五月になった。
ゴールデンウィーク初日の葉山市は、抜けるような青空だった。山の新緑が一段濃くなって、稜線の輪郭がくっきりと空に映えている。田んぼに水が張られ始めて、朝の通学路に映る空が二倍になる季節。でも今日は学校がない。世間はGWだ。
とはいえ、水泳部には休みがない。午前中はプールで練習。大会まであと一ヶ月半。タイムは4:19.88から動いていない。0.6秒の壁。焦る気持ちはあるが、松田先生には「一日中追い込みすぎてハンガーノックになっても良くない。身体を休める日も作れ」と言われている。
練習を終えて、昼過ぎに帰宅した。シャワーを浴びて、髪を乾かしながらスマホを見ると、瑞希からチャットが来ていた。
『勇人ー、明後日って午後ヒマ?』
『練習は午前で終わる。11時くらいには帰るから午後以降は空いてるけど』
『やった! じゃあさ、スケッチ行くんだけど、付き合ってくれない?』
『どこに?』
『前に言ってた河川敷の桜並木と、あと……中央公園にも寄りたいなって』
中央公園。あのスイミングスクールがある場所だ。
『何で中央公園?』
『んー、久しぶりに行きたくて。スケッチの題材探しも兼ねて!』
瑞希が中央公園に行きたがる理由は、たぶん題材探しだけじゃない。でも、追及はしなかった。
『わかった。何時にする?』
『11時半に勇人の家の前! お弁当持ってくね!』
『了解』
弁当を持ってくるのか。二人で出かけて、弁当を食べる。これは──デートじゃない。幼なじみのスケッチ旅行だ。そうだ。それ以上の意味はない。
……ないけど、少し、浮ついてしまう。
◆◇
五月三日。昼前の11時半。
急いで帰宅し用意を済ませ玄関を開けると、家の前に瑞希が立っていた。白いTシャツにデニムのショートパンツ、キャンバス地のスニーカー。肩からスケッチブックが入ったトートバッグを下げて、もう片手に保冷バッグ。ポニーテールがいつもより高い位置で結んであって、首筋が見えている。
「おはよー! ……じゃないか、こんにちは!」
「時間通りだな。珍しい」
「失礼な! 今日はアラーム六つセットして、万全の態勢で──」
「学校じゃないのにアラーム六つ要るのか」
「要るの! わたしの睡眠は鉄壁だから!」
いつものやりとり。でも、私服の瑞希は少しだけ新鮮だった。制服じゃないと、スタイルの良さが際立つというか、手足が長い感じがするというか
「…どうしたの?」
「いや、別に」
「また別にぃだ。勇人って別に多いよね」
「いや別に……って、それ卑怯だろ」
「あはは!」
歩き出す。いつもの通学路ではなく、街の反対方向。中央公園は学校とは逆の、山の麓のほうにある。
五月の昼下がりは暑くもなく寒くもなく、歩くのにちょうどいい。住宅街を抜けると、畑と果樹園が広がるエリアに出る。りんごの木に白い花が咲いていて、甘い匂いが風に乗ってくる。長野の五月は、りんごの花の季節でもある。
「きれー。りんごの花、久しぶりに見た」
「毎年咲いてるだろ」
「でも毎年見てるわけじゃないもん。……ていうかこの下り前もやったような……?」
最期の方が尻すぼみでよく聴き取れなかったが、何やら言いつつ瑞希がりんごの花に鼻を近づけて、くんくん嗅いでいる。犬か。
「ねえ勇人、中間テストの勉強してる?」
「……まあ、ぼちぼち」
「わたし全然やってない。やばいかな」
「やばいだろ。GW空けだぞ」
「だってGW中は課題もあるし、スケッチもあるし」
「テスト勉強もしろ」
「うぅ……数学がわかんないんだよね。数列のあのへん」
「あのへんって範囲広いな」
「Σが出てきた瞬間にもう無理!」
開き直りやがった。まあ、瑞希の数学は昔からだ。小学校の頃から算数だけ壊滅的で、中学では俺がよくノートを貸していた。
「ていうか何でGW明けにいきなりテストなの?おかしくない?」
それは思ったが、考えたところでしょうがない。
「はぁ……GW中に教えてやるから、範囲をちゃんと確認しとけ」
「えっ、いいの? やった! 勇人先生!」
「先生はやめろ」
瑞希がにやにやしている。こいつ、教えてもらう気満々で話題誘導したな。
◇◆
河川敷に着いた。
生田川の両岸に並ぶ桜並木。桜の花はもうあらかた散ってしまい、枝には若葉が茂っている。葉桜の並木道。木漏れ日が地面に緑色の影を落としていて、それはそれで四月とはまた違う趣きがある。
「桜、もう殆ど散っちゃったね」
「まあ、そうだろうな。四月末だったし」
「うん。でも──葉桜もきれいだね。緑が透けてて、光ってる」
瑞希がトートバッグからスケッチブックを取り出した。A4サイズの白い表紙。
「ここで描くのか」
「うん。河川敷の桜並木──って言っても葉桜バージョンだけど」
「桜が散った後でいいのか、なんなら他の景色でも」
「むしろ今のほうがいいかも。満開の桜って、写真でも絵でもよく見るでしょ。でも葉桜って、あんまり描く人いないんだよね。散った後にも美しさがあるって──先生の受けも良さそうだし」
瑞希は川沿いのベンチに腰を下ろして、スケッチブックを膝に広げた。鉛筆を取り出して、まず構図を決める。並木道の奥行き。川面の光。枝の曲がり方。
俺は隣のベンチに座って、テスト勉強──のつもりで教科書を開いた。英語の長文読解。でも、目が活字を滑っていく。集中できない。
原因はわかっている。
隣で瑞希が絵を描いている。鉛筆がスケッチブックの上を走る、かすかな音。サッ、サッ、と規則正しいリズム。時折手を止めて、目の前の風景を見つめ、また描き始める。
瑞希が絵を描いている時の横顔を、こんなに間近で見たのは初めてだった。いつもは美術室かギャラリー席か、距離がある場所で描いている。今日は、手を伸ばせば届く距離にいる。
集中している時の瑞希は、水の中にいた頃と同じ顔をしている。笑わない。ふざけない。目が鋭くなって、唇をきゅっと結んで、世界に自分と描く対象しかいないみたいな顔。
──あいつは、泳ぐ時も描く時も、同じだ。
全力で向き合っている。ひたむきに。真剣に。
その姿に俺は、十年前から──
「……なに見てるの?」
瑞希がこっちを向いた。鉛筆を持った手が止まっている。
「いや。集中してるなと思って」
「見ないでよ、恥ずかしいんだから」
「悪い」
教科書に目を戻す。でも活字は相変わらず滑っていく。
瑞希がしばらくスケッチを続けてから、ふっと鉛筆を置いた。
「ね、勇人」
「ん」
「ちょっとだけじっとしてて」
「?」
瑞希が鞄から別のスケッチブックを取り出して、俺のほうに鉛筆を向けた。
「……何してるんだ」
「スケッチ。勇人の」
「は?」
「課題に使うかはわかんないけど、練習! 人物スケッチの。ほら、じっとして」
「見ないでくれよ、恥ずかしい」
「うるさいなー! はい動かないの!」
強引だ。でも、断る理由もなかった。ベンチに座ったまま、視線を川のほうに向ける。川面がきらきら光っていて、まぶしい。
瑞希の鉛筆が動く音がする。サッ、サッ。さっきより速い。迷いがない線を引いている気がする。
「……横顔、描きやすい」
「そうなのか」
「うん。勇人の横顔、ラインがはっきりしてるから。鼻筋とか、顎のラインとか」
「褒めてるのか」
「事実を言ってるの」
瑞希の声がいつもより低い。集中モードだ。
五分くらいだろうか。瑞希が「できた」と言って、スケッチブックを閉じた。
「見せてくれないのか」
「ダメ! まだ途中だし!」
「いつも途中じゃないか」
「完成したら見せるって言ってるでしょ!」
瑞希がスケッチブックを胸に抱えて、ぷくっと頬を膨らませている。
──こいつ、前にも同じこと言ってたな。ギャラリーで描いてた時も。「完成したら見せる」。いつ完成するんだ。
まあ、いい。待つのは慣れている。
◆◇
河川敷を離れて、中央公園に向かった。歩いて十五分ほど。生田川沿いの遊歩道を上流に向かって歩くと、山の麓に広がる大きな公園が見えてくる。
中央公園は、葉山市で一番大きい公園だ。芝生の広場、遊具のあるエリア、池、そして奥に複合スポーツ施設がある。その中にスイミングスクールがある。
GWだからか、公園は家族連れで賑わっていた。芝生の上でシートを広げてお弁当を食べている家族。遊具で遊ぶ子供たち。池の周りをジョギングしている人。
「なんか懐かしいね」
「ああ」
二人で公園の中を歩く。通学路とは違う、休日の散歩。歩幅を合わせて、ゆっくり。
遊具のあるエリアを通り過ぎた時、瑞希が足を止めた。
「あ、あのブランコ」
「ん?」
「小学校の時、スイミングの前にいつも乗ってたブランコ。まだあるよ」
確かに覚えている。練習が始まるまで時間があると、二人でブランコに乗って、どっちが高く漕げるか競争した。瑞希のほうがいつも高かった。あいつは体幹が強いから、ブランコの漕ぎ方もうまかった。
「乗る?」
「いや幼児用だろ。俺らが乗ったら壊れないか?」
「壊れないでしょ。たぶん」
「たぶんって」
瑞希がブランコに座った。足が地面についてしまう。小学校の時はあんなに高く感じた座面が、今は低い。
「……なんか、ちっちゃいね」
「お前がでかくなったんだろ」
「でかくないよ! ギリ百六十九センチだよ!」
「十分でかい」
実際瑞希はクラスの女子の中で一番背が高い。足長で顔は小さく、フィジカル面で見ても、アスリート向きの身体をしている。
瑞希がブランコを軽く漕ぐ。ぎい、ぎい、と鎖が軋む。風がポニーテールを揺らす。
「ここで勇人と競争したの、覚えてる?」
「ああ。お前のほうがいつも高かった」
「あはは。わたし、ブランコだけは勇人に勝てたんだよね」
「ブランコだけじゃなかっただろ。水泳も全部負けてた」
「……そうだっけ」
瑞希の声が、少しだけ柔らかくなった。ブランコの動きが止まって、瑞希は足を地面に着けたまま、空を見上げた。
「ね、あのベンチ行こ。お弁当食べよう」
スイミングスクールの建物の脇に、昔からあるベンチがある。ブルーに塗られた木のベンチで、少し塗装が剥げている。でも、形は変わっていない。
「ここ、ここ! お母さんとアイス食べたベンチ!」
「ああ、覚えてる」
母さんと瑞希と俺の三人で、スイミングスクールの帰りに毎回座ったベンチ。売店でアイスを買って、ここで食べた。瑞希はいつもチョコ味で、俺はバニラで、母さんは抹茶。
今日は三人ではなく、二人。アイスではなく、弁当。
瑞希が保冷バッグからタッパーを取り出した。蓋を開けると、おにぎりと唐揚げと卵焼きと、プチトマト。
「作ってきたのか?」
「うん。朝早く起きて」
「お前が朝早く起きた?」
「なんでそこ驚くの! 失礼じゃない?!」
おにぎりを受け取る。塩むすび。具はツナマヨ。瑞希が昔から好きな具だ。
「……おいしい」
「ほんと? やった」
瑞希が笑う。ベンチに並んで座って、弁当を食べる。GWの昼下がり。風がぬるくて、木漏れ日が揺れていて、遠くで子供たちの笑い声が聞こえる。
スイミングスクールの建物が、すぐ横に見える。窓越しにプールが見えた。この時間帯のクラスはまだ小さい子ばかりで、泳いでいるというか水に慣れさせる段階だろう。コーチの優しそうな声が、ガラス越しにくぐもって聞こえる。
「まだ賑わってるな」
「うん。良かった。なくなってなくて」
瑞希がおにぎりを食べながら、建物を見つめている。
「ここから始まったんだよね、全部」
「ああ」
「勇人が泣いてた場所」
「……だから黒歴史を掘り起こすなって言ってるだろ」
「あはは。でも、あの時わたしが手を引かなかったら、勇人は水泳やってなかったかもね」
「…………かもしれないな」
沈黙。でも、気まずい沈黙じゃなかった。穏やかな沈黙。二人とも、同じことを考えている気がした。十年前のこの場所のことを。
「……あ」
瑞希が急に立ち上がった。
「雑貨屋。あの雑貨屋、まだあるかな」
「中央公園の前の?」
「うん。イルカのハンカチ買った店」
瑞希が早足で公園の入口のほうに歩き出す。俺も弁当を片付けて追いかけた。
公園のすぐ向かいに、小さな雑貨屋がある。手書きで描かれた店の看板は色褪せていたが、まだ営業していた。店先に風車や木のおもちゃが並んでいて、昔と変わらない雰囲気だ。
「あった! まだあるよ!」
瑞希が嬉しそうに店内を覗き込む。小さな店だ。文房具、アクセサリー、布小物、ポストカード。子供向けと大人向けの商品が混在している。
「ハンカチのコーナー……あ、あった。でも、イルカのはないね」
ハンカチのラックを二人で見る。花柄、ストライプ、猫、犬。動物柄はあるが、イルカはなかった。
「まあ、十年前の商品が残ってるわけないか」
「だよね……」
瑞希が少しだけ寂しそうな顔をした。
「あのハンカチ、まだ持ってるんだ、わたし。水色のやつ」
「……俺のは、とっくにボロボロで捨てちまった」
「えー。もったいない」
瑞希が唇を尖らせる。でもすぐに「まあ男の子だもんね」と笑った。
「モノを大事にしなよ、勇人」
「……悪かったな」
なぜか謝ってしまった。瑞希のハンカチは、水色のイルカ。俺のは青のイルカ。お揃い、と瑞希が言って選んだのを覚えている。あの時は何も思わなかったけど──今思うと、あれは小学生なりの、大事なことだったのかもしれない。
雑貨屋を出て、公園に戻る。
夕方が近づいていた。太陽が山の稜線に傾き始めて、公園の芝生が金色に染まっている。家族連れがぽつぽつと帰り始めて、さっきより静かになった。
スイミングスクールの前を通る。窓の中のプールに、西日が差し込んでいた。水面がオレンジ色に光っている。子供たちはもう上がったらしく、プールは静かだ。
瑞希が立ち止まって、窓越しにプールを見つめていた。
何を考えているのか、横顔からは読み取れない。でも、目が少しだけ潤んでいるように見えたのは──西日のせいだと、思うことにした。
「……帰るか」
「うん」
公園を出て、いつもの通学路──ではなく、住宅街の裏道を歩く。普段は通らない道。方向は同じだが、景色が違う。夕焼けの角度が違う。
「今日、ありがとうな。良い気分転換になった」
「こっちこそ。おかげでいいスケッチが描けたよ」
「で、見せてくれないのか」
「完成してからね!」
瑞希がトートバッグを抱え直す。
夕焼けが山の稜線に沈んでいく。田んぼに張られた水が、空と山と夕焼けを全部映している。水面に映った世界は、本物と上下が逆だけど、同じだけきれいだ。
「ねえ勇人」
「ん」
「今日、楽しかった」
「ああ。俺も」
「……また行こうね。中央公園」
「ああ」
瑞希の家の前に着いた。いつもの通学路なら、ここは通らない。俺の家のほうが先にあるから。でも今日は逆方向から歩いてきたので、瑞希の家が先になった。
「じゃあね、勇人。テスト勉強がんばろう」
「お前が言うなよ。数学、GW中に教えるからな」
「やった! 勇人先生ー!」
「だから先生はやめろ」
瑞希が笑って、家の中に消えていった。玄関のドアが閉まる音。
一人になって、自分の家に向かって歩く。夕焼けの残照がまだ空にあって、三日月が東の空に薄く出ていた。
今日一日、何も特別なことはなかった。河川敷でスケッチを見守って、中央公園で昔の場所を巡って、ベンチで弁当を食べて、雑貨屋に寄って、帰った。ただの休日。
なのに、胸の奥がじんわり温かい。この温かさを言葉にするのは難しいけど、たぶん──こういうのが、幸せってやつなんだろう。
ポケットの中で、スマホが震えた。瑞希からのチャット。
『今日の写真送るね! 公園のベンチのやつ!』
添付された写真を開く。ベンチに並んで座っている俺と瑞希。瑞希が自撮りで撮ったもの。瑞希がピースサインで笑っていて、俺は少し不意を突かれた顔をしている。
──いつ撮ったんだ、これ。
『いい写真でしょ? 保存してね!』
『……おう』
保存した。ロック画面にはしない。しないけど、保存した。
◆◇
テスト期間。
GW後半の五月四日から六日は、テスト勉強モードに切り替えた。とはいえ俺は午前中に練習があるので、勉強は午後と夜に集中する。
瑞希とはチャットで勉強会が始まった。
『勇人ーーー、数列のこの問題わかんない。写真送る』
添付されたノートの写真。字が丸くて大きくて、余白だらけ。いかにも瑞希だ。
『Σの計算で、k=1からnまでのk²の和を使うやつだろ。公式覚えてるか?』
『公文式???? 何それ????』
『公文式じゃねーよ!公式だ! n(n+1)(2n+1)/6。授業でやっただろ。いいか、まずΣを展開して──』
数学の教え合い、というか俺が一方的に教える時間。チャットだと数式が打ちにくいので、途中から手書きの解説をノートに書いて写真で送るスタイルになった。
『あーーーなるほど!!!! Σってこうやって分解するのか!!』
『今さら理解するな。授業で何聞いてたんだ』
『授業中は……えっと……窓の外見てた……』
『窓の外って何があるんだ』
『山』
山を見て何になるんだ。──まあ、美術部的には題材探しなのかもしれないけど。
英語と国語は瑞希のほうが得意で、逆に教わることもあった。
『この古文の品詞分解、どう読むんだ』
『あー、これね。"あはれなり"は形容動詞のナリ活用で──』
『お前、古文やたら強いよな』
『だって物語だもん。古文って恋バナが多いんだよ? 源氏物語とか。読めば読むほど面白い』
『……恋バナとして読んでたのか』
『当たり前でしょ! 光源氏の恋愛遍歴とか、最高にドラマチックじゃん!』
瑞希の成績が国語だけ妙に高い理由がわかった。
物理化学も俺が教えにまわる。社会は俺が日本史、瑞希が地理を相互に教え合った。
五月七日。中間テスト初日。
朝の通学路。瑞希は珍しく時間通りに来た。
「今日は遅刻しなかったな」
「テストの日に遅刻したら洒落にならないでしょ」
「いつもそう思ってくれ」
「……善処します」
テストは二日間。五教科。一日目が英語・数学・理科、二日目が国語・社会。
二日目の昼休み。テストが全部終わった後、屋上でメロンパンを食べながら。
「数学、どうだった?」
「……まあまあ。勇人のおかげでΣの公式は完璧だった」
「それは良かった」
「でも三番の応用問題が全然わかんなかった。あと漸化式の──」
「それ以上言うな。答え合わせは返却日にしろ」
「えー」
結果は翌週に返ってきた。俺、学年12位。瑞希、73位。ただし国語は満点で学年トップ。
「うーん、数学57点が響いてるな……」
「でも上がったよ! 前回150とかだったもん!」
「上がったからいいって話じゃない気がするけど」
「勇人の教え方がよかったの! ありがとね!」
にこにこしている瑞希を見ていると、怒る気にもならない。まあ、順位が上がったならいいか。
◆幕間──笹倉瑞希の場合
五月八日。テスト二日目の放課後。
テスト期間は授業がないため、午前中で解散し、瑞希は美術室にいた。提出用のスケッチブックを広げて、最後の仕上げをしている。
河川敷の葉桜の並木道。五月三日に現地で描いたラフを元に、ペン入れと彩色を進めていた。葉の間から差す光の描写に手こずったが、川面に映る枝の影がうまく描けた。GWに実際に見た景色だから、光の記憶が鮮やかだ。
ペンを置く。完成。
川島先生が覗き込んだ。
「いい絵ね。現場で描いたのがわかる。空気の匂いがする」
「ありがとうございます」
「散った後の桜を描くのは珍しい選択だったけど、正解だったわね。……葉桜にも、ちゃんと美しさがある」
先生はそう言って、微笑んだ。
「あなたは対象をよく見ている。見る力がある。──その力を、もっと信じなさい」
提出用のスケッチブックを先生に渡して、瑞希は席に戻った。
机の上にはもう一冊のスケッチブックがある。くたびれた表紙。"本物"のほう。
今日の放課後、これに一枚描き足そうと思っていた。五月三日の中央公園。ベンチに座ってアイスの代わりにおにぎりを食べる勇人の横顔。午後の光に照らされた、穏やかな横顔。
スケッチブックを開く。三十二枚目の次。新しいページ。
鉛筆を走らせる。線に迷いがない。勇人の顔は、一番描き慣れている。鼻筋。顎のライン。短い髪の毛先。半分だけ開いた口元。おにぎりを食べているところだから、ちょっと間の抜けた表情をしている。でも、それがいい。水の中の精悍な顔じゃなく、隣に座って弁当を食べている時の、やわらかい顔。
描き終わる。
三十三枚目。ページの隅に、いつものように小さく文字を書く。でも今日は、いつもの言葉じゃなかった。
「ありがとう、勇人」