから日本でも水泳熱が再燃しており、依然人気が高い。あとはまあ、男女比が偏重していることもあり、女子マネージャーの希望者が毎年定員オーバーするという謎の人気部活だ。

 

 ストレッチを終えてスタート台に立つ。水面が揺れている。塩素の匂い。屋内プールの窓から差し込む西日が、水面に金色の網目模様を描いている。この匂いを嗅ぐと、いつも小学校のスイミングクラブを思い出す。瑞希と並んでスタート台に立っていた頃を。

 

 

 ──あれは、小学六年生の冬だったか。

 

 スイミングクラブの忘年会で、コーチが将来の夢を一人ずつ発表させた。俺はオリンピックに出たいと言った。まだ全然速くなかったくせに、大きなことを言ったものだ。周りの大人たちが微笑ましそうに拍手してくれて、ちょっと恥ずかしかった。

 瑞希は俺の次に立って、こう言った。

 

「わたしも、オリンピックに出る。勇人と一緒に」

 

 その時の瑞希の目が、今でも忘れられない。嘘のない、まっすぐな目。冗談なんかじゃなかった。本気で言っていた、筈だ。俺はあの瞬間に──たぶん初めて"こいつには絶対に追いつきたい"と思った。それが恋心の始まりだったのか、ライバル心だったのかは、十六歳の今でもよくわからない。たぶん、両方だ。

 しかし、瑞希は中学の途中で水泳を辞めた。理由は……色々思うところはあるが、結局はアイツの口から語られないことには分かりはしない。ただ「オリンピックに一緒に」という約束が宙に浮いたまま、俺たちはどちらもその話題に深く触れない。触れてしまったら、何かが変わる気がして──いや、変わらなければいけないのかもしれないのに。

 

 ──でも、俺はまだ泳いでいる。お前との約束を、勝手に背負って。

 

 

「──位置について」

 

 構える。全身のバネを、スタート台の感触に集中させる。

 

「よーい──」

 

 ──ピッ。

 

 飛び込んだ。水を掴む。最初のバタフライ。肩甲骨を大きく回して、水面を叩く。瑞希のバタフライはもっと綺麗だった──いや、今は考えるな。集中しろ。

 百メートルでターン。背泳ぎに切り替え。天井の蛍光灯が視界を流れていく。

 二百メートル。平泳ぎ。ここでペースを落としすぎるな。脚の蹴りを強く。

 三百メートル。最後のフリースタイル。ここからが勝負だ。

 残り五十メートル──ここだ。俺の弱点。最後の最後でスタミナが切れて、タイムが落ちる。

 ──切れるな。まだいける。

 瑞希の姿が浮かんだ。中学の頃、ジュニアオリンピックの動画を何度も見た。ラスト五十メートルで加速するあの泳ぎ。水面を切り裂くようなストローク。あいつがもう泳がないなら、俺が泳ぐ。あいつの分まで──

 壁にタッチ。

 

「四分十九秒八八!」

 

 タイムが響く。ゴーグルを外して電光掲示板を確認する。

 四分十九秒八八。──ベスト更新。

 

「おっしゃあ! 天堂、自己ベスト!」

 

 松田先生が拳を突き上げている。チームメイトから歓声が上がった。

 肩で息をしながらプールサイドに上がる。タオルで顔を拭きながら──ふと、二階のギャラリー席に目をやった。

 誰かが座っている。

 窓際の席に、スケッチブックを広げた女子が一人。逆光でシルエットしか見えないが、揺れるポニーテールには見覚えがあった。

 

 ──瑞希?

 

 なぜここに。美術部の活動は別棟のはずだ。

 目を凝らそうとした瞬間、その影は慌てたようにスケッチブックを閉じて、席を立った。小走りに出口へ向かう背中が、ギャラリーの暗がりに消えていく。

 

「おーい天堂、次のセットあるぞー」

「……はい」

 

 振り返ってプールに戻りながら、頭の片隅にさっきの影がこびりついて離れなかった。

 次のセットは久々に100mフリー。ここでも自己ベストが出せた。

 

 ……何となく、調子が上向いている気がした。

 

 

◆◇

 

 

 練習が終わったのは午後六時半。日はもう傾いていて、校舎が夕焼けに染まっていた。

 髪を乾かしながら部室を出ると、校門の前に、見慣れた背中があった。

 

「瑞希」

「あ」

 

 瑞希が振り返る。まだ制服のままだ。鞄を両手で前に持って、なにやらそわそわしている。

 

「勇人、お疲れさま」

「瑞希も。まだ残ってたのか」

「うん、美術室で課題やってて……さっき終わったから、一緒に帰ろうかなって」

「こんな遅くまで、熱心だな」

「勇人だって、こんな遅くまで、でしょ?」

 

 つまり、待っていてくれた。練習が終わる時間を知っているから。俺たちはこうして、ずっと一緒に帰っていたから。

 

「待っててくれて、ありがとうな」

「……ふふん、一人じゃ寂しい勇人のためにねっ!」

「ふ……どっちがだよ」

 

 軽口を交わし、並んで歩き出す。夕焼けの中の帰り道は、朝とは違う色をしている。

 山が近い街は、夕暮れが早い。太陽が西の稜線に沈みはじめると、空がオレンジから紫へ、一気にグラデーションを描く。田んぼの向こうの山並みが黒いシルエットになって、その上に夕焼けが広がっている。影が長く伸びて、二人分のシルエットがアスファルトに重なる。

 用水路の水が夕日を映して、ゆらゆらと光っていた。どこかの家の夕飯の匂いが風に乗ってくる。カレーだ。この時間帯の住宅街は、いつもこういう生活感のある匂いがする。

 しばらく無言が続いた。瑞希が黙っているのは珍しい。いつもなら勝手に喋り出すのに、今日は口をきゅっと結んだまま前だけ見ている。

 

「……なあ、瑞希」

「なぁに」

「さっき、プールのギャラリーにいたか?」

 

 瑞希の足が、一瞬止まった。ほんの一瞬だが、俺は見逃さなかった。

 

「……い、いたけど。なんか問題ある?」

「問題はない。ただ、なにしてたのかと思って」

「スケッチだよ、スケッチ。美術部の課題で『動きのある人物』ってテーマがあって、水泳ってちょうどいいかなって思ったの。別に勇人を描いてたわけじゃないからね!?」

 

 自分で否定するのは墓穴を掘っていると思うのだが、突っ込むと話がこじれるので黙っておく。

 

「上手く描けたか?」

「え……まあ、まだ途中だけど。水の動きって難しいんだよね。飛沫とか波紋とか、一瞬で形が変わるから」

「写真見て描くのとは違うのか?」

「全然違う!」瑞希が急に熱っぽくなった。「写真だと止まった水しか撮れないでしょ。でも実際に見ると、水って生きてるみたいに動いてて──その動きの中に人がいるのが、すっごく美しいの。だからライブスケッチじゃないと意味がなくて……」

 

 語っているうちに自分の言葉の意味に気づいたのか、瑞希は急にもごもごと口ごもった。

 

「……と、とにかく! 課題のためだから!」

「見せてくれないか」

「はっ──?」

「スケッチ。見てみたい」

 

 すかさず瑞希がぶんぶんと首を横に振った。

 

「む、無理無理無理! まだ途中だし、人に見せれるレベルじゃないし!」

 

 ポニーテールが左右に大きく揺れ、まるで犬のしっぽみたいで少し笑ってしまいそうになる。

 

「そうか、じゃあ完成したら見せてくれ」

「…………考えとく」

 

 それ以上は追及しなかった。代わりに、一つだけ確認したいことがあった。

 

「瑞希」

「んー」

「さっき放課後──プール棟の前にも、いたか?」

 

 沈黙。夕焼けに照らされた瑞希の横顔が、少しだけ翳った。

 

「……いた、かも」

 

 ギャラリー席に向かう途中に出くわしたという事だった。

 

「白石先輩との話、聞いてたか」

「ちょっとだけ」

 

 また沈黙。風が吹いて、桜の花びらが二人の間を通り抜けた。用水路の水音だけが、静かに流れている。

 

「あの人さ」瑞希がぽつりと言った。「すごくかっこいいよね。頭もいいし、きれいだし、しっかりしてて」

「……まあ」

「白石先輩と仲良さそうだったね。打ち上げ一緒に行くの?」

 

 瑞希の声のトーンが、いつもと少し違う。明るく振る舞おうとしているのに、どこかぎこちない。──こいつ、俺の心配をしてるのか。昔からそうだ。人のことばかり気にして、自分のことは後回しにする。

 

「わかんねえ。別に約束したわけじゃない」

「ふうん」

「……俺には、ずっと気になってる奴がいるし」

 

 ──しまった。

 なんで今それを言ったんだ。心臓がうるさい。いや、でもこれだけじゃ伝わらない。伝わらないように言った、とも言える。卑怯だと思う。

 瑞希が足を止めた。俺も止まる。

 

「……それ、誰」

 

 夕焼けの逆光で、瑞希の表情がよく見えない。声は落ち着いていたけど、なぜか真剣だった。幼なじみの俺が誰を好きなのか──そりゃ、気になるよな。十年も一緒にいれば、そういうことだって話す仲だ。

 でも、この質問にだけは、まだ正直に答えられない。答えたら最後、全部変わってしまう。

 ああ、何かないか。上手く躱すような言い回しは──

 兎にも角にも口を開こうとした、その瞬間。

 

「あーーーっ! 天堂くーーーん!」

 

 背後から黄色い声が響いた。振り返ると、クラスメイトの女子が三人、こちらに駆けてくる。

 

「天堂くん明日の数学のノート見せて! お願い!」

「勇人くーん、今度の日曜ヒマ? みんなでカラオケ行かない?」

「あ、笹倉さんも一緒にどうぞー」

 

 ──このタイミングで来るか。

 瑞希が一歩後ろに下がった。さっきまでの空気が、嘘みたいに霧散していく。

 

「わたし先帰るね。お疲れ、勇人」

「あ──」

 

 引き止める間もなく、瑞希は背を向けて歩き出した。ポニーテールが夕焼けに揺れている。早足で、でも走らないで。振り返らないで。

 夕焼けの中に溶けていくその背中を、俺はクラスメイトの相手をしながら見つめていた。

 

 

 

◇◆

 

 家に帰ると、部屋に直行してベッドに倒れ込んだ。

 天井を見つめる。築二十年の実家の天井は、小さい頃から変わらない。シミの位置まで覚えている。窓の外から虫の声が聞こえてきた。四月の夜の虫は、まだ鳴き方がぎこちない。夏になれば蝉の大合唱になるこの街も、春の夜は静かだ。

 パソコンが振動した。チャットアプリの通知。

 瑞希からだ。

 

『今日はお疲れ〜。ベスト出たんでしょ? すごいじゃん! おめでと! ‍✨ 』

 

 ──なんで知ってるんだ。マネージャーの誰かから聞いたのか? いや、ギャラリーにいたって言ってたし、あそこから電光掲示板を見たのかもしれないな。

 返信を打つ。

 

『ありがとう。あと0.6秒で中央レーン取れる』

 

 既読がすぐについた。タイピング中の表示が出て、消えて、また出て、消える。打っては消してを繰り返しているのが見える。──瑞希のその癖、パソコンのアプリからだとバレるんだよ。

 ようやくメッセージが来た。

 

『0.6秒! 勇人なら絶対いけるよ。わたしが保証する!』

 

『JO選手の保証か。心強いな』

 

『えへへ。元、だけどね』

 

 少し間が空いて、もう一通。

 

『ね、勇人』

 

『?』

 

『さっきの……気になってる人って話。わたしが聞いちゃいけないことだった?』

 

 指が止まった。

 画面の向こうで、瑞希はどんな顔をしているんだろう。布団にくるまって、スマホを両手で持って、画面を睨みつけているんだろうか。瑞希の部屋は俺の部屋から見えない位置にあるが、なぜか手に取るようにわかる。十年間隣にいたんだ。あいつの癖も表情も、全部知ってる。

 返信を打つ。消す。打ち直す。消す。

 結局、送ったのはこんなメッセージだった。

 

『いけないことじゃない。ただ、まだちゃんと言えてない。ちゃんと言えるようになったら、一番に伝える』

 

 既読。長い沈黙。タイピング中の表示が出て──今度は消えない。

 三分後、返信が来た。

 

『……わかった。待ってる。おやすみ、勇人』

 

『おやすみ、瑞希』

 

 スマホを枕元に置いて、目を閉じる。

 

 ──「待ってる」か。

 何を待ってるんだろう。俺が好きな奴の名前を教えるのを? 幼なじみとして、恋バナの続きを聞きたいだけか。瑞希は昔から好奇心旺盛だったし、人の恋愛話が好きなタイプだし。

 ……だよな。うん、そういうことだ。

 それなのに、なんで俺はこんなに胸がざわつくんだ。「待ってる」のたった四文字が、やけに重く響いて消えない。情けない話だ。水の中では誰にも負けないつもりなのに、たった一言が、どうしても喉の奥から出てこない。

 明日も同じ朝が来る。瑞希が遅刻しそうになりながら走ってきて、俺がため息をついて、並んで学校に行く。それだけの毎日が、たまらなく愛おしい。

 でも──そろそろ、走り出さないといけない気がする。

 水の中みたいに。最後の五十メートルみたいに。苦しくても、きつくても、止まったら負ける。

 ──0.6秒。

 あの壁を越えたら、きっと言える。根拠なんてない。ただの自分ルールだ。でも、目標がないと動けないのが俺の悪い癖で。

 次の大会で、シード権を取る。そうしたら、瑞希に言う。

「お前が好きだ」って。

 ……なんだ、心の中では簡単に言えるのに。

 カーテンの隙間から月明かりが差し込んでいた。三日月が、山の稜線のすぐ上に細く光っている。この街は夜空が近い。東京みたいにビルの灯りに邪魔されないから、月がよく見える。

 

 明日の朝も──あいつは、きっと遅刻する。

 

 

 

 翌朝。

 案の定、瑞希は三分遅刻してきた。

 

「ゆうとーーーーー! ごめん! 今日はアラーム三つセットしたのに!」

「三つでも足りないのか」

「目覚ましが全部夢の中のBGMになるの! わたしの脳みそが優秀すぎるの!」

「それは優秀って言わない」

 

 笑いそうになるのをこらえて、歩き出す。瑞希がいつもの半歩後ろについてくる。

 今日も山は霞んでいる。用水路の水が光って、桜の花びらが流れていく。同じ朝。同じ道。同じ距離。

 

 ──いつか、この半歩を詰めるために。

 俺はまだ、泳ぎ続ける。

 

 

 

 

 

 そして、勇人は知らない。

 瑞希のスケッチブックの中に、勇人のスケッチが三十二枚も描かれていることを。

 水を切る腕。ターンの瞬間。息継ぎの横顔。スタート台で構える後ろ姿。プールサイドでタオルを肩にかけた横顔。

 その一枚一枚の隅に、小さな文字が書き込まれていることを。

 

「がんばれ、勇人」

 

 

 

 ──幼なじみの距離は、限りなくゼロに近い。

 

 

 ただ二人とも、それに気づいていないだけだ。

 

 

 





◆幕間──笹倉瑞希の場合

 同じ夜。笹倉家の二階、瑞希の部屋。
 壁にはアニメのポスターと、自分で描いたイラストが貼ってある。机の上にはコピックマーカーが色ごとに整列し、本棚にはマンガと画集がぎっしり詰まっている。──オタク気質、と自分でも認めている。
 窓を開けると、夜風が入ってきた。昼間より少し冷たい、山から降りてくる風。遠くの田んぼから蛙の声がかすかに聞こえる。この街の夜は静かだ。その静けさが、考えごとには向いていて──向いていなくて。
 瑞希はベッドにうつ伏せになって、スマホを握りしめていた。
 さっき勇人に送ったチャット。

『……わかった。待ってる。おやすみ、勇人』

 ──何が「待ってる」だ。わたしのバカ。

 枕に顔を埋めて、足をバタバタさせる。
 待ってるって何。なんの権利があって待ってるの。幼なじみでしょ。ただの。ずっと隣にいただけの。
 勇人が「気になってる奴がいる」と言った。あの瞬間、心臓が止まるかと思った。それがわたしのことだったら──そんなの、期待するだけ痛い。でも期待しないなんて無理だ。だって十年だよ。十年間、ずっと隣にいたんだよ。
 ごろんと仰向けになって、天井を見る。
 今日のプール。ギャラリーの二階席から見た勇人の泳ぎは、本当にきれいだった。昔のあの子が、こんなにすごい選手になって──。
 中学でJOに出た時、わたしはもう限界だった。身体じゃなくて、心が。タイムが伸びるたびに周りからの期待が膨れ上がる。プレッシャーが鉛の様に重く感じて、水の中が怖くなった。あんなに好きだった水が、息ができない場所になった。
 辞める時、コーチにもったいないと言われた。親にも言われた。皆からも引き留められたし、悩みの相談も受けた。でも、一番辛かったのは──勇人に言えなかったこと。

「一緒にオリンピックに出る」と約束したのに。

 勿論勇人も本当に心配してくれて、寄り添ってくれて、わたしの本心を聞き出そうとしてくれた。
 でも、彼だけには特にどうしても言えなかった。今までそんな、わたしは水泳に明確な目標なんてなくて、ただ勇人と泳ぐのが楽しかっただけで。
 ……オリンピックのことも、勇人の目標にわたしも便乗しただけ。それがふとした時に周りからの期待を意識して、急にそれがとてつもないプレッシャーに思えて。
 つまり、わたしだけ逃げたんだ。自分の言葉の重さに気付かずに周りの人たちを誤解させて、それに気付いて、そこから目を背けた。
 ああ、そんなこと、言えるわけがない。オリンピックという大きな夢を本当に持っている人に、わたしの弱っちい姿を見せて、そんなことに気を遣わせるだなんて。


 だから──せめて、描くことにした。
 勇人が水の中で輝いている姿を、全部残したかった。わたしの目が見ている、この美しさを。絵なら、わたしにもできるから。
 枕元のスケッチブックを引き寄せて、今日描いた絵を見る。
 プールに飛び込む瞬間の勇人。水飛沫が上がって、光が散って。まだ粗いけど、一番好きな瞬間だ。
 ページの右下に、小さく書いた。

「4:19.88 ベスト更新おめでとう」

 ……こんなの見せられるわけない。スケッチブック一冊まるごと勇人で埋まってるなんて。バレたら友達やめられるかもしれない。気持ち悪いと思われるかもしれない。
 でも、描かずにはいられない。
 好きだから。ずっと、ずっと好きだから。
 白石先輩が今日、勇人と話してた。打ち上げに誘ってた。正々堂々としていて、堂々としていて──かっこよかった。ああいう風に、さらっと自分の気持ちを言葉にできるのがすごい。わたしにはできない。絶対にできない。──いや、できないし、しないのだ。
 勇人の邪魔をしたくない。
 大会が近い。大事な時期だ。わたしの気持ちなんかで、勇人のリズムを乱したくない。水泳に集中してほしい。あの0.6秒を縮めてほしい。
 だから、今は描くだけでいい。隣にいるだけでいい。幼なじみのままでいい。

 ──嘘だ。全然よくない。
 白石先輩に勇人を取られたら、わたしは壊れると思う。
 でも、だからって──。
 スマホの画面が暗くなる。勇人とのトーク画面。最後のメッセージ。

『ちゃんと言えるようになったら、一番に伝える』

 ──一番に、って言った。
 一番って、誰に対しての一番? わたしに一番に伝えるってこと? それとも、わたしが一番だってこと?

「……勇人のバカ。紛らわしいこと言わないで」

 呟いて、スマホを胸に抱いた。
 窓の外、三日月が光っている。山の上に、細い弧を描いて。勇人の部屋からも、同じ月が見えているだろうか。
 明日もまた、遅刻しそうになりながら走っていく。勇人が呆れた顔で待ってくれているのを知っているから。あの半歩後ろの距離で、隣を歩く。それだけで十分なはずなのに──全然、全然足りない。

 ああ、もう。
 好きって言いたい。

 枕に顔を埋めて、目を閉じる。
 
 明日のアラームを四つセットして──それでもきっと、寝坊する。

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