水面のきみに恋をした   作:H117147

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水面に映る街

 

 

 五月になった。

 

 ゴールデンウィーク初日の葉山市は、抜けるような青空だった。山の新緑が一段濃くなって、稜線の輪郭がくっきりと空に映えている。田んぼに水が張られ始めて、朝の通学路に映る空が二倍になる季節。でも今日は学校がない。世間はGWだ。

 とはいえ、水泳部には休みがない。午前中はプールで練習。大会まであと一ヶ月半。タイムは4:19.88から動いていない。0.6秒の壁。焦る気持ちはあるが、松田先生には「一日中追い込みすぎてハンガーノックになっても良くない。身体を休める日も作れ」と言われている。

 

 練習を終えて、昼過ぎに帰宅した。シャワーを浴びて、髪を乾かしながらスマホを見ると、瑞希からチャットが来ていた。

 

『勇人ー、明後日って午後ヒマ?』

 

『練習は午前で終わる。11時くらいには帰るから午後以降は空いてるけど』

 

『やった! じゃあさ、スケッチ行くんだけど、付き合ってくれない?』

 

『どこに?』

 

『前に言ってた河川敷の桜並木と、あと……中央公園にも寄りたいなって』

 

 中央公園。あのスイミングスクールがある場所だ。

 

『何で中央公園?』

 

『んー、久しぶりに行きたくて。スケッチの題材探しも兼ねて!』

 

 瑞希が中央公園に行きたがる理由は、たぶん題材探しだけじゃない。でも、追及はしなかった。

 

『わかった。何時にする?』

 

『11時半に勇人の家の前! お弁当持ってくね!』

 

『了解』

 

 弁当を持ってくるのか。二人で出かけて、弁当を食べる。これは──デートじゃない。幼なじみのスケッチ旅行だ。そうだ。それ以上の意味はない。

 

 ……ないけど、少し、浮ついてしまう。

 

 

◆◇

 

 

 五月三日。昼前の11時半。

 

 急いで帰宅し用意を済ませ玄関を開けると、家の前に瑞希が立っていた。白いTシャツにデニムのショートパンツ、キャンバス地のスニーカー。肩からスケッチブックが入ったトートバッグを下げて、もう片手に保冷バッグ。ポニーテールがいつもより高い位置で結んであって、首筋が見えている。

 

「おはよー! ……じゃないか、こんにちは!」

「時間通りだな。珍しい」

「失礼な! 今日はアラーム六つセットして、万全の態勢で──」

「学校じゃないのにアラーム六つ要るのか」

「要るの! わたしの睡眠は鉄壁だから!」

 

 いつものやりとり。でも、私服の瑞希は少しだけ新鮮だった。制服じゃないと、スタイルの良さが際立つというか、手足が長い感じがするというか

 

「…どうしたの?」

「いや、別に」

「また別にぃだ。勇人って別に多いよね」

「いや別に……って、それ卑怯だろ」

「あはは!」

 

 歩き出す。いつもの通学路ではなく、街の反対方向。中央公園は学校とは逆の、山の麓のほうにある。

 

 五月の昼下がりは暑くもなく寒くもなく、歩くのにちょうどいい。住宅街を抜けると、畑と果樹園が広がるエリアに出る。りんごの木に白い花が咲いていて、甘い匂いが風に乗ってくる。長野の五月は、りんごの花の季節でもある。

 

「きれー。りんごの花、久しぶりに見た」

「毎年咲いてるだろ」

「でも毎年見てるわけじゃないもん。……ていうかこの下り前もやったような……?」

 

 最期の方が尻すぼみでよく聴き取れなかったが、何やら言いつつ瑞希がりんごの花に鼻を近づけて、くんくん嗅いでいる。犬か。

 

「ねえ勇人、中間テストの勉強してる?」

「……まあ、ぼちぼち」

「わたし全然やってない。やばいかな」

「やばいだろ。GW空けだぞ」

「だってGW中は課題もあるし、スケッチもあるし」

「テスト勉強もしろ」

「うぅ……数学がわかんないんだよね。数列のあのへん」

「あのへんって範囲広いな」

「Σが出てきた瞬間にもう無理!」

 

 開き直りやがった。まあ、瑞希の数学は昔からだ。小学校の頃から算数だけ壊滅的で、中学では俺がよくノートを貸していた。

 

「ていうか何でGW明けにいきなりテストなの?おかしくない?」

 

 それは思ったが、考えたところでしょうがない。

 

「はぁ……GW中に教えてやるから、範囲をちゃんと確認しとけ」

「えっ、いいの? やった! 勇人先生!」

「先生はやめろ」

 

 瑞希がにやにやしている。こいつ、教えてもらう気満々で話題誘導したな。

 

 

◇◆

 

 

 河川敷に着いた。

 

 生田川の両岸に並ぶ桜並木。桜の花はもうあらかた散ってしまい、枝には若葉が茂っている。葉桜の並木道。木漏れ日が地面に緑色の影を落としていて、それはそれで四月とはまた違う趣きがある。

 

「桜、もう殆ど散っちゃったね」

「まあ、そうだろうな。四月末だったし」

「うん。でも──葉桜もきれいだね。緑が透けてて、光ってる」

 

 瑞希がトートバッグからスケッチブックを取り出した。A4サイズの白い表紙。

 

「ここで描くのか」

「うん。河川敷の桜並木──って言っても葉桜バージョンだけど」

「桜が散った後でいいのか、なんなら他の景色でも」

「むしろ今のほうがいいかも。満開の桜って、写真でも絵でもよく見るでしょ。でも葉桜って、あんまり描く人いないんだよね。散った後にも美しさがあるって──先生の受けも良さそうだし」

 

 瑞希は川沿いのベンチに腰を下ろして、スケッチブックを膝に広げた。鉛筆を取り出して、まず構図を決める。並木道の奥行き。川面の光。枝の曲がり方。

 

 俺は隣のベンチに座って、テスト勉強──のつもりで教科書を開いた。英語の長文読解。でも、目が活字を滑っていく。集中できない。

 

 原因はわかっている。

 

 隣で瑞希が絵を描いている。鉛筆がスケッチブックの上を走る、かすかな音。サッ、サッ、と規則正しいリズム。時折手を止めて、目の前の風景を見つめ、また描き始める。

 瑞希が絵を描いている時の横顔を、こんなに間近で見たのは初めてだった。いつもは美術室かギャラリー席か、距離がある場所で描いている。今日は、手を伸ばせば届く距離にいる。

 

 集中している時の瑞希は、水の中にいた頃と同じ顔をしている。笑わない。ふざけない。目が鋭くなって、唇をきゅっと結んで、世界に自分と描く対象しかいないみたいな顔。

 

 ──あいつは、泳ぐ時も描く時も、同じだ。

 

 全力で向き合っている。ひたむきに。真剣に。

 その姿に俺は、十年前から──

 

「……なに見てるの?」

 

 瑞希がこっちを向いた。鉛筆を持った手が止まっている。

 

「いや。集中してるなと思って」

「見ないでよ、恥ずかしいんだから」

「悪い」

 

 教科書に目を戻す。でも活字は相変わらず滑っていく。

 

 瑞希がしばらくスケッチを続けてから、ふっと鉛筆を置いた。

 

「ね、勇人」

「ん」

「ちょっとだけじっとしてて」

「?」

 

 瑞希が鞄から別のスケッチブックを取り出して、俺のほうに鉛筆を向けた。

 

「……何してるんだ」

「スケッチ。勇人の」

「は?」

「課題に使うかはわかんないけど、練習! 人物スケッチの。ほら、じっとして」

「見ないでくれよ、恥ずかしい」

「うるさいなー! はい動かないの!」

 

 強引だ。でも、断る理由もなかった。ベンチに座ったまま、視線を川のほうに向ける。川面がきらきら光っていて、まぶしい。

 

 瑞希の鉛筆が動く音がする。サッ、サッ。さっきより速い。迷いがない線を引いている気がする。

 

「……横顔、描きやすい」

「そうなのか」

「うん。勇人の横顔、ラインがはっきりしてるから。鼻筋とか、顎のラインとか」

「褒めてるのか」

「事実を言ってるの」

 

 瑞希の声がいつもより低い。集中モードだ。

 

 五分くらいだろうか。瑞希が「できた」と言って、スケッチブックを閉じた。

 

「見せてくれないのか」

「ダメ! まだ途中だし!」

「いつも途中じゃないか」

「完成したら見せるって言ってるでしょ!」

 

 瑞希がスケッチブックを胸に抱えて、ぷくっと頬を膨らませている。

 

 ──こいつ、前にも同じこと言ってたな。ギャラリーで描いてた時も。「完成したら見せる」。いつ完成するんだ。

 

 まあ、いい。待つのは慣れている。

 

 

◆◇

 

 

 河川敷を離れて、中央公園に向かった。歩いて十五分ほど。生田川沿いの遊歩道を上流に向かって歩くと、山の麓に広がる大きな公園が見えてくる。

 

 中央公園は、葉山市で一番大きい公園だ。芝生の広場、遊具のあるエリア、池、そして奥に複合スポーツ施設がある。その中にスイミングスクールがある。

 

 GWだからか、公園は家族連れで賑わっていた。芝生の上でシートを広げてお弁当を食べている家族。遊具で遊ぶ子供たち。池の周りをジョギングしている人。

 

「なんか懐かしいね」

「ああ」

 

 二人で公園の中を歩く。通学路とは違う、休日の散歩。歩幅を合わせて、ゆっくり。

 

 遊具のあるエリアを通り過ぎた時、瑞希が足を止めた。

 

「あ、あのブランコ」

「ん?」

「小学校の時、スイミングの前にいつも乗ってたブランコ。まだあるよ」

 

 確かに覚えている。練習が始まるまで時間があると、二人でブランコに乗って、どっちが高く漕げるか競争した。瑞希のほうがいつも高かった。あいつは体幹が強いから、ブランコの漕ぎ方もうまかった。

 

「乗る?」

「いや幼児用だろ。俺らが乗ったら壊れないか?」

「壊れないでしょ。たぶん」

「たぶんって」

 

 瑞希がブランコに座った。足が地面についてしまう。小学校の時はあんなに高く感じた座面が、今は低い。

 

「……なんか、ちっちゃいね」

「お前がでかくなったんだろ」

「でかくないよ! ギリ百六十九センチだよ!」

「十分でかい」

 

 実際瑞希はクラスの女子の中で一番背が高い。足長で顔は小さく、フィジカル面で見ても、アスリート向きの身体をしている。

 

 瑞希がブランコを軽く漕ぐ。ぎい、ぎい、と鎖が軋む。風がポニーテールを揺らす。

 

「ここで勇人と競争したの、覚えてる?」

「ああ。お前のほうがいつも高かった」

「あはは。わたし、ブランコだけは勇人に勝てたんだよね」

「ブランコだけじゃなかっただろ。水泳も全部負けてた」

「……そうだっけ」

 

 瑞希の声が、少しだけ柔らかくなった。ブランコの動きが止まって、瑞希は足を地面に着けたまま、空を見上げた。

 

「ね、あのベンチ行こ。お弁当食べよう」

 

 スイミングスクールの建物の脇に、昔からあるベンチがある。ブルーに塗られた木のベンチで、少し塗装が剥げている。でも、形は変わっていない。

 

「ここ、ここ! お母さんとアイス食べたベンチ!」

「ああ、覚えてる」

 

 母さんと瑞希と俺の三人で、スイミングスクールの帰りに毎回座ったベンチ。売店でアイスを買って、ここで食べた。瑞希はいつもチョコ味で、俺はバニラで、母さんは抹茶。

 

 今日は三人ではなく、二人。アイスではなく、弁当。

 

 瑞希が保冷バッグからタッパーを取り出した。蓋を開けると、おにぎりと唐揚げと卵焼きと、プチトマト。

 

「作ってきたのか?」

「うん。朝早く起きて」

「お前が朝早く起きた?」

「なんでそこ驚くの! 失礼じゃない?!」

 

 おにぎりを受け取る。塩むすび。具はツナマヨ。瑞希が昔から好きな具だ。

 

「……おいしい」

「ほんと? やった」

 

 瑞希が笑う。ベンチに並んで座って、弁当を食べる。GWの昼下がり。風がぬるくて、木漏れ日が揺れていて、遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。

 

 スイミングスクールの建物が、すぐ横に見える。窓越しにプールが見えた。この時間帯のクラスはまだ小さい子ばかりで、泳いでいるというか水に慣れさせる段階だろう。コーチの優しそうな声が、ガラス越しにくぐもって聞こえる。

 

「まだ賑わってるな」

「うん。良かった。なくなってなくて」

 

 瑞希がおにぎりを食べながら、建物を見つめている。

 

「ここから始まったんだよね、全部」

「ああ」

「勇人が泣いてた場所」

「……だから黒歴史を掘り起こすなって言ってるだろ」

「あはは。でも、あの時わたしが手を引かなかったら、勇人は水泳やってなかったかもね」

「…………かもしれないな」

 

 沈黙。でも、気まずい沈黙じゃなかった。穏やかな沈黙。二人とも、同じことを考えている気がした。十年前のこの場所のことを。

 

「……あ」

 

瑞希が急に立ち上がった。

 

「雑貨屋。あの雑貨屋、まだあるかな」

「中央公園の前の?」

「うん。イルカのハンカチ買った店」

 

 瑞希が早足で公園の入口のほうに歩き出す。俺も弁当を片付けて追いかけた。

 

 公園のすぐ向かいに、小さな雑貨屋がある。手書きで描かれた店の看板は色褪せていたが、まだ営業していた。店先に風車や木のおもちゃが並んでいて、昔と変わらない雰囲気だ。

 

「あった! まだあるよ!」

 

 瑞希が嬉しそうに店内を覗き込む。小さな店だ。文房具、アクセサリー、布小物、ポストカード。子供向けと大人向けの商品が混在している。

 

「ハンカチのコーナー……あ、あった。でも、イルカのはないね」

 

 ハンカチのラックを二人で見る。花柄、ストライプ、猫、犬。動物柄はあるが、イルカはなかった。

 

「まあ、十年前の商品が残ってるわけないか」

「だよね……」

 

 瑞希が少しだけ寂しそうな顔をした。

 

「あのハンカチ、まだ持ってるんだ、わたし。水色のやつ」

「……俺のは、とっくにボロボロで捨てちまった」

「えー。もったいない」

 

 瑞希が唇を尖らせる。でもすぐに「まあ男の子だもんね」と笑った。

 

「モノを大事にしなよ、勇人」

「……悪かったな」

 

 なぜか謝ってしまった。瑞希のハンカチは、水色のイルカ。俺のは青のイルカ。お揃い、と瑞希が言って選んだのを覚えている。あの時は何も思わなかったけど──今思うと、あれは小学生なりの、大事なことだったのかもしれない。

 

 雑貨屋を出て、公園に戻る。

 

 夕方が近づいていた。太陽が山の稜線に傾き始めて、公園の芝生が金色に染まっている。家族連れがぽつぽつと帰り始めて、さっきより静かになった。

 

 スイミングスクールの前を通る。窓の中のプールに、西日が差し込んでいた。水面がオレンジ色に光っている。子供たちはもう上がったらしく、プールは静かだ。

 

 瑞希が立ち止まって、窓越しにプールを見つめていた。

 

 何を考えているのか、横顔からは読み取れない。でも、目が少しだけ潤んでいるように見えたのは──西日のせいだと、思うことにした。

 

「……帰るか」

「うん」

 

 公園を出て、いつもの通学路──ではなく、住宅街の裏道を歩く。普段は通らない道。方向は同じだが、景色が違う。夕焼けの角度が違う。

 

「今日、ありがとうな。良い気分転換になった」

「こっちこそ。おかげでいいスケッチが描けたよ」

「で、見せてくれないのか」

「完成してからね!」

 

 瑞希がトートバッグを抱え直す。

 

 夕焼けが山の稜線に沈んでいく。田んぼに張られた水が、空と山と夕焼けを全部映している。水面に映った世界は、本物と上下が逆だけど、同じだけきれいだ。

 

「ねえ勇人」

「ん」

「今日、楽しかった」

「ああ。俺も」

「……また行こうね。中央公園」

「ああ」

 

 瑞希の家の前に着いた。いつもの通学路なら、ここは通らない。俺の家のほうが先にあるから。でも今日は逆方向から歩いてきたので、瑞希の家が先になった。

 

「じゃあね、勇人。テスト勉強がんばろう」

「お前が言うなよ。数学、GW中に教えるからな」

「やった! 勇人先生ー!」

「だから先生はやめろ」

 

 瑞希が笑って、家の中に消えていった。玄関のドアが閉まる音。

 

 一人になって、自分の家に向かって歩く。夕焼けの残照がまだ空にあって、三日月が東の空に薄く出ていた。

 

 今日一日、何も特別なことはなかった。河川敷でスケッチを見守って、中央公園で昔の場所を巡って、ベンチで弁当を食べて、雑貨屋に寄って、帰った。ただの休日。

 

 なのに、胸の奥がじんわり温かい。この温かさを言葉にするのは難しいけど、たぶん──こういうのが、幸せってやつなんだろう。

 

 ポケットの中で、スマホが震えた。瑞希からのチャット。

 

『今日の写真送るね! 公園のベンチのやつ!』

 

 添付された写真を開く。ベンチに並んで座っている俺と瑞希。瑞希が自撮りで撮ったもの。瑞希がピースサインで笑っていて、俺は少し不意を突かれた顔をしている。

 

 ──いつ撮ったんだ、これ。

 

『いい写真でしょ? 保存してね!』

 

『……おう』

 

 保存した。ロック画面にはしない。しないけど、保存した。

 

 

◆◇

 

 

 テスト期間。

 

 GW後半の五月四日から六日は、テスト勉強モードに切り替えた。とはいえ俺は午前中に練習があるので、勉強は午後と夜に集中する。

 

 瑞希とはチャットで勉強会が始まった。

 

『勇人ーーー、数列のこの問題わかんない。写真送る』

 

 添付されたノートの写真。字が丸くて大きくて、余白だらけ。いかにも瑞希だ。

 

『Σの計算で、k=1からnまでのk²の和を使うやつだろ。公式覚えてるか?』

 

『公文式???? 何それ????』

 

『公文式じゃねーよ!公式だ! n(n+1)(2n+1)/6。授業でやっただろ。いいか、まずΣを展開して──』

 

 数学の教え合い、というか俺が一方的に教える時間。チャットだと数式が打ちにくいので、途中から手書きの解説をノートに書いて写真で送るスタイルになった。

 

『あーーーなるほど!!!! Σってこうやって分解するのか!!』

 

『今さら理解するな。授業で何聞いてたんだ』

 

『授業中は……えっと……窓の外見てた……』

 

『窓の外って何があるんだ』

 

『山』

 

 山を見て何になるんだ。──まあ、美術部的には題材探しなのかもしれないけど。

 

 英語と国語は瑞希のほうが得意で、逆に教わることもあった。

 

『この古文の品詞分解、どう読むんだ』

 

『あー、これね。"あはれなり"は形容動詞のナリ活用で──』

 

『お前、古文やたら強いよな』

 

『だって物語だもん。古文って恋バナが多いんだよ? 源氏物語とか。読めば読むほど面白い』

 

『……恋バナとして読んでたのか』

 

『当たり前でしょ! 光源氏の恋愛遍歴とか、最高にドラマチックじゃん!』

 

 瑞希の成績が国語だけ妙に高い理由がわかった。

 

 物理化学も俺が教えにまわる。社会は俺が日本史、瑞希が地理を相互に教え合った。

 

 五月七日。中間テスト初日。

 

 朝の通学路。瑞希は珍しく時間通りに来た。

 

「今日は遅刻しなかったな」

「テストの日に遅刻したら洒落にならないでしょ」

「いつもそう思ってくれ」

「……善処します」

 

 テストは二日間。五教科。一日目が英語・数学・理科、二日目が国語・社会。

 

 二日目の昼休み。テストが全部終わった後、屋上でメロンパンを食べながら。

 

「数学、どうだった?」

「……まあまあ。勇人のおかげでΣの公式は完璧だった」

「それは良かった」

「でも三番の応用問題が全然わかんなかった。あと漸化式の──」

「それ以上言うな。答え合わせは返却日にしろ」

「えー」

 

 結果は翌週に返ってきた。俺、学年12位。瑞希、73位。ただし国語は満点で学年トップ。

 

「うーん、数学57点が響いてるな……」

「でも上がったよ! 前回150とかだったもん!」

「上がったからいいって話じゃない気がするけど」

「勇人の教え方がよかったの! ありがとね!」

 

 にこにこしている瑞希を見ていると、怒る気にもならない。まあ、順位が上がったならいいか。

 

 

 





◆幕間──笹倉瑞希の場合

 五月八日。テスト二日目の放課後。

 テスト期間は授業がないため、午前中で解散し、瑞希は美術室にいた。提出用のスケッチブックを広げて、最後の仕上げをしている。

 河川敷の葉桜の並木道。五月三日に現地で描いたラフを元に、ペン入れと彩色を進めていた。葉の間から差す光の描写に手こずったが、川面に映る枝の影がうまく描けた。GWに実際に見た景色だから、光の記憶が鮮やかだ。

 ペンを置く。完成。

 川島先生が覗き込んだ。

「いい絵ね。現場で描いたのがわかる。空気の匂いがする」
「ありがとうございます」
「散った後の桜を描くのは珍しい選択だったけど、正解だったわね。……葉桜にも、ちゃんと美しさがある」

 先生はそう言って、微笑んだ。

「あなたは対象をよく見ている。見る力がある。──その力を、もっと信じなさい」

 提出用のスケッチブックを先生に渡して、瑞希は席に戻った。

 机の上にはもう一冊のスケッチブックがある。くたびれた表紙。"本物"のほう。

 今日の放課後、これに一枚描き足そうと思っていた。五月三日の中央公園。ベンチに座ってアイスの代わりにおにぎりを食べる勇人の横顔。午後の光に照らされた、穏やかな横顔。

 スケッチブックを開く。三十二枚目の次。新しいページ。

 鉛筆を走らせる。線に迷いがない。勇人の顔は、一番描き慣れている。鼻筋。顎のライン。短い髪の毛先。半分だけ開いた口元。おにぎりを食べているところだから、ちょっと間の抜けた表情をしている。でも、それがいい。水の中の精悍な顔じゃなく、隣に座って弁当を食べている時の、やわらかい顔。

 描き終わる。

 三十三枚目。ページの隅に、いつものように小さく文字を書く。でも今日は、いつもの言葉じゃなかった。


 「ありがとう、勇人」

 
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