水面のきみに恋をした   作:H117147

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スケッチブックの秘密

 

 美術室は、校舎の四階の端にある。

 放課後の西日が窓から差し込んで、イーゼルに立てかけられたキャンバスの群れを琥珀色に染めていた。油絵具とテレピン油の匂いが混じった空気は、プールの塩素とはまるで違う。この匂いに、わたしは慣れるのに3か月くらいかかった。

 ──慣れたけど、好きになったかと聞かれると、少し違う。

 水の匂いのほうが、やっぱり好きだ。自分の手のひらで水を掴んで、押し出して、身体が前に進む感覚。あの全身で水と対話する感じは、筆を握っても再現できない。でも──筆でしかできないこともある。動いているものを、紙の上に永遠に閉じ込めること。それが今のわたしの"泳ぎ方"だ。

 

 窓の外に連なる山並みが、西日を受けてオレンジ色に光っていた。美術室からの景色は好きだ。四階の端だから空が広くて、屋上とはまた違う角度で山が見える。空気の色が変わっていく時間帯を、絵具のパレットみたいだなと思いながらいつも眺めている。

 

「瑞希ー、提出用のやつ、どこまで進んだー?」

 

 隣のイーゼルから園田美月が声をかけてくる。ショートボブにベレー帽という、いかにも美術部な出で立ち。この子は見た目通り絵を描くのが三度の飯より好きなタイプで、わたしとはオタク仲間としても馬が合う。そして何より、名前が濁点の有り無ししか違わない。みずきとみつき。結構周りからもからかわれたりするけど、まあそんなこんなで仲良くなった高校からの新しい友達。

 

「んー……まだラフの段階」

「提出、来週の金曜だよ? 大丈夫なの?」

「大丈夫大丈夫。週末にスケッチ行くし、そこで一気に仕上げる」

「あー、河川敷のやつ? 天堂くんに教えてもらった場所ね」

「──っ、なんでそこ名前出すの」

「いやだって瑞希が自分で言ってたじゃん、昨日」

 

 言ったっけ。言ったかもしれない。美月の前だとつい口が緩むのが悪い癖だ。

 

「で、提出用はそっちのスケッチブックでしょ? じゃあそっちの……いつも持ってるほうは?」

 

 美月の視線が、わたしの鞄の横に立てかけてあるもう一冊のスケッチブックに向いた。表紙がくたびれた、使い込んだやつ。

 

「……それは、別の。ただの練習用」

「ふーん? いっつも持ってるよね、それ。見せてよー」

「ダメ!」

 

 思わず声が大きくなった。美術室にいた数人の部員がこっちを見る。わたしは咳払いでごまかしつつ、スケッチブックを鞄の裏に隠した。

 

「……ダメなの。人に見せるようなもんじゃないから」

「えー、そんな言われると余計気になるんだけど」

 

 美月がにやにやしている。この顔は危ない。好奇心に火がつくと止まらないタイプだ。わたしは話題をそらすべく、提出用のラフに意識を戻した。

 

 ──あのスケッチブックだけは、絶対に見られるわけにはいかない。

 

 一冊まるごと、勇人で埋まっている。水を切る腕。ターンの瞬間。息継ぎの横顔。プールの光。水飛沫。勇人、勇人、勇人。

 ページの隅には毎回、小さく「がんばれ、勇人」と書いている。もはや呪文みたいなものだ。描かずにはいられない。書かずにはいられない。好きだから。どうしようもなく。

 でも、それを人に知られたら──わたしと勇人の関係が、壊れてしまう気がする。幼なじみという安全地帯が。居心地のいい、あの半歩の距離が。

 

「笹倉さん」

「わっ──」

 

 背後から声をかけられて、椅子ごと跳ねそうになった。振り返ると、美術部の顧問の川島先生が立っていた。四十代の女性で、銀縁の眼鏡の奥にいつも穏やかな目をしている。

 

「課題、テーマは決まった?」

「はい。生田川の河川敷の、桜並木を描こうかと」

「ああ、いいわね。あそこの景色はとてもきれいだから」

 

 川島先生はそう言って、わたしの手元のラフを覗き込んだ。提出用の、まだ線が定まっていないほう。

 

「まあ、先生としては……もう一冊のほうが、ずっと良い線を描いてると思うけれど」

「……え、えっ……?!」

「昔、ちらっと見えただけよ。でも、あっちのほうが筆に迷いがない。描きたいものが、はっきり見えている絵だった」

 

 心臓が跳ねた。先生に見られていたなんて。

 

「あなたは水泳をしていたのよね」

「……まあ、昔の話ですけど」

「動きのある人物を描くなら、その動きを"知っている"ことが最大の武器になる。身体がどう水を掴むか、筋肉がどう連動するか──泳いだことがある人間にしか描けない線がある」

 

 絵はセンスであると同時に、描く対象への理解の深さが表れる。先生は言った。

 

「……でも、あっちは、その、提出できるようなものじゃなくて」

「あらそう? まあ、無理にとは言わないわ。ただ──本気で描いた絵は、隠しておくには惜しいものよ」

 

 川島先生は微笑んで、隣の生徒の指導に移っていった。

 わたしは提出用のスケッチブックに向き直ったが、ペンが動かなかった。

 

 ──本気で描いた絵は、隠しておくには惜しい。

 

 そんなこと、わかってる。でも。

 

 

◆◇

 

 

 同じ頃。勇人は体育祭の実行委員会の作業で、視聴覚室にいた。

 

「天堂くん、この机もう少し右にずらしてくれる?」

「はい」

 

 白石先輩の指示は的確で無駄がない。視聴覚室を体育祭本部に模様替えする作業だが、副会長の仕切りのおかげで三十分で形になった。他の委員は休憩に入り、視聴覚室には俺と白石先輩の二人だけが残っていた。

 視聴覚室の窓は西向きで、山に沈みかけた太陽がまっすぐ差し込んでくる。白石先輩の長い黒髪が逆光で縁取られて、横顔のシルエットがやけにくっきりしていた。綺麗な人だと思う。それは客観的な事実として。

 

「お疲れ様。天堂くん、力仕事が早くて助かるわ」

「水泳で鍛えてるんで、このくらいは」

「ふふ、頼もしいわね」

 

 白石先輩が椅子に座って、自販機で買ってきた缶のお茶を差し出してきた。俺も向かいに座る。窓の外では校庭でサッカー部が練習していて、掛け声が遠くに聞こえる。山の稜線が夕日にオレンジ色に染まり始めていた。二人の間に沈黙が落ちて、缶を開けるプシッという音が妙に大きく響いた。

 

「天堂くん、水泳、いつも頑張っているわね」

「……ええ、まぁそうですね」

「一つ聞いてもいい?」

「……何ですか?」

「あなたは、何のために泳いでるの?」

 

 缶のお茶を口に運ぼうとした手が止まった。

 

「何のため、って……」

「タイムを縮めるため? 大会で勝つため? それとも、もっと別の何か」

 

 白石先輩の目が、まっすぐこちらを見ている。世間話の延長ではない。本気で聞いている。

 

 何のために。

 そう問われると、即答できない自分がいた。

 

 タイムを縮めたい。大会で結果を出したい。それは本当だ。でも、それだけじゃない。もっと根っこのところに、言葉にできない何かがある。七歳の時に手を引かれてプールに入った、あの日から──

 

「……わからないです。ちゃんとした言葉にすると、嘘になりそうで」

「嘘?」

「最初に泳ぎ始めた理由と、今泳いでる理由が、たぶん違うんです。でも、どっちも本当で。まだ整理がついてなくて」

 

 我ながら要領を得ない答えだった。だが、白石先輩は笑わなかった。

 

「──そう。正直な人ね、天堂くんは」

「正直っていうか、答えが出せてないだけです」

「それでいいと思うわ。答えを急いで嘘をつくより、わからないままでも泳ぎ続ける。うん。ずっと誠実ね」

 

 白石先輩はそう言って、お茶を一口飲んだ。

 

「私はね、天堂くんのそういうところが──」

 

 そこで言葉を切った。廊下から他の委員が戻ってくる足音が聞こえたからだ。

 

「──いいと思う。それだけ」

 

 先輩は立ち上がって、何事もなかったように作業の続きに戻った。

 俺は缶のお茶をぬるくなるまで握ったまま、「そういうところが」の先にあったかもしれない言葉のことを、ぼんやりと考えていた。

 

 ──考えすぎだ。多分。

 

 

◇◆

 

 

 作業が終わって校門に出たのは、午後六時を少し過ぎた頃だった。

 いつもなら瑞希が待っている時間だ。あいつは美術室で課題をやりながら、俺の練習が終わる時間に合わせて校門に来る──昨日もそうだった。

 

 だが、今日は校門の前に、その姿がなかった。

 

 別に約束していたわけじゃない。あいつが毎日待ってくれる義理もない。ただの偶然が重なっていただけだ。そう思うのに、校門の前の空白が妙に広く感じた。

 校門の脇に植えられた花壇のパンジーが、夕日に照らされて影を伸ばしている。いつも瑞希はこの花壇の前で鞄を両手に持って、そわそわしながら立っていた。あの姿が今日はない。それだけのことだ。

 

 一人で歩き出す。

 いつもの通学路。用水路沿いの一本道。田んぼの向こうの山並みが夕焼けに沈んでいく。空がオレンジから紫に変わるグラデーションは昨日と同じはずなのに、隣に誰もいないだけで、色が違って見える。用水路の水音がやけに大きく聞こえる。自分の足音がやけに響く。どこかの家のテレビの音が塀越しに漏れてきて、人の気配にほっとする自分が情けない。

 商店街の前を通る。書房の明かりはもう消えていた。精肉店のシャッターに、地元の祭りのポスターが貼ってある。去年はこの祭りに瑞希と行った。綿あめを買って、途中で瑞希が浴衣の袖を綿あめの棒に引っかけて大騒ぎしたのを覚えている。

 ──半歩後ろに、誰もいない。

 その不在が、思った以上に輪郭をもって迫ってくる。

 

 帰宅してから、着替えもせずにベッドに倒れ込んだ。スマホを開くと、瑞希からのチャットが一件。

 

『ごめん、今日先に帰った。美術の課題がちょっとバタバタしてて  お疲れ!』

 

 いつもより短い。絵文字も最低限。瑞希のチャットはだいたいもっと長くて、要らない情報が三つくらい入っている。昨日のメッセージなんて、メロンパンの新味が出たという話題だけで五行使っていた。

 

『了解。課題がんばれ』

 

 送ってから、素っ気なかったかと後悔する。もう少し何か付け足すべきだったか。でも、何を? 「今日いなくて寂しかった」とでも言うのか? 幼なじみにそれは重い。重すぎる。

 

 既読がついた。タイピング中の表示が出て──すぐに消えた。そのまま、返信は来なかった。

 

 ……なんだ、この感じ。

 胸の奥がざわつく。不安というほどではないが、落ち着かない。いつもと違う夜だ。虫の声は昨日と同じはずなのに、窓の外の闇がいやに静かに思える。

 

 ベッドから起き上がって、机の上に放り出したままのタイム表を見た。四分十九秒八八。目標タイムまで、あと0.6秒。

 白石先輩の質問が、頭の中で反響していた。

 

 ──何のために泳いでるの?

 

 最初に泳ぎ始めた理由は、はっきりしている。瑞希がいたからだ。七歳の俺の手を引いてくれた女の子が、水の中で別人みたいに輝いていたから。あの子みたいになりたいと思った。あの子の隣で泳ぎたいと思った。

 今泳いでいる理由は──瑞希が泳がなくなったからだ。

 あいつの分まで、と勝手に思っている。あいつが水の中で見ていた景色を、俺が見続けなければ、と。身勝手な使命感だとわかっている。瑞希にそんなことを頼まれたわけじゃない。でも、それがなかったら0.6秒を追いかけ続ける理由がない。

 ──本当に?

 本当にそれだけか?

 

 瑞希が見に来てくれた日の練習は、タイムが良い。ギャラリーにあのポニーテールのシルエットがあるだけで、最後の五十メートルを粘れる。それは瑞希の分まで泳ぐからじゃない。瑞希に"見てほしい"からだ。かっこいいところを見せたい──そんな単純で、子供じみた理由。

 

 白石先輩に、こんなこと言えるわけがない。

 

 カーテンの隙間から、三日月が見えた。山の稜線の上に、細い弧を描いている。昨日と同じ月。でも、昨日とは何かが違う。

 

 ──瑞希が「おやすみ」を言わない夜は、こんなにも長いのか。

 

 そう思った自分に驚いて、俺は枕に顔を埋めた。

 

 

◆◇

 

 

 翌日。

 

 朝の通学路では、いつも通りの瑞希だった。三分遅刻して走ってきて、息を切らして「ごめん!」と言って、並んで歩く。

 

「今日はね、アラーム五つセットして、それでも危なくて、お母さんの出勤前の足音でぎりぎり起きたの」

「おばさん、夜勤明けじゃなかったのか」

「日勤の日。ラッキーだった……」

 

 用水路沿いの道を歩く。田んぼに薄っすらと朝靄がかかっていて、山の稜線がぼやけている。いつもの朝だ。空気が冷たくて、息が白くなりそうで、ならない。四月と五月の境目の、微妙な気温。

 もはや瑞希のアラームの下りにツッコミを入れる気は失せた。ここまで来たらどこまでも記録を伸ばしてほしいくらいだ。

 

「あ、そうだ勇人! 購買のメロンパン、新味出たの知ってる? 苺ホイップクリームメロンパン。昨日買おうとしたんだけど瞬殺で。今日こそ絶対ゲットする」

「……お前のメロンパンへの執念はなんなんだ」

「執念じゃない、愛だよ愛。パンに対する純粋な愛情」

「パンに愛情って」

 

 メロンパンの新味の話をして、昨日のアニメの展開に興奮して、一人で喋って一人で笑っている。

 

 ──いつも通りだ。

 

 なのに俺は、昨日の不在を引きずっている。あの空白を知ってしまった以上、隣にいる瑞希の存在が前より鮮明に感じられる。ポニーテールの揺れ方、歩く時の靴音、話しながら時々こっちを窺うように横目で見る仕草──全部、昨日は無かったものだ。当たり前にあったものを失いかけると、初めてその輪郭が見える。

 

 ……いや、失ってないだろ。一日待ち合わせがなかっただけだ。大げさか。

 

 商店街の脇を通る。書房のショーウインドウの前で、瑞希が足を緩めた。

 

「あ……新刊出てる」

「買うのか?」

「……帰りに。帰りに買う。今は我慢」

 

 ショーウインドウに並んだ漫画の表紙を未練がましく見つめてから、瑞希が早足で歩き出す。振り返らないが、後ろ髪を引かれている感じが背中に出ている。こういう時のこいつはわかりやすい。

 

「──ねえ、聞いてる?」

「あ、ああ」

「もう、ぼーっとしないでよ。で、あのキャラがさ──」

 

 瑞希がまた喋り出す。俺は相槌を打ちながら、隣を歩くこの時間を、少しだけ大事に噛み締めていた。

 

 

◇◆

 

 

 放課後。

 今日は水泳部の練習日だ。委員会は休み。ようやく水に入れる。

 ストレッチをしながらスタート台の前に立つと、プールの水面が蛍光灯を反射してゆらゆら揺れていた。屋内プールの窓から差し込む西日が、昨日と同じように水面に金色の網目模様を描いている。いつもの光景。いつもの匂い。ここにいると、余計なことを考えなくていい。水の中には言葉がない。ただ身体を動かし、水を掴み、前に進むだけだ。

 今日のメニューは短距離中心。百メートルを二十本。地方大会まで約1カ月。目標タイムまで縮めるためにはラスト五十メートルの粘りが鍵になる。松田先生とも話し合って、後半に強度を上げる練習に切り替えた。

 水に入る。身体が水に包まれた瞬間、頭の中のノイズが消えていく。昨日の瑞希の素っ気ないチャットも、白石先輩の言いかけた言葉も、周りからの目線や興味も──全部、水の向こうに置いていける。

 百メートルを一本泳ぐ。ターンして、二本目。三本目。身体が温まってきて、水が柔らかくなる。こういう時の水は優しい。

 

 練習のインターバルの合間、タオルで顔を拭きながらふとギャラリー席を見上げた。

 

 ──誰もいない。

 

 昨日の練習は委員会で休みだったし、瑞希が来る日も来ない日もある。美術部の活動と重ならなければ、あいつだって来る理由がない。わかっている。

 なのに、あの窓際の席が空っぽなのが、妙に引っかかった。逆光で見えなかったシルエット。慌ててスケッチブックを閉じた影。あの日の残像が、まだギャラリーの暗がりに残っている気がした。

 

「天堂、今日ちょっと集中切れてないか?」

 

 松田先生にずばりと指摘された。

 

「……すみません」

「ラスト五十のペースが昨日より落ちてる。何かあったか?」

「いえ、大丈夫です」

「そうか。まあ、大会前にこういう時期はある。焦んな。身体は正直だから、頭で考えすぎると水に嫌われるぞ」

 

 松田先生はそう言って、俺の肩をぽんと叩いてプールサイドを去っていった。

 水に嫌われる、か。

 その言葉が何となく脳裏を巡る。いかん、考えないようにしないと。

 

 

 練習を終えて部室で着替えていると、翔太が隣のロッカーから声をかけてきた。翔太は水泳部ではないが、バスケ部の練習が同じ時間帯に終わるので、たまに部室棟で鉢合わせる。髪がまだ汗で濡れていて、タオルを首にかけている。

 

「よう。今日は笹倉のお迎えは?」

「……別に迎えに来てもらってるわけじゃない」

「はいはい。で、来てないんだ?」

「美術部の課題が忙しいんじゃないのか」

「ふーん」

 

 翔太がロッカーの扉を閉めて、こっちを見た。いつもの軽い笑みの下に、ちょっと真面目な色が混じっている。こいつがこの顔をする時は、大体ろくなことを言わない。

 

「お前さ、笹倉がいないと調子悪そうだな」

「……そんなことない」

「嘘つけ。目が死んでるぞ、昨日の夜から」

「なんで昨日の夜を知ってるんだ」

「チャットのアイコンがずっとオンラインだったからな。珍しく夜更かししてただろ。返事が来ないから何度もアプリ開いてた、に百円賭ける」

 

 ……観察力が無駄に高い男だ。というか、なんでこいつは俺のオンライン状況まで把握しているんだ。

 

「別に、いつもと変わらない」

「いつもと変わらないなら、いちいちギャラリー席見上げんなよ。練習中に三回は見てたぞ、俺の予想では」

「お前、部活中に何してんだ。ていうか何でギャラリー席見上げてること知ってるんだ」

「はは、少ない体育会仲間だからな。つーかお前、否定しないんだな。三回って数字は当たってた?」

「……四回」

 

 正直に言ってしまってから後悔する。翔太は盛大に吹き出した。

 

「四回。重症だな」

「だからそういう意味じゃ──」

「ま、自分の気持ちくらい自分で気づけよ。勇人」

 

 翔太はひらひらと手を振って、部室棟を出ていった。

 自分の気持ちくらい自分で気づけ──気づいてるんだよ、とっくに。気づいてるから困ってるんだ。

 

 校門を出ると、もう真っ暗だった。山に囲まれた街の夜は暗い。街灯の間隔が広くて、用水路の水音だけが闇の中に響いている。

 今日も、校門に瑞希はいなかった。

 二日連続。たった二日のことで、通学路がこんなに長く感じるとは思わなかった。

 

 

◆◇

 

 

 美術室。

 

 放課後の活動を終えて、部員たちが片付けをしている。瑞希は提出用のスケッチブックを鞄にしまいながら、もう一冊──"本物の"スケッチブックを手に取った。

 今日はプールに行けなかった。美術の提出期限が迫っていて、時間がない。提出用のスケッチは河川敷の桜並木を描くつもりだが、まだラフの段階だ。週末に現地で仕上げるしかない。

 

「瑞希ー、先帰るねー」

「うん、お疲れー」

 

 部員たちが出ていく。美月だけが残って、椅子に逆向きに座ってこっちを見ていた。

 

「……なに?」

「瑞希。一つ聞いていい?」

「怖い前振りだね」

「あのスケッチブック」

 

 美月の目が、わたしの手元の"本物"のほうを指している。

 

「……だから、練習用だって」

「嘘。昨日ちらっと見えちゃった。瑞希が表紙めくった時。一枚目だけ、一瞬だけ」

 

 血の気が引いた。

 

「……何が、見えた?」

「プールで泳いでる人の絵。すっごく上手かった。で──間違ってなければモデルは天堂くん」

 

 美術室の空気が、しん、と冷えた気がした。西日が教室の半分を影に変えていて、美月の表情が半分だけ光っている。窓の外で鳥が一羽、鳴いて飛び去った。

 

「……そ、そそそそれだけで?」

「いやテンパりすぎでしょ。答え言ってるようなもんじゃん。でも、あの一枚だけで十分わかったよ」

 

 美月がまっすぐこちらを見ている。同情でも揶揄でもない、ただ真剣な目だった。この子のこういう目を、わたしは知っている。自分の作品の最後の一筆を入れる時と同じ目。ごまかしが通じない目だ。

 

「瑞希、好きなんでしょ。天堂くんのこと」

 

 否定の言葉が喉まで出かかって、止まった。ここで嘘をついたら、美月の誠意を裏切ることになる。この子はわたしの親友だ。一年間、隣のイーゼルで一緒に絵を描いてきた。夏のコンクールの前夜に二人で学校に残って徹夜した夜も、冬の展覧会でわたしだけ入選できなくて泣いた日も、ずっと隣にいてくれた。

 

「……うん」

 

 認めた瞬間、目頭が熱くなった。自分でもびっくりした。ずっと一人で抱えていたものを、声に出して認めたのは初めてだった。

 

「うん。好き。ずっと。十年……」

 

 声が震えた。情けない。泣くようなことじゃないのに。

 美月が立ち上がって、わたしの頭をぽんぽんと撫でた。

 

「知ってた。入学式の日から、なんとなくね」

「……そんなにバレバレ?」

「今となってはね。ていうか朝、天堂くんの話する時だけ声のトーン変わるもん」

「うそ……」

「ほんと。──で、あのスケッチブック、全部天堂くんなの?」

「…………いまのとこ32枚」

 

 美月が一瞬絶句して、それからふっと笑った。

 

「すごいね、瑞希。それ、もう立派な画集だよ」

「画集って……笑わないでよ」

「笑ってない。すごいって言ってるの。──ただ、一つ聞くけど」

 

 美月の声が、少しだけ低くなった。

 

「いつまで隠すの?」

 

 窓の外で、部活の終わった生徒たちが笑い声を上げながら通り過ぎていく。山の稜線の向こうに、夕焼けの最後のオレンジが残っていた。

 

「……隠すっていうか……見せられないんだよ。見せたら、今の関係が壊れるもん」

「壊れる? なんで」

「だって……気持ち悪いでしょ、幼なじみに勝手にスケッチされてたら。それもこんな沢山」

「瑞希」

 

 美月がわたしの両肩を掴んだ。

 

「あんたの絵はね、気持ち悪くない。あの一枚だけで──天堂くんのことをどれだけ大切に見てるか、全部伝わってきた。そういう絵だった」

「…………」

「本気で描いた絵は、ちゃんと届くよ。ほら、川島先生も言ってたでしょ」

 

 先生の言葉まで聞いていたのか。この子は本当に、わたしのことをよく見ている。

 

「……でも、今は無理。大会の前だし、勇人の邪魔はしたくない」

「大会の前だからダメ。体育祭の前だからダメ。テスト前だからダメ。──いつならいいの?」

「それは……」

「"いつか"なんて来ないよ。わたしは美術部だからわかる。作品は、完成したと思った瞬間に出さないと、永遠にお蔵入りになる。気持ちだって同じだよ」

 

 返す言葉がなかった。美月の言ってることは正しい。わたしにだってわかっている。わかっているから、余計に辛い。

 

「……考える。ちゃんと、考えるから」

「うん。わたしは味方だから。何があっても」

 

 美月はそう言って、鞄を肩にかけた。

 

「あ、あとね。わたしは口堅いから、誰にも言わない。そこは安心してね」

「……本当に、ありがとう、美月」

「今更ね。私たちそういう仲でしょ」

 

 ──美月が出ていった美術室で、わたしは一人、スケッチブックを胸に抱いた。

 

 くたびれた表紙。角が少し折れている。一年間、毎日持ち歩いて、描いて、隠して。この中に詰まっているのは32枚の絵だけじゃない。十年分の、勇人への想いだ。

 

 席に座り直して、スケッチブックを膝の上に置いた。開く勇気はない。今開いたら、泣いてしまいそうだから。代わりに、提出用のスケッチブックを引き寄せた。河川敷の桜並木。まだ白紙に近いラフ。週末までにこっちを仕上げなければ。

 ペンを持つ。線を引く。でも、手が動かない。

 頭の中に浮かぶのは桜並木じゃなく、プールの水面だ。飛沫が上がって、光が散って、水の中に勇人がいる。その映像が、瞼の裏に焼きついて離れない。

 

 ──わたし、美術部に入ったのは、本当に"描きたいもの見つけたから"だった。

 

 嘘じゃない。描きたいもの、見つけたんだ。それが勇人だっただけで。

 水泳を辞めて、水の中で勇人の隣にいられなくなって。でも、絵なら──紙の上なら、勇人のそばにいられると思った。勇人が水の中で輝く瞬間を、わたしの手で残せると思った。

 それが、わたしの"別の形"なんだ。

 

 昼休みに勇人に聞かれた時、秘密と言って笑ったけど──本当は、言えなかっただけだ。"あなたを描くために美術部に入った"なんて、どう考えても重い。重すぎる。引かれる。

 ああ、いっそ勇人が女の子だったら──なんて。こんな気持ちにならず、ただ親友として仲良くなれていたのかな?

 

 

 ため息をついて、窓の外を見た。山の稜線の向こうに、夕焼けの最後のオレンジが残っていた。空の高いところはもう群青色で、一番星がちらちらと瞬いている。美術室の蛍光灯がじりじりと鳴っている。この音、嫌いじゃない。一人で絵を描く時の、静かな伴奏みたいで。

 

 いつか、見せる日が来るんだろうか。

 

 その光が消える前に、わたしはスケッチブックをそっと鞄にしまった。

 提出用のほうも、"本物"のほうも、両方。二冊の重さが、鞄の中でことりと鳴った。

 

 ──まだ、今日じゃない。

 でも。

 

 "いつか"を、少しだけ近くに感じた夕方だった。

 

 

◇◆

 

 

 翌朝。

 珍しく瑞希が俺の家の前で待っていた。

 

「おはよ」

「おはよう、今日は雪か?」

 

 ガシッ!無言で蹴られる。

 

「何すんだ!」

「たまにはわたしだって起きれますよーだ!」

 

 いつもの漫才染みたやり取り。居心地が良く、自然と笑みがこぼれる。

 

「ねえ、勇人?」

「うん?」

「今日は屋上空いてるかな」

「ああ」

 

 上目遣いに尋ねられ、二つ返事でそう回答した。

 俺は少し安堵していた。いつものメロンパンとカフェオレ。いつもの屋上。いつもの隣。

 

 

 四限目が終わり、屋上に出ると、風が心地よかった。山の向こうに薄い雲が流れていて、空が高い。校庭の桜はもうほとんど散ってしまったが、花壇のチューリップが赤や黄色に咲き始めている。季節が、少しずつ動いている。

 

「ねえねえ」

「ん」

「練習、最近どう?」

 

 メロンパンをかじりながら、瑞希が聞いてきた。いつもの快活な声だが、どこか探るような響きがある。昨日までの二日間のことを気にしているのかもしれない。先に帰ったことを、まだ少し引っかけているような。

 

「正直、あんまり良くない。ラストの粘りが足りてない」

「そっか。……わたしに何かできることある?」

「お前に?」

「うん。差し入れとか、マッサージとか……あ、マッサージは変か。えっと、ストレッチの補助とか? 一応元水泳部だし、そのへんのことは──」

 

 瑞希が指を折りながら一生懸命考えている。風がポニーテールを揺らす。山の稜線を背景に、斜めから差す日差しが瑞希の横顔を照らしていた。その真剣な表情が──妙に、眩しかった。

 

「……いてくれるだけでいい」

 

 言ってから、しまったと思った。今のは正直重い。幼なじみに言うセリフじゃない。

 

「い……」

「いや、その、練習見に来てくれるのが、ペース作りに──」

「うん」

「だから、ギャラリーにいてくれると──」

「うん。わかった」

 

 瑞希がいつもの笑顔で頷いた。でも、その頬が少し赤かったのは──四月の風のせいだと、俺は思うことにした。

 

「……じゃあ、今日の放課後、行くね。ギャラリー」

「おう」

「スケッチの続きもあるし」

「そうだな」

「……べ、別に勇人のために行くわけじゃないからね? 課題のためだからね?」

「わかってる」

 

 わかってる。

 わかって──いるのか、俺は。

 

 屋上の向こうに見える山並みが、春の霞を薄くかぶっていた。空が広い。風が柔らかい。瑞希の隣は、いつだって居心地がいい。

 

 ──でも、この居心地の良さに甘えたまま、時間だけが過ぎていくのは、もう嫌だ。

 

 練習見に来てくれるなら。ギャラリーにいてくれるなら。

 俺はもっと速く泳ぐ。あと0.6秒。あの壁を、必ず超える。

 そうしたら──

 

「勇人、卵焼き」

「ん?」

「作ってきたの。おかずだけ」

 

 そう言って傍らから小さな弁当箱を取り出し見せてくる。

 からあげに卵焼き、プチトマトが入ったシンプルなものだった。

 

「こないだのお返しにね」

「あ、ああ。ありがとう」

「あ、自分の箸で食べてね? ……その、は、恥ずかしいから!」

「……おう」

 

 瑞希が箸を差し出さず、代わりに弁当箱ごとこっちに寄せてきた。このへんの距離感が、いかにも瑞希だ。近づくのを恐れているのに、離れることはしない。

 自分の箸で卵焼きをつまんで口に運ぶ。甘い。ウチは出汁醤油だから、新鮮な感じだ。

 

「……おいしい?」

「ああ」

「よかった」

 

 瑞希が笑った。風がポニーテールを揺らして、校庭の桜の花びらが一枚、ふわりと屋上に舞い上がってきた。それが瑞希の膝の上に落ちて、瑞希が「あ」と小さく声を上げて拾い上げた。

 

「きれい。……もうすぐ全部散っちゃうね」

「来年も咲くだろ」

「そうだけど。今年の桜は今年だけでしょう」

 

 瑞希がそう言って、花びらを指先でくるくる回した。その横顔が、妙に大人びて見えた。

 

 ──昨日の空白が、嘘みたいだ。

 

 いつもの屋上。いつもの二人。同じ弁当の卵焼き。

 でも、俺の中で何かが変わっている。隣にいることが当たり前じゃないと知ってしまった。この時間に値段をつけるなら、たぶん──いや、やめておこう。値段なんてつけられない。

 

 「いてくれるだけでいい」。

 あの言葉は、たぶん、嘘じゃなかった。

 

 

 





◆幕間──笹倉瑞希の場合

 美月に、ばれた日の夜。
 瑞希はベッドの上でスケッチブックを広げていた。32枚。一枚目から順番に、ゆっくりとページをめくっていく。

 一枚目。去年の五月。入学して最初にプールを見に行った日。放課後、誰もいないギャラリーから見下ろした水面のスケッチ。まだ勇人は描いていない。水面の光だけ。でも、この光の中に勇人がいることを、描いた本人は知っている。

 五枚目。六月。初めて勇人を描いた日。百メートル背泳ぎのターンの瞬間。壁を蹴って、水中で身体がくるっと回る。その一瞬を捉えたくて、何度も描き直した。線がぎこちない。でも、必死さだけは伝わると思う。

 十五枚目。九月。秋の記録会。ベストから二秒遅れて、プールサイドで悔しそうな顔をしていた勇人。──でもその五分後にはもうノートを開いてレースの分析を始めていた。
 あの記録会の日、わたしはギャラリーの一番端の席で描いていた。勇人が壁にタッチした瞬間の、水飛沫のかたち。落胆して水面を叩く手のひら。それから五分後に表情が変わって、ノートを開く横顔。全部描いた。この日だけで三枚使った。

 二十三枚目。一月。冬休み明け。寒くて誰もプールに近づかない時期なのに、勇人は一人で自主練していた。美術室の暖房が効いた部室から抜け出して、ギャラリーに行った。息が白かった。プールの水面からうっすら湯気が立っていて、勇人のシルエットが靄の中に浮かんでいた。あの日の絵は、自分でも気に入っている。

 三十二枚目。一昨日。四分十九秒八八のベストを出した日。プールに飛び込む瞬間の勇人。水飛沫が上がって、光が散って。この絵はまだ粗い。でも、これが一番好きだ。

 ページの隅の「がんばれ、勇人」の文字を、指先でなぞる。

 美月に言われたことが、頭の中で繰り返される。
 「いつまで隠すの?」
 「"いつか"なんて来ないよ」
 「本気で描いた絵は、ちゃんと届くよ」

 ……わかってる。わかってるんだ。
 でも、怖い。十年間の関係が壊れるのが怖い。勇人に「気持ち悪い」と思われるのが怖い。そして何より──わたしの気持ちが勇人の重荷になるのが、一番怖い。

 彼は今、シードを取れるまでの残り0.6秒を追いかけている。その目標に向かって、真っ直ぐ泳いでいる。わたしの気持ちは、その泳ぎの邪魔をすることにしかならないんじゃないか。昔、そういった気持ちを一身に受けてきたわたしだから、余計にそう思う。他人の感情は、それくらい自分に影響を与える。

「はぁ……」

 窓の外、山の稜線の上に月はない。今夜は曇りだ。星も見えない。この街の夜は、曇ると本当に暗くなる。山に囲まれているから、街の灯りも遠くまで届かない。

 スマホを開く。勇人とのチャット画面。最後に送ったのは「お疲れ!」の一言だけ。勇人の返信は「了解。課題がんばれ」。

 いつもなら、ここから他愛ない雑談が続く。今日あったこと、明日の持ち物、購買のメロンパンの在庫状況。くだらない話ばかりだ。でも、そのくだらない話をしている時間が、一日の中で一番好きだった。

 今夜はその雑談を始める気力がない。美月に気持ちを認めてしまったせいで、今まで蓋をしていたものが全部浮き上がってきている。好き。好き。好き。十年分の「好き」が、胸の中でぐるぐる渦を巻いている。

 ──おやすみ、も言えなかった。

 言ったら、きっと泣いてしまう。文字だけのやりとりなのに、泣いてしまいそうな自分が情けない。

 スケッチブックを閉じて、枕元に置く。くたびれた表紙。角が折れたページ。これが、わたしの十年間。

 いつか、この本を勇人に渡す日が来るだろうか。
 その"いつか"は、本当に来るんだろうか。

 美月は来ないと言った。自分で動かなければ、永遠に来ないと。
 たぶん、正しい。

 目を閉じる。明日は、ギャラリーに行こう。勇人の練習を見に。スケッチの続きを描きに。
 課題のため。──嘘だ。そんなの、とっくに嘘だ。

 勇人の泳ぎが見たいから行く。それだけだ。
 それだけの理由で、十分だ。

 明日のアラームを六つセットする。
 早起きして、この前のお返しにお弁当を作ろう

 明日は、遅刻しないように…

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